――まず僕は、栞さんのことをある意味で尊敬しているところがあります。もちろん初めのうちは単に僕と栞さんの年齢差を考えてのことだったのですが、現在のさん付けに関しては、それが主だった理由です。
で、今回それを止めて呼び捨てにしてみているのは、そろそろそうしてみてもいいんじゃなかろうかと思ったからです。そう思うに至った発端は大学での深道さん霧原さんとの会話だったのですが、単に僕と栞さんだけの間で考えても、試してみてもいい頃合いではあるんでしょうし。
纏めると、さん付けをするというのは僕の栞さんに対する気持ちの現れで、さん付けをしないというのは僕と栞さんの関係の現れということになります。それぞれ逆に考えれば、それなりに深い関係なのにまださん付けかよとか、年上なのに呼び捨てかよとか、そういう話にもなりはしますけど。
どちらにも理由があり、そして栞さんはどちらでもいいと言ってくれているという、どちらか一方だけを選ぶというのは難しい状況。ですが当然、どちらかを選ばなくてはなりません。その判断材料を探すための半日に渡る「お試し期間」ではあったのですが、結局はそこまで有力な材料は得られませんでした。
強いて言うならば、僕が言葉を頭に浮かべる段階ではまだ「栞さん」だったりすることと、それについて栞さんから「無理をしてるならそれは嫌だ」と言われたことは、材料になり得るのかもしれません。けれどそれは結局慣れの問題で、ならば時間が解決してくれる問題でもあるのでしょう。まさか自分でも、いつまで経っても慣れられないほど適応力がないとは思いませんし。
というわけで、さあどうしましょう。
「…………」
「…………?」
既に淀みのない会話とはとても言えないほどの間ができてしまっていますが、それでも栞さんは不満そうな様子もなく、僕の返事を待ち続けてくれていました。むしろ顔色を窺う僕が不思議なようで、微笑んだ表情のまま小さく首を傾げたりも。
急かされたりしたらそりゃもちろんですが、これはこれで焦ってしまいます。急ぐ必要はないにしても、できるだけ早く答えを知らせたい心境に陥るというか。答えがどちらであるにせよ、喜んではもらえそうですし。
――と思ったその時、ふと閃くことがありました。
「やっぱり、『栞さん』にします」
「そう? ふふ、半日ぶりだねその呼び方」
その半日ぶりというのが大きいのか、さん付けをするかしないかはどっちでもいいと言っていた割には、嬉しそうにしている栞さんなのでした。
「でも、なんでそっちにしたの? やっぱり話し難いから?」
「それもほんのちょっとはありますけど、まあそこまで気にはしてませんかね」
さっきまでの話し方が息苦しかったというわけではありませんが、しかし溜息が出てしまいそうになるほどに落ち着きます。
「『たった半日だからさん付けしないのに慣れてない』とか僕と栞さんの年齢とか、そういうのを抜きにして考えても、こっちのほうが僕に合ってるんだろうなって思ったんです」
「ふうん?」
質問はそこで区切らせる栞さんでしたが、しかしその顔には「なんでそう思ったの?」と書いてあるようでした。尋ねる程のことでもないと思っているのか、それとも尋ねなくても僕が自分から話すと思っているのか――どちらにしても、こう思ってしまった以上は話すんですけどね。思わなくても話したんでしょうけど。
「言うまでもないことですけど、僕は栞さんが好きです」
「え? う、うん」
驚いた様子の栞さん。いきなりこんなこと言われたらそうなるのが普通なのでしょうが、しかし説明のためには仕方がないのです。
「で、その好きって気持ちなんですけど、上からか下からか、それとも横からかって言われたら、下からなんですよ。だから下から見上げる感じで『栞さん』です。……いや、栞さんとしては横からのほうがいいだろうなとは思うんですけど、こればっかりはどうしようもないというか」
「下から……一応訊くけど、それって年のことがあるから?」
そうでないというのは、これまでの話から分かり切ったことではあるのでしょう。それでも一応と称して尋ねてくるというのは、栞さんにとってそれがそうするほど気になることだから、ということでしょうか。
「いえ、中身の問題です。ほら、昼に言ってたじゃないですか。さん付けする理由で、『栞さんがそうするに相応しい素敵な人だから』っていう。あれが一般的な関係だけの話じゃなく、恋人としての関係のほうにも出てたっていうか」
例えば僕は家守さんや高次さん、それに清さん達にもさん付けをしていて、それもやっぱりただ年齢だけの話でなく、中身も指してのその呼び方だったりします。栞さんへのさん付けも、そこから年齢のことを差し引いただけのことかと思っていたのですが――しかしどうやらそれだけでなく、恋人同士という関係自体においても、僕は栞さんを上に見ているようなのでした。
なんせ顔色を窺って首を傾げられた時、自然に思ったことが「喜ばせられそう」ではなく、「喜んでもらえそう」なんですし。僕は自分を「する側」ではなく、「してもらう側」に位置付けていたのです。自分でも気付かないうちに。
「そっかあ」
「嫌ですか? 下からっていうのは、やっぱり」
「ん? ううん、そんなことはないよ。気付いたのが今だったってだけで、実際には前からそうだったんでしょ? 今までの付き合い方で不満に思うようなところがあるわけじゃないもん、私」
間の抜けた話ではありますが、しかしそれはその通りなのでしょう。これまで何とも思っていなかったのにそれを知った途端に嫌がり始めるというのは、ものにも依るでしょうがおかしな話ではあるんでしょうし。
「だから、それはそれでいいんだけど……ええと、こうくん。一つだけ訊いてもいい?」
「何ですか?」
仕切り直された装いなうえ、直った後にはやや硬くなり気味な雰囲気が。はて、今の僕の決断に何か重要な問題でもあったでしょうか?
「こうくんが下からってことは、私は上からってことになるのかな。もちろん嫌ってわけじゃないんだけど、その、全然そんなつもりなかったら、ちょっと緊張しちゃうような」
ああ、そういう。
そうですよね、栞さんは自分が上だなんてまず間違いなく思ってないんでしょうし。
「いやいや、合わせてもらわなくても問題ないですよ。僕も今まで栞さんが上からだったなんて思ってませんし、さっき栞さんが言ったことですけど、その付き合い方に不満を持ったわけでもないですし。これまで通りにしてもらえたら、それが一番気が楽です。……あと、嬉しいです」
「そっか。よかった」
冗談ではない本気の溜息を吐きながら、栞さんは胸を撫で下ろしていました。まあ、気にする人ですよね。そういうこと。
「さん付けするかどうか、どっちもいいからどっちでもいいって言ってたのに、それでもやっぱり嬉しくなっちゃうな。こうなって良かったなって」
その言葉に対して僕は、何も言わずに栞さんの肩を抱き寄せました。そういう感想を持ってくれて、それを言葉にして伝えてくれる栞さんが、とても愛おしかったのです。
――それから少し、一分にも満たない少しの間だけですが、黙って寄り添っていました。
「ねえ、こうくん」
すると数十秒ぶりに、栞さんが声を掛けてきました。
「でも私も、時々は下になるんだよ? こうくんに何か、頼るようなことがあった時に」
「そうですね。僕もああいう時は、上になってるような気がします。調子に乗ってるってところがあるかないかと言われたら、やっぱりあるんでしょうし」
すると栞さん、くすりと笑いました。つまりは、笑うようなことだったのでしょう。どういう意味での笑いなのかも、分かっているつもりです。
「そういう時の私も、よろしくね。今回はこうくんに頼らないって決めたけど」
「はい。そういうことになったからにはもう、毛ほども頼られません」
というのはもちろん誇張した言い方なのですが、しかし今のところはそういうつもりで臨むのが正しいのでしょう。栞さんがわざわざこのことを僕に話したのも、こういう対応を求めてのことなんですし。
……今の暮らしを始めてから、一度も帰っていない自宅。僕だって同じではあるのですが、「帰らない」と「帰れない」では、比べる対象にならないほどの差があります。
「帰らない」ではなく、「帰れない」栞さん。それがもし、今回のことで帰るという結論が出たのならば、その時は家守さんと高次さんの助けを受けることになるんでしょう。ご両親と向き合えるように。
ただ家に上がるというだけでなく、帰るというのはそういうことなのでしょうから。
「…………」
抱き寄せていた肩。それだけでは足りなくなってしまった僕は、肩だけでなく身体ごと、栞さんを抱き締めました。
「こうくん?」
その向こうに何かしらの感情があると察したのでしょう。栞さんが、僕の名前を呼びました。名前というよりは、愛称ですが。
「頑張ってください、栞さん」
栞さんは、不幸せでした。今でこそ周囲のみんなのおかげで――もちろん、そこには僕も含まれていて――幸せな生活を送れているのでしょうが、それでもやっぱり、不幸せでした。
そんな栞さんが今回、自力で幸せを手に入れようとしています。家に帰るという結論に至り、それが成功すれば幸せなのはもちろんとして、たとえ家には帰らないという結論に至ったとしても、その結論が出せたこと自体から、決して少なくはない幸せを得るのでしょう。
だから、頑張ってください。応援しかできませんが、応援だけはしていますから。ご両親に「あり得ない存在」である今の自分を伝えることも、ご両親と距離を置き続ける決断をすることも、どちらも辛い選択ではあるでしょうが、それでも応援だけはしていますから。
「うん」
抱き返してくれる栞さんの腕は、ふわりと優しい力加減でした。これでは、どちらが元気付けられているのか分かったものではありません。
けれど、それはさっき確認したばかりのこと。情けないような気もしますが、しかしそんな気がしようが何だろうが、僕はこういう立ち位置なのです。栞さんとの関係においては。
「年の差なんですかね、やっぱり」
「ん?」
「なんで僕、自分でも認めるくらいに下なんだろうかなって。――ああ、そのまま年齢のことを言ってるわけじゃないですよ? それに比例した、こう……人生経験の差というか」
栞さんは年齢を気にしているらしいのでそんなふうに言ってみましたが、しかし何も誤魔化しというわけでなく、それが本音でもあります。ただ相手のほう年上ってだけだったら、こうはなってないと思うのです。
すると栞さん、くすくすと笑ってから言いました。
「そんなになるほど差があるわけでもないと思うけどなあ。十何歳年上とかならともかく、たった四年だよ? それに、そこまで豊富な経験があるってわけでもなかったしさ」
笑ったまま言いましたが、しかしそれは、多くを病院の中で過ごしたということを言っているのでしょう。笑って話してもらえるというのはそりゃあもう嬉しいのですが、しかしそれだけというわけにもいきません。ちょっとくらいは悲しいです、そりゃあ。
「経験することがない分、一人でいろいろ考えはしたかな。嫌なこととか良くないこととかも、いっぱい考えたよ。何もなくて暇だったし、その何もないことに腹を立てたりもしてたしね」
「そこからこうなれるから凄いんですよ、栞さんは。その思い出を捨てたんじゃなくて、ちゃんと乗り越えて」
「だといいんだけどね。……そうなのかな、私。そうなるつもりではあったけど、ちゃんとそうなれてる?」
「それは僕が保証します。というか、違ってたら恥ずかしいじゃないですか。見当違いなことに感心して惚れ込んだなんて」
冗談めかした言い方ではありますが、これもやっぱり本音だったりします。そうなったら恥ずかしいどころか、怖いです。とても。
「分かった。信じるよ、こうくんのこと。そんなに凄いんだったら今回も頑張れるよね、私」
「はい」
僕に確認するまでもなく、あなたはそういう人ですから。
たった四年の差ですけど、でもたった四年の差なのに凄いと思えてしまうほどの、立派な人生の先人ですから。
「ありがとう」
言いながら、栞さんは肩口に顔をぎゅっと押し付けてきました。隙間から僅かに窺える微笑んだ口の端を確認してから、僕はその頭に手を伸ばし、栗色の髪に触りました。
さらさらと指の間をすり抜けていくこの髪は、見えない速度で少しずつ少しずつ、時間と共に伸びています。それが嬉しくて、栞さんとそうなれたことが嬉しくて、僕も栞さんの肩に頭を預けることにしました。
「ありがとう、こうくん」
人として、そして恋人としても、尊敬できる人。
僕にとってのそれが栞さんで、本当によかった。
で、今回それを止めて呼び捨てにしてみているのは、そろそろそうしてみてもいいんじゃなかろうかと思ったからです。そう思うに至った発端は大学での深道さん霧原さんとの会話だったのですが、単に僕と栞さんだけの間で考えても、試してみてもいい頃合いではあるんでしょうし。
纏めると、さん付けをするというのは僕の栞さんに対する気持ちの現れで、さん付けをしないというのは僕と栞さんの関係の現れということになります。それぞれ逆に考えれば、それなりに深い関係なのにまださん付けかよとか、年上なのに呼び捨てかよとか、そういう話にもなりはしますけど。
どちらにも理由があり、そして栞さんはどちらでもいいと言ってくれているという、どちらか一方だけを選ぶというのは難しい状況。ですが当然、どちらかを選ばなくてはなりません。その判断材料を探すための半日に渡る「お試し期間」ではあったのですが、結局はそこまで有力な材料は得られませんでした。
強いて言うならば、僕が言葉を頭に浮かべる段階ではまだ「栞さん」だったりすることと、それについて栞さんから「無理をしてるならそれは嫌だ」と言われたことは、材料になり得るのかもしれません。けれどそれは結局慣れの問題で、ならば時間が解決してくれる問題でもあるのでしょう。まさか自分でも、いつまで経っても慣れられないほど適応力がないとは思いませんし。
というわけで、さあどうしましょう。
「…………」
「…………?」
既に淀みのない会話とはとても言えないほどの間ができてしまっていますが、それでも栞さんは不満そうな様子もなく、僕の返事を待ち続けてくれていました。むしろ顔色を窺う僕が不思議なようで、微笑んだ表情のまま小さく首を傾げたりも。
急かされたりしたらそりゃもちろんですが、これはこれで焦ってしまいます。急ぐ必要はないにしても、できるだけ早く答えを知らせたい心境に陥るというか。答えがどちらであるにせよ、喜んではもらえそうですし。
――と思ったその時、ふと閃くことがありました。
「やっぱり、『栞さん』にします」
「そう? ふふ、半日ぶりだねその呼び方」
その半日ぶりというのが大きいのか、さん付けをするかしないかはどっちでもいいと言っていた割には、嬉しそうにしている栞さんなのでした。
「でも、なんでそっちにしたの? やっぱり話し難いから?」
「それもほんのちょっとはありますけど、まあそこまで気にはしてませんかね」
さっきまでの話し方が息苦しかったというわけではありませんが、しかし溜息が出てしまいそうになるほどに落ち着きます。
「『たった半日だからさん付けしないのに慣れてない』とか僕と栞さんの年齢とか、そういうのを抜きにして考えても、こっちのほうが僕に合ってるんだろうなって思ったんです」
「ふうん?」
質問はそこで区切らせる栞さんでしたが、しかしその顔には「なんでそう思ったの?」と書いてあるようでした。尋ねる程のことでもないと思っているのか、それとも尋ねなくても僕が自分から話すと思っているのか――どちらにしても、こう思ってしまった以上は話すんですけどね。思わなくても話したんでしょうけど。
「言うまでもないことですけど、僕は栞さんが好きです」
「え? う、うん」
驚いた様子の栞さん。いきなりこんなこと言われたらそうなるのが普通なのでしょうが、しかし説明のためには仕方がないのです。
「で、その好きって気持ちなんですけど、上からか下からか、それとも横からかって言われたら、下からなんですよ。だから下から見上げる感じで『栞さん』です。……いや、栞さんとしては横からのほうがいいだろうなとは思うんですけど、こればっかりはどうしようもないというか」
「下から……一応訊くけど、それって年のことがあるから?」
そうでないというのは、これまでの話から分かり切ったことではあるのでしょう。それでも一応と称して尋ねてくるというのは、栞さんにとってそれがそうするほど気になることだから、ということでしょうか。
「いえ、中身の問題です。ほら、昼に言ってたじゃないですか。さん付けする理由で、『栞さんがそうするに相応しい素敵な人だから』っていう。あれが一般的な関係だけの話じゃなく、恋人としての関係のほうにも出てたっていうか」
例えば僕は家守さんや高次さん、それに清さん達にもさん付けをしていて、それもやっぱりただ年齢だけの話でなく、中身も指してのその呼び方だったりします。栞さんへのさん付けも、そこから年齢のことを差し引いただけのことかと思っていたのですが――しかしどうやらそれだけでなく、恋人同士という関係自体においても、僕は栞さんを上に見ているようなのでした。
なんせ顔色を窺って首を傾げられた時、自然に思ったことが「喜ばせられそう」ではなく、「喜んでもらえそう」なんですし。僕は自分を「する側」ではなく、「してもらう側」に位置付けていたのです。自分でも気付かないうちに。
「そっかあ」
「嫌ですか? 下からっていうのは、やっぱり」
「ん? ううん、そんなことはないよ。気付いたのが今だったってだけで、実際には前からそうだったんでしょ? 今までの付き合い方で不満に思うようなところがあるわけじゃないもん、私」
間の抜けた話ではありますが、しかしそれはその通りなのでしょう。これまで何とも思っていなかったのにそれを知った途端に嫌がり始めるというのは、ものにも依るでしょうがおかしな話ではあるんでしょうし。
「だから、それはそれでいいんだけど……ええと、こうくん。一つだけ訊いてもいい?」
「何ですか?」
仕切り直された装いなうえ、直った後にはやや硬くなり気味な雰囲気が。はて、今の僕の決断に何か重要な問題でもあったでしょうか?
「こうくんが下からってことは、私は上からってことになるのかな。もちろん嫌ってわけじゃないんだけど、その、全然そんなつもりなかったら、ちょっと緊張しちゃうような」
ああ、そういう。
そうですよね、栞さんは自分が上だなんてまず間違いなく思ってないんでしょうし。
「いやいや、合わせてもらわなくても問題ないですよ。僕も今まで栞さんが上からだったなんて思ってませんし、さっき栞さんが言ったことですけど、その付き合い方に不満を持ったわけでもないですし。これまで通りにしてもらえたら、それが一番気が楽です。……あと、嬉しいです」
「そっか。よかった」
冗談ではない本気の溜息を吐きながら、栞さんは胸を撫で下ろしていました。まあ、気にする人ですよね。そういうこと。
「さん付けするかどうか、どっちもいいからどっちでもいいって言ってたのに、それでもやっぱり嬉しくなっちゃうな。こうなって良かったなって」
その言葉に対して僕は、何も言わずに栞さんの肩を抱き寄せました。そういう感想を持ってくれて、それを言葉にして伝えてくれる栞さんが、とても愛おしかったのです。
――それから少し、一分にも満たない少しの間だけですが、黙って寄り添っていました。
「ねえ、こうくん」
すると数十秒ぶりに、栞さんが声を掛けてきました。
「でも私も、時々は下になるんだよ? こうくんに何か、頼るようなことがあった時に」
「そうですね。僕もああいう時は、上になってるような気がします。調子に乗ってるってところがあるかないかと言われたら、やっぱりあるんでしょうし」
すると栞さん、くすりと笑いました。つまりは、笑うようなことだったのでしょう。どういう意味での笑いなのかも、分かっているつもりです。
「そういう時の私も、よろしくね。今回はこうくんに頼らないって決めたけど」
「はい。そういうことになったからにはもう、毛ほども頼られません」
というのはもちろん誇張した言い方なのですが、しかし今のところはそういうつもりで臨むのが正しいのでしょう。栞さんがわざわざこのことを僕に話したのも、こういう対応を求めてのことなんですし。
……今の暮らしを始めてから、一度も帰っていない自宅。僕だって同じではあるのですが、「帰らない」と「帰れない」では、比べる対象にならないほどの差があります。
「帰らない」ではなく、「帰れない」栞さん。それがもし、今回のことで帰るという結論が出たのならば、その時は家守さんと高次さんの助けを受けることになるんでしょう。ご両親と向き合えるように。
ただ家に上がるというだけでなく、帰るというのはそういうことなのでしょうから。
「…………」
抱き寄せていた肩。それだけでは足りなくなってしまった僕は、肩だけでなく身体ごと、栞さんを抱き締めました。
「こうくん?」
その向こうに何かしらの感情があると察したのでしょう。栞さんが、僕の名前を呼びました。名前というよりは、愛称ですが。
「頑張ってください、栞さん」
栞さんは、不幸せでした。今でこそ周囲のみんなのおかげで――もちろん、そこには僕も含まれていて――幸せな生活を送れているのでしょうが、それでもやっぱり、不幸せでした。
そんな栞さんが今回、自力で幸せを手に入れようとしています。家に帰るという結論に至り、それが成功すれば幸せなのはもちろんとして、たとえ家には帰らないという結論に至ったとしても、その結論が出せたこと自体から、決して少なくはない幸せを得るのでしょう。
だから、頑張ってください。応援しかできませんが、応援だけはしていますから。ご両親に「あり得ない存在」である今の自分を伝えることも、ご両親と距離を置き続ける決断をすることも、どちらも辛い選択ではあるでしょうが、それでも応援だけはしていますから。
「うん」
抱き返してくれる栞さんの腕は、ふわりと優しい力加減でした。これでは、どちらが元気付けられているのか分かったものではありません。
けれど、それはさっき確認したばかりのこと。情けないような気もしますが、しかしそんな気がしようが何だろうが、僕はこういう立ち位置なのです。栞さんとの関係においては。
「年の差なんですかね、やっぱり」
「ん?」
「なんで僕、自分でも認めるくらいに下なんだろうかなって。――ああ、そのまま年齢のことを言ってるわけじゃないですよ? それに比例した、こう……人生経験の差というか」
栞さんは年齢を気にしているらしいのでそんなふうに言ってみましたが、しかし何も誤魔化しというわけでなく、それが本音でもあります。ただ相手のほう年上ってだけだったら、こうはなってないと思うのです。
すると栞さん、くすくすと笑ってから言いました。
「そんなになるほど差があるわけでもないと思うけどなあ。十何歳年上とかならともかく、たった四年だよ? それに、そこまで豊富な経験があるってわけでもなかったしさ」
笑ったまま言いましたが、しかしそれは、多くを病院の中で過ごしたということを言っているのでしょう。笑って話してもらえるというのはそりゃあもう嬉しいのですが、しかしそれだけというわけにもいきません。ちょっとくらいは悲しいです、そりゃあ。
「経験することがない分、一人でいろいろ考えはしたかな。嫌なこととか良くないこととかも、いっぱい考えたよ。何もなくて暇だったし、その何もないことに腹を立てたりもしてたしね」
「そこからこうなれるから凄いんですよ、栞さんは。その思い出を捨てたんじゃなくて、ちゃんと乗り越えて」
「だといいんだけどね。……そうなのかな、私。そうなるつもりではあったけど、ちゃんとそうなれてる?」
「それは僕が保証します。というか、違ってたら恥ずかしいじゃないですか。見当違いなことに感心して惚れ込んだなんて」
冗談めかした言い方ではありますが、これもやっぱり本音だったりします。そうなったら恥ずかしいどころか、怖いです。とても。
「分かった。信じるよ、こうくんのこと。そんなに凄いんだったら今回も頑張れるよね、私」
「はい」
僕に確認するまでもなく、あなたはそういう人ですから。
たった四年の差ですけど、でもたった四年の差なのに凄いと思えてしまうほどの、立派な人生の先人ですから。
「ありがとう」
言いながら、栞さんは肩口に顔をぎゅっと押し付けてきました。隙間から僅かに窺える微笑んだ口の端を確認してから、僕はその頭に手を伸ばし、栗色の髪に触りました。
さらさらと指の間をすり抜けていくこの髪は、見えない速度で少しずつ少しずつ、時間と共に伸びています。それが嬉しくて、栞さんとそうなれたことが嬉しくて、僕も栞さんの肩に頭を預けることにしました。
「ありがとう、こうくん」
人として、そして恋人としても、尊敬できる人。
僕にとってのそれが栞さんで、本当によかった。
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