おはようございます。204号室住人、日向孝一です。
昨日はいろいろなことがありました。椛さんが来たり、その椛さんのお腹の中に孝治さんとのお子さんがいたり、それについての話から転じて家守さんと高次さんから養子の話をされたり、成美さんが買ってきたゴムプールに入ったり、その様子を清さんが絵にしたり。
そして夜、栞さんと子どもの話をしたり、軽い気持ちで進める筈だったその話が思惑通りにならず、栞さんとある約束をしたり。
――そういう一日を経て、朝。僕は現在、さっきまでここに居たものの一旦203号室に戻った栞さんを待っています。
身だしなみを整えるなり朝食をとるなりといった、目が覚めてから大学へ向かうまでに済ませるべきことは既に全て済ませてあるのですが、今日はその合間にちょっとしたイベントがあったのです。
ドアの開く音がしました。が、チャイムは鳴っていません。どうやら栞さん、戻ってきたようです。
「お待たせー」
時間的に言えばあまり待ってはいませんが、心境的に言えばかなり待ちました。
何なのかと言いますと、昨日買ったという服のお披露目です。新しい衣装に着替えて戻ってきた栞さんは、やや緊張の窺えるゆっくりとした足取りで、居間まで進み入ってきました。
「……変じゃない、かな」
これまた緊張からなのか、僕の前に立った直後にそんな質問が。じっくり眺める暇なんてありませんでした。
そりゃまあ、視界に収めるというだけなら一瞬で完了してしまうんですけど、服の評価をするとなったらそうもいきません。返事を急かす栞さんには悪いのですが、もうちょっと時間を取らせてもらうことにしました。
恥ずかしそうにしてるところをジロジロ眺めるというのはどこか背徳的な雰囲気を感じずにはいられませんけど、それはこの際、仕方がありませんということで。
「似合ってますよ」
「……その割に、難しそうな顔だけど」
こういう際のお決まりの台詞ではあると思いましたが、しかしきちんと眺めてみての嘘偽りない評価です。ではなぜ、栞さんの言うように難しそうな顔なのかと言いますと、
「いや、こう言ったら悪いですけど、かなり予想外だったんです」
「似合ってたのが?」
「似合ってたのが、です」
これまでの栞さんの服装は、上着が袖無しでスカートは膝よりちょっと上ぐらいの丈と、それなりに肌の露出が多いものでした。しかも色は上下ともピンクで、若々しいというか可愛らしいというか、まあそんな印象でした。
しかし今回、今目の前の栞さんが着ている服は、上は長袖のTシャツ、下のスカートも足首まで丈があると、これまでの正反対なのでした。そして色についても、Tシャツの白はともかくとしてスカートが茶色。これもまた以前までとは印象が随分と違っています。
似合ってるのは今言った通りですけど、よくここまで一気に変えたなあ、とも。
「ものすっごい大雑把な分け方ですけど、綺麗か可愛いかで考えた場合、僕はこれまで栞さんのことを『可愛い』んだと思ってたんですよ」
頭で思うばかりではなんなので、口で説明をしてみます。これまで恥ずかしそうにしていた栞さんは、そのうえ照れてまでしまったようで、すっかり顔が真っ赤なうえに俯いてしまいます。
けれどもそんな空気に感化されるようなことはなく、僕は大真面目に話を続けます。
「でも今考えると、それって多分、前の服があんな感じだったからなんでしょうね。今はとても、そんなふうには思えませんし」
つまり、綺麗なのでした。どう言い表せばいいのか――この後すぐに来るであろう大学へ向かっている場面で考えるなら、手を繋いで歩くよりもただ隣に並んでいるだけのほうが見栄えが良さそうなというか、そんな感じでしょうか。
「服の感じっていうなら、まあ、前までとは違ってくるんだろうね」
顔を赤くした俯き加減なままではありますが、しかしここで栞さん、口調だけははっきりとさせて、話し始めました。
「大人っぽくっていう目標はあっても、ならどういう服を選んだらいいのかっていうのが分からなくてさ。だから、とにかく前の服と違う感じになるようにって、それだけで選んだ服なんだよねこれ」
なるほど。「服選びに自信がないなんて言いながらいきなり冒険したもんだなあ」なんて思ってましたけど、むしろ自信がないから冒険するしかなかったってことですか。
「……あの、この服が似合うかどうか以外に、もう一個だけ気になることがあるんだけど」
「何ですか?」
「この服でも、これ付けてて変じゃないかな?」
言いながら栞さんがその手で触れたのは、いつものように頭に付けられている赤いカチューシャなのでした。
「変だったら最初に言ってますって」
「そ、それもそっか」
とは言うものの、改めてそちらを見たりはするわけです。するとカチューシャはもちろん、栗色の髪についても目に留まります。
「茶色って、どっちにも取れますよね」
「ん? どっちにもって?」
おっと、思い付いた言葉がそのまま出てしまいました。
「ああ、綺麗か可愛いかって話です。その色のスカートは今初めて履いてるわけですけど、栞さんって、茶髪じゃないですか」
もちろん、同じ茶色だからといって全く同じ色だというわけでもないですけど、しかし何色かと言えば、やはりどちらも茶色なのです。
「さっき言ったことですけど、僕は栞さんのことを可愛いと思ってたんですよ。もちろん、その髪の色も含めて」
実際のところは、含めるどころか筆頭を務めてるぐらいなんですけどね。髪の色ってやっぱり印象強いですし、そうでなくとも僕自身が栞さんの髪を気に入ってますし。
「でも今は――ほら、その色のスカートを見て、綺麗だと思ったわけですし」
語弊を恐れずに言うなら、僕はスカートの色を地味だと捉えています。地味だからこそ「可愛い」でなく「綺麗」なのです。
が、これが髪の色となると、途端に明るい色に感じられるのです。今だって、服を除いた首から上だけを見る分には、栞さんは「可愛い」人なのでしょう。
僕に美術の教養はないのですが、しかしそんな素人の思い付きとして、「茶色はそのものが持つイメージの方向性を、上手い具合に引き立ててくれるのではないか」という考えが浮かんだのでした。
もちろん、これを確定させようと思ったら、「綺麗」と「可愛い」以外の様々なイメージについても考えなければならないんでしょうけど。というわけで、これはあくまでも素人の勝手な言い分です。
「服選びは正解だったみたいだけど、そこまで言われちゃうと、今度は自分に自信がなくなってくるなあ」
と、栞さん。普通だったら「自信を持っても大丈夫ですよ」とか、そういう返事をすべきなのでしょうが、
「それは、僕もあんまり強くは言えませんねえ。似合ってることに驚いてたんですし。ただ、似合ってると思ってるってことだけは、分かってもらえると有難いというか」
「うん。それは――うん」
栞さんが二度頷いて、ならばこの話はこれで良し、です。
首から上だけを見れば今でも可愛い人だ、なんて思いながらも今の服装が似合っていると感じていることは、自分でも本当に不思議なのでした。……まあ、栞さんだから何でも良いほうに捉えてしまうという部分も、あるにはあるんでしょうけどね。
「それじゃあ、そろそろ行く?……ごめんね、服を見てもらうってだけのことに時間取らせちゃって」
「いえいえ、これはこれで有意義な時間でしたから」
さて、今日も徒歩五分の道のりを経て大学に到着です。
自室で栞さんの服装を評価していた時、「手を繋ぐというよりただ並んで歩きたい」みたいなことを考えました。が、それは口に出したわけではなかったので、ならば当然僕のそんな考えを知らない栞さんは、あまくに荘を出てすぐに手を差し出してきたのでした。
僕がその手を取ることに何の躊躇もしなかったのは、わざわざ説明するまでもないことだと思います。
「おはよう、明くん」
「おう、おはよう。今日は喜坂さんも一緒か」
「おはようございます、日永さん」
今朝の服のことがあって――ではなく、これは多分、昨晩の会話があってのことなのでしょう。栞さんは僕達と同じ講義に顔を出すことになったのでした。
「服、なんかえらい変わりましたね」
それは僕や栞さんからすればいきなりの展開でしたが、しかし明くんからすれば、至って普通に思ったことを口にしただけなのでしょう。なんせ着ている服のことですから、気付けさえするのであれば、面と向かったその瞬間に気付いてしまえるのです。
「ど、どうでしょうか?」
「いいんじゃないですか? 前までとはまた違った感じで」
「ありがとうございます」
よっぽどほっとしたか、もしくは嬉しかったんでしょう。栞さんはそんなお礼に合わせ、こういった軽い会話に似つかわしくないほど丁寧に頭を下げるのでした。
「んー、でもそれはそれとして」
栞さんを真ん中にするいつも通りの配置で席についたところ、明くんが顔をしかめ始めました。
「なんか女の人って、気分転換で髪型変えたりするっていうじゃないですか。喜坂さんのそれも、何かしらの気分転換だったりするんですか?」
……なるほど、これはなかなか鋭い疑問かもしれません。それを判断するのは僕でなく栞さんなのでしょうが、思い当たる節があるにはありますし。
ともかく、僕は黙っていましょう。待つべきは栞さん自身の返事です。
「気分転換っていうより、立ち振る舞いそのものを変えてみようと思ったんです。――自分で言うのもなんですけど、いつまでも子どもっぽくはいられないかなって」
「……気分のことよりよっぽど重大な話じゃないですか? それ」
明くんにそう返されると、栞さんはくすりと笑みを溢しました。
「まあ、それで服装を変えてみたっていうのは、自分でもちょっとずれてるような気がするんですけどね」
しかし「何事もまずは形から」なんて言ったりもしますし、僕は栞さんの行動に肯定的な立場を取らせてもらっています。もちろん、単にその服装が気に入っただけっていう部分もありますけど。
ところで、今の話についてちょっとした疑問が浮かびました。
「明くんのほうはどうなの? 髪型が変わるとか、栞さんにみたいに服装が変わるとか」
「って言うと、俺自身のことじゃないよな。あいつか――あいつなあ」
お察しの通り、明くんのことではなく、明くんの彼女である、岩白さんの話です。
察してもらえた途端に何やら腕を組んで考え込んでしまう明くんでしたが、はて、変なことを訊いてしまったでしょうか?
「髪型はずっと変わらんな。そんなに会った試しがあるわけじゃないし、覚えてないかも知らんけど、すっげえ長くてそれを先っぽで括ってるっていう」
「いや、しっかり覚えてるけどね。不思議と印象に残るっていうか」
髪が長いというだけならそう珍しくもない、と言うどころか、むしろ成美さんと家守さんが同じく長かったりします。
ならば何が強く印象に残っているのかといえば、根元でなく先端で括るというあのリボンの位置なのでしょう。あと、そのリボンに髪と一緒に括られている五円玉のような色と形のアクセサリーも。もしかして本当に五円玉だったりは……しませんよね、さすがに。
「あれはもうずっとあれのままなんだよ。服装のほうはコロコロ変わるけど」
「気分転換で?」
「いや、特にそういった意味があるわけじゃなくて、ただ単に。神社の娘だから、場合によっては巫女装束だったりもするし――でもそもそも、気分転換なんて概念自体を持ち合わせてるかどうかすら危ういんだよなあ、あいつの場合」
そんなことを言いながら軽く笑う明くんでしたが、さてそれは惚気ているのか苦言なのか、どちらなのでしょうか。
「概念自体を持ち合わせていないっていうのは?」
栞さんが尋ねると、明くん、今度は明確に苦を交えた笑顔になりました。
「大体いっつもハイテンションなんですよ。気分の転換ができるってんなら、もうちょっと落ち着いて欲しかったりするんですけどね」
分かった、これは確実に惚気話だ。
と、僕の頭脳は推理という途中経過を経ずして結論を出してしまいました。その結論が先にあって、ならばと考えてみます。
苦笑しながらの話ということで、普通はそれを苦言だと見るのでしょう。もうちょっと落ち着いて欲しい、なんて言ったりもしてますし。でも、本当にそう思ってるなら、この場で僕達にそんな話をするでしょうか? しかも、苦笑とはいえはっきりと笑顔で。
「『子どもっぽくはいられない』、かあ。あいつにも聞かせてやりましょうかね?」
またまたそんな、思ってもいないことを。
栞さんも僕と同じような考えなのか、明くんの笑みとは対照的な、楽しそうな笑顔なのでした。
「今日は何とかなったな」
「あくまでも『何とかなった』って程度だけどね」
一限の講義が終了。今日の明くんは、頭がかっくんかっくんしている場面があったものの、一応はずっと意識を保っていたのでした。
「俺のこのすぐ眠くなるってのも、子どもっぽいっちゃあ子どもっぽいよなあ」
「でもそれ、何とかしようと思って何とかできるものなの?」
「できるんだったらとっくに何とかなってるだろうな。嫌な話だけど」
何とも気の毒な話なのでした。
しかし明くんからすれば、それはいつものこと。あまり気にした様子もなく、眠気覚ましにぐいっと伸びをするのでした。
「あー、あと二限だけで終わりかあ。終わったら……どうすっか」
僕は四限まで講義があるのですが、明くんは二限まで。どうやらその後の予定に悩んでいるようだったので、
「岩白さんに会いに行くとか?」
なんて言ってみました。講義が始まる前、せっかくああいう話をしていたわけですし。
「……まあ、それもいいか。そうだな、講義が始まる前のあの話でもしに」
明くんも同じように考えたようです。ただ、岩白さんに「大人っぽくなれ」とでも言おうとしているのなら、僕とはちょっと考えに差が出てくるわけですけど。
二限の講義は明くんとは別なので、ならば今度は僕一人――ではなく、再び栞さんが一緒です。
「昨日ああいうことがあった次の日にこれって、ちょっと露骨過ぎるような気もするけどね」
「まあ悪いことじゃなし、気にしなくてもいいんじゃないですか?」
広い教室の隅っこの席に陣取った僕は、明くんがいなくなった途端にそんなことを言い出した栞さんへ、やや小さくした声でそんな返事。
何の話かと言いますと、数日前に決めた「あんまりベッタリしないようにしよう」という決め事の話です。
それが決まって以降は、栞さんが僕と同じ講義を受ける機会が、全くなくなったとは言わないまでも減少し、なのでさっきの一限目に明くんから「今日は喜坂さんも一緒か」と言われるに至っりもしました。しかしそれが、昨夜の約束があった途端に、とこういう話なのです。
「口にはしてませんけど、僕だって今日ぐらい一緒がいいなーとは思ってましたし」
「そう? よかった、私の側からだけじゃなくて」
栞さんはそんなふうに安心した様子なのですが、しかし僕と栞さんに限らず、同じ状況なら殆どの人が同じように考えるんじゃないでしょうか?
「ついでに昼ご飯もご一緒しませんか?」
「うーん……うん、じゃあ、そうさせてもらおうかな」
このままいくと、「あんまりベッタリしない」どころか一日中ベッタリになってしまいそうな気もしますけど、まあいいじゃないですか今日ぐらいは。
「一緒にご飯を食べるのはいつものことなのに、なんだか妙に楽しみだよ」
それについては同感でしたが、しかし料理を提供する側がそれを言うというのは味への期待を煽っているに等しいので、あまりハードルを上げないためにも黙って首肯するに止めておきました。
食事は気楽なのが一番ですもんね、やっぱり。
――昼食への期待からそわそわしている間に、気付いてみれば二限も終了。午後にも講義はあるのですが、いったんあまくに荘へ帰って栞さんは庭掃除、そしてその後に目的の昼食です。
善は急げというわけでもありませんが、席を立って歩き出してみたところ、僕も栞さんも普段よりちょっと足が速いような気が。急いで帰ろうなどと示し合わせたわけではないのですが、まあ、期待は同じだということなのでしょう。
そんなわけでやや足早に進む僕と栞さんが校門へ着いたところ、
「あれ、明くん」
「ん? おお、そっちも今帰りか」
自転車のハンドルを握り、しかしサドルに跨りはしないまま、明くんが立っていました。
「――って、午後の講義は?」
「いや、昼ご飯を食べにいったん帰るだけだよ」
「ああ、そういえばそうなんだっけか。いいなあ、家近いって。まあ俺の家も、そんなこと言うほど遠いわけじゃないんだけど」
なんてことを言われましたが、しかしどちらにせよ午後の講義がない明くんもこれから家に帰るわけで、なら結局のところ状況は同じなんですけどね。……まあ、木曜日の時間割に限っての話なんですけど。
そして、それはともかく。
「こんな所に突っ立ってるっていうのは、誰か待ってたりとか?」
「ああ、まあな。ほら、一限が始まる前、センに会おうかなって言ってただろ? そのことで連絡入れたら、『迎えに行く』って言われてな。だから今は迎え待ち」
とのこと。それを聞いた僕と栞さんは、何を言うでもなく顔を見合わせました。
そして、お互いに頷き合いました。これが以心伝心ってやつでしょうか。
「僕達も待たせてもらっていいかな」
「ここでちょっと顔を合わせるだけにはなっちゃうんですけど……」
昼休みの時間が長いとは言っても、家に戻っての庭掃除と昼食のことを考えれば、栞さんがいった通りのことになってしまうんでしょう。
まあそれ以前に、あんまり明くんと岩白さんのお邪魔はしたくないとか、そういう典型的余計なお世話というのも、もちろんあるんですけど。
「そりゃいいですね。あいつも多分――いや、まず間違いなく喜ぶでしょうし」
どれくらい待つものだろうかと気にもなったりしたのですが、しかし自分の家もそれほど遠くはないと言った明くんと同様、岩白さんのお住まいである岩白神社もそう遠くはないので、待った時間は五分前後といったところでした。
というわけで、岩白さん到着です。
「お久しぶりです! 孝一さん、でしたよね? えーと、栞さんも一緒ですか?」
待っている間に明くんから改めて説明されていたのですが、岩白さんは、幽霊が見えないながら声だけは聞こえる体質です。言われた時に「ああそういえば」という感じだったのは少々不覚でしたが、それはまあいいでしょう。
――相変わらずと言えるほど岩白さんに会った回数は多くないのですが、しかしそう思ってしまうのは、その少ない回数の中での強い印象と、あとは時々聞ける明くんの話からでしょうか。なので僕は、そして多分栞さんも、岩白さんのその元気の良さに頬が緩みこそすれ、びっくりするようなことはありませんでした。
しかし一方、彼女のあまりにもな身長の低さには、ちょっと気持ちを揺さぶられたりもしてるんですけど。
身長のほうについて栞さんがどう思っているのかは分かりませんが、ともかく二人して『お久しぶりです』への挨拶を返し、そしてその後にちょっと思うことが。
「名前、覚えてくれてたんですね」
繰り返しますが、岩白さんと僕達はあまり顔を合わせた機会が多くありません。しかも今回は、前に会ってからそれなりに日にちも経ってますし。
「ん? 孝一だって覚えてただろ、センのこと。名前も含めていろいろと」
「いや、それは明くんからちょくちょく話を聞いてたからで――」
言い切る前に、明くんの手が僕の口を押さえるのでした。
なるほど。全くそんなつもりはなかったんですけど、本人のいないところで彼女の話をしているというのは、その彼女の前だと恥ずかしい話なのでしょう。
口を押さえている明くんが無言だというのは割と怖いですけど、しかし岩白さんはその辺りを全く気にしない様子で、こう返してきました。
「わたしも明さんからよく聞いてますよ、お二人の話」
明くんのもう一方の手が岩白さんに伸びたのですが、しかし僕の口を押さえたままだったので、ぎりぎり届かないのでした。
……こちらについては口を塞ぐ必要があるようには思えないのですが、まあ、僕のことがあっての反射的な行動だったのでしょう。
「例えば、どんな話ですか?」
僕は口を塞がれたままなので、その質問は栞さんから。
「例えばっていうか、ほぼ全部が栞さんと孝一さんの仲の良さの話です。大学も一緒っていうのは、聞いてていつも羨ましいですよ」
なんとまあ、やってくれるじゃないですか明くん。ほぼ全部がそれだけだなんて、じゃあ岩白さんの中での僕と栞さんって、そんなことばっかり話してるバカップルってな具合になっちゃってるんじゃないの?
……いや、考えてみれば否定はできな――いやいや、何もイチャイチャしてばっかりってわけじゃないんだし。
「あはは、まあ、勝手についてきてるだけなんですけどね」
「明さんの場合、わたしがそんなことしたら嫌そうな顔しちゃうんでしょうけどねえ」
女性は強いということなのでしょうか、依然として口を塞がれたまま悶々としている僕に比べ、栞さんも岩白さんも、笑顔で語らっているのでした。もちろん、岩白さんには栞さんの笑顔が見えていないわけですけど。
そんな二人に明くんの注意もそちらへ逸れたのか、ここで僕の口が解放されました。とは言え、喋るのは僕でなく明くんですけど。
「嫌そうな顔はするだろうけど、何もお前が来るのが嫌だってわけじゃないぞ」
「もちろん分かってますけどね、それくらいのことは」
本当に嫌がってるなら、岩白さんはそれを笑顔で話したりはしなかったでしょう。ならばわざわざ確認するまでもないのでしょうが、明くん本人としては確認せざるを得なかった、というところでしょうか。
岩白さんに僕と栞さんの話をする場合に仲の良さばかり語っているようですが、あまり人のことは言えそうにない明くんなのでした。
「――ああ、そうだ。セン、朝この二人と話してたんだけど、『大人っぽい』ってことについてどう思う?」
「大人っぽい、ですか?」
今回岩白さんがここに来ることになった発端は、僕と栞さんのその話でした。が、しかし明くん、本当に訊いちゃいますか。失礼ながら、岩白さんにはおおよそ縁のなさそうな――いやいや、何も貶してるとかじゃなしに、ですけどね?
一人で慌てる僕ですが、問題の岩白さんは、その誰の目線よりも低い位置にある頭を傾げます。
「うーん、いきなりどうと言われても、何を答えればいいのか」
「ああ、それもそうだな。じゃあ例えば、お前が大人っぽくなるとして、ならその場合、今とどこがどう変わると思う?」
「――眼鏡を掛けるとか?」
「なんでそうなる」
「いや、真っ先に思い浮かんだのが春菜さんだったんで」
「姉好きにも程があるだろ。そりゃまあ、あいつが大人っぽいってのは分からんでもないが」
呆れ顔の明くんでしたが、岩白さんは照れ笑いなのでした。
けれども、二人のその様子にほっこりするよりも前に確認です。
「春菜さんっていうのは、確か……」
「ああ、えっと、わたしのお姉ちゃんです」
たった今明くんが「姉」という単語を出しているうえ、そもそもその春菜さんに会ったこともあるのですが、念のために訊いておきました。今この場にはいないその人ですが、何かしら勘違いがあっては失礼ですしね。
昨日はいろいろなことがありました。椛さんが来たり、その椛さんのお腹の中に孝治さんとのお子さんがいたり、それについての話から転じて家守さんと高次さんから養子の話をされたり、成美さんが買ってきたゴムプールに入ったり、その様子を清さんが絵にしたり。
そして夜、栞さんと子どもの話をしたり、軽い気持ちで進める筈だったその話が思惑通りにならず、栞さんとある約束をしたり。
――そういう一日を経て、朝。僕は現在、さっきまでここに居たものの一旦203号室に戻った栞さんを待っています。
身だしなみを整えるなり朝食をとるなりといった、目が覚めてから大学へ向かうまでに済ませるべきことは既に全て済ませてあるのですが、今日はその合間にちょっとしたイベントがあったのです。
ドアの開く音がしました。が、チャイムは鳴っていません。どうやら栞さん、戻ってきたようです。
「お待たせー」
時間的に言えばあまり待ってはいませんが、心境的に言えばかなり待ちました。
何なのかと言いますと、昨日買ったという服のお披露目です。新しい衣装に着替えて戻ってきた栞さんは、やや緊張の窺えるゆっくりとした足取りで、居間まで進み入ってきました。
「……変じゃない、かな」
これまた緊張からなのか、僕の前に立った直後にそんな質問が。じっくり眺める暇なんてありませんでした。
そりゃまあ、視界に収めるというだけなら一瞬で完了してしまうんですけど、服の評価をするとなったらそうもいきません。返事を急かす栞さんには悪いのですが、もうちょっと時間を取らせてもらうことにしました。
恥ずかしそうにしてるところをジロジロ眺めるというのはどこか背徳的な雰囲気を感じずにはいられませんけど、それはこの際、仕方がありませんということで。
「似合ってますよ」
「……その割に、難しそうな顔だけど」
こういう際のお決まりの台詞ではあると思いましたが、しかしきちんと眺めてみての嘘偽りない評価です。ではなぜ、栞さんの言うように難しそうな顔なのかと言いますと、
「いや、こう言ったら悪いですけど、かなり予想外だったんです」
「似合ってたのが?」
「似合ってたのが、です」
これまでの栞さんの服装は、上着が袖無しでスカートは膝よりちょっと上ぐらいの丈と、それなりに肌の露出が多いものでした。しかも色は上下ともピンクで、若々しいというか可愛らしいというか、まあそんな印象でした。
しかし今回、今目の前の栞さんが着ている服は、上は長袖のTシャツ、下のスカートも足首まで丈があると、これまでの正反対なのでした。そして色についても、Tシャツの白はともかくとしてスカートが茶色。これもまた以前までとは印象が随分と違っています。
似合ってるのは今言った通りですけど、よくここまで一気に変えたなあ、とも。
「ものすっごい大雑把な分け方ですけど、綺麗か可愛いかで考えた場合、僕はこれまで栞さんのことを『可愛い』んだと思ってたんですよ」
頭で思うばかりではなんなので、口で説明をしてみます。これまで恥ずかしそうにしていた栞さんは、そのうえ照れてまでしまったようで、すっかり顔が真っ赤なうえに俯いてしまいます。
けれどもそんな空気に感化されるようなことはなく、僕は大真面目に話を続けます。
「でも今考えると、それって多分、前の服があんな感じだったからなんでしょうね。今はとても、そんなふうには思えませんし」
つまり、綺麗なのでした。どう言い表せばいいのか――この後すぐに来るであろう大学へ向かっている場面で考えるなら、手を繋いで歩くよりもただ隣に並んでいるだけのほうが見栄えが良さそうなというか、そんな感じでしょうか。
「服の感じっていうなら、まあ、前までとは違ってくるんだろうね」
顔を赤くした俯き加減なままではありますが、しかしここで栞さん、口調だけははっきりとさせて、話し始めました。
「大人っぽくっていう目標はあっても、ならどういう服を選んだらいいのかっていうのが分からなくてさ。だから、とにかく前の服と違う感じになるようにって、それだけで選んだ服なんだよねこれ」
なるほど。「服選びに自信がないなんて言いながらいきなり冒険したもんだなあ」なんて思ってましたけど、むしろ自信がないから冒険するしかなかったってことですか。
「……あの、この服が似合うかどうか以外に、もう一個だけ気になることがあるんだけど」
「何ですか?」
「この服でも、これ付けてて変じゃないかな?」
言いながら栞さんがその手で触れたのは、いつものように頭に付けられている赤いカチューシャなのでした。
「変だったら最初に言ってますって」
「そ、それもそっか」
とは言うものの、改めてそちらを見たりはするわけです。するとカチューシャはもちろん、栗色の髪についても目に留まります。
「茶色って、どっちにも取れますよね」
「ん? どっちにもって?」
おっと、思い付いた言葉がそのまま出てしまいました。
「ああ、綺麗か可愛いかって話です。その色のスカートは今初めて履いてるわけですけど、栞さんって、茶髪じゃないですか」
もちろん、同じ茶色だからといって全く同じ色だというわけでもないですけど、しかし何色かと言えば、やはりどちらも茶色なのです。
「さっき言ったことですけど、僕は栞さんのことを可愛いと思ってたんですよ。もちろん、その髪の色も含めて」
実際のところは、含めるどころか筆頭を務めてるぐらいなんですけどね。髪の色ってやっぱり印象強いですし、そうでなくとも僕自身が栞さんの髪を気に入ってますし。
「でも今は――ほら、その色のスカートを見て、綺麗だと思ったわけですし」
語弊を恐れずに言うなら、僕はスカートの色を地味だと捉えています。地味だからこそ「可愛い」でなく「綺麗」なのです。
が、これが髪の色となると、途端に明るい色に感じられるのです。今だって、服を除いた首から上だけを見る分には、栞さんは「可愛い」人なのでしょう。
僕に美術の教養はないのですが、しかしそんな素人の思い付きとして、「茶色はそのものが持つイメージの方向性を、上手い具合に引き立ててくれるのではないか」という考えが浮かんだのでした。
もちろん、これを確定させようと思ったら、「綺麗」と「可愛い」以外の様々なイメージについても考えなければならないんでしょうけど。というわけで、これはあくまでも素人の勝手な言い分です。
「服選びは正解だったみたいだけど、そこまで言われちゃうと、今度は自分に自信がなくなってくるなあ」
と、栞さん。普通だったら「自信を持っても大丈夫ですよ」とか、そういう返事をすべきなのでしょうが、
「それは、僕もあんまり強くは言えませんねえ。似合ってることに驚いてたんですし。ただ、似合ってると思ってるってことだけは、分かってもらえると有難いというか」
「うん。それは――うん」
栞さんが二度頷いて、ならばこの話はこれで良し、です。
首から上だけを見れば今でも可愛い人だ、なんて思いながらも今の服装が似合っていると感じていることは、自分でも本当に不思議なのでした。……まあ、栞さんだから何でも良いほうに捉えてしまうという部分も、あるにはあるんでしょうけどね。
「それじゃあ、そろそろ行く?……ごめんね、服を見てもらうってだけのことに時間取らせちゃって」
「いえいえ、これはこれで有意義な時間でしたから」
さて、今日も徒歩五分の道のりを経て大学に到着です。
自室で栞さんの服装を評価していた時、「手を繋ぐというよりただ並んで歩きたい」みたいなことを考えました。が、それは口に出したわけではなかったので、ならば当然僕のそんな考えを知らない栞さんは、あまくに荘を出てすぐに手を差し出してきたのでした。
僕がその手を取ることに何の躊躇もしなかったのは、わざわざ説明するまでもないことだと思います。
「おはよう、明くん」
「おう、おはよう。今日は喜坂さんも一緒か」
「おはようございます、日永さん」
今朝の服のことがあって――ではなく、これは多分、昨晩の会話があってのことなのでしょう。栞さんは僕達と同じ講義に顔を出すことになったのでした。
「服、なんかえらい変わりましたね」
それは僕や栞さんからすればいきなりの展開でしたが、しかし明くんからすれば、至って普通に思ったことを口にしただけなのでしょう。なんせ着ている服のことですから、気付けさえするのであれば、面と向かったその瞬間に気付いてしまえるのです。
「ど、どうでしょうか?」
「いいんじゃないですか? 前までとはまた違った感じで」
「ありがとうございます」
よっぽどほっとしたか、もしくは嬉しかったんでしょう。栞さんはそんなお礼に合わせ、こういった軽い会話に似つかわしくないほど丁寧に頭を下げるのでした。
「んー、でもそれはそれとして」
栞さんを真ん中にするいつも通りの配置で席についたところ、明くんが顔をしかめ始めました。
「なんか女の人って、気分転換で髪型変えたりするっていうじゃないですか。喜坂さんのそれも、何かしらの気分転換だったりするんですか?」
……なるほど、これはなかなか鋭い疑問かもしれません。それを判断するのは僕でなく栞さんなのでしょうが、思い当たる節があるにはありますし。
ともかく、僕は黙っていましょう。待つべきは栞さん自身の返事です。
「気分転換っていうより、立ち振る舞いそのものを変えてみようと思ったんです。――自分で言うのもなんですけど、いつまでも子どもっぽくはいられないかなって」
「……気分のことよりよっぽど重大な話じゃないですか? それ」
明くんにそう返されると、栞さんはくすりと笑みを溢しました。
「まあ、それで服装を変えてみたっていうのは、自分でもちょっとずれてるような気がするんですけどね」
しかし「何事もまずは形から」なんて言ったりもしますし、僕は栞さんの行動に肯定的な立場を取らせてもらっています。もちろん、単にその服装が気に入っただけっていう部分もありますけど。
ところで、今の話についてちょっとした疑問が浮かびました。
「明くんのほうはどうなの? 髪型が変わるとか、栞さんにみたいに服装が変わるとか」
「って言うと、俺自身のことじゃないよな。あいつか――あいつなあ」
お察しの通り、明くんのことではなく、明くんの彼女である、岩白さんの話です。
察してもらえた途端に何やら腕を組んで考え込んでしまう明くんでしたが、はて、変なことを訊いてしまったでしょうか?
「髪型はずっと変わらんな。そんなに会った試しがあるわけじゃないし、覚えてないかも知らんけど、すっげえ長くてそれを先っぽで括ってるっていう」
「いや、しっかり覚えてるけどね。不思議と印象に残るっていうか」
髪が長いというだけならそう珍しくもない、と言うどころか、むしろ成美さんと家守さんが同じく長かったりします。
ならば何が強く印象に残っているのかといえば、根元でなく先端で括るというあのリボンの位置なのでしょう。あと、そのリボンに髪と一緒に括られている五円玉のような色と形のアクセサリーも。もしかして本当に五円玉だったりは……しませんよね、さすがに。
「あれはもうずっとあれのままなんだよ。服装のほうはコロコロ変わるけど」
「気分転換で?」
「いや、特にそういった意味があるわけじゃなくて、ただ単に。神社の娘だから、場合によっては巫女装束だったりもするし――でもそもそも、気分転換なんて概念自体を持ち合わせてるかどうかすら危ういんだよなあ、あいつの場合」
そんなことを言いながら軽く笑う明くんでしたが、さてそれは惚気ているのか苦言なのか、どちらなのでしょうか。
「概念自体を持ち合わせていないっていうのは?」
栞さんが尋ねると、明くん、今度は明確に苦を交えた笑顔になりました。
「大体いっつもハイテンションなんですよ。気分の転換ができるってんなら、もうちょっと落ち着いて欲しかったりするんですけどね」
分かった、これは確実に惚気話だ。
と、僕の頭脳は推理という途中経過を経ずして結論を出してしまいました。その結論が先にあって、ならばと考えてみます。
苦笑しながらの話ということで、普通はそれを苦言だと見るのでしょう。もうちょっと落ち着いて欲しい、なんて言ったりもしてますし。でも、本当にそう思ってるなら、この場で僕達にそんな話をするでしょうか? しかも、苦笑とはいえはっきりと笑顔で。
「『子どもっぽくはいられない』、かあ。あいつにも聞かせてやりましょうかね?」
またまたそんな、思ってもいないことを。
栞さんも僕と同じような考えなのか、明くんの笑みとは対照的な、楽しそうな笑顔なのでした。
「今日は何とかなったな」
「あくまでも『何とかなった』って程度だけどね」
一限の講義が終了。今日の明くんは、頭がかっくんかっくんしている場面があったものの、一応はずっと意識を保っていたのでした。
「俺のこのすぐ眠くなるってのも、子どもっぽいっちゃあ子どもっぽいよなあ」
「でもそれ、何とかしようと思って何とかできるものなの?」
「できるんだったらとっくに何とかなってるだろうな。嫌な話だけど」
何とも気の毒な話なのでした。
しかし明くんからすれば、それはいつものこと。あまり気にした様子もなく、眠気覚ましにぐいっと伸びをするのでした。
「あー、あと二限だけで終わりかあ。終わったら……どうすっか」
僕は四限まで講義があるのですが、明くんは二限まで。どうやらその後の予定に悩んでいるようだったので、
「岩白さんに会いに行くとか?」
なんて言ってみました。講義が始まる前、せっかくああいう話をしていたわけですし。
「……まあ、それもいいか。そうだな、講義が始まる前のあの話でもしに」
明くんも同じように考えたようです。ただ、岩白さんに「大人っぽくなれ」とでも言おうとしているのなら、僕とはちょっと考えに差が出てくるわけですけど。
二限の講義は明くんとは別なので、ならば今度は僕一人――ではなく、再び栞さんが一緒です。
「昨日ああいうことがあった次の日にこれって、ちょっと露骨過ぎるような気もするけどね」
「まあ悪いことじゃなし、気にしなくてもいいんじゃないですか?」
広い教室の隅っこの席に陣取った僕は、明くんがいなくなった途端にそんなことを言い出した栞さんへ、やや小さくした声でそんな返事。
何の話かと言いますと、数日前に決めた「あんまりベッタリしないようにしよう」という決め事の話です。
それが決まって以降は、栞さんが僕と同じ講義を受ける機会が、全くなくなったとは言わないまでも減少し、なのでさっきの一限目に明くんから「今日は喜坂さんも一緒か」と言われるに至っりもしました。しかしそれが、昨夜の約束があった途端に、とこういう話なのです。
「口にはしてませんけど、僕だって今日ぐらい一緒がいいなーとは思ってましたし」
「そう? よかった、私の側からだけじゃなくて」
栞さんはそんなふうに安心した様子なのですが、しかし僕と栞さんに限らず、同じ状況なら殆どの人が同じように考えるんじゃないでしょうか?
「ついでに昼ご飯もご一緒しませんか?」
「うーん……うん、じゃあ、そうさせてもらおうかな」
このままいくと、「あんまりベッタリしない」どころか一日中ベッタリになってしまいそうな気もしますけど、まあいいじゃないですか今日ぐらいは。
「一緒にご飯を食べるのはいつものことなのに、なんだか妙に楽しみだよ」
それについては同感でしたが、しかし料理を提供する側がそれを言うというのは味への期待を煽っているに等しいので、あまりハードルを上げないためにも黙って首肯するに止めておきました。
食事は気楽なのが一番ですもんね、やっぱり。
――昼食への期待からそわそわしている間に、気付いてみれば二限も終了。午後にも講義はあるのですが、いったんあまくに荘へ帰って栞さんは庭掃除、そしてその後に目的の昼食です。
善は急げというわけでもありませんが、席を立って歩き出してみたところ、僕も栞さんも普段よりちょっと足が速いような気が。急いで帰ろうなどと示し合わせたわけではないのですが、まあ、期待は同じだということなのでしょう。
そんなわけでやや足早に進む僕と栞さんが校門へ着いたところ、
「あれ、明くん」
「ん? おお、そっちも今帰りか」
自転車のハンドルを握り、しかしサドルに跨りはしないまま、明くんが立っていました。
「――って、午後の講義は?」
「いや、昼ご飯を食べにいったん帰るだけだよ」
「ああ、そういえばそうなんだっけか。いいなあ、家近いって。まあ俺の家も、そんなこと言うほど遠いわけじゃないんだけど」
なんてことを言われましたが、しかしどちらにせよ午後の講義がない明くんもこれから家に帰るわけで、なら結局のところ状況は同じなんですけどね。……まあ、木曜日の時間割に限っての話なんですけど。
そして、それはともかく。
「こんな所に突っ立ってるっていうのは、誰か待ってたりとか?」
「ああ、まあな。ほら、一限が始まる前、センに会おうかなって言ってただろ? そのことで連絡入れたら、『迎えに行く』って言われてな。だから今は迎え待ち」
とのこと。それを聞いた僕と栞さんは、何を言うでもなく顔を見合わせました。
そして、お互いに頷き合いました。これが以心伝心ってやつでしょうか。
「僕達も待たせてもらっていいかな」
「ここでちょっと顔を合わせるだけにはなっちゃうんですけど……」
昼休みの時間が長いとは言っても、家に戻っての庭掃除と昼食のことを考えれば、栞さんがいった通りのことになってしまうんでしょう。
まあそれ以前に、あんまり明くんと岩白さんのお邪魔はしたくないとか、そういう典型的余計なお世話というのも、もちろんあるんですけど。
「そりゃいいですね。あいつも多分――いや、まず間違いなく喜ぶでしょうし」
どれくらい待つものだろうかと気にもなったりしたのですが、しかし自分の家もそれほど遠くはないと言った明くんと同様、岩白さんのお住まいである岩白神社もそう遠くはないので、待った時間は五分前後といったところでした。
というわけで、岩白さん到着です。
「お久しぶりです! 孝一さん、でしたよね? えーと、栞さんも一緒ですか?」
待っている間に明くんから改めて説明されていたのですが、岩白さんは、幽霊が見えないながら声だけは聞こえる体質です。言われた時に「ああそういえば」という感じだったのは少々不覚でしたが、それはまあいいでしょう。
――相変わらずと言えるほど岩白さんに会った回数は多くないのですが、しかしそう思ってしまうのは、その少ない回数の中での強い印象と、あとは時々聞ける明くんの話からでしょうか。なので僕は、そして多分栞さんも、岩白さんのその元気の良さに頬が緩みこそすれ、びっくりするようなことはありませんでした。
しかし一方、彼女のあまりにもな身長の低さには、ちょっと気持ちを揺さぶられたりもしてるんですけど。
身長のほうについて栞さんがどう思っているのかは分かりませんが、ともかく二人して『お久しぶりです』への挨拶を返し、そしてその後にちょっと思うことが。
「名前、覚えてくれてたんですね」
繰り返しますが、岩白さんと僕達はあまり顔を合わせた機会が多くありません。しかも今回は、前に会ってからそれなりに日にちも経ってますし。
「ん? 孝一だって覚えてただろ、センのこと。名前も含めていろいろと」
「いや、それは明くんからちょくちょく話を聞いてたからで――」
言い切る前に、明くんの手が僕の口を押さえるのでした。
なるほど。全くそんなつもりはなかったんですけど、本人のいないところで彼女の話をしているというのは、その彼女の前だと恥ずかしい話なのでしょう。
口を押さえている明くんが無言だというのは割と怖いですけど、しかし岩白さんはその辺りを全く気にしない様子で、こう返してきました。
「わたしも明さんからよく聞いてますよ、お二人の話」
明くんのもう一方の手が岩白さんに伸びたのですが、しかし僕の口を押さえたままだったので、ぎりぎり届かないのでした。
……こちらについては口を塞ぐ必要があるようには思えないのですが、まあ、僕のことがあっての反射的な行動だったのでしょう。
「例えば、どんな話ですか?」
僕は口を塞がれたままなので、その質問は栞さんから。
「例えばっていうか、ほぼ全部が栞さんと孝一さんの仲の良さの話です。大学も一緒っていうのは、聞いてていつも羨ましいですよ」
なんとまあ、やってくれるじゃないですか明くん。ほぼ全部がそれだけだなんて、じゃあ岩白さんの中での僕と栞さんって、そんなことばっかり話してるバカップルってな具合になっちゃってるんじゃないの?
……いや、考えてみれば否定はできな――いやいや、何もイチャイチャしてばっかりってわけじゃないんだし。
「あはは、まあ、勝手についてきてるだけなんですけどね」
「明さんの場合、わたしがそんなことしたら嫌そうな顔しちゃうんでしょうけどねえ」
女性は強いということなのでしょうか、依然として口を塞がれたまま悶々としている僕に比べ、栞さんも岩白さんも、笑顔で語らっているのでした。もちろん、岩白さんには栞さんの笑顔が見えていないわけですけど。
そんな二人に明くんの注意もそちらへ逸れたのか、ここで僕の口が解放されました。とは言え、喋るのは僕でなく明くんですけど。
「嫌そうな顔はするだろうけど、何もお前が来るのが嫌だってわけじゃないぞ」
「もちろん分かってますけどね、それくらいのことは」
本当に嫌がってるなら、岩白さんはそれを笑顔で話したりはしなかったでしょう。ならばわざわざ確認するまでもないのでしょうが、明くん本人としては確認せざるを得なかった、というところでしょうか。
岩白さんに僕と栞さんの話をする場合に仲の良さばかり語っているようですが、あまり人のことは言えそうにない明くんなのでした。
「――ああ、そうだ。セン、朝この二人と話してたんだけど、『大人っぽい』ってことについてどう思う?」
「大人っぽい、ですか?」
今回岩白さんがここに来ることになった発端は、僕と栞さんのその話でした。が、しかし明くん、本当に訊いちゃいますか。失礼ながら、岩白さんにはおおよそ縁のなさそうな――いやいや、何も貶してるとかじゃなしに、ですけどね?
一人で慌てる僕ですが、問題の岩白さんは、その誰の目線よりも低い位置にある頭を傾げます。
「うーん、いきなりどうと言われても、何を答えればいいのか」
「ああ、それもそうだな。じゃあ例えば、お前が大人っぽくなるとして、ならその場合、今とどこがどう変わると思う?」
「――眼鏡を掛けるとか?」
「なんでそうなる」
「いや、真っ先に思い浮かんだのが春菜さんだったんで」
「姉好きにも程があるだろ。そりゃまあ、あいつが大人っぽいってのは分からんでもないが」
呆れ顔の明くんでしたが、岩白さんは照れ笑いなのでした。
けれども、二人のその様子にほっこりするよりも前に確認です。
「春菜さんっていうのは、確か……」
「ああ、えっと、わたしのお姉ちゃんです」
たった今明くんが「姉」という単語を出しているうえ、そもそもその春菜さんに会ったこともあるのですが、念のために訊いておきました。今この場にはいないその人ですが、何かしら勘違いがあっては失礼ですしね。
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