(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十七章 先人 九

2010-10-29 20:47:01 | 新転地はお化け屋敷
「内面だけじゃあそんなふうに嬉しそうにはなれないと思うよ。もうしそうだとしたら、教え子の腕前が上達しないわけだし」
「そうそう、むしろ上達しないアタシとしぃちゃんに嘆き悲しむ結果に」
「いやそこまでは言わないけどさ」
 家守さんの一言で冗談っぽくなってしまいましたが、まあしかしそれはそれで本当のことなのでしょう。もちろん実技としてきちんと料理をしている以上、僕が教えなくとも上達はするんですし、だったら全て僕の手柄ってわけでもないんですけど。
「そういうわけで日向くん、今後も楓のこと、宜しくね。まあそういう俺だって夕食を出されてるんだから、同じく宜しくされてるってことになるんだけどさ」
「はい。お任せください、高次さん本人ともども」
 頼りにされるというのは、やはり心地良いものです。内面はともかく外面も先生足り得ているかどうかは自分での判断がし難いところですが、疑いなく頼られているのならば、その頼ってきている相手を満足させられていることには間違いがないわけで。
「ありゃあ。やっぱ三枚下ろしができるってだけじゃあ、まだまだ宜しくされるレベルってことかあ」
「ふふ、そりゃそうですよ楓さん。それだけで一人前ってことになったら、私がもう一人前ってことになるんですよ?」
「あー、なるほどねえ。そりゃそうだ」
「ええっ、納得しちゃうんですか?」
 自分で言っておいてショックそうな顔になる栞さんでしたが、しかしそこはもちろん「キシシ、もちろん冗談だけどね」ということに。実際、初めのうちこそ不安にさせられることが多かった栞さんも、今となっては家守さんとそう変わらないですしね。
「アタシだってそりゃあまだまだ自分が一人前だなんて思ってないからさ。高次さんが先に言っちゃったけど、今後も宜しくね、こーちゃん先生」
「はい」
「あ、もちろん私も宜しくね、孝一くん」
「うん」
 鯵のフライを作っただけでこうなってしまうというのは大袈裟以外の何物でもないのでしょうが、しかし僕はその大袈裟さが非常に気に入っているのです。それがあるからこそ先生役を務められているんだろう、とすら思えてしまうほどに。
「しぃちゃんがこーちゃんに『宜しく』って言うと、料理に限った話じゃないように聞こえちゃうなあ」
「ええっ。……まあ、そういうこともなくはないですけど、少なくとも今のは料理に限ったもののつもりで言いましたよ?」
 さっき冗談を言われたばかりだというのに、素直な受け答えをする栞さんなのでした。そりゃあこんな時まで「料理に限ってない話」を思い浮かべはしないでしょうとも。
「だよねえ。うんうん、料理以外でも『先生』的な立場になることがあるわけだ、こーちゃんは」
「なってもらってますねえ」
 先生と言われると違和感がありますが、まあ「的な」ですし、だったらば否定はしますまい。
 しかし否定しないならしないなりに、言うべきことがありまして。
「それに関しては僕から栞さんに向けても同じですけどね」
 これまでの僕と栞さんの遍歴を殆ど知っている家守さんには、今更言うまでもないことなのかもしれませんが。
「そういうもんだろうからね、誰かと深い仲になるっていうのは。何も恋人同士ってのに限らずさ」
 家守さん、もう冗談は言わないようで、言い終わった後ちらっとだけ高次さんのほうを向いてみたりも。でもちらっとだけなので、すぐにこちらを向き直したんですけどね。高次さんは暫く家守さんを見詰め続けてましたけど。
 ……栞さんの先生、かあ。料理に限らず。

「また明日ね、お二人さん」
「んじゃあ、今日もご馳走様でした。あ、お皿は明日のこの時間に持ってくるよ」
 家守さんと、二人分のクッキーが盛られた皿を持った高次さんがご帰宅です。さああのクッキーは夜食になってしまうんでしょうか。そして、家守さんは太ってしまうのでしょうか。だとしたら、どこが太るのでしょうか。
 ……引っ張るような話じゃないですね。栞さんが挟まれてもがいてる様はインパクト大でしたけど。
「はい。あ、できるだけ早く食べてもらった方がいいと思いますよ。むしろもう手遅れかもしれませんけど、しっけちゃいますから」
「ほほう、つまりは夜食ってことだね? こーちゃん」
 そのつもりはなかったのに、結局はこの話。まあ家守さんですから、僕の出方がどうあれこういう話をする時はするんでしょうけど。
「もうそういうことでいいです。じゃあ明日はその分、ヘルシーな献立にしましょうかね」
「おお、そういう料理を教えてもらえるのは普通に嬉しいね」
 それは何より。まあ別に頭の中に「ヘルシーな料理」という区分があるわけじゃないんで、それっぽいものを並べるだけになるでしょうけど。自分で言うのもなんですけど、なんせそういうことには無頓着なもので。
「それじゃ先生、明日期待してますね」
 お別れの挨拶は既にしているということで、家守さんはそれだけ言い残し、その隣で高次さんは黙って頭を下げて、お二人は204号室のドアをくぐるのでした。ううむ、本当に期待されているとなると、「ヘルシーっぽい料理を適当に並べる」では駄目なような気がします。だったらば、ちゃんと考えるなり調べるなりしてみましょうかね。
「ああよかった」
 明日の献立についてはしかしまあ今すぐ考える必要もないだろう、なんて思いながら部屋に戻ろうと踵を返したところ、それについて来ながらも、栞さんが何やらほっとした様子。
「どうかした?」
 尋ねる間に到着した居間に座り込み、ならば栞さんも僕の隣に座ったのですが、はて、何をほっとしたのでしょう。思い当たる節がないのですが。
 すると栞さん、にこにこというか、にやにやしながら言いました。
「さっきの話だとこうくん、胸は別に大きくなくてもいいってことでしょ?」
 さっきの話というのは、太るのを嫌がる家守さんにヘルシーな食事を教えると言ったことを指しているのでしょうが……まあ、冗談なのでしょう。言っている内容的にも、それを言う表情的にも。
「家守さんの大きさで不満があるなんてことになったら、ねえ。皆までは言わないけど」
 ならばこちらもその冗談に冗談で応じましょうということで、わざとらしいくらい真っ直ぐに見てみました。何をとまでは言いませんけど。
「あはは、まあ、それは分かってるつもりなんだけどね。そういう素振りをされたわけでもないし。でもやっぱり、ああいう話になったら気になるくらいはしちゃうからさ」
「そういうもんですか」
「そういうもんです」
 そういうもんなんだそうです。ちなみに今の栞さんに対する言葉遣いは、間違えたわけではありません。どうでもいいことなんでしょうけど。
「まあそれはいいとして」
 いいとするそうです。
「こうくんが料理以外でも先生的な立場になることがあるって話、してたでしょ?」
「ああ、うん。いや、その言い方だとちょっと違和感がありはするけど」
「まあそれは例え話ってことで」
 というふうに僕の話を横に流す栞さん。ならば、そこは重要ではないのでしょう。
「今日さ、深道さんと霧原さんとか、あと大学から帰ってきてからは清さんにも、話をしてもらったでしょ?」
「うん」
 どちらも、わざわざこちらから話をしてもらいに行った甲斐がある、いい話をしてもらえたと思います。思いますが、それが「僕は料理の話以外でも先生的になる場合がある」という話にどう関わりがあるのでしょうか?
「多分こうくん、全然そんなふうには思ってないんだろうけど、私からすればその三人と同じなんだよね。先生的になってる時のこうくんって」
「…………」
 しばし、考えてみます。
「そういえば、そうなるのかなあ。やってることを考えると」
 相談を受けて、それに応える。栞さんに対してなら自分はそうしようとしてきましたし、これについては謙遜なんてせずに自賛しますけど、そうできてきたとも思います。
 けれども例えば今回相談を持ち掛けたお三方、つまり深道さんと霧原さん、それに清さんには感謝と同時に尊敬の念を持ちさえしたのですが、感謝はともかく、自分が尊敬されるようなことをしたとは思ってきませんでした。栞さんが言った「全然そんなふうには思ってないんだろうけど」というのは、ならばそこを指したものだったのでしょう。
 すると栞さん、ふふっと柔らかに笑いました。
「やっぱりそんなふうには思ってなかったかあ。――ほら、こうくん言ってたでしょ? 私にさん付けしてた理由、年が上だってこととはまた別のところでそうするに相応しいからそうしてるって」
「言ったね」
 この話題になると、さん付けとそれに合わせた喋り方でない今の自分に違和感が生まれたりもするのですが、まあそれは今はいいとして。
「私だってそんなふうには思ってるんだよ? 実際には私のほうが年上だから変な感じになっちゃうだろうけど、『孝一さん』って呼んでもいいような人だと思ってる。こうくんのこと」
「……ええと、ありがとう」
 照れ臭かったので返事に間が生じてしまいましたが、しかし嬉しい言葉でした。
 そして僕が嬉しがれば、今度はそれを栞さんが嬉しがって、くすぐったそうに微笑むわけです。自分のことながらかつ今更ながら、「いい関係だなあ、本当」なんて思ってしまうのですが、しかし栞さん、
「それで、そのことを踏まえてなんだけど」
 と話題の方向を変えてしまわれました。
「大学から帰る時に話したことなんだけどさ。ほら、私が家に帰ってないって話」
「ああ、うん。言ってたね」
 幽霊になってから一度も、という話。確かにその話はしていましたが、しかしこの話が「それを踏まえて」とは、つまりどういうことでしょうか? 僕をさん付けしてもいいふうに思っている、という――つまりは、家に帰っていないことについて僕に相談をするということなのでしょうか。だったらもちろん、望んで引き受けさせてもらいますが。
「それで、だったらどうするかって話なんだけど」
「そうだなあ――」
「ああいや、待って待って」
「へ?」
 当然の如く乗り気になっていたところ、どういうわけかまだ何もしていないのに止められてしまいました。
「このことは、私が自分で決めようと思うの。こうくんには頼らないで」
「ええと、なんでですか……じゃなくて、なんで? ああいや、気分を悪くしたとかじゃないけど」
 栞さんが問題を一人で抱え込んでいたことは、これまでにもありました。けれどそういう時、僕が「僕を頼ってください」と言いさえすれば、栞さんはそれに頷いてくれていたのです。それが続いた今となっては、僕が頼られたいと思っていることは、栞さんにとっても言うまでもないことではあるでしょう。「こうくんには頼らないで」とわざわざ言ってくるくらいですし。
 だというのに、意図せず抱え込んでいるならともかく意図して抱え込むというのなら、そこには何か理由があると見るべきです。となれば気になるのは当然、その理由なのですが。
「今のところね、私、どっちにしようっていう意見が全くないんだよ。一度家に帰ってみるか、このまま帰らないでおくか」
 というふうに言われてしまうと、例えばご両親がどうとかいった話をしたくなってしまうのですが、しかしそこは堪えて「うん」と頷くだけにしておきます。そういうことを今回、拒否すると言っているわけですから。
「こんな状態でいつもみたいにこうくんに頼ったらさ、『こうくんに頼る』っていうより『こうくんに任せる』っていうか――いっそ、『こうくんに逃げる』って感じになっちゃうと思うんだよ。意見がないにしろ、ちょっと辛い話ではあるからさ」
「そっか。……僕としては、それでもいいって思っちゃうけど」
「ふふ、そうだろうね。こうくんがそういう人だっていうのは、よく分かってるつもりだよ」
 よく分かっていて、ならばそれについてどういう感情を持っているのか。しかし尋ねるまでもなく、その答えは表情に表れていました。
 なので僕は尋ねることなく、沈黙を以って話の先を促します。栞さんと同じく、表情は沈黙してはいなかったんでしょうけど。
「ただほら、胸の傷跡の時なんかとは違って、どっちが正しくてどっちが悪いって話じゃないからさ。しかも自分の家の話なんてなったらすごく個人的な話だし、だったらそういうことぐらいは、自分だけで考えた方がいいだろうなって」
「あれに似た話だね。あんまりベッタリしないようにしようっていう」
「そうだね、そんな感じ」
 ならば、納得するべきなのでしょう。これを納得できないとなったら、「あんまりベッタリしないようにしよう」という話も否定することになってしまいますし。
 とはいえ、何も渋々と納得するわけではありません。栞さんが僕に「そういう人だっていうのは分かってる」と言いながら微笑みかけてくれたのと同じように、僕だって「栞さんはそういう人だ」と思います。微笑んでもいるのでしょう。
「分かった。じゃあ今回、僕は大人しくしとくよ」
「ありがとう」
 礼を言われたということは、僕の選択は間違ってはいなかったのでしょう。ならばそれはそれでいいとしておき、加えていい気分にもなっておいて、
「それでなんだけど、一つだけ質問してもいい?」
 訊くべきことは訊いておきましょう。もちろん大人しくしておくと言ったばかりなので、今の話の内容についてどうのこうのというような質問ではないですけど。
「なに?」
「僕に相談しないってことを、なんでわざわざ僕に言ったの?……いや、なんか不機嫌っぽい言い方だけど、全然そんなつもりはないんだけどね?」
「うん、それは見れば分かるよ」
 言いつつ、可笑しそうににこりと口の端を持ち上げる栞さん。見れば分かるということは、ならば僕も似たような表情なんでしょう。まあ今に限らず、少し前からそんな感じではあるんでしょうけど。
 ではそれはいいとして、質問の続きを。
「ほら、言われなかったら僕、そもそも栞が悩んでるってこと自体気付いてなかっただろうし。放っておいても良かっただろうに、なんでこうして話をしてくれたのかなって」
 僕に相談しないということであれば、相談するようなことが発生したことそれ自体を知らせない方が手っ取り早いのです。それをわざわざ知らせたうえで、でも相談はしないと言ってくるというのははて、どういう考えからなのでしょうか。
 するとそれまでは総じてニコニコとしていた栞さんの表情が、少しだけ陰りを見せました。
「私さっき、個人的な話って言ったでしょ? 家に帰るかどうかについて」
「うん」
「それで、帰るって結論になったらもちろん一度帰ってみるんだろうけど、逆に帰らないって結論になったら、もう絶対帰らないと思う。もちろん時間が経ってから思い直すようなことだってあるかもしれないけど、少なくともそう決めた時点ではそう思ってるってことだよね?」
「そうなるね」
 それはもう、少し考えればそういうことになるのは、栞さん本人でなくとも分かろうというものです。しかしだからこそ、「知りたいのはその先なんだけどな」と思ってしまったりも。
 けれど、それくらいのことは栞さんだって分かっているんだろうとは思います。となると「どうしてわざわざ」ということにもなるのですが、しかしそれは、あの表情が語っている通りなのでしょう。気後れから言い難く思い、加えて慎重にもなって、だからついつい回りくどい話し方になってしまっている、という。
 けれど回りくどいというのは、回りくどいというだけの話。言い難い話を避ける手段ではなく、それまでの時間を少し稼ぐだけのものなのです。ならば、時間が経ってさえしまえばその「言い難い話」に到達してしまいます。
「これも、大学からの帰りに話したことなんだけど……もしそうなったら、こうくん、私の親には会えないってことになっちゃうからさ。私が帰らないのに、こうくんだけ私の家に行って私のお父さんお母さんに会うって、それは絶対変だからさ」
「……そうだね」
「家に帰るかどうかってだけなら私の個人的な話で済むんだけど、その後に続くことが、個人的な話じゃあ済まないからさ。だから先にこうくんに話して、それだけは分かってもらってから、分かってるうえで私一人で考えることを許して欲しかったんだよ」
 そういうことでしたか。
 そういうことでしたら。
「問題だと思ってるわけじゃないから、許す許さないじゃないんだけどね。――そういうところ、好きだよ。栞の。そういうところが好きって言ってもいいくらいに」
 恋人としてはもちろん、一人の人間の人格としても。だからこそ僕は、栞さんをさん付けで呼び続けていたんですし。
「……うん」
 陰りのある表情に照れ笑いが加わろうとし、しかし栞さんはそれを抑えようとしているのか変に顔に力が入ってしまい、結果、困ったような表情ができあがっていました。ともなれば、それを僕に見られたくはないのでしょう。完全にそっぽを向くというほどではありませんでしたが、栞さん、俯いてしまうのでした。
 横から見たそんな表情ですら可愛く見えてしまうのは、惚れた男の弱みというやつなのでしょう。しかしそれを抜きにしても、笑ってしまう自分を抑えようとしているその行為そのものに、ますますもって惚れ具合を増進させられてしまいます。
「栞」
 呼び掛けてみたところ、初めは横目でだけこちらを見、しかしすぐにゆっくりとこちらを向き始め、見せたくなかったのであろう困ったような顔をこちらへ向けてくれました。
 しかしそうして向き合っても尚、栞さんの顔は困ったままでした。その顔も、そういう顔になる理由も、さっき思った通りに好きなのですが――。
「ん……」
 その困ったような形をしている頬に手を添えると、そこからみるみる余計な力が抜けて行くのが見た目からも感触からも分かりました。
 困った顔も可愛いと思ったのは事実です。けれどやっぱり、一番は笑っている時の顔なのです。
 僕が何をしようとしているか、栞さんは察してくれたのでしょう。そしてそれを受け入れてもくれたのでしょう。頬に触れた時に小さく漏れた声以外には何も言わず、ただ黙って目を閉じてくれるのでした。

「うーん、どうしようかな結局」
 それから暫くの間、直前の行為に準じた雰囲気に浸っていました。がしかし、ふと気になったことがありまして、ならば頭がそちらへと切り替わりました。ちょっと勿体なかったような気もしますが、切り替わってしまったものは仕方がありません。
「何の話?」
「栞をどう呼ぶかっていう」
「ああ、もう決める段階なんだ? 短かったね、お試し期間。始めからそう言ってはいたけど」
 む、言われてみればそんな気も。
 けれどそれは、逆に見れば「言われるまでそうは思わなかった」ということ。そんなわけで僕は、初めから今日中には決めるつもりだったのです。なんせそう言いましたしね、このお試し期間を始める時に。
 そしてその「今日」は、もうあまり長くは残っていません。もう少し経てば栞さんは203号室に戻ってしまいます。
「栞としてはどうだった? 嫌だったりとかは――まあなさそうだけど、実際にそう呼ばれたら前のほうが良かったとか、ないかな」
 それだってなさそうなもんですが。
「ないよ、全然」
 やっぱり。
「でも……優柔不断かもしれないけど、今のほうがいいってわけでもないんだよねえ。だからってどっちでもいいってわけじゃなくて、どっちもいいっていうか」
「そっか」
 まあ、優柔不断といえば優柔不断ではあるのでしょう。けれどもちろん、今回のこれについては、僕がそれを悪く思うような例ではないわけです。むしろ良く思ってるみたいですし、僕。
「じゃあ、決めるのは僕の判断ってことになっちゃうんだなあ」
「なっちゃうねえ。いや、私のせいなんだけどさ」
 お互い軽く笑ってから、しかしさて、ちょっとだけ真剣に考えてみましょうか。栞さんも言ったように、どっちでもいいというわけではないんですし。
 で、ちょっとだけ考える間を頂きまして。
「正直、今の話し方が自然に出来てるかって言われたら、できてないんだよねえ」
「そりゃまあ、まだ今日一日どころか半日くらいの話だもん。それが普通じゃない?」
 というふうに栞さんは言ってくれましたし、実際にもそうなのでしょう。こんな短期間で慣れろというほうが無理ではあるのです。
 けれど、そんな分かり切ったことを話したからには思うところがあるわけで。
「頭の中ではまだ『栞さん』なんだよね。それを言葉にする時に訳してるっていうかさ。だから何か、慌てたりしたら『栞さん』になっちゃうと思う」
「思う以前に、なっちゃってたけどね。私がさっき、こうくんには頼らないって言った時に」
 あれ、そうでしたっけ。……ああ、そうでしたそうでした。
 それ自体を忘れるほどの慌てっぷりだったってことになるんでしょうか? ううむ、でも僕の感情はともかく一般的に考えればそこまで重大なことでもないわけで、だったらその重大でないことでそこまで慌てるというのは、恥ずかしいと思うべきことなのかもしれません。思っていても慌てるんでしょうけど。
 そんなことを考えて口の端を苦々しく持ち上げていたところ、栞さんがこちらへ寄ってきました。いや、お互いにキスをした後から変わらない位置にいたので、元から肩が触れるような近さではあったのですが、そこから更に。
「こうくんが楽な方でいいんだよ?」
 体重を預けてくるというよりは、緩く寄り添うという感じ。そしてその具合に合わせたような柔らかい声で、栞さんは言ってきました。
「どっちもいいって、さっき私そう言ったけど……無理をしてるってことだったら、そっちは選んで欲しくないな」
 それはもちろん、今の話し方についての意見なのでしょう。ならばいま栞さんは、さん付けの話し方を推している、ということになります。無理をしているというほどの無理をしているわけではないのですが、しかしまあ少なくとも自然でないというのは自分で言ったことなので、否定のしようもありません。
「どうかな、こうくん」
「ええと……」
 栞さんのそんな意見。僕と栞さんで票数が二だと考えれば、この時点で「今の話し方」の一方的な勝ちはなくなりました。
 しかしだからといって、自分の意見がないまま「じゃあそうしましょう」とはいきません。栞さんに同調するにしても、「自分の意見があって、それと合致しているからそうする」という形になるべきではあるんでしょうし。
 黙ったままこちらを見詰めている栞さん。どうやら、僕の返事を待ってくれるようでした。ならばそれに甘えて、今は待ってもらいましょう。


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