「何が駄目なんでしょうか」
「またまた、分かってるくせにぃ。じゃあこーちゃん、なんで前は嫌だったの?」
「栞さんと同じく、怖かったからじゃないですかね?」
「ふうん」
「僕と栞さんだけでウォータースライダーに行かせたのも、こういう話をしたかったからですか?」
「やっぱばれてた? うん、そーだよ」
「なんでまたそんな事を」
「だってなんかさ、端から見てたらお似合いだよ? 二人ともぽやーってしてるし」
「それって馬鹿にされてる訳じゃないんですよね?」
「してないしてない。冗談抜きで褒めてるつもりだよ。こーちゃんから見たって、しぃちゃんは良い人でしょ?」
「はぁ、まぁ………でもとにかく、今のところそういう事はないですから」
「今のところ、ねえ」
つい出てしまった一言に家守さんはにやりと笑う。でも結局今の僕にそういうつもりがないなら同じ事でしょう? なのであんまり深く考えないでください。大吾と成美さんに似たような事してるから言うのは止めときますが。
………そりゃ確かに栞さんは良い人ですよ? ですけども、だからっていちいちそうなってたらどれだけ惚れっぽいんですか僕は? 良い人ってだけならそれこそ大学にだっていっぱいいるでしょうし、それに全部惚れろと?
家守さんの言い分を否定したいがために自分でもおかしいと気付くくらいに論理を飛躍させ、その上で「あり得ない」と結論付ける。おかしくたって結論は結論さ。出した以上はちょっとやそっとじゃひっくり返らないよ。
そうやって自分を無理矢理納得させると、何やらみんな揃って水から上がってきた。ついでに成美さんはウェンズデーを追いかけるのはとっくに諦め、それからはやっぱり大吾の背中にしがみついていましたとさ。
「なになに? みんなして休憩?」
さっきまでのいやらしい笑みは何処へやら。
「ううん、これから清さんと競争するんです。だからいったん仕切りなおし」
「オレとコイツは休憩だ。混じったところで勝てっこねえからな」
「と言うか、ウェンズデーを追いかけてて本気で疲れたのだ。もう足が動かん」
との事で、陸にあがっても背中から降りようとしない成美さん。大吾が床に腰掛けると、その背中からずり落ちて寄り添うか寄り添わないかというくらいすぐ隣に座る。今日はやけに積極的だなあ。成美さんにしては。
そんな二人の様子を眺めてる間に第1コースに栞さん、第二コースに清さん、第三コースにウェンズデー、審判は家守さんと準備完了。
「飛び込んだ拍子にポロリしちゃわないように気を付けてねー!」
「し、しませんよぉ。大丈夫ですって」
「それじゃあ位置について! よーい………どん!」
と同時に三者一斉にスタート! ついでに家守さんもゴール判定のためにスタート! 転ばないでくださいよー。
綺麗に飛び込む栞さん・清さんでしたが、ウェンズデーだけは飛び込むと言うよりその場で前に倒れただけのようにぽとりと水面に落下。まあジャンプはやっぱり無理か。
と思ったらウェンズデー選手速い! 走っている家守審判より速い! さすがペンギン、まるで弾丸のようであります!
コースの側面、中央辺りから眺めている僕達の前をあっという間に通過し、残り半分。彼はここまで一度も息継ぎというものをしていません。多分ゴールまでずっと。
そんなどう考えても一人勝ちなウェンズデーを見ていても失礼ながらつまらないので、デッドヒート中な栞さんと清さんを眺める事にしよう。今は……ちょっとだけ栞さんが勝ってるかな?
先頭からかなり送れて僕らの前を通過した二人は、それでも充分に早いのでした。ちなみにその頃その先頭は………平気でコースを往復してました。息止め同様、競うつもりはないって事なのかな。
あー、でも三人とも気持ちよさそうだなあ。見てる分には栞さんの言ってた「思いっきり泳ぐのは気持ちいい」というのも分かる気がする。実際にやったらそれどころじゃなくなるのは確実だけどね。
それにしてもなんて言うか、速いんだから当たり前なのは当たり前なんだろうけど見てて綺麗だなあ。泳ぐフォームが。特に栞さんなんか普段の(と言うか主に料理中の)抜けた感じがしないって言うか。本当に綺麗………って、なんか見とれてる間に違う意味含みだしてない? 綺麗なのはフォームであって――――いやそりゃ、まったく否定するつもりもないですよ? 綺麗……うん、綺麗です。認めましょう。でもメインはそっちじゃなくて、普段の栞さんと様子が違うから、何て言うんだろう、格好いい? そう、それそれ。栞さん格好いいですよ。もちろん清さんだって格好いいですよ。
半分を過ぎて後ろから眺めるようになると二人の差は殆ど分からなくなってしまい、ゴールで待つ家守さんの判定を待つ事になる。そして今、二人がゴール!
「しぃちゃんの勝ちー!」
その判定に観覧席の三人から拍手が沸き起こり、栞さんはバンザイ。さすがに息が上がっているらしく、喜びの声は聞けなかったけど。
「えへへ、やった」
戻ってきてやっと栞さんは控えめな疲れた声でそう言うと、控えめにピースサインを見せた。
一方の清さん、息が上がってても笑うのは忘れない。
「やっぱり、敵いませんねえ。んっふっふっふ」
いえいえ、勝敗関係なしにどちらも凄かったですよ。一番凄いのはまだ泳ぎ続けてますけど。ずっと見てた訳じゃないけど、まだ一回も息継ぎしてないんだろうな。水の中を飛ぶとはよく言ったものだ。なんであんなちょっとパタパタしてるだけであそこまでのスピードが出せるんだろう?
でも目の前にいる二人も同様とまではいかなくても速かった。ので、素直に感心する。
「本当に凄かったですよ。何かで水泳やってたりしたんですか?」
「んーん。今の所に住むようになってから清さんに教えてもらったの。生きてた時はあんまり泳ぐ機会がなくて」
それは清さんが名コーチなのか、それとも栞さんに才能があったのかどっちなんでしょう? と言うか機会がなかったって、あんまり夏に外に遊びに行かないほうだったんでしょうか? 確かにクーラーとかがある現代じゃ、中々外に出る気になりませんもんねぇ。
「いやぁ、教えたと言っても私は大した事はしてませんよ。みなさんと海なりに遊びに出かけた際に泳いでいたら、喜坂さんが泳ぎかたを真似ただけなんですから」
「またまた~。清さん先生、結構厳しかったよ~?」
「そーそー。しぃちゃん、なんか心配になるくらい遠くまで連れて行かれてたもんねえ」
「最終的にバテて清サンに引っ張られて帰ってきたよな」
「何故かわたしまで引っ張り回されて……浮き輪じゃなかったら今頃海の底だぞ……」
「鬼コーチじゃないですか」
「ありゃあ、非難轟々ですねえ」
そんな感じで、クスクスとこそばゆい笑い声が誰からともなく上がり始める。そして暫らく自分なりに本気で泳いでみたらすぐバテたり、奥に行くほどだんだん深くなっているのに気付かず足がつくと思ったのか、中央辺りから水に入った成美さんがそのまま沈んで数秒上がってこなくて慌てたり、そんな成美さんを引き上げようとして潜って近付いたら上から飛び込んできた大吾に踏みつけられてこっちが溺れそうになったりしていると、入口のほうから重いドアが開く音が。そっちを見ると、結構な数の人が入り込んできていた。どうやら団体客らしい。
ありゃ、これはちょっと残念な展開。
「あちゃ~、とうとうここにも人が来ちゃったねぇ。どうする? なんだかんだで結構遊んだし、そろそろ帰る?」
「と言うか、そうするしかないですよね」
円状の流れるプールはともかく、ここは見晴らしが良すぎて水しぶきとかすぐ見えちゃいますし。
「栞達がじっとしてれば、孝一くんと家守さんはまだ遊べるよ?」
「それはちょっと気が引けますね」
要するにみんなに待ってもらってまで泳ぐって事ですよね? それは辛い。待たせるのもそうだし、この場でただ泳ぐだけっていうのも。
「じゃあしゃーねえな。帰るか」
「仕方ないな」
「ウェンズデー! 帰りますよー!」
清さんが両手で作った輪を口に当ててそう大声を出すと、水中のウェンズデーはこちらに急カーブしてきてそのまま水から上がってきた。そして全身を震わせて脱水。ぷるぷるなんて生易しい勢いじゃないですねアレ。
「またお越しくださいませー」
来た時と同じ女性に受付でそう挨拶され、「またくるよー」と返す先頭の家守さんを筆頭にそれぞれ軽く頭を下げながら退館。他の客でも同じような挨拶はするんだろうけど、やっぱりなんて言うか知り合いの知り合いは知り合いみたいな感じ? ついつい頭も下がってしまう。
「ごめんね孝一くん。結局五十メートルプールで何もしてないよね」
外に出ると、なぜか栞さんが謝ってきた。その腕の中にはやっぱりウェンズデー。
別に僕がばてちゃって休んでただけであって、どうして栞さんが……もしかして清さんと競走始めたからかな? それでプールを独占しちゃってたから、とかそういう事ですかね? だとすれば、気の回し過ぎですよ。そんなところ気にするほど神経質かつ嫌味な性格はしてないつもりですから。
「いえいえ。いいもの見れましたし、充分楽しかったですよ」
「いいもの?」
「清さんとの競争。凄かったじゃないですか」
「そ、そうかな? そう言われるとちょっと恥ずかし―――ちょっとみんな、どうして離れていくの?」
駐車場の車へとまっすぐ向かっていた筈なのに、なぜか不必要に離れていく。そういうのはもういいですってみなさん。ウェンズデーもバタバタしないの。
栞さんに呼ばれて戻ってくるみんなの顔に、罪悪感は全くなさそうだった。家守さんに至っては罪悪感どころかにやけてるし。
「も~、アタシ達の事は気にせずに続けてくれればいいのにぃ」
「いや、離れていくから気になるんですって」
「これも住民同士の親睦を深めるための気遣いなんだけどなぁ」
「二人だけでじゃなくてもいいでしょうに」
「まあまあそう硬い事言わずにぃ」
硬い事を言ったつもりは全くないです。むしろ硬いのはそちらではないでしょうか? なかなか諦めてくれませんし。
すると栞さん、家守さんの言ってる意味が分かってるのか分かってないのか、
「そんな気遣いしてもらわなくても、もう充分親睦は深まってますよ楓さん」
とのん気な笑顔。仰る通りでもあるんですけどね。毎日顔合わせてるし話だってしょっちゅうしてますし。
そんな栞さんに家守さんは、毒気を抜かれて苦笑い。
「あはは、しぃちゃんにゃあ敵わないね。そかそか、充分ですか」
「ですよ」
にこにこという擬音が実際の音になって聞こえてきそうなくらいの屈託のない笑みに、それを向けられた家守さんの後ろから呆れた溜息×二。
「マジで言葉の意味そのまんま受け取ってんのかコイツは」
「喜坂の事だ、仕方ない。……とは言えやはり脱力するものがあるなこれは」
「んっふっふっふ」
報われない努力、ご苦労様でした。こちらとしても報いるつもりは今のところ毛程もありませんので今後ともご容赦くださいませ。
「成美ちゃんも大吾くんも、どうしたの? 疲れちゃった?」
「まあそれで間違いはないと思うであります。こういう事に疎い自分がいうのもなんでありますが」
「こういう事って? うーん、どうしちゃったんだろ」
こちら様も報いるつもりは毛程も……いや、毛先程もなさそうですね。
首を捻る栞さんに一層お疲れ度を増してしまった二人を見て、ついつい「グッジョブ」と親指を立てる僕でありました。心の中で、ですけどね。
「さーて乗った乗った。また『すし詰め』の時間だよ~」
行きと同じくトランクに荷物を放り込むと、やっぱり行きと同じくぞろぞろととりとめもなく乗り込む。とりとめる必要がないからそれでいいんだけどね。
という事で一見ぎゅうぎゅうな軽、発進。
少し走ったところで信号に引っかかり、何となく後ろを振り返ってみると、
「あれ、みんな寝ちゃってますね」
「お疲れなんでしょう」
清さん以外、全滅。そのせいで体が傾いたりして余計に重なり合い、行きの時よりも更にゴチャゴチャ度が増していた。
「こーちゃんも寝てていいよ? また三十分くらいかかるし」
家守さんに言われて自分の状態をスキャニングしてみると、成程確かに寝れそうだ。泳いで疲れたのもあるけど、エンジンの微妙な振動がそれに輪を掛けて眠りを誘ってくる。
「そうですか? じゃあお言葉に甘えて」
「お休みー」
目を閉じて少し姿勢を崩すと、あっとも言えない間に首から力が抜けてきた。
どれくらい眠ったのか車の振動に目を覚ますと、目の前に何やら黒い突起物のどアップ。
近すぎて黒すぎて目がぼやけて何か分からない……とぼんやりしていると、
「あ、起きちゃったか。残念」
正面から家守さんの声がして黒い物が引っ込んだ。その向こうの窓の外には見慣れた感じの住宅街が――――ああそうか、もう家に着いたのか。で、残念ってなんですか? さっきの黒いのは何ですか? ぼやけた視界が晴れるにつれ、家守さんが右手に掴むその黒い物にかかったモザイクも消えていって―――表れたのは、黒のマジックペン。あのラベルは見たことあるな。たしか油性だったはず。
「何しようとしてたんですか?」
訊くまでもないですけどね。むしろなんでそんな物車内で持ってるんですか。
「いやさ、こーちゃんがこっちに顔向けてすやすや寝てるもんだからまぶたに目玉書いちゃおうかなって。危なく本物の目玉突き刺すところだったよ。あはは」
冗談は悪戯だけにしてください。本物はいくらなんでも勘弁ですよ。
「となると、こちらも起こさないほうが得策ですか?」
その声に、まだ少しぼやけが抜け切らない目をこすりながら後ろを見てみる。すると、相変わらず清さん以外の三人と一匹は重なり合って眠りこけたままだった。
起こさないほうを主眼にして問い掛けるなんて、結構ワルですね清さんも。
清さんの進言を聞いた家守さん、振り返りながら小声で楽しげに口を開く。
「お、みんなも寝たまんまかぁ。あーでも女の子は可哀想だからねぇ。よしこーちゃん、やっちゃえ!」
女の子は可哀想。そして僕に渡されるマジックペン。そこから導き出される答えはまず間違いなく、家守さんから届き難そうな左後部座席に座っている大吾を狙えという事だろう。
サーイエッサー。
「で、どうします? やっぱり額に肉ですかね?」
「まあまずはそれで様子見だね。もしそれでも起きなかったら次考えよう」
「分かりました」
できるだけ負担をかけないよう、先端だけを当てるつもりでペンを近づける。が、近付けば近付くほど手が震えてこれではただのくすぐり棒。一旦手を止め気を落ち着ける。すると何やら変態チックな興奮が高まってきましたが、それも含めて落ち着ける。なんせ手が震えていたら字がまともに書けないので。
「んぁ。……なんだ、着いたのかぁ……」
「んむぅっ!」
集中しているところへ急に目覚めた成美さん。反射的に声のボリュームは落とせたものの、口をつぐんだせいで妙な驚き声になってしまう。
「ん? 日向、何をしているのだ?」
極めてもっともな質問に、僕の代わりに清さんが応える。
「見ての通り落書きですよ、哀沢さん」
成美さんの目つきが凄い悪いんですけど、寝起きなせいですよね? 怒ってる訳じゃないですよね? これまた見ての通り、狙いは大吾ですからね。成美さんじゃないですからね。近いけど。
「そんな訳だからなっちゃん、起こさないようにちょっと静かにしといてねー」
「うむ」
同意を得られたところで今度こ
「うぅ……ん。あれ? もう着いてたんだ」
さすがに二度目は驚きませんでしたが、高まった緊張が一気に抜け、溜息となってその場の全員から漏れ出した。なんとタイミングのいい事で。
「あれ? 孝一くん、何してるの?」
「見ての通り落書きですよ。喜坂さん」
「だからしぃちゃん、ちょっと静かにね」
「うん。あはは、大吾くんかわいそ~」
先程と同じ展開の後、三度目の正直という事で今度こそ。大吾が起きるなんて展開にはなりませんように。
震えの収まった手をそろりそろりと近づけて、ついに皮膚へ到達。あとは慎重に、かつ素早く肉の一文字を描くだけ!
「出来上がり~」
そう小声で宣言するも、起きる様子はまるでなし。額に燦然と輝く肉マークに車内中が押し殺した笑い声で満たされる。
ぷくくくくく。
「怒橋君、まだ起きませんねぇ。んっふっふっふ」
「よしこーちゃん追加だ。とり肉にしちゃえ」
「よく分かりませんが、分かりました」
こうして「肉」に二文字加えて「とり肉」に。でもまだ起きない。
「よし、じゃあ今度はわたしが……」
「じゃあ栞も……」
そんなこんなで、静かに車外へ出た後の様子。
「ちょ……くくく、そ、その顔でこっち見るな馬鹿者。息が、息が苦しくくくくく」
「…………」
「大吾く、あはは、はぁ、はぁ……くく、唇とか、あは、あははは」
「…………」
「いやぁ格好良いですよ怒橋君。んっふっ、ぶっ」
「…………」
「いや本当、ふ、そ、そんなになるまでよく起きな、ぷふふふ」
「…………」
「だいちゃ、だいちゃあはは、もももうなんかもう、あはははは」
「………ウェンズデー、なんかオレの味方はオマエだけみてーだ」
「むにゃ………う~ん、魚ぁ……でありますぅ…………」
栞さんの腕の中で、世にも珍しいペンギンの寝言。まあ喋ってる時点でーなんて今更な事は置いといて、それを耳にした家守さん、今思い出したかのように慌てだす。
「あ、そーだそーだ! ウェンズデーに魚買ってあげるって約束してたんだったー!」
もちろんわざとらしさ丸出し。それが精一杯の演技なのか、それとも大吾をおちょくってるのかは家守さん本人のみぞ知るところである。
「待てやヤモリぃ! これどーせオマエか成美の仕業だろ!」
自分の顔が現在どうなってるかは車のバックミラーで確認済みな大吾、立ち去ろうとする家守さんを呼び止める。仕方がないけどお怒りの様子。
「わたしがこんな幼稚な事思いつく訳がないだろうがぷっ! こ、こっちを向くなと!」
思いついてはいませんが、流れに乗じて「肉」を「腐」にしたのは誰でしたっけ? なんですか「とり腐」って。
いやまあウェンズデー以外全員参加なんですけどね。
清さん。メガネの絵が落書きのレベルじゃないです。上手過ぎます。
「じゃあやっぱテメエかぁー!」
「行ってきまーす!」
さっさと逃げだした家守さんを追おうとする大吾に、成美さんが一言。
「ジョンの散歩がまだだろう? そっちを優先してやったらどうだ」
「ぬぐ……仕方ねえな」
仕方ないそうで。でもその前に顔何とかしようよ。
家守さんへの怒りとジョンの散歩という情報で頭がいっぱいになった大吾が、その顔のまま散歩へ出発、帰ってきたところをみんなで出迎えて笑ってあげたのは夕暮れ時の話。
「へー、こんな料理もあるんだねー。なんていうのこれ? 凄く美味しいよ」
「見たまんま『豆腐の肉乗せ』です。僕の好物なんですよ」
「ホットプレートとかあったら一気にたくさん作れそうだね。アタシ買ってみようかな」
「それ以外でも便利ですからねぇ。すき焼きとかなら鍋無しでできますし」
「ところでさ、孝一くんみたいに自分で料理できたら好きなものばっかりになっちゃわないの? 例えば今日のこれとか」
「うーん、そうでもないですねぇ。頻度は高くなるかもしれませんが、そればっかりだとさすがに飽きますし」
「好物かぁ。そういやあの人、好物ってなんだったっけ……?」
「あの人? ダンナさんですか?」
「うん。どこで何食べても美味い美味い言っててさー、結局何が好物なんだろ?」
「あえて訊かずに色々食べてもらって探ってみるのも面白いかもしれませんよ。料理するのも楽しくなりそうですし」
「あはは、さすが孝一くん。料理できる人は考える事が違うね。栞だったら面白いどころか『これも違うの!? あと何作れたっけ~!』っていっぱいいっぱいになりそうだよ」
「あ、アタシもそうなりそう。うっわ、どーしよ………」
「ま、まあとりあえず基本さえ押さえておけばあとは料理の本買うとかでなんとかなると思いますけど」
「そういうもんなのかねぇ。今度買ってみようかな」
「えー、でもそうなったら楓さん、この料理教室卒業になっちゃうんじゃないですか? それはちょっと淋しいなあ」
「ああいやいやまだそんな。それにアルバイトとして雇っちゃったし、一月もしないうちにいきなりお役御免なんて事はしないよ。仕事内容は最高だしね」
「そ、それはちょっと褒め過ぎですよ~。…………そう言えば最初は『仕事が早く終わった時にでも』って言ってましたけど、結局毎日来てもらってますよね」
「んー、苦手意識はあったけどやってみたら楽しいしさあ。それに一人でやってる仕事だから、日毎の切り上げ時も結構自由だし」
「ダンナさんと一緒になったらお仕事はどうするんですか? 二人で一緒に?」
「いんや、そうなったら引退して主婦業に専念するつもりだよ。そのために今修行中の身なんだし」
「あ、そっか。ん? でもそうなったら結局ここは卒業ってことなんじゃあ」
「申し訳ないけどそうなるねえ」
「ダンナさんが帰ってくるのっていつ頃なんですか?」
「今年の夏……の終わりくらいかな。それまでお世話になります」
「いえいえこちらこそ」
「それはそーとしぃちゃん」
「はい?」
「アタシが出てって二人っきりでもいいじゃ~ん。いやむしろそっちのほうがいいかなぁ~?」
「へ? えっと」
「またそんな話ですか」
「うーん、でも栞一人の面倒を見てもらうとなると、余計孝一くんが大変そうなんだけど………」
「いやしぃちゃん、料理の話はこの際置いといてだね」
「あれ、違うんですか?」
「若い者同士でまあその、色々とだねぇ」
「えーと……ほぇ!? あ、あああのそれってどういう」
「料理の話でいいですよもう………」
「ここまで言わないとしぃちゃんには通用しないんだねぇ~」
「え、や、だって全然そんなつもりとかないですし! あぇ~、こ、孝一くんもだよね?」
「そうですね」
「ありゃりゃ二人ともつれないねぇ~。おばちゃんつまんないなぁ~」
「つまんなくて結構です。その分料理を楽しんでくださいね。ここに来た時は」
「そうだよねお料理楽しいよね豆腐の肉乗せ美味しいし!」
「しぃちゃんひっくり返す時に上のお肉すっ飛ばしてたもんねぇ~」
「そしてそれが僕の顔に直撃しました」
「う。ご、ごめんね」
「いえ、話に乗っただけで別になんとも思ってませんけど………」
「ふふ。さてさて話が長くなっちゃったけど、料理が冷めないうちに食べちゃいましょうかお二人さん」
「家守さんがそれ言いますか……ま、いいですけど」
「なんだかんだでやっぱり楽しいもんね。集まってご飯食べるのって」
「切り替え早いですねぇ。その通りではありますが」
ついさっきまで慌てふためいたり謝ったりしてたのに。こういうのって「調子がいい」って言うのかな? 言葉の響きではあんまり褒めてる感じではないけど、栞さんはなんて言うか――――家守さんに釣られ過ぎかな? いやでも。
なんてモヤモヤも、好物を一口すれば気にならなくなった。ああ美味しい。
「またまた、分かってるくせにぃ。じゃあこーちゃん、なんで前は嫌だったの?」
「栞さんと同じく、怖かったからじゃないですかね?」
「ふうん」
「僕と栞さんだけでウォータースライダーに行かせたのも、こういう話をしたかったからですか?」
「やっぱばれてた? うん、そーだよ」
「なんでまたそんな事を」
「だってなんかさ、端から見てたらお似合いだよ? 二人ともぽやーってしてるし」
「それって馬鹿にされてる訳じゃないんですよね?」
「してないしてない。冗談抜きで褒めてるつもりだよ。こーちゃんから見たって、しぃちゃんは良い人でしょ?」
「はぁ、まぁ………でもとにかく、今のところそういう事はないですから」
「今のところ、ねえ」
つい出てしまった一言に家守さんはにやりと笑う。でも結局今の僕にそういうつもりがないなら同じ事でしょう? なのであんまり深く考えないでください。大吾と成美さんに似たような事してるから言うのは止めときますが。
………そりゃ確かに栞さんは良い人ですよ? ですけども、だからっていちいちそうなってたらどれだけ惚れっぽいんですか僕は? 良い人ってだけならそれこそ大学にだっていっぱいいるでしょうし、それに全部惚れろと?
家守さんの言い分を否定したいがために自分でもおかしいと気付くくらいに論理を飛躍させ、その上で「あり得ない」と結論付ける。おかしくたって結論は結論さ。出した以上はちょっとやそっとじゃひっくり返らないよ。
そうやって自分を無理矢理納得させると、何やらみんな揃って水から上がってきた。ついでに成美さんはウェンズデーを追いかけるのはとっくに諦め、それからはやっぱり大吾の背中にしがみついていましたとさ。
「なになに? みんなして休憩?」
さっきまでのいやらしい笑みは何処へやら。
「ううん、これから清さんと競争するんです。だからいったん仕切りなおし」
「オレとコイツは休憩だ。混じったところで勝てっこねえからな」
「と言うか、ウェンズデーを追いかけてて本気で疲れたのだ。もう足が動かん」
との事で、陸にあがっても背中から降りようとしない成美さん。大吾が床に腰掛けると、その背中からずり落ちて寄り添うか寄り添わないかというくらいすぐ隣に座る。今日はやけに積極的だなあ。成美さんにしては。
そんな二人の様子を眺めてる間に第1コースに栞さん、第二コースに清さん、第三コースにウェンズデー、審判は家守さんと準備完了。
「飛び込んだ拍子にポロリしちゃわないように気を付けてねー!」
「し、しませんよぉ。大丈夫ですって」
「それじゃあ位置について! よーい………どん!」
と同時に三者一斉にスタート! ついでに家守さんもゴール判定のためにスタート! 転ばないでくださいよー。
綺麗に飛び込む栞さん・清さんでしたが、ウェンズデーだけは飛び込むと言うよりその場で前に倒れただけのようにぽとりと水面に落下。まあジャンプはやっぱり無理か。
と思ったらウェンズデー選手速い! 走っている家守審判より速い! さすがペンギン、まるで弾丸のようであります!
コースの側面、中央辺りから眺めている僕達の前をあっという間に通過し、残り半分。彼はここまで一度も息継ぎというものをしていません。多分ゴールまでずっと。
そんなどう考えても一人勝ちなウェンズデーを見ていても失礼ながらつまらないので、デッドヒート中な栞さんと清さんを眺める事にしよう。今は……ちょっとだけ栞さんが勝ってるかな?
先頭からかなり送れて僕らの前を通過した二人は、それでも充分に早いのでした。ちなみにその頃その先頭は………平気でコースを往復してました。息止め同様、競うつもりはないって事なのかな。
あー、でも三人とも気持ちよさそうだなあ。見てる分には栞さんの言ってた「思いっきり泳ぐのは気持ちいい」というのも分かる気がする。実際にやったらそれどころじゃなくなるのは確実だけどね。
それにしてもなんて言うか、速いんだから当たり前なのは当たり前なんだろうけど見てて綺麗だなあ。泳ぐフォームが。特に栞さんなんか普段の(と言うか主に料理中の)抜けた感じがしないって言うか。本当に綺麗………って、なんか見とれてる間に違う意味含みだしてない? 綺麗なのはフォームであって――――いやそりゃ、まったく否定するつもりもないですよ? 綺麗……うん、綺麗です。認めましょう。でもメインはそっちじゃなくて、普段の栞さんと様子が違うから、何て言うんだろう、格好いい? そう、それそれ。栞さん格好いいですよ。もちろん清さんだって格好いいですよ。
半分を過ぎて後ろから眺めるようになると二人の差は殆ど分からなくなってしまい、ゴールで待つ家守さんの判定を待つ事になる。そして今、二人がゴール!
「しぃちゃんの勝ちー!」
その判定に観覧席の三人から拍手が沸き起こり、栞さんはバンザイ。さすがに息が上がっているらしく、喜びの声は聞けなかったけど。
「えへへ、やった」
戻ってきてやっと栞さんは控えめな疲れた声でそう言うと、控えめにピースサインを見せた。
一方の清さん、息が上がってても笑うのは忘れない。
「やっぱり、敵いませんねえ。んっふっふっふ」
いえいえ、勝敗関係なしにどちらも凄かったですよ。一番凄いのはまだ泳ぎ続けてますけど。ずっと見てた訳じゃないけど、まだ一回も息継ぎしてないんだろうな。水の中を飛ぶとはよく言ったものだ。なんであんなちょっとパタパタしてるだけであそこまでのスピードが出せるんだろう?
でも目の前にいる二人も同様とまではいかなくても速かった。ので、素直に感心する。
「本当に凄かったですよ。何かで水泳やってたりしたんですか?」
「んーん。今の所に住むようになってから清さんに教えてもらったの。生きてた時はあんまり泳ぐ機会がなくて」
それは清さんが名コーチなのか、それとも栞さんに才能があったのかどっちなんでしょう? と言うか機会がなかったって、あんまり夏に外に遊びに行かないほうだったんでしょうか? 確かにクーラーとかがある現代じゃ、中々外に出る気になりませんもんねぇ。
「いやぁ、教えたと言っても私は大した事はしてませんよ。みなさんと海なりに遊びに出かけた際に泳いでいたら、喜坂さんが泳ぎかたを真似ただけなんですから」
「またまた~。清さん先生、結構厳しかったよ~?」
「そーそー。しぃちゃん、なんか心配になるくらい遠くまで連れて行かれてたもんねえ」
「最終的にバテて清サンに引っ張られて帰ってきたよな」
「何故かわたしまで引っ張り回されて……浮き輪じゃなかったら今頃海の底だぞ……」
「鬼コーチじゃないですか」
「ありゃあ、非難轟々ですねえ」
そんな感じで、クスクスとこそばゆい笑い声が誰からともなく上がり始める。そして暫らく自分なりに本気で泳いでみたらすぐバテたり、奥に行くほどだんだん深くなっているのに気付かず足がつくと思ったのか、中央辺りから水に入った成美さんがそのまま沈んで数秒上がってこなくて慌てたり、そんな成美さんを引き上げようとして潜って近付いたら上から飛び込んできた大吾に踏みつけられてこっちが溺れそうになったりしていると、入口のほうから重いドアが開く音が。そっちを見ると、結構な数の人が入り込んできていた。どうやら団体客らしい。
ありゃ、これはちょっと残念な展開。
「あちゃ~、とうとうここにも人が来ちゃったねぇ。どうする? なんだかんだで結構遊んだし、そろそろ帰る?」
「と言うか、そうするしかないですよね」
円状の流れるプールはともかく、ここは見晴らしが良すぎて水しぶきとかすぐ見えちゃいますし。
「栞達がじっとしてれば、孝一くんと家守さんはまだ遊べるよ?」
「それはちょっと気が引けますね」
要するにみんなに待ってもらってまで泳ぐって事ですよね? それは辛い。待たせるのもそうだし、この場でただ泳ぐだけっていうのも。
「じゃあしゃーねえな。帰るか」
「仕方ないな」
「ウェンズデー! 帰りますよー!」
清さんが両手で作った輪を口に当ててそう大声を出すと、水中のウェンズデーはこちらに急カーブしてきてそのまま水から上がってきた。そして全身を震わせて脱水。ぷるぷるなんて生易しい勢いじゃないですねアレ。
「またお越しくださいませー」
来た時と同じ女性に受付でそう挨拶され、「またくるよー」と返す先頭の家守さんを筆頭にそれぞれ軽く頭を下げながら退館。他の客でも同じような挨拶はするんだろうけど、やっぱりなんて言うか知り合いの知り合いは知り合いみたいな感じ? ついつい頭も下がってしまう。
「ごめんね孝一くん。結局五十メートルプールで何もしてないよね」
外に出ると、なぜか栞さんが謝ってきた。その腕の中にはやっぱりウェンズデー。
別に僕がばてちゃって休んでただけであって、どうして栞さんが……もしかして清さんと競走始めたからかな? それでプールを独占しちゃってたから、とかそういう事ですかね? だとすれば、気の回し過ぎですよ。そんなところ気にするほど神経質かつ嫌味な性格はしてないつもりですから。
「いえいえ。いいもの見れましたし、充分楽しかったですよ」
「いいもの?」
「清さんとの競争。凄かったじゃないですか」
「そ、そうかな? そう言われるとちょっと恥ずかし―――ちょっとみんな、どうして離れていくの?」
駐車場の車へとまっすぐ向かっていた筈なのに、なぜか不必要に離れていく。そういうのはもういいですってみなさん。ウェンズデーもバタバタしないの。
栞さんに呼ばれて戻ってくるみんなの顔に、罪悪感は全くなさそうだった。家守さんに至っては罪悪感どころかにやけてるし。
「も~、アタシ達の事は気にせずに続けてくれればいいのにぃ」
「いや、離れていくから気になるんですって」
「これも住民同士の親睦を深めるための気遣いなんだけどなぁ」
「二人だけでじゃなくてもいいでしょうに」
「まあまあそう硬い事言わずにぃ」
硬い事を言ったつもりは全くないです。むしろ硬いのはそちらではないでしょうか? なかなか諦めてくれませんし。
すると栞さん、家守さんの言ってる意味が分かってるのか分かってないのか、
「そんな気遣いしてもらわなくても、もう充分親睦は深まってますよ楓さん」
とのん気な笑顔。仰る通りでもあるんですけどね。毎日顔合わせてるし話だってしょっちゅうしてますし。
そんな栞さんに家守さんは、毒気を抜かれて苦笑い。
「あはは、しぃちゃんにゃあ敵わないね。そかそか、充分ですか」
「ですよ」
にこにこという擬音が実際の音になって聞こえてきそうなくらいの屈託のない笑みに、それを向けられた家守さんの後ろから呆れた溜息×二。
「マジで言葉の意味そのまんま受け取ってんのかコイツは」
「喜坂の事だ、仕方ない。……とは言えやはり脱力するものがあるなこれは」
「んっふっふっふ」
報われない努力、ご苦労様でした。こちらとしても報いるつもりは今のところ毛程もありませんので今後ともご容赦くださいませ。
「成美ちゃんも大吾くんも、どうしたの? 疲れちゃった?」
「まあそれで間違いはないと思うであります。こういう事に疎い自分がいうのもなんでありますが」
「こういう事って? うーん、どうしちゃったんだろ」
こちら様も報いるつもりは毛程も……いや、毛先程もなさそうですね。
首を捻る栞さんに一層お疲れ度を増してしまった二人を見て、ついつい「グッジョブ」と親指を立てる僕でありました。心の中で、ですけどね。
「さーて乗った乗った。また『すし詰め』の時間だよ~」
行きと同じくトランクに荷物を放り込むと、やっぱり行きと同じくぞろぞろととりとめもなく乗り込む。とりとめる必要がないからそれでいいんだけどね。
という事で一見ぎゅうぎゅうな軽、発進。
少し走ったところで信号に引っかかり、何となく後ろを振り返ってみると、
「あれ、みんな寝ちゃってますね」
「お疲れなんでしょう」
清さん以外、全滅。そのせいで体が傾いたりして余計に重なり合い、行きの時よりも更にゴチャゴチャ度が増していた。
「こーちゃんも寝てていいよ? また三十分くらいかかるし」
家守さんに言われて自分の状態をスキャニングしてみると、成程確かに寝れそうだ。泳いで疲れたのもあるけど、エンジンの微妙な振動がそれに輪を掛けて眠りを誘ってくる。
「そうですか? じゃあお言葉に甘えて」
「お休みー」
目を閉じて少し姿勢を崩すと、あっとも言えない間に首から力が抜けてきた。
どれくらい眠ったのか車の振動に目を覚ますと、目の前に何やら黒い突起物のどアップ。
近すぎて黒すぎて目がぼやけて何か分からない……とぼんやりしていると、
「あ、起きちゃったか。残念」
正面から家守さんの声がして黒い物が引っ込んだ。その向こうの窓の外には見慣れた感じの住宅街が――――ああそうか、もう家に着いたのか。で、残念ってなんですか? さっきの黒いのは何ですか? ぼやけた視界が晴れるにつれ、家守さんが右手に掴むその黒い物にかかったモザイクも消えていって―――表れたのは、黒のマジックペン。あのラベルは見たことあるな。たしか油性だったはず。
「何しようとしてたんですか?」
訊くまでもないですけどね。むしろなんでそんな物車内で持ってるんですか。
「いやさ、こーちゃんがこっちに顔向けてすやすや寝てるもんだからまぶたに目玉書いちゃおうかなって。危なく本物の目玉突き刺すところだったよ。あはは」
冗談は悪戯だけにしてください。本物はいくらなんでも勘弁ですよ。
「となると、こちらも起こさないほうが得策ですか?」
その声に、まだ少しぼやけが抜け切らない目をこすりながら後ろを見てみる。すると、相変わらず清さん以外の三人と一匹は重なり合って眠りこけたままだった。
起こさないほうを主眼にして問い掛けるなんて、結構ワルですね清さんも。
清さんの進言を聞いた家守さん、振り返りながら小声で楽しげに口を開く。
「お、みんなも寝たまんまかぁ。あーでも女の子は可哀想だからねぇ。よしこーちゃん、やっちゃえ!」
女の子は可哀想。そして僕に渡されるマジックペン。そこから導き出される答えはまず間違いなく、家守さんから届き難そうな左後部座席に座っている大吾を狙えという事だろう。
サーイエッサー。
「で、どうします? やっぱり額に肉ですかね?」
「まあまずはそれで様子見だね。もしそれでも起きなかったら次考えよう」
「分かりました」
できるだけ負担をかけないよう、先端だけを当てるつもりでペンを近づける。が、近付けば近付くほど手が震えてこれではただのくすぐり棒。一旦手を止め気を落ち着ける。すると何やら変態チックな興奮が高まってきましたが、それも含めて落ち着ける。なんせ手が震えていたら字がまともに書けないので。
「んぁ。……なんだ、着いたのかぁ……」
「んむぅっ!」
集中しているところへ急に目覚めた成美さん。反射的に声のボリュームは落とせたものの、口をつぐんだせいで妙な驚き声になってしまう。
「ん? 日向、何をしているのだ?」
極めてもっともな質問に、僕の代わりに清さんが応える。
「見ての通り落書きですよ、哀沢さん」
成美さんの目つきが凄い悪いんですけど、寝起きなせいですよね? 怒ってる訳じゃないですよね? これまた見ての通り、狙いは大吾ですからね。成美さんじゃないですからね。近いけど。
「そんな訳だからなっちゃん、起こさないようにちょっと静かにしといてねー」
「うむ」
同意を得られたところで今度こ
「うぅ……ん。あれ? もう着いてたんだ」
さすがに二度目は驚きませんでしたが、高まった緊張が一気に抜け、溜息となってその場の全員から漏れ出した。なんとタイミングのいい事で。
「あれ? 孝一くん、何してるの?」
「見ての通り落書きですよ。喜坂さん」
「だからしぃちゃん、ちょっと静かにね」
「うん。あはは、大吾くんかわいそ~」
先程と同じ展開の後、三度目の正直という事で今度こそ。大吾が起きるなんて展開にはなりませんように。
震えの収まった手をそろりそろりと近づけて、ついに皮膚へ到達。あとは慎重に、かつ素早く肉の一文字を描くだけ!
「出来上がり~」
そう小声で宣言するも、起きる様子はまるでなし。額に燦然と輝く肉マークに車内中が押し殺した笑い声で満たされる。
ぷくくくくく。
「怒橋君、まだ起きませんねぇ。んっふっふっふ」
「よしこーちゃん追加だ。とり肉にしちゃえ」
「よく分かりませんが、分かりました」
こうして「肉」に二文字加えて「とり肉」に。でもまだ起きない。
「よし、じゃあ今度はわたしが……」
「じゃあ栞も……」
そんなこんなで、静かに車外へ出た後の様子。
「ちょ……くくく、そ、その顔でこっち見るな馬鹿者。息が、息が苦しくくくくく」
「…………」
「大吾く、あはは、はぁ、はぁ……くく、唇とか、あは、あははは」
「…………」
「いやぁ格好良いですよ怒橋君。んっふっ、ぶっ」
「…………」
「いや本当、ふ、そ、そんなになるまでよく起きな、ぷふふふ」
「…………」
「だいちゃ、だいちゃあはは、もももうなんかもう、あはははは」
「………ウェンズデー、なんかオレの味方はオマエだけみてーだ」
「むにゃ………う~ん、魚ぁ……でありますぅ…………」
栞さんの腕の中で、世にも珍しいペンギンの寝言。まあ喋ってる時点でーなんて今更な事は置いといて、それを耳にした家守さん、今思い出したかのように慌てだす。
「あ、そーだそーだ! ウェンズデーに魚買ってあげるって約束してたんだったー!」
もちろんわざとらしさ丸出し。それが精一杯の演技なのか、それとも大吾をおちょくってるのかは家守さん本人のみぞ知るところである。
「待てやヤモリぃ! これどーせオマエか成美の仕業だろ!」
自分の顔が現在どうなってるかは車のバックミラーで確認済みな大吾、立ち去ろうとする家守さんを呼び止める。仕方がないけどお怒りの様子。
「わたしがこんな幼稚な事思いつく訳がないだろうがぷっ! こ、こっちを向くなと!」
思いついてはいませんが、流れに乗じて「肉」を「腐」にしたのは誰でしたっけ? なんですか「とり腐」って。
いやまあウェンズデー以外全員参加なんですけどね。
清さん。メガネの絵が落書きのレベルじゃないです。上手過ぎます。
「じゃあやっぱテメエかぁー!」
「行ってきまーす!」
さっさと逃げだした家守さんを追おうとする大吾に、成美さんが一言。
「ジョンの散歩がまだだろう? そっちを優先してやったらどうだ」
「ぬぐ……仕方ねえな」
仕方ないそうで。でもその前に顔何とかしようよ。
家守さんへの怒りとジョンの散歩という情報で頭がいっぱいになった大吾が、その顔のまま散歩へ出発、帰ってきたところをみんなで出迎えて笑ってあげたのは夕暮れ時の話。
「へー、こんな料理もあるんだねー。なんていうのこれ? 凄く美味しいよ」
「見たまんま『豆腐の肉乗せ』です。僕の好物なんですよ」
「ホットプレートとかあったら一気にたくさん作れそうだね。アタシ買ってみようかな」
「それ以外でも便利ですからねぇ。すき焼きとかなら鍋無しでできますし」
「ところでさ、孝一くんみたいに自分で料理できたら好きなものばっかりになっちゃわないの? 例えば今日のこれとか」
「うーん、そうでもないですねぇ。頻度は高くなるかもしれませんが、そればっかりだとさすがに飽きますし」
「好物かぁ。そういやあの人、好物ってなんだったっけ……?」
「あの人? ダンナさんですか?」
「うん。どこで何食べても美味い美味い言っててさー、結局何が好物なんだろ?」
「あえて訊かずに色々食べてもらって探ってみるのも面白いかもしれませんよ。料理するのも楽しくなりそうですし」
「あはは、さすが孝一くん。料理できる人は考える事が違うね。栞だったら面白いどころか『これも違うの!? あと何作れたっけ~!』っていっぱいいっぱいになりそうだよ」
「あ、アタシもそうなりそう。うっわ、どーしよ………」
「ま、まあとりあえず基本さえ押さえておけばあとは料理の本買うとかでなんとかなると思いますけど」
「そういうもんなのかねぇ。今度買ってみようかな」
「えー、でもそうなったら楓さん、この料理教室卒業になっちゃうんじゃないですか? それはちょっと淋しいなあ」
「ああいやいやまだそんな。それにアルバイトとして雇っちゃったし、一月もしないうちにいきなりお役御免なんて事はしないよ。仕事内容は最高だしね」
「そ、それはちょっと褒め過ぎですよ~。…………そう言えば最初は『仕事が早く終わった時にでも』って言ってましたけど、結局毎日来てもらってますよね」
「んー、苦手意識はあったけどやってみたら楽しいしさあ。それに一人でやってる仕事だから、日毎の切り上げ時も結構自由だし」
「ダンナさんと一緒になったらお仕事はどうするんですか? 二人で一緒に?」
「いんや、そうなったら引退して主婦業に専念するつもりだよ。そのために今修行中の身なんだし」
「あ、そっか。ん? でもそうなったら結局ここは卒業ってことなんじゃあ」
「申し訳ないけどそうなるねえ」
「ダンナさんが帰ってくるのっていつ頃なんですか?」
「今年の夏……の終わりくらいかな。それまでお世話になります」
「いえいえこちらこそ」
「それはそーとしぃちゃん」
「はい?」
「アタシが出てって二人っきりでもいいじゃ~ん。いやむしろそっちのほうがいいかなぁ~?」
「へ? えっと」
「またそんな話ですか」
「うーん、でも栞一人の面倒を見てもらうとなると、余計孝一くんが大変そうなんだけど………」
「いやしぃちゃん、料理の話はこの際置いといてだね」
「あれ、違うんですか?」
「若い者同士でまあその、色々とだねぇ」
「えーと……ほぇ!? あ、あああのそれってどういう」
「料理の話でいいですよもう………」
「ここまで言わないとしぃちゃんには通用しないんだねぇ~」
「え、や、だって全然そんなつもりとかないですし! あぇ~、こ、孝一くんもだよね?」
「そうですね」
「ありゃりゃ二人ともつれないねぇ~。おばちゃんつまんないなぁ~」
「つまんなくて結構です。その分料理を楽しんでくださいね。ここに来た時は」
「そうだよねお料理楽しいよね豆腐の肉乗せ美味しいし!」
「しぃちゃんひっくり返す時に上のお肉すっ飛ばしてたもんねぇ~」
「そしてそれが僕の顔に直撃しました」
「う。ご、ごめんね」
「いえ、話に乗っただけで別になんとも思ってませんけど………」
「ふふ。さてさて話が長くなっちゃったけど、料理が冷めないうちに食べちゃいましょうかお二人さん」
「家守さんがそれ言いますか……ま、いいですけど」
「なんだかんだでやっぱり楽しいもんね。集まってご飯食べるのって」
「切り替え早いですねぇ。その通りではありますが」
ついさっきまで慌てふためいたり謝ったりしてたのに。こういうのって「調子がいい」って言うのかな? 言葉の響きではあんまり褒めてる感じではないけど、栞さんはなんて言うか――――家守さんに釣られ過ぎかな? いやでも。
なんてモヤモヤも、好物を一口すれば気にならなくなった。ああ美味しい。
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