「そ、そうか」
この状況に慣れたのは成美さんも同じようで、これまた大吾にこのルールを押し付けた時の気力はなく。
「そうだな、すまなかった怒橋。大人気なかった。……もう、いいぞ」
言われるや否や大吾は立ち上がり、僕達のほうを見る。ならばこちらに来るのかと思いきやしかし、座ったままの成美さんを見下ろすとその傍らの湯の中へ手を突っ込み、「オマエも来い」とその手首を掴んで引っ張り上げました。
「なな、怒橋、急に何を」
「そういう事気にし過ぎなんだよオマエは。誰かと喋ってりゃ紛れんだろ」
目を丸くする成美さんとふてくされたような大吾のギャップに頬が緩みそうになりますが、それを最も間近で見た椛さんは緩むどころか全開のにやにや顔でした。
「さっすが彼氏、分かってるんだねえそういうとこ」
「痛い目見てますからね、何度も何度も」
そう言われた成美さんはしょげたような顔になってしまいましたが、まるで気にしないように大吾の肩を叩いた椛さんは満足そうに孝治さんの隣へ戻っていきました。大吾はと言うと嬉しそうでかつ苦々しそうという、半端な表情でしたが。
「つーわけで、混ぜてもらうぞ」
「うん、いらっしゃい」
僕と同じように一部始終を捉えていた栞さんは、にっこりと首を傾けて了承。ここまで来るともう、初めのうちに恥ずかしがってたのなんて演技なんじゃないかとすら思えてしまう。未だに気まずそうな成美さんが並んだおかげで余計に。
「そもそもなんでここ、混浴なんてあんだろうな。オレが言うのは筋違いだろうけど」
ざぶりと腰を落ち着けた大吾は、混ぜてもらうどころか自分から話題を振ってきました。まあ成美さんの気を紛らわせるためだとはっきりと言ってるんだから、そう来てもおかしくはないんだけど。
「僕も同罪なので、ここは口を噤ませてもらいます」
大吾の口調からして、この話題は混浴の批判を目的としている。つまりは成美さんが落ち込む事になった原因を批判するという事で、ならばスケベ心が混じる危険大な男視点からの発言は控えたほうがいいだろう。火に油を注ぐだけだろうし。
「うーん、やっぱりこういう場所が欲しい人もいるからじゃないかな? 変に意識しなかったらほら、楓さん達みたいにお喋りだってできるんだし」
と栞さんが言うので、大人集団のほうを見てみる。
お喋りどころか、全員が黙ってこっちを見ていました。やっぱり成美さんのご機嫌が気になるという事なんだろうけど、それはともかく「あれ?」ととぼけた声を上げる栞さんはとても可愛らしい。いや、そういう場面じゃないんでしょうけど。
「まあ確かに、わたし達も今こうして会話をしている事だしな」
続いた成美さんの表情には、僅かに笑みの色が。さすがは栞さん。
「しかし喜坂は肝が据わっているな。そういう考え方ができるとは言え、どうしてそう平然としていられるのだ? しかも日向の前で。……わたしなんかは、つまらん意地を張っただけの事だし」
「だって孝一くん、栞以上に恥ずかしがっちゃうんだもん。相当無理してこっちに来たのにちっともこっち見てくれないなんて、それはそれで気分が良くないです」
さっきも言われた事だった。しかしそれも真正面からじろじろ見られるよりはましだと言われていて――ううむ、さじ加減が難しそうだ。
「ふむ、そういうものなのか……」
成美さんは僕が苦心するその内容に随分と納得がいったらしく、それ以上はもう何も言いませんでした。しかしそこで見せたふっと身体の力が抜けたようなその憂いとも取れなくない表情と佇まいは、やましさ抜きで考えても「実に綺麗」だとしか。ついつい見惚れてしまいそうになるものの、そこはその彼氏と自分の彼女の眼前。なんとか堪える。
もちろん栞さんだって負けないくらいに綺麗なのは自信を持って言い切れるのですが、それはさっき大吾が成美さんに言っていたのと同じ事。自発的に拷問に掛かりに行くようなものなので、見はしても見惚れはしないよう、こちらもなんとか自制を利かせておくのでした。友人の彼女(結局は友人)と自分の彼女じゃあ生々しさが段違いなんですよこれが。
そういったやや危険なスパイスが効いていた事もあり、しかしそこへ風呂というリラックスできる場所である事も加わって疲れるんだか落ち着くんだかよく分からない状況の中、取り敢えず楽しい事だけは間違いのない時間を過ごす。そのうちに大人側と寄り集まって話をするようにもなったんですが、家守さん並びに椛さんがおわしますので多少セクシャルな話なんかも振られるわけです。まあ要はいつもの意地悪なんですけど、こんな格好の時にそれは本気で勘弁してください。いや、この人達的にはこんな格好だからこそなのか。
――そんなこんなで楽しんでるうちに小一時間が経過していたのですが、浴場には時計がなかったのでそれに気付いたのは脱衣所に戻ってからなのでした。二度風呂にしては長かったかなあ。そう言えば、ちょっと体がだるいような。
「部屋で休む? 孝一くん」
「そうします……」
時間を経る毎に倦怠感は増していき、廊下で男女が再集結する頃にはもうフラフラでした。「ちょっとだるいような」どころじゃないです。完璧に湯当たりです。お湯はもちろん艶めかしい女体にものぼせちゃったんだね。とか言ってる場合じゃないですね。
「オレはアイツ等の面倒見に清サンの部屋だな。成美と喜坂はどうすんだ?」
一足先にこの場を去る大人さん達を見送ってから、大吾が言う。家守さん達はこの後孝治さん達の部屋で酒盛りらしく(と言ってもお酒が駄目な家守さんはジュースだそうですが)、大吾は清さんからジョン達のお世話を仰せ付かったのでした。
「わたしは一緒に部屋に行くぞ」
元々風呂の中で耳を出す予定は無く、大人サイズの体に合う浴衣は持ってきていなかったという事なのでしょう。「女湯」ののれんをくぐって出てきた成美さんはもう、小さい成美さんなのでした。言ったら怒られそうですけどかなり可愛いです。
「栞は……どうしようかな」
同じく浴衣姿で迷っているらしい栞さんはこちらの顔を心配そうに窺ってくるものの、僕からは何も言わない。栞さんは頼めば僕と一緒にいてくれるんだろうし実際にそうであって欲しいけど、自分の口からそれを申し込むのはなんだか気が引けた。ぐったりしてる奴なんかと一緒にいたって面白くも何ともないだろうから。
でももし、栞さんの側から申し込まれたら――
「孝一くんと一緒にいるよ」
――断われませんよねやっぱり。
男子部屋。だけど今は僕と栞さんだけ。
「すいません、付き添ってもらっちゃって」
「いいよいいよ。栞はもともと、楓さんが言ってた部屋割りに賛成だったし」
そういう意味ではないんですけどねとは言い出せず、一方でそうだったんですかとも思いながら、しかし弱り切った僕は苦笑するしかない。
休むと言っても床に寝転んでるだけで良かったんだけど、栞さんが布団を敷いてくれたので今はその上に横になっています。まだ温まっていない敷き布団はひんやりして、温まり過ぎた体には気持ちが良い。
「でも、びっくりだよね。混浴を作ったのが覗き防止のためだなんて」
「ですね」
その混浴内での家守さん発言によると、男湯と女湯しか設けられてなかった時は度々覗きが発生していたそうです。ここが幽霊専門の旅館である以上、塀も何もあってないようなものなので仕方ないと言えなくもないのですが。それについて「男のエロ心は凄まじいね」「除きなんてしたら即ばれると分かっててもやっちゃうんだもんね」等々耳の痛い話になりもしましたが、まあそれはそれとして。
覗きが発生するくらいなら最初からそういう場を設ければいいじゃない、というのがあの混浴の建設理念なんだそうです。なんとも大胆な話ですね。
「最初から見られるって分かってたら意外となんとかなるものなんだね。孝一くんや大吾くんとあんなに普通に喋れるなんて、自分でも思わなかったよ」
「それはまあ個人差もあるでしょうけどね」
初めから恥じらいも何も無かった家守さんと椛さん、少し経ってから馴染んだ栞さん、そして怒ったり落ち込んだりと恥じらい以外でも忙しかった成美さん。
今頃あっちでも、こんな話になってたりするのかな?
「なんかあれだな。そのYUKATAって、NORMALな服に比べてかなり隙間だらけだよな」
「だから何だってんだよ。つーか、なんで浴衣の発音が妙なんだよ」
「ワウ」
「いや、なんとなくだゼ。だから何って大吾お前、なんとも思わねえのか? 人間の男って確かそういうモンなんだろ?」
「人間って難しいですね。私も生きていた頃は自分の皮くらい脱ぎましたけど」
「いや、それは……つーかサタデーてめえ! こんな、本人いる前で言う事じゃねえだろが!」
「え、わたしか?」
「HAHHAAAAAA! そんなもん知ったこっちゃねえな。俺様植物だし? 人間どころか動物ですらねえしぃ? 風に抱かれて雨に潤されて土に育まれる『だけ』の儚いお花様なんだゼ?」
「ど! こ! が! 儚いだこの未来のダンシングフラワー野郎が! 花びらのてっぺんから根っこの先までオマエにそんな要素ありゃしねえだろが!」
「花びらの先くらいにはあって欲しかったゼこの野郎!」
「ワンッ! ワンッ!」
「哀沢さん、儚いって具体的にはどんな感じなんでしょう?」
「サタデーには無いものらしいな、少なくとも。ふふっ」
「哀沢さんからもなくなりましたね」
「――ん?」
「今まで、何となくそんな感じだったんですけど」
「そうか。では、馬鹿者二人が落ち着いたら礼でも言わせてもらうよ。……む? 今、ノックの音がしたような」
「しましたね。誰でしょうか?」
「あ、ごめんね孝一くん。体調が良くないからここにいるのに騒がしくしちゃって」
話が一段落を迎えたところで、はっとしたように口を抑えた栞さんは眉を寄せてそう謝ってきた。なんとなく、笑ってしまう。
「そんな、会話すら億劫になるほどの重症でもないですから。それが駄目だったら一人にしてもらってますしね、最初から」
と、一人でここにいる状況を想像してみたところ、僕はさっさと眠りに落ちてしまっていた。夕食も入浴も終えたこの状況、もしかしたら明日の朝まで目が覚めないかもしれない。友人同士での宿泊でそれは、勿体無いというものだろう。
「そう? 良かった」
「それに騒がしいって言うなら、壁一枚向こうが相当なんですけど」
「あはは、それもそうだね」
暴れ回ってはいないようだけど、隣の部屋では大吾とサタデーが喧嘩をしているらしい。いやあ、僕達以外にお客さんがいたら苦情ものですね。――なんて思ったその時、コンコンと誰かがドアを叩く音。隣の騒音のおかげで聞こえ辛いけど、この部屋ですよね?
「あ、出るよ」
上体を起こした僕を声で制し、栞さんがドアへ。
「はーい」
「おう、しぃちゃん本当にこっちにいたんだ」
ドアの向こうに立っていたのは家守さんだった。僕がいる部屋からドアまでは近距離かつ一直線なので、ここからでも栞さんの肩越しにその顔が覗いていた。
「ようこーちゃん、旅先の二人っきりで宜しくやってるかい?」
「体がだるくてそれどころじゃないです」
「らしいね。いや、隣でなっちゃんに聞いたんだけどさ。――んでアタシはそんなお邪魔をしに来たわけじゃなくて、お裾分けに来たのさ」
その間も隣の部屋は騒がしいのですが、家守さんのいる辺りから「ガコン」てな感じの低い音。はて、お裾分けと言うからには何か持ってきてくれたのでしょうか。
「まあ適当に選んでよ。全部ジュースだけど、しぃちゃんはお酒のほうがいいかな? そっちは椛達の部屋に行ったら沢山あるけど」
ああ、なるほど。今の状態で冷たい飲み物は非常にありがたいですねえ。
「い、いえ。その、今はちょっと酔っ払っちゃうわけにはいかないんです」
選べという話なので寝たままというわけにもいかず、立ち上がって家守さんのもとへ。するとそのわずかな移動の最中、栞さんが家守さんに顔を近付け、そのまま耳打ちの体勢に入りました。まさかその現場へずかずか歩み寄るわけにもいかず、一旦停止。
「――へえ。それは確かにお酒飲んでる場合じゃないね」
話を聞いた家守さんは、ややトーンを落として頷くのでした。
近くにスーパーでもあるのだろうか。いや、時間帯を考えたらコンビニかな? 家守さんが広げていたビニール袋の印字までは確認しなかったものの、その中に五本ほど入っていた缶ジュースからありがたく好きなものを頂く。当然お礼も言うわけですがしかし、返事代わりに肩をぽんぽんと叩かれたのは一体どういう意味だったんでしょうか。
気にはなってもやっぱり内緒話の内容を尋ねるのもどうかと思うし、そもそも内緒なんだから答えてはもらえないだろう。という事で、大人しく布団に戻る。ジュースがあるから寝転びはしないけど。
「えーと、気分のほうはどう?」
横にならず布団の上に座り込んだだけの僕を見て、体調が良くなったと思ったんだろう。栞さんが唐突にそう尋ねてきた。
しかし唐突というのは内緒話が気になっていたこっちがそう感じただけの話であって、そもそも僕の世話をしにここに来た栞さんからすればずっとそれが念頭にあるんだろうから、唐突だなんて話ではないんだろう。ありがたい事です。
「え? ああ、少しは楽になったと思いますけど」
横になっていた時間はそんなに長くない。だからそれは錯覚なのかもしれないけど、横になっていた事それ自体と隣に栞さんがいるという状況で、気が紛れたというところだろうか。とにかく、気分が楽になったのは事実だった。
「良かった」と微笑んだ栞さんは、次に壁へと目を向ける。
「――あ、隣、収まったみたいだね」
「みたいですね。何であんなに怒鳴りあってたんですかね?」
尋ねたところで栞さんにも分からないのは知ってのうえだったけど、しかし「さあ?」とか「どうしてだろうね?」だとかの返事が返ってくると踏んでいた僕にとって、
「あの、孝一くん。一応訊くけど、前みたいに孝治さんと入れ替わってるって事はないよね?」
という質問返しはあまりにも唐突だった。さっき僕が一方的に唐突だと思ったのとはまた異なる意味で――と言うか、通常の意味での唐突だった。僕でなくとも、どうしてここで孝治さんの話? と首を傾げる事だと思う。
「あれはもう懲りましたよ。……いや、あの時はごめんなさい」
「ああ、あの時の事をほじくり返してるんじゃなくって。じゃあ、孝一くんなんだよね?」
「はい。風呂場ですっ転んだ挙句にのぼせてダウンまでした情けないほうです」
どうして今になって急にそこを気にされているのかは不明ながら、尋ねられたなら答えましょう。もしこれが孝治さんだったら、こんな僕をこき下ろす言い方はしないだろうし。
「じゃああの、ちょっと話があるんだけど……ああでも、気分が元通りになってからのほうがいいかな」
「いや、話だったら今もしてる事ですし。僕は全然構いませんよ?」
もちろん、ここまで改まっているという事は何か重要な話なんだろう。もしかしてさっきの家守さんとの内緒話と関係があるのかな、なんて関連付けてみたりもするけど、とにかく話をするだけなのなら問題はない。
不安そうだった栞さんの表情が僕の返事を受けてにわかに晴れ始めるものの、しかしその時だった。
がちゃん。
「ただいまー」
「ただいま」
ドアの音。男の声。幼い女の子の声。何が起こったのかはまあ考えるまでもないですよね。ああ、これまたいいタイミングで。
ばたん。
「おかえりー」
「おかえりなさい」
ドアの音。僕の声。栞さんの声。起こった事に対応する返事は、こちらの話がぶつ切りにされた事などまるで無かったかのように平静だった。僕はともかく。
隣で大騒ぎしていて、それが収まった途端にご帰宅。空ける暇なんてなかったという事だろう、大吾もそして成美さんも、手に持つ缶ジュースの口は開かれていなかった。
「随分な大騒ぎだったねえ。隣に病人がいるって分かってて」
「んな大層なもんじゃねえだろが。寝てもねえ病人の気遣いなんざする義理ねえな」
寝てないってのは今ここに来て始めて知ったんでしょうに。とは、本当に寝てなかった身としては言い辛い。ちっ。
痛い返しに口が回らなくなる僕に代わり、今度は栞さんが。
「そもそも、どうして喧嘩してたの?」
「喧嘩と言うか――全員総出でわたしに気を遣ってくれたというところだろうな。喧嘩が済んだら『二人仲良くさっさと出て行け』さ」
あちらの面子を考えると、そんな事を言いそうなのはサタデーだ。まさかそのままの言い方ではなかったんだろうから、つまりそれは照れ隠しでそう言い変えたというところだろうか。
「気遣ってって……何を? もしかして、」
「言うな」
栞さんの言葉を遮った成美さんは、下を向いていた。さてその目が正確にはどこへ向けられているのか、皆まで語るのは野暮というものになってしまうんでしょうか。胸ですけど。
暫らく、四人で缶ジュースをちびりちびりと頂きながら与太話など。
大吾と成美さんが戻ってくる直前に「話がある」と前置きして何かを言おうとしていた栞さんはしかしその間、そこに微塵も触れなかった。つまりは僕と二人きりでしたい話という事だろうし、それが分かっていて大吾と成美さんがいるこの場でそれについて尋ねたりするほど、僕は空気が読めない人間ではないと思う。なので当然気にはなるものの、声に出して尋ねる事はできないでいた。
「せっかく来たんだし、ヤモリの旦那サンの顔くらい見かったけどな」
「まあ同感だが……帰ってくるのは夏の終わりだったか? まだまだ先になりそうだな」
「本人がいなくても写真とかくらいならあるんじゃないですか?」
「いや、そういう……ああ、日向は会った事がないんだったか」
あれ、じゃあみんなはもう? ……そう言えば、その辺りの話を聞いた事があるようなないような。
「定平さんに訊いたら見せてもらえたりしないかな? 今日はもう、こんな時間だけど」
部屋には時計がなかったので、その一言にみんなは窓の外を見た。僕も一度はそれに倣い、次に布団の上から這い出して荷物の傍に置いてあった自分の携帯をたぐり寄せ、時刻確認。十時を少し過ぎた辺りだった。確かに野暮用で人を訪ねるには遅い。
「十時か。じゃあまあ写真の事は明日にでも訊いてみるとして、オレ等はどうすんだ? もう暫らくこのままか?」
横から携帯を覗き込んできて写真の件を勝手に終息させた大吾は、何故かその後の言い分が現状に不満を抱えているようだった。そして本人以外の全員がその大吾へ視線を移す。恐らくは僕がそうであるように、栞さんと成美さんもその目は疑問の目なのだろう。
「……何だよ。オレ、そんな変な事言ったか? 一応ここ男二人の部屋だし、女二人は居辛いかもって思っただけだよ。時間もこれだし」
女性二人が小さく含み笑いを溢し、僕は息を吐いた。それをどう捉えたのか、大吾はむすっとして黙り込んでしまう。
「怒るな怒るな。そんな事を気にするお前が可愛らしかっただけだよ」
「フォローになってねえよアホ」
「て言うか、今更じゃない? 家でも成美さんと会ってるんでしょ? 毎晩」
「何!? 怒橋お前、喋ったのかその事を!」
「べ、別段隠す事でもねえだろ。片っぽの部屋しか電気点いてなけりゃ、どうせ誰から見たってバレバレなんだし」
それを聞いて「あ、うん。栞も知ってたよ。楓さんも気付いてたんじゃないかな」と駄目押しが入る。という事は少なくとも毎晩栞さんが203号室へ戻る時間にはまだ会っている最中だという事で、だとしたら現在の十時という時刻だってそこまで気にするほどのものではないと思うんだけど。
「ウチとこういう出先とじゃあ話が違うだろ。なんつーか……なんつーかな」
なんつーかの説明をなんつーかで締め括った大吾と、その隣で毎晩会っていたのがバレバレだった事に俯いてしまっている成美さん。二人揃ってこの調子だと、なんだかこちら側が虐めているような錯覚が。いや、何もしてないはずなんだけど。
見ていて不憫なような、楽しいような。さてこんな時、どういう声を掛けるのが正解なんだろう? と口の端を嫌味な意味で歪めながら考えていると突然、
「ここが男子二人の部屋なのが駄目なんだよね? じゃあ、男子女子一人ずつの部屋にしない?」
栞さんがそんな事を言い放った。
それはもともと(からかい半分ではあっただろうけど)家守さんが提案していた割り振りであり、栞さんもそれに賛成であったと既に聞いていたので、驚きはしなかった。むしろ諸手を挙げる勢いで賛同したいところです。
男同士で話をした時の事を思い返す限り、大吾も賛同の立場ではあるだろう。となるとあとは最後にして最大の壁、成美さんなのですが――
「意外とあっさり決まりましたね」
「だね」
栞さん本人としても意外だったらしい。さすがに驚いてはいたものの、成美さんの口から反論が出てくる事はなかったのです。もちろん僕と大吾から代わりに出るような事もなく、大吾と成美さんは元女子部屋へと移動していったのでした。
「いきなりだったから、孝一くんと大吾くんがどう反応するかちょっと不安だった」
「え、僕達ですか? 僕はむしろ成美さんが気掛かりだったんですけど」
「実は成美ちゃんと二人でそんな話、しててね。はっきりそう言われたわけじゃないけど『これなら言っても大丈夫』って初めから分かってたの。……正直言って、ここまで来て下心の一つもないなんて事、ないだろうから」
ここまで来て、とは恋人同士という立場の事だろうか。それとも今日のこのシチュエーションの事だろうか。やっぱり両方が重なり合っての事だろうか。
でもまあ、それはいいとして。
「……栞さんって、意外と積極的だったりしますか? そういう話に」
「え? う、ううんと……どうだろう。栞、もしかしてちょっと行き過ぎてる?」
「ああいやそのええと、別に非難してるわけじゃ」
そう取り繕いつつ、行き過ぎている事を否定はしない。非難してるわけじゃないというのは本当だけど、今の事とか混浴であっさり状況に適応した事とか、想定外だったと言うか。いや本当、それが悪いだなんて全然思ってないですけど。
「栞さんの言う通り、僕にだってありますし。下心くらい。むしろ持たれてなかったらショックですし」
言いつつ、部屋隅に僕の物と並んで置かれた大吾の荷物を見る。それがここに置いてあるって事は、少なくともこの割り当てのまま明日を迎える気はないという事だろう。と言って、移動に際してそこまで気が回らなかっただけなのかもしれないけど。――だから、いつあっちから大吾が戻ってくるか分からない。あちらから見た栞さんも、それは同じだろう。
「でもその前に」
――あ。うわあ、その前にとか言っちゃったよ。何の前だよ僕。
「二人が戻ってくる前に言ってた話っていうのが気になってるんですけど」
「うん。栞も、それがあったから二人きりになりたかったんだよ」
話の内容は未だに不明なものの、それに対して積極的と取れる言葉。でもその割に、表情と声色からは躊躇うような色が窺えた。……まあ、僕が「その前に」とか言っちゃったから引いてるだけという線もあるけど。
この状況に慣れたのは成美さんも同じようで、これまた大吾にこのルールを押し付けた時の気力はなく。
「そうだな、すまなかった怒橋。大人気なかった。……もう、いいぞ」
言われるや否や大吾は立ち上がり、僕達のほうを見る。ならばこちらに来るのかと思いきやしかし、座ったままの成美さんを見下ろすとその傍らの湯の中へ手を突っ込み、「オマエも来い」とその手首を掴んで引っ張り上げました。
「なな、怒橋、急に何を」
「そういう事気にし過ぎなんだよオマエは。誰かと喋ってりゃ紛れんだろ」
目を丸くする成美さんとふてくされたような大吾のギャップに頬が緩みそうになりますが、それを最も間近で見た椛さんは緩むどころか全開のにやにや顔でした。
「さっすが彼氏、分かってるんだねえそういうとこ」
「痛い目見てますからね、何度も何度も」
そう言われた成美さんはしょげたような顔になってしまいましたが、まるで気にしないように大吾の肩を叩いた椛さんは満足そうに孝治さんの隣へ戻っていきました。大吾はと言うと嬉しそうでかつ苦々しそうという、半端な表情でしたが。
「つーわけで、混ぜてもらうぞ」
「うん、いらっしゃい」
僕と同じように一部始終を捉えていた栞さんは、にっこりと首を傾けて了承。ここまで来るともう、初めのうちに恥ずかしがってたのなんて演技なんじゃないかとすら思えてしまう。未だに気まずそうな成美さんが並んだおかげで余計に。
「そもそもなんでここ、混浴なんてあんだろうな。オレが言うのは筋違いだろうけど」
ざぶりと腰を落ち着けた大吾は、混ぜてもらうどころか自分から話題を振ってきました。まあ成美さんの気を紛らわせるためだとはっきりと言ってるんだから、そう来てもおかしくはないんだけど。
「僕も同罪なので、ここは口を噤ませてもらいます」
大吾の口調からして、この話題は混浴の批判を目的としている。つまりは成美さんが落ち込む事になった原因を批判するという事で、ならばスケベ心が混じる危険大な男視点からの発言は控えたほうがいいだろう。火に油を注ぐだけだろうし。
「うーん、やっぱりこういう場所が欲しい人もいるからじゃないかな? 変に意識しなかったらほら、楓さん達みたいにお喋りだってできるんだし」
と栞さんが言うので、大人集団のほうを見てみる。
お喋りどころか、全員が黙ってこっちを見ていました。やっぱり成美さんのご機嫌が気になるという事なんだろうけど、それはともかく「あれ?」ととぼけた声を上げる栞さんはとても可愛らしい。いや、そういう場面じゃないんでしょうけど。
「まあ確かに、わたし達も今こうして会話をしている事だしな」
続いた成美さんの表情には、僅かに笑みの色が。さすがは栞さん。
「しかし喜坂は肝が据わっているな。そういう考え方ができるとは言え、どうしてそう平然としていられるのだ? しかも日向の前で。……わたしなんかは、つまらん意地を張っただけの事だし」
「だって孝一くん、栞以上に恥ずかしがっちゃうんだもん。相当無理してこっちに来たのにちっともこっち見てくれないなんて、それはそれで気分が良くないです」
さっきも言われた事だった。しかしそれも真正面からじろじろ見られるよりはましだと言われていて――ううむ、さじ加減が難しそうだ。
「ふむ、そういうものなのか……」
成美さんは僕が苦心するその内容に随分と納得がいったらしく、それ以上はもう何も言いませんでした。しかしそこで見せたふっと身体の力が抜けたようなその憂いとも取れなくない表情と佇まいは、やましさ抜きで考えても「実に綺麗」だとしか。ついつい見惚れてしまいそうになるものの、そこはその彼氏と自分の彼女の眼前。なんとか堪える。
もちろん栞さんだって負けないくらいに綺麗なのは自信を持って言い切れるのですが、それはさっき大吾が成美さんに言っていたのと同じ事。自発的に拷問に掛かりに行くようなものなので、見はしても見惚れはしないよう、こちらもなんとか自制を利かせておくのでした。友人の彼女(結局は友人)と自分の彼女じゃあ生々しさが段違いなんですよこれが。
そういったやや危険なスパイスが効いていた事もあり、しかしそこへ風呂というリラックスできる場所である事も加わって疲れるんだか落ち着くんだかよく分からない状況の中、取り敢えず楽しい事だけは間違いのない時間を過ごす。そのうちに大人側と寄り集まって話をするようにもなったんですが、家守さん並びに椛さんがおわしますので多少セクシャルな話なんかも振られるわけです。まあ要はいつもの意地悪なんですけど、こんな格好の時にそれは本気で勘弁してください。いや、この人達的にはこんな格好だからこそなのか。
――そんなこんなで楽しんでるうちに小一時間が経過していたのですが、浴場には時計がなかったのでそれに気付いたのは脱衣所に戻ってからなのでした。二度風呂にしては長かったかなあ。そう言えば、ちょっと体がだるいような。
「部屋で休む? 孝一くん」
「そうします……」
時間を経る毎に倦怠感は増していき、廊下で男女が再集結する頃にはもうフラフラでした。「ちょっとだるいような」どころじゃないです。完璧に湯当たりです。お湯はもちろん艶めかしい女体にものぼせちゃったんだね。とか言ってる場合じゃないですね。
「オレはアイツ等の面倒見に清サンの部屋だな。成美と喜坂はどうすんだ?」
一足先にこの場を去る大人さん達を見送ってから、大吾が言う。家守さん達はこの後孝治さん達の部屋で酒盛りらしく(と言ってもお酒が駄目な家守さんはジュースだそうですが)、大吾は清さんからジョン達のお世話を仰せ付かったのでした。
「わたしは一緒に部屋に行くぞ」
元々風呂の中で耳を出す予定は無く、大人サイズの体に合う浴衣は持ってきていなかったという事なのでしょう。「女湯」ののれんをくぐって出てきた成美さんはもう、小さい成美さんなのでした。言ったら怒られそうですけどかなり可愛いです。
「栞は……どうしようかな」
同じく浴衣姿で迷っているらしい栞さんはこちらの顔を心配そうに窺ってくるものの、僕からは何も言わない。栞さんは頼めば僕と一緒にいてくれるんだろうし実際にそうであって欲しいけど、自分の口からそれを申し込むのはなんだか気が引けた。ぐったりしてる奴なんかと一緒にいたって面白くも何ともないだろうから。
でももし、栞さんの側から申し込まれたら――
「孝一くんと一緒にいるよ」
――断われませんよねやっぱり。
男子部屋。だけど今は僕と栞さんだけ。
「すいません、付き添ってもらっちゃって」
「いいよいいよ。栞はもともと、楓さんが言ってた部屋割りに賛成だったし」
そういう意味ではないんですけどねとは言い出せず、一方でそうだったんですかとも思いながら、しかし弱り切った僕は苦笑するしかない。
休むと言っても床に寝転んでるだけで良かったんだけど、栞さんが布団を敷いてくれたので今はその上に横になっています。まだ温まっていない敷き布団はひんやりして、温まり過ぎた体には気持ちが良い。
「でも、びっくりだよね。混浴を作ったのが覗き防止のためだなんて」
「ですね」
その混浴内での家守さん発言によると、男湯と女湯しか設けられてなかった時は度々覗きが発生していたそうです。ここが幽霊専門の旅館である以上、塀も何もあってないようなものなので仕方ないと言えなくもないのですが。それについて「男のエロ心は凄まじいね」「除きなんてしたら即ばれると分かっててもやっちゃうんだもんね」等々耳の痛い話になりもしましたが、まあそれはそれとして。
覗きが発生するくらいなら最初からそういう場を設ければいいじゃない、というのがあの混浴の建設理念なんだそうです。なんとも大胆な話ですね。
「最初から見られるって分かってたら意外となんとかなるものなんだね。孝一くんや大吾くんとあんなに普通に喋れるなんて、自分でも思わなかったよ」
「それはまあ個人差もあるでしょうけどね」
初めから恥じらいも何も無かった家守さんと椛さん、少し経ってから馴染んだ栞さん、そして怒ったり落ち込んだりと恥じらい以外でも忙しかった成美さん。
今頃あっちでも、こんな話になってたりするのかな?
「なんかあれだな。そのYUKATAって、NORMALな服に比べてかなり隙間だらけだよな」
「だから何だってんだよ。つーか、なんで浴衣の発音が妙なんだよ」
「ワウ」
「いや、なんとなくだゼ。だから何って大吾お前、なんとも思わねえのか? 人間の男って確かそういうモンなんだろ?」
「人間って難しいですね。私も生きていた頃は自分の皮くらい脱ぎましたけど」
「いや、それは……つーかサタデーてめえ! こんな、本人いる前で言う事じゃねえだろが!」
「え、わたしか?」
「HAHHAAAAAA! そんなもん知ったこっちゃねえな。俺様植物だし? 人間どころか動物ですらねえしぃ? 風に抱かれて雨に潤されて土に育まれる『だけ』の儚いお花様なんだゼ?」
「ど! こ! が! 儚いだこの未来のダンシングフラワー野郎が! 花びらのてっぺんから根っこの先までオマエにそんな要素ありゃしねえだろが!」
「花びらの先くらいにはあって欲しかったゼこの野郎!」
「ワンッ! ワンッ!」
「哀沢さん、儚いって具体的にはどんな感じなんでしょう?」
「サタデーには無いものらしいな、少なくとも。ふふっ」
「哀沢さんからもなくなりましたね」
「――ん?」
「今まで、何となくそんな感じだったんですけど」
「そうか。では、馬鹿者二人が落ち着いたら礼でも言わせてもらうよ。……む? 今、ノックの音がしたような」
「しましたね。誰でしょうか?」
「あ、ごめんね孝一くん。体調が良くないからここにいるのに騒がしくしちゃって」
話が一段落を迎えたところで、はっとしたように口を抑えた栞さんは眉を寄せてそう謝ってきた。なんとなく、笑ってしまう。
「そんな、会話すら億劫になるほどの重症でもないですから。それが駄目だったら一人にしてもらってますしね、最初から」
と、一人でここにいる状況を想像してみたところ、僕はさっさと眠りに落ちてしまっていた。夕食も入浴も終えたこの状況、もしかしたら明日の朝まで目が覚めないかもしれない。友人同士での宿泊でそれは、勿体無いというものだろう。
「そう? 良かった」
「それに騒がしいって言うなら、壁一枚向こうが相当なんですけど」
「あはは、それもそうだね」
暴れ回ってはいないようだけど、隣の部屋では大吾とサタデーが喧嘩をしているらしい。いやあ、僕達以外にお客さんがいたら苦情ものですね。――なんて思ったその時、コンコンと誰かがドアを叩く音。隣の騒音のおかげで聞こえ辛いけど、この部屋ですよね?
「あ、出るよ」
上体を起こした僕を声で制し、栞さんがドアへ。
「はーい」
「おう、しぃちゃん本当にこっちにいたんだ」
ドアの向こうに立っていたのは家守さんだった。僕がいる部屋からドアまでは近距離かつ一直線なので、ここからでも栞さんの肩越しにその顔が覗いていた。
「ようこーちゃん、旅先の二人っきりで宜しくやってるかい?」
「体がだるくてそれどころじゃないです」
「らしいね。いや、隣でなっちゃんに聞いたんだけどさ。――んでアタシはそんなお邪魔をしに来たわけじゃなくて、お裾分けに来たのさ」
その間も隣の部屋は騒がしいのですが、家守さんのいる辺りから「ガコン」てな感じの低い音。はて、お裾分けと言うからには何か持ってきてくれたのでしょうか。
「まあ適当に選んでよ。全部ジュースだけど、しぃちゃんはお酒のほうがいいかな? そっちは椛達の部屋に行ったら沢山あるけど」
ああ、なるほど。今の状態で冷たい飲み物は非常にありがたいですねえ。
「い、いえ。その、今はちょっと酔っ払っちゃうわけにはいかないんです」
選べという話なので寝たままというわけにもいかず、立ち上がって家守さんのもとへ。するとそのわずかな移動の最中、栞さんが家守さんに顔を近付け、そのまま耳打ちの体勢に入りました。まさかその現場へずかずか歩み寄るわけにもいかず、一旦停止。
「――へえ。それは確かにお酒飲んでる場合じゃないね」
話を聞いた家守さんは、ややトーンを落として頷くのでした。
近くにスーパーでもあるのだろうか。いや、時間帯を考えたらコンビニかな? 家守さんが広げていたビニール袋の印字までは確認しなかったものの、その中に五本ほど入っていた缶ジュースからありがたく好きなものを頂く。当然お礼も言うわけですがしかし、返事代わりに肩をぽんぽんと叩かれたのは一体どういう意味だったんでしょうか。
気にはなってもやっぱり内緒話の内容を尋ねるのもどうかと思うし、そもそも内緒なんだから答えてはもらえないだろう。という事で、大人しく布団に戻る。ジュースがあるから寝転びはしないけど。
「えーと、気分のほうはどう?」
横にならず布団の上に座り込んだだけの僕を見て、体調が良くなったと思ったんだろう。栞さんが唐突にそう尋ねてきた。
しかし唐突というのは内緒話が気になっていたこっちがそう感じただけの話であって、そもそも僕の世話をしにここに来た栞さんからすればずっとそれが念頭にあるんだろうから、唐突だなんて話ではないんだろう。ありがたい事です。
「え? ああ、少しは楽になったと思いますけど」
横になっていた時間はそんなに長くない。だからそれは錯覚なのかもしれないけど、横になっていた事それ自体と隣に栞さんがいるという状況で、気が紛れたというところだろうか。とにかく、気分が楽になったのは事実だった。
「良かった」と微笑んだ栞さんは、次に壁へと目を向ける。
「――あ、隣、収まったみたいだね」
「みたいですね。何であんなに怒鳴りあってたんですかね?」
尋ねたところで栞さんにも分からないのは知ってのうえだったけど、しかし「さあ?」とか「どうしてだろうね?」だとかの返事が返ってくると踏んでいた僕にとって、
「あの、孝一くん。一応訊くけど、前みたいに孝治さんと入れ替わってるって事はないよね?」
という質問返しはあまりにも唐突だった。さっき僕が一方的に唐突だと思ったのとはまた異なる意味で――と言うか、通常の意味での唐突だった。僕でなくとも、どうしてここで孝治さんの話? と首を傾げる事だと思う。
「あれはもう懲りましたよ。……いや、あの時はごめんなさい」
「ああ、あの時の事をほじくり返してるんじゃなくって。じゃあ、孝一くんなんだよね?」
「はい。風呂場ですっ転んだ挙句にのぼせてダウンまでした情けないほうです」
どうして今になって急にそこを気にされているのかは不明ながら、尋ねられたなら答えましょう。もしこれが孝治さんだったら、こんな僕をこき下ろす言い方はしないだろうし。
「じゃああの、ちょっと話があるんだけど……ああでも、気分が元通りになってからのほうがいいかな」
「いや、話だったら今もしてる事ですし。僕は全然構いませんよ?」
もちろん、ここまで改まっているという事は何か重要な話なんだろう。もしかしてさっきの家守さんとの内緒話と関係があるのかな、なんて関連付けてみたりもするけど、とにかく話をするだけなのなら問題はない。
不安そうだった栞さんの表情が僕の返事を受けてにわかに晴れ始めるものの、しかしその時だった。
がちゃん。
「ただいまー」
「ただいま」
ドアの音。男の声。幼い女の子の声。何が起こったのかはまあ考えるまでもないですよね。ああ、これまたいいタイミングで。
ばたん。
「おかえりー」
「おかえりなさい」
ドアの音。僕の声。栞さんの声。起こった事に対応する返事は、こちらの話がぶつ切りにされた事などまるで無かったかのように平静だった。僕はともかく。
隣で大騒ぎしていて、それが収まった途端にご帰宅。空ける暇なんてなかったという事だろう、大吾もそして成美さんも、手に持つ缶ジュースの口は開かれていなかった。
「随分な大騒ぎだったねえ。隣に病人がいるって分かってて」
「んな大層なもんじゃねえだろが。寝てもねえ病人の気遣いなんざする義理ねえな」
寝てないってのは今ここに来て始めて知ったんでしょうに。とは、本当に寝てなかった身としては言い辛い。ちっ。
痛い返しに口が回らなくなる僕に代わり、今度は栞さんが。
「そもそも、どうして喧嘩してたの?」
「喧嘩と言うか――全員総出でわたしに気を遣ってくれたというところだろうな。喧嘩が済んだら『二人仲良くさっさと出て行け』さ」
あちらの面子を考えると、そんな事を言いそうなのはサタデーだ。まさかそのままの言い方ではなかったんだろうから、つまりそれは照れ隠しでそう言い変えたというところだろうか。
「気遣ってって……何を? もしかして、」
「言うな」
栞さんの言葉を遮った成美さんは、下を向いていた。さてその目が正確にはどこへ向けられているのか、皆まで語るのは野暮というものになってしまうんでしょうか。胸ですけど。
暫らく、四人で缶ジュースをちびりちびりと頂きながら与太話など。
大吾と成美さんが戻ってくる直前に「話がある」と前置きして何かを言おうとしていた栞さんはしかしその間、そこに微塵も触れなかった。つまりは僕と二人きりでしたい話という事だろうし、それが分かっていて大吾と成美さんがいるこの場でそれについて尋ねたりするほど、僕は空気が読めない人間ではないと思う。なので当然気にはなるものの、声に出して尋ねる事はできないでいた。
「せっかく来たんだし、ヤモリの旦那サンの顔くらい見かったけどな」
「まあ同感だが……帰ってくるのは夏の終わりだったか? まだまだ先になりそうだな」
「本人がいなくても写真とかくらいならあるんじゃないですか?」
「いや、そういう……ああ、日向は会った事がないんだったか」
あれ、じゃあみんなはもう? ……そう言えば、その辺りの話を聞いた事があるようなないような。
「定平さんに訊いたら見せてもらえたりしないかな? 今日はもう、こんな時間だけど」
部屋には時計がなかったので、その一言にみんなは窓の外を見た。僕も一度はそれに倣い、次に布団の上から這い出して荷物の傍に置いてあった自分の携帯をたぐり寄せ、時刻確認。十時を少し過ぎた辺りだった。確かに野暮用で人を訪ねるには遅い。
「十時か。じゃあまあ写真の事は明日にでも訊いてみるとして、オレ等はどうすんだ? もう暫らくこのままか?」
横から携帯を覗き込んできて写真の件を勝手に終息させた大吾は、何故かその後の言い分が現状に不満を抱えているようだった。そして本人以外の全員がその大吾へ視線を移す。恐らくは僕がそうであるように、栞さんと成美さんもその目は疑問の目なのだろう。
「……何だよ。オレ、そんな変な事言ったか? 一応ここ男二人の部屋だし、女二人は居辛いかもって思っただけだよ。時間もこれだし」
女性二人が小さく含み笑いを溢し、僕は息を吐いた。それをどう捉えたのか、大吾はむすっとして黙り込んでしまう。
「怒るな怒るな。そんな事を気にするお前が可愛らしかっただけだよ」
「フォローになってねえよアホ」
「て言うか、今更じゃない? 家でも成美さんと会ってるんでしょ? 毎晩」
「何!? 怒橋お前、喋ったのかその事を!」
「べ、別段隠す事でもねえだろ。片っぽの部屋しか電気点いてなけりゃ、どうせ誰から見たってバレバレなんだし」
それを聞いて「あ、うん。栞も知ってたよ。楓さんも気付いてたんじゃないかな」と駄目押しが入る。という事は少なくとも毎晩栞さんが203号室へ戻る時間にはまだ会っている最中だという事で、だとしたら現在の十時という時刻だってそこまで気にするほどのものではないと思うんだけど。
「ウチとこういう出先とじゃあ話が違うだろ。なんつーか……なんつーかな」
なんつーかの説明をなんつーかで締め括った大吾と、その隣で毎晩会っていたのがバレバレだった事に俯いてしまっている成美さん。二人揃ってこの調子だと、なんだかこちら側が虐めているような錯覚が。いや、何もしてないはずなんだけど。
見ていて不憫なような、楽しいような。さてこんな時、どういう声を掛けるのが正解なんだろう? と口の端を嫌味な意味で歪めながら考えていると突然、
「ここが男子二人の部屋なのが駄目なんだよね? じゃあ、男子女子一人ずつの部屋にしない?」
栞さんがそんな事を言い放った。
それはもともと(からかい半分ではあっただろうけど)家守さんが提案していた割り振りであり、栞さんもそれに賛成であったと既に聞いていたので、驚きはしなかった。むしろ諸手を挙げる勢いで賛同したいところです。
男同士で話をした時の事を思い返す限り、大吾も賛同の立場ではあるだろう。となるとあとは最後にして最大の壁、成美さんなのですが――
「意外とあっさり決まりましたね」
「だね」
栞さん本人としても意外だったらしい。さすがに驚いてはいたものの、成美さんの口から反論が出てくる事はなかったのです。もちろん僕と大吾から代わりに出るような事もなく、大吾と成美さんは元女子部屋へと移動していったのでした。
「いきなりだったから、孝一くんと大吾くんがどう反応するかちょっと不安だった」
「え、僕達ですか? 僕はむしろ成美さんが気掛かりだったんですけど」
「実は成美ちゃんと二人でそんな話、しててね。はっきりそう言われたわけじゃないけど『これなら言っても大丈夫』って初めから分かってたの。……正直言って、ここまで来て下心の一つもないなんて事、ないだろうから」
ここまで来て、とは恋人同士という立場の事だろうか。それとも今日のこのシチュエーションの事だろうか。やっぱり両方が重なり合っての事だろうか。
でもまあ、それはいいとして。
「……栞さんって、意外と積極的だったりしますか? そういう話に」
「え? う、ううんと……どうだろう。栞、もしかしてちょっと行き過ぎてる?」
「ああいやそのええと、別に非難してるわけじゃ」
そう取り繕いつつ、行き過ぎている事を否定はしない。非難してるわけじゃないというのは本当だけど、今の事とか混浴であっさり状況に適応した事とか、想定外だったと言うか。いや本当、それが悪いだなんて全然思ってないですけど。
「栞さんの言う通り、僕にだってありますし。下心くらい。むしろ持たれてなかったらショックですし」
言いつつ、部屋隅に僕の物と並んで置かれた大吾の荷物を見る。それがここに置いてあるって事は、少なくともこの割り当てのまま明日を迎える気はないという事だろう。と言って、移動に際してそこまで気が回らなかっただけなのかもしれないけど。――だから、いつあっちから大吾が戻ってくるか分からない。あちらから見た栞さんも、それは同じだろう。
「でもその前に」
――あ。うわあ、その前にとか言っちゃったよ。何の前だよ僕。
「二人が戻ってくる前に言ってた話っていうのが気になってるんですけど」
「うん。栞も、それがあったから二人きりになりたかったんだよ」
話の内容は未だに不明なものの、それに対して積極的と取れる言葉。でもその割に、表情と声色からは躊躇うような色が窺えた。……まあ、僕が「その前に」とか言っちゃったから引いてるだけという線もあるけど。
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