(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十七章 先人 八

2010-10-24 20:48:19 | 新転地はお化け屋敷
 帰る際にももう一度清さんへお礼を言い、そして栞さんはもう一度困ったような表情になったりもしたのですが、そんなこともありつつ204号室に帰宅。もちろんのこと栞さんも一緒です。
 自分の部屋というのはやっぱり落ち着くもの。しかしそれだけでなく、こうして普段以上に落ち付いた気分でいられるのは、清さんの話のおかげでもあるのでしょう。ならばその落ち着きに則って、落ち着いたまま話をしましょう。もう、焦ることはないのですから。
「栞さん、ちょっと相談したいことがあるんですけど」
「なに?」
 帰る前には少々困り顔になってしまっていた栞さんでしたが、どうやらそれを引きずってはいないようでした。まあ、そこまで気に病むようなことでなかったと言えばなかったのですが。
「大学で――ほら、栞さんの年齢の話になった時、深道さんと霧原さんが栞さんにどういう話し方をするかって話になったじゃないですか。年上だと分かったからってことで」
「うん」
「その時に思ったんですけど、僕もそろそろそれに倣うべきかなって」
「倣う? って、どういうこと?」
「ええと、さん付けを止めた方がいいのかなって。栞さんに」
 焦りはしていないものの、どういう返事が来るのだろうかとほんの僅かに胸の鼓動が大きくなります。
 すると栞さん、きょとんとした顔になった後、それを取り繕うこともないまま「ああ」と。
「そっか、こうくんからすればそういう話にもなるよね。どうだろうなあ」
 どうも栞さん、そうして欲しいとかそうして欲しくないとか、そういうはっきりした意見は持ち合わせていないようでした。そしてそれは、僕の予想の範囲外だったりも。
「ちょっと意外ですね、その反応。頷かれると思ってたんで」
「え? あれ、私、そう思われるようなこと言ったっけ?」
 やはりそういった意見はこれっぽっちもないようです。しかし栞さんがそうであるにせよ、僕がそう思ったことにだって理由はあるわけで。
「深道さんと霧原さんから、年上の扱いをされるのとこれまで通りの扱いをされるのとどっちがいいかって話になった時、これまで通りのほうがいいって言ってたんで。僕についてもそうなのかなーと」
「ああ、そっか。うーん……うん、年上扱いよりそっちのほうがいいと思ってるのは確かだから、そういう意味でだったら、こうくんにもそう呼んでもらった方がいいかな」
 とのことですが、いやしかし、今の今までは「特にどちらとは言わない」みたいな感じだったんですから、ならばそれはたった今思い付いたことなのでしょう。「今の今まで」と「たった今」とじゃあ、紙一重の差ですけど。
 それはともかく今思い付いたことらしいので、
「じゃあ、そうしましょうか?」
 それに呼応する僕の台詞も問い掛けの形になってしまいます。「じゃあそうしましょう」とはいきませんでした。
「ああ、でもね」
 栞さんが言います。その時点で「ああ、しないのか。言い切らなくてよかった」と安堵してはみるのですが、ではその「でもね」には何が続くのでしょうか?
「こうくんから『栞さん』って呼ばれるの、結構気に入ってるんだよね。なんて言うのかな、のんびりできそうな感じがするっていうか」
「気がするまでもなくのんびりし続けてるような気もしますけどね」
「あはは、そういえばそうなんだけどね」
 無論それ自体は和まされる話なのですが――しかし、そうですか。さん付けだけでそこまで印象が変わるとなると、思いのほか重要な話題ということになるのかもしれません。
「だから結局、どっちも良さそうだなって思っちゃうんだよねえ。呼び捨てにされるのも、今のままさん付けされるのも。ごめんね、優柔不断で」
「いや、僕もそうだからわざわざ相談したんですし」
 栞さんに相談せず僕が勝手に判断しても、そこまで問題になるようなことではないんでしょう。重要な話題かもしれないというのはさっき思った通りですが、でも結局は「どっちもいい」という話なんですし、だったらどちらに決まったところで文句が出るわけがないんですから。
「あ、一つだけ訊いてもいい?」
「何ですか?」
「こうくんが私にさん付けしてるのは、私が年上だから?」
 む、唐突な割には即答できなさそうな質問が。
 というわけで、暫くうーんと唸ります。その間栞さんは、答えが出るのを黙って待ってくれていました。にこにこと、僕に対する期待すらも感じられるような笑顔で。
「初めはまあ、そうでしたね。でも今は……」
「今は?」
 口を開いたからには思い付いたことがあるのですが、しかし、いざとなるとどうにも言い難いのでした。でも目の前の栞さんの表情は相変わらずで、だったらそれに僕が勝てるわけもなく。
「そうするに相応しい……こう、素敵な女性だから、というか」
 相応しいとか素敵とか、頭で思うことがあるにせよ普段口にはしなさそうな言葉が出てきてしまいました。いや、素敵についてはさっき清さんの部屋で出てきたような気もしますけど。
 要するに僕は、栞さんに対してある種の尊敬の念を抱いているわけです。年の差ではなく、人となりを指しての目上扱いというか。
「そっか。えへへ」
 そう思った途端に目上っぽくない可愛らしい笑い方をしてみせる栞さんでしたが、まあそれはそれで大好きです。……ああいや、そこまでストレートに言わなくてもいいじゃないのさ僕。そういう流れだからってさ。
 さてそれで、嬉しがってもらえてはいるようですし、だったらばこういうことになるでしょうか。
「じゃあ、今のままさん付けしてるほうが?」
「ああ、ええと」
 どうやらまたも予想は外れてしまったらしく、栞さんが何か言い難そうな様子に。
 けれど、少し口ごもった後にそれを話す段になると、表情は再びぱっと明るくなりました。
「こうくんが私のこと、さっき言ったふうに想ってくれてるって分かったからさ。だったらもう、それが理由になってるさん付けはいいかなって。さん付けを止めたからって、想ってくれてることが変わるわけじゃないんだし」
「それはもちろんそうですけど」
 でも、もちろんそうだと思うと同時にもう一つ。
「霧原さんがほら、言ってたじゃないですか。呼び方だけっていっても、変わったりしたら中身もそれに合わせて変わっちゃうんじゃないかって」
 今の話に合わせるなら、僕が栞さんを呼び捨てにすることで、さっき思い浮かべた「ある種の尊敬の念」がなくなってしまうのではないだろうか、ということです。
 もちろん本当にそうなることはないでしょうし、それは霧原さんだって分かってはいるんでしょうけど、たとえ実現しない不安だと分かっていても心情的に避けておきたい、ということなのでしょう。
「栞さんは、そんなふうには思わないってことですか?」
「ううん、もちろん思うよ。やっぱりちょっと怖い」
 つまりそれは、霧原さんと同じだということです。けれど栞さんは、さん付けはもういいとさっき言ったばかり。
「でもね、こうくん。そういう不安とこうくんへの信頼のどっちを取るかって言ったら、私は信頼を取るよ」
 ……つまり、呼び方がどうあれ僕は変わらないと。さん付けをやめて呼び捨てになっても、栞さんへの慕い方が変わるようなことはないと。そう信じて、だから僕が「さん付けを止めた方がいいか」と言ったなら、それを受け入れてくれると。
「取るっていうか、取りたいと思うって言ったほうが合ってるんだけどね」
 そう言いながら冗談ぽく笑う栞さんでしたが、一方の僕はもう、冗談に付き合える状態ではありませんでした。
「栞さん――じゃなくて、栞」
 そんな僕の様子にはすぐ気付いたのでしょう、栞さんは笑みを止め、けれど穏やかさだけは残っている表情で、改めて僕を見詰めてきました。
「ん?」
「抱き締めていいですか――じゃなくて、抱き締めていいかな。少しだけ」
「うん」
 呼び方を変えてみた二度の発言が二度とも言い直しをしてしまったというのは格好が付きませんでしたが、しかし格好を付けるためにそうしたわけではないので、それはどうでもいいことです。
 こちらが広げて見せた腕の中へ、迷いなくその身体を納めに来てくれる栞さん。そんな彼女を思い切り抱きしめてから、僕は言いました。
「今日一日だけはこのまま、お試し期間ってことでどうかな。実際にどうするかは後で決めるってことにして」
「ふふっ。うん、それでいいよ。言い難そうにしてるもんね、こうくん」
 まあ、その通り。どうあっても言い難いということであれば、無理に続ける必要があるわけではないのです。だってそりゃあ、別にさん付けより呼び捨てのほうがいいってことではなく、「どっちもいいけどどっちかを選ばないといけない」という話なんですから。
 それは僕と栞さんだけでなく、深道さんと霧原さんもそうだったのでしょう。そしてあちらの場合は、さん付けが結論になったということなのでしょう。
「栞」
「ん?」
「大好きだよ」
「うん、私も」
 取り敢えず、新しい口調でそれだけ言っておきました。格好が付かないことを問題にしていないとはいっても、そりゃあ付けられるものなら付けておきたいところですし。
 ただ、やっぱり自分の口調に対して違和感はありましたし、それに好きだと言うだけで格好が付くことになるのかどうかは正直、疑問の残るところなのですが――しかし口調がどうあれ、そう言いたい気分だったというのは間違いないんですしね。

「まあそうは言っても夕食前なんで、今すぐにとは言いませんけどね」
「あらこーちゃん、女子に夜食を勧めるなんて。太れってことなのかな?」
「ことじゃないです。そもそも、夜食に限定もしてませんし」
 夕飯の時間、いつもの通りにやってきた家守さんと高次さんに件のクッキーを手渡してみたところ、家守さんはそんな反応。そりゃまあ冗談ではあるのでしょうが、しかし女性が相手だとそういうことも考えた方がいいといえばいいということなのでしょう。幽霊である栞さんはいくら食べても太ったりしないんで、これまではそいうことにまるで無頓着でしたけど。
「俺らそれなりに忙しいほうだし、クッキーくらいで太るってことはないと思うけどなあ」
 という意見は同じくクッキーを受け取った高次さんから。言われてみればそりゃそうで、むしろ太るほど食べるほうが難しいような気がします。なんせ休日返上ですし。まあ臨時休業もそれなりにあったりしますけど、そういう日だって遊びに出掛けたりしてるんですし。
「楓さんの場合、太る分の脂肪は胸にいきそうですけどねー」
 という意見は栞さんから。家守さんの体型を見るとそんな気がするのも分からないではないですが、しかし栞さん、何をいきなりおっさんみたいなことを。いや、おっさんみたいだからといって高次さんなら問題ないというわけではないですけど。いやいやその前に、高次さんをおっさん扱いしているわけでもないですけど。
 ともかく、そんなことを言われてしまった家守さんは、しかしニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたかと思うと、素早い動作で栞さんを抱き寄せました。しかも栞さんの顔を、胸にうずめるようにして。
「しぃちゃんが喜んでくれるんだったら、それもアリかもねー」
「…………!」
 胸の間から呻き声を発する栞さんですが、もごもごと聞こえてくるばかりで何を言っているのか全く分かりません。声を出す隙間すらないってどんなですか一体。いや、説明しろってわけじゃないですけど。
「楓、喜坂さん窒息しちゃうから。あとシャツが伸びちゃうから」
 さすがは高次さん、あまり動揺することなく冷静に止めに入ります。冷静さを失いかけていた僕が駄目なだけかもしれませんが、まあそれは置いといて。
「はーい」
 高次さんの言葉に従い、家守さんが栞さんを解放。腕を離すだけで解放なんて言い方をしなきゃならないのは凄いことなのでしょうが、しかしそれについては重ねて説明するようなことでもないでしょう。
 で、解放された栞さん。文字通りもみくちゃにされ、髪がやや乱れてしまっていましたが、それより何より目を引いたのはその呆然とした表情でした。息が詰まって苦しかったでしょうに、その苦しさは欠片も見受けられません。
「だ、大丈夫でしたか?――じゃなくて、大丈夫?」
「すごかった」
「そ、そう」
 ぽかんとした表情のまま、ぽかんとした口調でそれだけを語ってくる栞さん。だからこそ逆にショックの大きさが伝わるというものですが、それより前の時点で話し方を間違えた僕もまた、結構なショックを受けているのでしょう。
「キシシシ、してやったりだね。ところでこーちゃん、なんかしぃちゃんへの態度が変わった――って言うか無理矢理変えたって感じなんだけど、なんかあった?」
「あ、はい」
 問い掛けがあったということで、栞さんに釣られてぽかんとはしていられなくなりました。
「特に何があったってわけでもないですけど、そろそろこんなふうでもいいんじゃなかろうか、って話になって。でもまあ、まだ無理矢理やってるってだけなんですけど」
 これが定着するか、はたまた元通りになるかは、まだ全くの未定なのです。なんせお試し期間なもんで。
「ふーん。いいねえそういうの、高次さんがアタシのことを初めて楓って呼んでくれた時のことを思い出すよ」
 いいねえと言ってもらえたことにほっとしたりもするのですが、しかし話題にすべきはそちらではないのでしょう。そもそも、ほっとするような場面じゃないような気すらしますし。
「いつ頃だったんですか?」
「いやあ、忘れもしないよ。高次さんが実家を出るって決めた日の夜だったねえ。その時は複雑な気分だったけど、今となっちゃあ甘い思い出ってやつかな」
 高次さんが実家を出る。それはただ余所で暮らすというだけでなく、四方院という名を捨てるという意味です。それが自分との今後を想っての行動だということになれば家守さんは嬉しかったでしょうし、同時に心苦しくもあったのでしょう。今はそれこそ、笑って語ってはいますけど。
「あんまり語られると恥ずかしいけど、初めは『家守さん』で、付き合い始めた頃から『楓さん』になって、最後が今の話だね。楓のほうはさん付け止まりだったけど」
 さすがにただの同業者だった頃から呼び捨てだとは思っていませんでしたが、しかしそういう、言ってみれば遠回しな変遷を辿っていたというのは、少しだけながら意外でした。「家守さん」からいきなり「楓」になったほうがイメージ合うような――なんというか、この二人ならそういう面での進展はあっという間だったろうなと思っていたというか。なんせ現在のそのお二人が、
「ん? 不満だってんなら今からでも変えるけど?」
「またまた、分かっててそういうこと言う」
「キシシ、高次さんが飽きさせてくれないからね。こういう遣り取り」
「そりゃあ飽きてないからね、俺が」
 こんな感じなんですから。
「じゃあそろそろ料理のほうに入りますか……って、栞」
「えっ? あっ、いやその」
 呼ばれてこちらを向いた栞さんは、その直前まで自分の胸をまじまじと見下ろしていました。どうしてそうするに至ったかはまあ皆まで言わずとも分かろうというものですが、しかしそこまで気にしなくても。栞さんだってそれなりにはあるほうなんですから。
 不意に成美さんの顔が浮かびましたが、即座に掻き消しておきました。
「りょ、料理料理ー」
「何その掛け声」
 これまでだったら「何ですかその掛け声」となっていたであろうこの台詞、それに比べるとなんだか冷たいような気がしました。がしかし、慣れないが故の考え過ぎなのでしょう。
「さてさて、今日の献立は何かねえ」
 空元気の栞さんはもちろん、それに続いて台所に入る家守さんも、僕が言ったことについてどう思うというふうでもありませんでしたし。
「今日もうちの奥さんを宜しくお願いします、先生」
「いえいえ、こちらこそいつもお世話になりまして」
 というような会話を高次さんが仕掛けてきたのは、家守さんによる栞さんへの意地悪の穴埋めということなのでしょうか? いや、そうじゃなくてもしょっちゅうなんですけどね、こういう遣り取り。
 よし、では行きましょうか。あんまり長いこと家守さんの胸に収まってる栞さんのことを思い返してても仕方ないですし。

「今日は鯵のフライです。……どのくらいぶりでしたっけ、魚料理って」
「んー、こーちゃんとアタシ達じゃあ、そもそもそのへんの感覚って全然違うだろうしなあ」
「ちょっとやらなかっただけでも不安になりますもんね、私達だと」
 そういう意識の差は、やはり出てくるものなのでしょう。なのでしょうが、鯵のフライです。不安があろうがなかろうが、今夜は魚を捌いて頂きます。
 魚料理自体が久しぶりである以上、それより更に期間が空いているのですが、鯵のフライを教えるのは二度目です。しかし鯵のフライとなると、その身の切り分け方は三枚下ろし。さすがに「思い出して作ってください」と言うには少々難しめなので、まずは僕の手本からということに。
「いやー、なんていうかこう、もう、いっそ綺麗だよね。こうもすっすすっすと刃が通ると」
「ですよねえ。私の場合、骨に包丁が引っ掛かっちゃったりしますし」
 そりゃまあお手本である以上は褒められるような動作をしなければいけないわけですが、しかし実際に褒められるとやっぱり照れます。そのおかげで難度が上がってしまっているのは否めませんが、お金を貰って先生役をしている以上、そこに文句は付けられませんとも。まあいつものことなのでそれなりに慣れてもいますし、それに照れている以上、そりゃあ嬉しくもあるわけですし。
 なんてことを考えている間に、お手本終了。いつもながらよくやった僕の両手。
「じゃあ、今のと同じようにやってみてください」
『はーい』
 ……言ってることは不安そうだったけど、躊躇わなくなったなあ。家守さんも栞さんも。
 で、「同じようにやってみてくださいと言われたから」と言わんばかりにすっすすっすと。さすがに掛かる時間まで僕と同じとまでは行きませんでしたが、途中で手間取るようなこともなく、家守さんの言葉を借りるならば綺麗な手捌きなのでした。
「お、しぃちゃんもできた?」
「できちゃいましたね。意外とすんなり」
 この結果には感動です。できるとは思ってなかったとかそういう冷やかしっぽい意味でなく、割と真面目に。
「不思議なもんだねえ、魚捌くの久しぶりだったのに」
「包丁を使うことに慣れたってことなんですかね? ええと、どうでしょうか先生」
 栞さんから質問を受けました。ならば先生として、しっかり答えるべきなのでしょう。
「よくできました」
 あれ、何か言ってること違うなこれ。
 ――しかし、全く違うというわけでもなかったようです。栞さんも家守さんも、満面の笑みを返してくれたのでした。
 ずっと見ていたら、少し涙が滲むくらいはしていたかもしれません。なのであまり余韻には浸らず、次の作業に入ることにしました。どうして涙が滲むのかも、どうしてそれを避けようとしたのかも、自分ですらよく分かりませんでしたが。

『いただきます』
「高次さん高次さん、食べちゃう前にちょっと待ってみようか」
「ん? 何かあるの?」
「別に何もないんだけど、何もないからこそというかさ。その鯵のフライ、どうよ」
「食べようとしてたのを止められて『どうよ』って言われてもなあ」
「味は置いといて、見た目の話だよ」
「見た目? うーん、美味しそうだけど……何か特別にコメントすべき箇所があったりするのかな」
「んっふっふー、それが実はないのだよ」
「ないのかあ」
「ということは、つまり?」
「んー、問題がない――ええと、上手く出来たってこと?」
「その通り。その魚を捌いた時、しぃちゃんともどもこーちゃんに褒められちゃいました」
「ほう、それはそれは」
「二人にやってもらう前に手本を見せるくらいはしましたけど、いざ初めてもらったら僕が横から口やら手やら出すまでもなくできてましたしね。割と難しいんですよ、三枚下ろしって。変に切れちゃって三枚半になっちゃったりとか」
「へえ。いやあ、あれだね。さっさと食べちゃわないでそういうところも見ていくべきなんだろうね。妻が甲斐甲斐しくも料理を勉強してるとなると」
「その奥さんに教えてる側としても、そうしてもらえると嬉しいです。――ああでも僕のことはお構いなく、奥さんのほうをたっぷり労ってあげてください」
「はっは、そうさせてもらうよ。この場では無理だけどね。楓、照れちゃうだろうから」
「そういう配慮は素直に有難いんだけど、照れちゃうからって理由まで言っちゃったら意味がなくなっちゃうんじゃないかねえ、高次さん」
「だからこそ意味があるってことなんじゃないですかね」
「あら、なかなか酷いこと言ってくれるねこーちゃん。そうなんだろうけどさ」

『ごちそうさまでした』
「実際に味が変わるわけじゃないんだろうけど、それでもやっぱり美味しく感じるもんだね。ああいう話を聞くと」
 合わせた手を離した途端、高次さんからそんな感想が。ああいう話と言われて、その候補に挙がるものといえば、それはやはり三枚下ろしの話なのでしょう。
「ああいう話がなくたって美味しい美味しい言っちゃうんだけどね、高次さんは」
「ああ、まあそれは大目に見てやってもらって」
 家守さんからいつもの突っ込みをいつものようにされてしまう高次さんでしたが、しかしよくよく考えると味についての話を切り出すのもいつも高次さんのような気がします。ということは、何を食べても「美味しい」と言ってはいるものの、高次さんがこの中で最も味を気にしていたりするのかもしれません。
 まあ、何を食べても美味しいと言うっていうのは、僕にだって分からないではないんですけどね。そりゃだって新婚さんですし、その新妻さんと一緒の食事、更にはその新妻さんの手料理ともなれば。僕と栞さんの手も加わってはいますけど。
 で、それはともかく。
「最近はちょくちょくそう思うこともあったんですけど、今回のは決定的でしたね。栞と家守さん、上手になったなって」
 さん付けを忘れずに外せたのは、密かにファインプレーだったりします。
 が、それについての話は食事前にしてあるので、家守さんと高次さんからその件に触れられるようなことはありませんでした。ちょっとだけ、頬が緩んでるように見えなくもなかったですけど。
「嬉しそうだねえ」
「そうですか?」
 その頬が緩んでるように見えなくもないうちの一人、高次さんから、頬が緩んでるよとご指摘が。反射的に疑問形で返してしまいましたが、何も否定したいというわけではなく。
「いや嬉しいですけど、顔に出てます?」
「出てるねえ思いっきり。内面まですっかり先生だな、これは」
「あはは、内面までというか、内面だけというか」
 などと返してみたものの、少なくとも内面が先生になっていることについては認めている自分に気が付きました。
 ああ、まあ、そうなんだろうね。感激のあまり泣きかけてたしね、さっき。
 ……先生にしたって大袈裟なのは否めないんだけどね。魚が捌けるようになったからっていちいち泣いてたら、本当の料理教室の先生とか大変だし。


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