「ええと」
栞さんはここまで、道筋に関する指示は出していません。なので僕をここへ向かわせるような指示も、逆にここへ着かなくさせるような指示も、もちろん一切ありませんでした。そして僕は今の今まで栞さんの実家がどこにあるのかは把握しておらず、なので、僕達が今ここにいるのは、全くの偶然ということになります。
でも。
「謝る場面ですか?」
「ううん」
そう尋ねずにはいられませんでした。即座に否定されはしましたし、そしてそうなるだろうというのも、初めから分かってはいましたが。
僕がここへ来たのは初めてですが、栞さんは三日前に一人でここを訪れています。――いや、三日前も何も、ここが実家である以上はかつてここに住んでいたわけですが。
「帰らないとは言ったけど、わざと避けて通るってことじゃないからね」
三日前、栞さんはこの家を訪れ、そして決めたのでした。もうこの家には帰らないと。
もちろんそれはいま栞さんが言った通り、たまたま立ち寄ることすら拒否をするというような話ではなく、細かく説明するなら「自分がまだ幽霊としてこの世に存在していることをご両親に伝えない」という話ではあります。ありますが、だからといってこうして実際に立ち寄ってしまうと、少しくらい辛い思いをしたりするんじゃないかなと思うわけです。それが失礼にあたると分かっていても。
「ありがとう。ごめんね、行っていいよ」
お礼と謝罪。その両方を同時に行いつつ、栞さんは再度自転車を発進させるように促してきました。
別に「まだここに居たい」とかそういうふうに思ったわけではありませんが、だというのに少しだけ、ペダルを漕ぎ始めるのに躊躇してしまいました。どうしてそんな感情が浮かんだのかは自分でも分かりませんが、しかし恐らく、浮かんだ理由よりはその浮かんだこと自体のほうが重要なのでしょう。
「それじゃあ」
少しだけ躊躇して、でもそれは少しだけに留めておいて。僕はペダルに足を掛け、力を加えました。
が、その時。
「あっ」
それに反応した僕は動き始めた自転車を再度止め、同じくそれに反応した栞さんは、再度家のほうを向いていました。嬉しそうな顔で。
家の中から、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたのです。
「妹さん、ですか」
「うん、いおりちゃん。――あはは、泣き声聞いて嬉しがるって、酷いお姉ちゃんだね」
知らない間に姉になっていた栞さん。それが判明したのも、三日前のことです。けれど今のような冗談すら言えている辺り、それについて後ろ向きな思いを抱いてはいないのでしょう。
「いいお姉ちゃんだと思いますよ」
「そうなの?」
「そうなのです」
妹が産まれていたことを知って、喜ぶ。実際に産まれてからそれを知るまでに随分と間があった、ということさえ除けば、恐らくは大体の人がそうなるのでしょう。
けれど、栞さんは幽霊です。既に死んでしまった人です。その対極にある「誕生」というものに、何も思うところがないということはないだろうと、僕はそう思うのです。思ってしまう、と言ってもいいのかもしれません。
「ふふ、そっか」
妹の誕生を祝福できる姉が、酷い姉だなんてことはないのでしょう。幽霊であることを抜きにしてもそうですし、幽霊であるなら、尚更に。
まあ、一人っ子の勝手な想像ではあるんですけどね。
「あ、泣き止んだ」
「栞さんの写真ですかね?」
「あはは、毎回それってわけじゃないだろうけどね」
仏壇に飾ってある栞さんの写真を見て泣き止むという、変といえば変な癖があるらしいいおりちゃん。特に意味も理由もありはしませんが、いま泣きやんだのがそれだったらいいな、なんて思わないでもないのでした。
「――ん、今度こそ行っていいよ。ありがとう、待ってくれて」
「栞さんがどうこうってより、自分も泣き声が気になったってだけなんですけどね。いおりちゃんの話、前に聞いてましたし」
「それはそれでありがとうね、気にしてくれて」
言えば言うだけお礼を追加されてしまいそうだったので、謙遜だか照れ隠しだか分からない偏屈はここまでにしておきましょう。
さあ、出発です。
「たまたまだけど、来てよかったな」
栞さんの感想を背中に受けながら、僕はまたペダルを漕ぎ始めました。
その後もやっぱり栞さんから行き先についての指示は出ず、なので僕は引き続き適当に走り回るわけですが、取り敢えずは真っ直ぐ進んで住宅街を抜けることにしました。
目的を立てないと住宅地を抜けることすらできない、と言い換えられてしまうのかもしれませんが、気にしないでおきましょう。そういう方向においても、栞さんは何も言ってこないわけですし。
というわけで無事に住宅街を抜けられたようで、四車線の道路に行き当たりました。太い道路に合流すればそこはもう住宅街ではない、と一概に言えるのかどうかは分かりませんが、まあ明らかに民家は減っているので、そういうことにしておきましょう。
「おっ」
「おっ?」
民家が減ったのならばその分他の建物が増えてくるわけで、道やら景色やらを覚えるのが苦手な僕にも馴染みのある外観がそこに。
「飲みものでも買いましょうか」
「あ、そうだね」
というわけで、コンビニです。手軽に立ち寄って買い物ができるという点でも、覚えやすくて周辺一帯の目印になるという点でも、便利で頼れる存在なのです。
というわけで駐輪場に自転車を停め、店内へ向かおうとしたところ、
「ちなみにこうくん」
「はい?」
栞さんから質問をされました。
「ここ、前にも来たことあるけど覚えてる?」
「えっ」
――覚えてません。が、そう言い放つのはかなり躊躇われました。栞さんからそう言われるということは栞さんと一緒に来ているわけで、それを忘れているということはつまり、栞さんと出掛けた記憶が曖昧だということになりかねないのです。
が、「えっ」なんて言ってる時点で覚えていないのは明白なわけで、
「あはは、方向音痴たる所以だね」
笑われてしまいました。笑うだけで済ませてもらえた、ということでもあります。ぐぬぬ。
「いやあ……うーん、方向音痴っていうよりは、単に記憶力に問題があるんじゃないかと……」
道が分からない、という話ではないわけですし。だからといってそれは言い訳のつもりではなく、むしろ方向音痴より性質が悪い話なのですが。
しかし、すると栞さんがこんな話を。
「前に来たっていうのはチューズデーと三人で公園に行った時なんだけど、それは覚えてる?」
「あ、あの桜がいっぱいあった? 覚えてます――けど、あの時の? ここが?」
懐かしいというほど昔の話でもないわけですが、懐かしい話でした。栞さんに告白し、喧嘩の末に付き合うことになったその翌日、初デートということで向かったのがその公園なのです。音無さんが気になったり口宮さんに追いかけられたりで、内容だけ見ればデートと言えるかどうか微妙な記憶ではありましたが。
「はらね。それがここだったって分かってないだけで、あの日コンビニに行った記憶はちゃんとあるんだよ。だから、記憶力の問題じゃなくて方向音痴の問題だと思うよ」
「なるほど。いや、どっちにせよ問題なんですけどね結局は」
「あはは、結局はね」
また笑われてしまいましたが、馬鹿にした笑いでないのはこれまでと変わらず。しかしそれでもちょっとばかりは自分の頭の出来を嘆いたりもするわけですが、すると栞さんからこんな提案が。
「ふむ、落ち込んじゃったこうくんのために、飲み物は私の奢りってことにしようかな」
「え? いや、そんな」
「いいからいいから。奢ってもらったことはあるけど、奢ったことはなかったしね。それにたった百何十円だよ? なんだったら食べ物が一緒でもいいし」
落ち込んだ僕のためにと言った栞さんですが、どちらかというと「奢ってみたい」というような様子でした。そりゃあ、僕が本気で落ち込んでいるだなんて思っているわけでもないでしょうしね。
「じゃあ、飲み物だけお願いします」
「うん。えへへ、お財布持って来ててよかった」
結婚だどうだのって話を翌日に控えてる二人の会話じゃないよなあ、なんてふと思ってしまいましたが、だからといってこれが宜しくないということもないのでしょう。宜しくないことがあるとするなら、それは今のところ僕の方向音痴についてのみです。
――さて、栞さんに奢って頂くことになったとはいえ、実際に商品を持ってレジへ行くのは当然ながら僕になります。
で、その持っていく商品ですが。
「栞さん、何にします?」
「んー、どうしようかな」
他の人から見ればそれは僕の独り言なわけで、しかもコンビニなんてそう店内が広いわけでもありません。だったら「独り言」を抑えるため、そういうことは店内に入る前に決めておいた方がよかったのかもしれません。――なんて、今更どころの話ではないんですけどね。一応広い教室の場合のみとはいえ、大学で一緒に行動してたりもするわけですし。
けれどそう思ったことは間違いないので、監視カメラが音声も拾うものだったらちょっと恥ずかしいかもなあ、なんてふうにも。恥ずかしい、だけで済ませている辺りがもう、良い悪いはともかくとして今更ってことなんでしょうけど。
「あ、そうだ。前どうだったかは覚えてる? 私がここで何を買ったか。――って、あの時は自分で買ったんじゃなくてこうくんに奢ってもらったんだけどさ」
「レモンティーでしたっけ」
「おお、ぱっと出てくるんだ」
「そりゃあ、何度も奢ったことがあってしかも毎回飲むものを変えてたとかなら、『あれだったかこれだったか』って迷うかもしれませんけど」
つまり、奢った記憶が錯綜するほど何度も奢ったことがないということです。胸を張れるような情報ではありませんが。
「あー、それもそっかあ」
栞さん、何やら照れ臭そうな笑みを浮かべました。直前の喜びようとは随分と落差がありましたが、その落差こそがそんな笑顔の原因なのでしょう。僕がぱっと思い出せたのは胸を張れないような理由からだった、という。
「だったら今日は別のにしてみるよ」
そう言って栞さん、前回のレモンティーと同じシリーズのミルクティーを「これがいいな」と指差しました。まあ、手に取っちゃうといろいろアレですしね。そんな細かいところまで映るものなのかどうかはともかく、監視カメラには「ミルクティーの一本が突然消えて僕の手に移った」みないなことになるわけですし。
というわけで栞さんのミルクティーと、あと自分のレモンティーを手に取って飲料コーナーの扉を閉じると、栞さんが改めて今の話を伝えてきました。
「こうくんは、私が何を飲んだかを覚えておくと、のちのち私を喜ばせられるかもしれません」
「そんな機械的に伝えなくても」
「そのほうが記憶に残り易いかなって」
「覚えられると嬉しいことを自分で覚えやすくさせるって、ちょっとズルですよねそれ」
「ズルでもなんでも嬉しいから問題なし」
「ですか」
「です」
そういうことなら、何が何でも記憶に留めていなければなりますまい。
このコンビニに来たのが二度目であることに気付けなかったことを思うと不安でしたが、そちらは方向音痴の領分なんだそうですし、だったら気にしないでおきましょう。――いや、気にしてた方が覚えやすかったりするんだろうか?
そんなことを考えつつも、商品を手に取った以上はそのままレジへ。
「ここが公園に行った時のコンビニだって気付いてなかったってことは、やっぱりここから公園までの道も覚えてない?」
「いやあ、さすがにそうと分かれば――ええと、大体の方向くらいは」
「ふふっ」
代金の精算とその後のお礼を経て再度自転車を適当に発進させたところ、またもその話題で笑われてしまいました。いいんですけどね。別にいいという意味ではなく、むしろいいという意味で。
「どうします? 公園、行ってみます? 辿り着けるかどうかはともかく」
「そうだね。着けるかどうかも面白そうだし、じゃあそういうことでお願いします」
「お願いされました」
どうなっても知りませんけどね。なんて、自分で誘っておきながら言えるようなことではないんでしょうけど。
「はー、よかったあ……」
結果、なんと独力で目的の公園に到着することができました。
「細かい道は前と違ってたけどね」
安堵した僕へ栞さんから鋭い一言。そうなのです、結局のところ道は分からなくなっていたのです。ただこの公園がとても広く、そして高い木が密集していたりもして、だから離れた位置からでも場所だけは確認できていたというだけの話なのです。そりゃあいくら僕だって、見えている目的地に到達できないほどではありませんとも。
「何にせよ、お疲れ様。ここで少しゆっくりしていこっか」
「はい」
体の疲労はともかく心労のほうは割と膨らんでしまっていたので、有難いお誘いでした。まあそうでなくとも、来るだけ来てすぐに引き返すってことはなかったんでしょうけどね。
というわけで前回ここへ来た時と同じく入口近くの駐輪場に自転車を停め、ここから暫くは歩きです。別に自転車に乗ったまま中まで入っても問題はないようでしたが、まあ、ゆっくりしていこうとのお誘いだったわけですし。不都合があるなら栞さんのほうから何か言ってきているでしょうしね。
「もう散ってるかなあ、桜」
「ああ、でしょうねえ」
陽気が増してきた五月も中頃。恐らく、そうなのでしょう。ほんの少し前にここで見事な桜並木を見たことを思えば、少し寂しいような気もするのでした。
という思いに加えてもう一つ、五月の中頃ということについて、「まだ五月というかもう五月というか、こっちに引っ越してきてそれだけ経ったんだなあ」なんてふうにも。単に時間の経過だけを考えれば「もう五月」なのですが、しかし明日のことを考えると「まだ五月」なのでした。
栞さんとのあれやこれや――今こうしてデートしていることだって――が、引っ越してきてからのたった一月半での出来事だというのは、自分でもちょっと信じられないのです。
それで結婚だなんて話までしちゃってるわけですし、もしそうなったらスピード婚ってやつになるのでしょうか? いや、それはまあ単に呼び方の問題でしかないわけですけど。
「考え事? 難しい顔してるけど」
そう問い掛けてきた栞さんは、何やら楽しそうなのでした。そりゃまあ、歩いてるだけとはいえこれはデートなわけですけどね。
「うーん、そんな大層なことでもないんですけど……喜ぶようなことなのかそうでないのかっていうのは、確かに悩んでます」
「どんな話?」
というわけで、今考えていたことをそのまま栞さんに伝えました。たった一月半でこんなになっちゃいましたね、と。
「やっぱりそうなるのかな。私も時々そんなふうには思ってたけど」
「あ、栞さんもですか」
「そりゃあ、こうくんのことは普段からいっぱい考えてるしね。――って言い方だと、ちょっと怖く聞こえるけどさ」
「いえいえ」
それは僕だってそうですし、下手したら怖いどころか変態と揶揄されるような状態にすらあるのかもしれませんし。でもまあそれを行動に表すかどうかはともかく、頭の中身なんて殆どの人はそんな感じなんじゃないでしょうか? 事実の確認は不可能でしょうけど。
それはともかく、軽く笑ってから栞さんはこう続けました。
「早いとは思うけど、それを喜ぶかどうかでは悩まないなあ、私は」
「喜びますか?」
「もちろん」
それについては、いいなあ、と。羨ましいという意味でも、魅力的だという意味でも。
「僕もそんなふうに思っとくべきなんでしょうけどねえ」
普段からしてそうなのでしょうし、とりわけ明日はあんな日なんですし。それくらい前向きじゃないと駄目だよなあ、と遠くを見ながら思ってみたわけですが、
「そんなことないと思うよ」
栞さんから意外なお言葉が。
「そうやって色々考えてくれるところ、私は好きだしさ。それで助けられたのもそうだし、それを抜きにしても――『だから頼りにできる』っていうか」
そして栞さんは、手を繋いできました。もちろん僕はそれを受け入れるわけですが、しかしそれだけでは収まらないものがあったのか、「手を繋ぐ」はすぐに「腕を組む」に移行しました。
「他の男の人と何が違ってこうくんを好きになったかって言ったら、そこだからさ」
惚気話、というわけではなさそうでした。むしろ、分かってもらおうと必死になっているような、そんな声色でした。
「……はい」
ついつい返事に間が空いてしまいましたが、それは「ごめんなさい」という言葉を飲み込んだせいです。
色々考えるところは好いてもらっているようですが、考え過ぎてすぐ自分を悪者にすることについては、これまで何度も何度も注意されているのです。付き合い始めた後からの話なので、引っ越してからの一月半どころか、それよりもっと短い間に。
「ありがとうございます、好きになってくれて」
「うん」
普通なら、今の話はこんなにも不安を孕んだものにはならないのでしょう。それこそ惚気話で済ませられそうな内容です。しかし栞さんにとって、そして栞さんがそうであるなら僕にとっても同じく、今の話は不安を孕んでしまうのです。
それは、皆まで語るまでもないでしょう、栞さんが幽霊だからなのです。
そしてそんな栞さんを好きになり、結婚したいとまで思っているこの僕は、皆まで語るまでもないそれらについても、許容し終えているのです。喜坂栞という女性の一部分として。
腕を組んだことでそれまでより更に近くにある栞さんの顔は、若干ながら俯けられています。なのでそれと同じだけ頭がこちらに向いていて、栗色の髪が目に、次いで意識に留まりました。
「…………」
撫でるようにしてその髪に触れてみると、栞さんは顔を上げ、くすぐったそうな笑みを浮かべました。
もう大丈夫なんだろう。ただ髪を触っただけでそう思えるのは、栞さんがつい先ほど僕へ向けたものと同じ、「信頼」というものなのでしょう。
「前と同じだねえ、行動が」
「前? っていうのは、初めてここに来た時の話ですか? ああいや、初めてだったのは僕だけですけど」
「うん」
とのことなので今の自分達の状況を確認してみると、縦に割った丸太で出来たベンチに並んで座り、コンビニで買ったジュースを飲みつつ、前方で遊んでいる小さな子ども達を眺めています。なるほど確かに、前回もこんな感じだったような。
「あの時はおにぎりも食べてましたっけ、ジュースだけじゃなくて」
「お昼時だったしね。他に違うことって言ったら、あの時はチューズデーも一緒だったのと……植え込みから音無さんが出てきたことかな?」
「あー、ありましたねえそんなことも」
すっかり友人関係である今となっては、あんなにこそこそ後を追ってこなくてもよかっただろうに、とは思います。まあ、友人になったのはむしろそれが切っ掛けなんですけど。
「不気味だったでしょうねえ、あの時はまだ栞さんのことなんて知らなかったんですし。音無さんからしたら、あの時の僕って公園に一人で佇んでぶつぶつ喋り続けてるやつですもん」
「本当にそう思われてたかどうかはともかく、良かったね。今はもうそんなふうに思われることはないわけだし」
「まあ、意図しなかったことではあるんですけどね。異原さんが幽霊のこと話してたからですし」
自分が持っている妙な感覚が霊感だと知らなかった異原さん。口宮さんからの頼みもあって僕は異原さんに家守さんを紹介し、結果、異原さんは自分が霊感持ちだということ、そしてこの世界には幽霊がごく普通に生活しているということを、同時に知ることになりました。
しかし、それを他人にまで広めるかどうかは、人によって考え方が変わるのではないでしょうか。全く同じ内容ではありませんが、栞さんの「実家には帰らない」という話だって、大別すれば同じカテゴリーではあるんでしょうし。
そして、異原さんは伝えました。
「……いや、良かったとは思ってますよ? 僕だって」
栞さんからすれば、そのおかげで知り合いが増えたことになるわけです。――「良かったね」という言葉が僕だけに向けたものでないのは表情を見ればすぐに察せられ、なので、ふとそんなふうに思ったりもするのでした。
「好きだった人だもんねえ、やっぱり」
「……栞さんのほうから振ってくるとは予想外でした」
「うん、そう思ったからこそ言ってみた」
ううむ、これで嫌味とかそういうわけでもないんだからなあ、この人。
もちろん僕が嫌がるならこうして話題にもしてこないのでしょうが、別にそういうわけでもないですしねえ。もちろんそれは、栞さんがこうだからという前提あってのことですが。……あれ? 栞さんが気にしないのと僕が嫌がらないの、先に来るのはどっちなんだろうか?
と、そんな堂々巡りはともかく。
「それにしても、案外こんな感じなんですね。今日はどういう日にするかって、あんなふうに決めた割には」
「あー、そうだねえ。普通にデートっぽく――んん? そう言ってみたら公園で座って喋ってるだけって、デートって言えるのかな」
「そういう話も前ここに来た時した覚えがありますけど。確か結論は、『楽しいならそれでいいじゃない』みたいな感じだったような」
「ああ、言われたら思い出したよ。したねえそんな話。じゃあ今のこれだってちゃんとデートだよね?」
「ですね」
ちなみにですが、座って話をしているだけとは言っているものの、手はずっと繋いだままです。それが加わっている時点で、他から見る限りはデートなのでしょう。もちろん、幽霊が見える人限定ではありますが。
「でも――」
でも、と栞さん。その声はどこか、直前までと比べて落ち着いていました。落ち込んでいた、とも言い換えられるかもしれません。
「せっかく『明日のことを考える日』って決めたわけだし、だったらちょっとくらいはそっちの話をしてもいいかな、とは思うかな」
「僕もずっとそう思ってるんですけど、意識してそうしようとすると話題の切り出し方に困るっていうか」
「あはは、そうだよねえ」
そうしようと決めたのは失敗だったかな、なんて思わざるを得ませんでした。なんせ明日なんですし、だったらわざわざそうすると決めなくたって、そういう話をするのは避けられなかったんでしょうし。
だからといって、ここまで楽しんでたのが間違いだったなんて思うわけじゃないですけどね、そりゃあ。
栞さんはここまで、道筋に関する指示は出していません。なので僕をここへ向かわせるような指示も、逆にここへ着かなくさせるような指示も、もちろん一切ありませんでした。そして僕は今の今まで栞さんの実家がどこにあるのかは把握しておらず、なので、僕達が今ここにいるのは、全くの偶然ということになります。
でも。
「謝る場面ですか?」
「ううん」
そう尋ねずにはいられませんでした。即座に否定されはしましたし、そしてそうなるだろうというのも、初めから分かってはいましたが。
僕がここへ来たのは初めてですが、栞さんは三日前に一人でここを訪れています。――いや、三日前も何も、ここが実家である以上はかつてここに住んでいたわけですが。
「帰らないとは言ったけど、わざと避けて通るってことじゃないからね」
三日前、栞さんはこの家を訪れ、そして決めたのでした。もうこの家には帰らないと。
もちろんそれはいま栞さんが言った通り、たまたま立ち寄ることすら拒否をするというような話ではなく、細かく説明するなら「自分がまだ幽霊としてこの世に存在していることをご両親に伝えない」という話ではあります。ありますが、だからといってこうして実際に立ち寄ってしまうと、少しくらい辛い思いをしたりするんじゃないかなと思うわけです。それが失礼にあたると分かっていても。
「ありがとう。ごめんね、行っていいよ」
お礼と謝罪。その両方を同時に行いつつ、栞さんは再度自転車を発進させるように促してきました。
別に「まだここに居たい」とかそういうふうに思ったわけではありませんが、だというのに少しだけ、ペダルを漕ぎ始めるのに躊躇してしまいました。どうしてそんな感情が浮かんだのかは自分でも分かりませんが、しかし恐らく、浮かんだ理由よりはその浮かんだこと自体のほうが重要なのでしょう。
「それじゃあ」
少しだけ躊躇して、でもそれは少しだけに留めておいて。僕はペダルに足を掛け、力を加えました。
が、その時。
「あっ」
それに反応した僕は動き始めた自転車を再度止め、同じくそれに反応した栞さんは、再度家のほうを向いていました。嬉しそうな顔で。
家の中から、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたのです。
「妹さん、ですか」
「うん、いおりちゃん。――あはは、泣き声聞いて嬉しがるって、酷いお姉ちゃんだね」
知らない間に姉になっていた栞さん。それが判明したのも、三日前のことです。けれど今のような冗談すら言えている辺り、それについて後ろ向きな思いを抱いてはいないのでしょう。
「いいお姉ちゃんだと思いますよ」
「そうなの?」
「そうなのです」
妹が産まれていたことを知って、喜ぶ。実際に産まれてからそれを知るまでに随分と間があった、ということさえ除けば、恐らくは大体の人がそうなるのでしょう。
けれど、栞さんは幽霊です。既に死んでしまった人です。その対極にある「誕生」というものに、何も思うところがないということはないだろうと、僕はそう思うのです。思ってしまう、と言ってもいいのかもしれません。
「ふふ、そっか」
妹の誕生を祝福できる姉が、酷い姉だなんてことはないのでしょう。幽霊であることを抜きにしてもそうですし、幽霊であるなら、尚更に。
まあ、一人っ子の勝手な想像ではあるんですけどね。
「あ、泣き止んだ」
「栞さんの写真ですかね?」
「あはは、毎回それってわけじゃないだろうけどね」
仏壇に飾ってある栞さんの写真を見て泣き止むという、変といえば変な癖があるらしいいおりちゃん。特に意味も理由もありはしませんが、いま泣きやんだのがそれだったらいいな、なんて思わないでもないのでした。
「――ん、今度こそ行っていいよ。ありがとう、待ってくれて」
「栞さんがどうこうってより、自分も泣き声が気になったってだけなんですけどね。いおりちゃんの話、前に聞いてましたし」
「それはそれでありがとうね、気にしてくれて」
言えば言うだけお礼を追加されてしまいそうだったので、謙遜だか照れ隠しだか分からない偏屈はここまでにしておきましょう。
さあ、出発です。
「たまたまだけど、来てよかったな」
栞さんの感想を背中に受けながら、僕はまたペダルを漕ぎ始めました。
その後もやっぱり栞さんから行き先についての指示は出ず、なので僕は引き続き適当に走り回るわけですが、取り敢えずは真っ直ぐ進んで住宅街を抜けることにしました。
目的を立てないと住宅地を抜けることすらできない、と言い換えられてしまうのかもしれませんが、気にしないでおきましょう。そういう方向においても、栞さんは何も言ってこないわけですし。
というわけで無事に住宅街を抜けられたようで、四車線の道路に行き当たりました。太い道路に合流すればそこはもう住宅街ではない、と一概に言えるのかどうかは分かりませんが、まあ明らかに民家は減っているので、そういうことにしておきましょう。
「おっ」
「おっ?」
民家が減ったのならばその分他の建物が増えてくるわけで、道やら景色やらを覚えるのが苦手な僕にも馴染みのある外観がそこに。
「飲みものでも買いましょうか」
「あ、そうだね」
というわけで、コンビニです。手軽に立ち寄って買い物ができるという点でも、覚えやすくて周辺一帯の目印になるという点でも、便利で頼れる存在なのです。
というわけで駐輪場に自転車を停め、店内へ向かおうとしたところ、
「ちなみにこうくん」
「はい?」
栞さんから質問をされました。
「ここ、前にも来たことあるけど覚えてる?」
「えっ」
――覚えてません。が、そう言い放つのはかなり躊躇われました。栞さんからそう言われるということは栞さんと一緒に来ているわけで、それを忘れているということはつまり、栞さんと出掛けた記憶が曖昧だということになりかねないのです。
が、「えっ」なんて言ってる時点で覚えていないのは明白なわけで、
「あはは、方向音痴たる所以だね」
笑われてしまいました。笑うだけで済ませてもらえた、ということでもあります。ぐぬぬ。
「いやあ……うーん、方向音痴っていうよりは、単に記憶力に問題があるんじゃないかと……」
道が分からない、という話ではないわけですし。だからといってそれは言い訳のつもりではなく、むしろ方向音痴より性質が悪い話なのですが。
しかし、すると栞さんがこんな話を。
「前に来たっていうのはチューズデーと三人で公園に行った時なんだけど、それは覚えてる?」
「あ、あの桜がいっぱいあった? 覚えてます――けど、あの時の? ここが?」
懐かしいというほど昔の話でもないわけですが、懐かしい話でした。栞さんに告白し、喧嘩の末に付き合うことになったその翌日、初デートということで向かったのがその公園なのです。音無さんが気になったり口宮さんに追いかけられたりで、内容だけ見ればデートと言えるかどうか微妙な記憶ではありましたが。
「はらね。それがここだったって分かってないだけで、あの日コンビニに行った記憶はちゃんとあるんだよ。だから、記憶力の問題じゃなくて方向音痴の問題だと思うよ」
「なるほど。いや、どっちにせよ問題なんですけどね結局は」
「あはは、結局はね」
また笑われてしまいましたが、馬鹿にした笑いでないのはこれまでと変わらず。しかしそれでもちょっとばかりは自分の頭の出来を嘆いたりもするわけですが、すると栞さんからこんな提案が。
「ふむ、落ち込んじゃったこうくんのために、飲み物は私の奢りってことにしようかな」
「え? いや、そんな」
「いいからいいから。奢ってもらったことはあるけど、奢ったことはなかったしね。それにたった百何十円だよ? なんだったら食べ物が一緒でもいいし」
落ち込んだ僕のためにと言った栞さんですが、どちらかというと「奢ってみたい」というような様子でした。そりゃあ、僕が本気で落ち込んでいるだなんて思っているわけでもないでしょうしね。
「じゃあ、飲み物だけお願いします」
「うん。えへへ、お財布持って来ててよかった」
結婚だどうだのって話を翌日に控えてる二人の会話じゃないよなあ、なんてふと思ってしまいましたが、だからといってこれが宜しくないということもないのでしょう。宜しくないことがあるとするなら、それは今のところ僕の方向音痴についてのみです。
――さて、栞さんに奢って頂くことになったとはいえ、実際に商品を持ってレジへ行くのは当然ながら僕になります。
で、その持っていく商品ですが。
「栞さん、何にします?」
「んー、どうしようかな」
他の人から見ればそれは僕の独り言なわけで、しかもコンビニなんてそう店内が広いわけでもありません。だったら「独り言」を抑えるため、そういうことは店内に入る前に決めておいた方がよかったのかもしれません。――なんて、今更どころの話ではないんですけどね。一応広い教室の場合のみとはいえ、大学で一緒に行動してたりもするわけですし。
けれどそう思ったことは間違いないので、監視カメラが音声も拾うものだったらちょっと恥ずかしいかもなあ、なんてふうにも。恥ずかしい、だけで済ませている辺りがもう、良い悪いはともかくとして今更ってことなんでしょうけど。
「あ、そうだ。前どうだったかは覚えてる? 私がここで何を買ったか。――って、あの時は自分で買ったんじゃなくてこうくんに奢ってもらったんだけどさ」
「レモンティーでしたっけ」
「おお、ぱっと出てくるんだ」
「そりゃあ、何度も奢ったことがあってしかも毎回飲むものを変えてたとかなら、『あれだったかこれだったか』って迷うかもしれませんけど」
つまり、奢った記憶が錯綜するほど何度も奢ったことがないということです。胸を張れるような情報ではありませんが。
「あー、それもそっかあ」
栞さん、何やら照れ臭そうな笑みを浮かべました。直前の喜びようとは随分と落差がありましたが、その落差こそがそんな笑顔の原因なのでしょう。僕がぱっと思い出せたのは胸を張れないような理由からだった、という。
「だったら今日は別のにしてみるよ」
そう言って栞さん、前回のレモンティーと同じシリーズのミルクティーを「これがいいな」と指差しました。まあ、手に取っちゃうといろいろアレですしね。そんな細かいところまで映るものなのかどうかはともかく、監視カメラには「ミルクティーの一本が突然消えて僕の手に移った」みないなことになるわけですし。
というわけで栞さんのミルクティーと、あと自分のレモンティーを手に取って飲料コーナーの扉を閉じると、栞さんが改めて今の話を伝えてきました。
「こうくんは、私が何を飲んだかを覚えておくと、のちのち私を喜ばせられるかもしれません」
「そんな機械的に伝えなくても」
「そのほうが記憶に残り易いかなって」
「覚えられると嬉しいことを自分で覚えやすくさせるって、ちょっとズルですよねそれ」
「ズルでもなんでも嬉しいから問題なし」
「ですか」
「です」
そういうことなら、何が何でも記憶に留めていなければなりますまい。
このコンビニに来たのが二度目であることに気付けなかったことを思うと不安でしたが、そちらは方向音痴の領分なんだそうですし、だったら気にしないでおきましょう。――いや、気にしてた方が覚えやすかったりするんだろうか?
そんなことを考えつつも、商品を手に取った以上はそのままレジへ。
「ここが公園に行った時のコンビニだって気付いてなかったってことは、やっぱりここから公園までの道も覚えてない?」
「いやあ、さすがにそうと分かれば――ええと、大体の方向くらいは」
「ふふっ」
代金の精算とその後のお礼を経て再度自転車を適当に発進させたところ、またもその話題で笑われてしまいました。いいんですけどね。別にいいという意味ではなく、むしろいいという意味で。
「どうします? 公園、行ってみます? 辿り着けるかどうかはともかく」
「そうだね。着けるかどうかも面白そうだし、じゃあそういうことでお願いします」
「お願いされました」
どうなっても知りませんけどね。なんて、自分で誘っておきながら言えるようなことではないんでしょうけど。
「はー、よかったあ……」
結果、なんと独力で目的の公園に到着することができました。
「細かい道は前と違ってたけどね」
安堵した僕へ栞さんから鋭い一言。そうなのです、結局のところ道は分からなくなっていたのです。ただこの公園がとても広く、そして高い木が密集していたりもして、だから離れた位置からでも場所だけは確認できていたというだけの話なのです。そりゃあいくら僕だって、見えている目的地に到達できないほどではありませんとも。
「何にせよ、お疲れ様。ここで少しゆっくりしていこっか」
「はい」
体の疲労はともかく心労のほうは割と膨らんでしまっていたので、有難いお誘いでした。まあそうでなくとも、来るだけ来てすぐに引き返すってことはなかったんでしょうけどね。
というわけで前回ここへ来た時と同じく入口近くの駐輪場に自転車を停め、ここから暫くは歩きです。別に自転車に乗ったまま中まで入っても問題はないようでしたが、まあ、ゆっくりしていこうとのお誘いだったわけですし。不都合があるなら栞さんのほうから何か言ってきているでしょうしね。
「もう散ってるかなあ、桜」
「ああ、でしょうねえ」
陽気が増してきた五月も中頃。恐らく、そうなのでしょう。ほんの少し前にここで見事な桜並木を見たことを思えば、少し寂しいような気もするのでした。
という思いに加えてもう一つ、五月の中頃ということについて、「まだ五月というかもう五月というか、こっちに引っ越してきてそれだけ経ったんだなあ」なんてふうにも。単に時間の経過だけを考えれば「もう五月」なのですが、しかし明日のことを考えると「まだ五月」なのでした。
栞さんとのあれやこれや――今こうしてデートしていることだって――が、引っ越してきてからのたった一月半での出来事だというのは、自分でもちょっと信じられないのです。
それで結婚だなんて話までしちゃってるわけですし、もしそうなったらスピード婚ってやつになるのでしょうか? いや、それはまあ単に呼び方の問題でしかないわけですけど。
「考え事? 難しい顔してるけど」
そう問い掛けてきた栞さんは、何やら楽しそうなのでした。そりゃまあ、歩いてるだけとはいえこれはデートなわけですけどね。
「うーん、そんな大層なことでもないんですけど……喜ぶようなことなのかそうでないのかっていうのは、確かに悩んでます」
「どんな話?」
というわけで、今考えていたことをそのまま栞さんに伝えました。たった一月半でこんなになっちゃいましたね、と。
「やっぱりそうなるのかな。私も時々そんなふうには思ってたけど」
「あ、栞さんもですか」
「そりゃあ、こうくんのことは普段からいっぱい考えてるしね。――って言い方だと、ちょっと怖く聞こえるけどさ」
「いえいえ」
それは僕だってそうですし、下手したら怖いどころか変態と揶揄されるような状態にすらあるのかもしれませんし。でもまあそれを行動に表すかどうかはともかく、頭の中身なんて殆どの人はそんな感じなんじゃないでしょうか? 事実の確認は不可能でしょうけど。
それはともかく、軽く笑ってから栞さんはこう続けました。
「早いとは思うけど、それを喜ぶかどうかでは悩まないなあ、私は」
「喜びますか?」
「もちろん」
それについては、いいなあ、と。羨ましいという意味でも、魅力的だという意味でも。
「僕もそんなふうに思っとくべきなんでしょうけどねえ」
普段からしてそうなのでしょうし、とりわけ明日はあんな日なんですし。それくらい前向きじゃないと駄目だよなあ、と遠くを見ながら思ってみたわけですが、
「そんなことないと思うよ」
栞さんから意外なお言葉が。
「そうやって色々考えてくれるところ、私は好きだしさ。それで助けられたのもそうだし、それを抜きにしても――『だから頼りにできる』っていうか」
そして栞さんは、手を繋いできました。もちろん僕はそれを受け入れるわけですが、しかしそれだけでは収まらないものがあったのか、「手を繋ぐ」はすぐに「腕を組む」に移行しました。
「他の男の人と何が違ってこうくんを好きになったかって言ったら、そこだからさ」
惚気話、というわけではなさそうでした。むしろ、分かってもらおうと必死になっているような、そんな声色でした。
「……はい」
ついつい返事に間が空いてしまいましたが、それは「ごめんなさい」という言葉を飲み込んだせいです。
色々考えるところは好いてもらっているようですが、考え過ぎてすぐ自分を悪者にすることについては、これまで何度も何度も注意されているのです。付き合い始めた後からの話なので、引っ越してからの一月半どころか、それよりもっと短い間に。
「ありがとうございます、好きになってくれて」
「うん」
普通なら、今の話はこんなにも不安を孕んだものにはならないのでしょう。それこそ惚気話で済ませられそうな内容です。しかし栞さんにとって、そして栞さんがそうであるなら僕にとっても同じく、今の話は不安を孕んでしまうのです。
それは、皆まで語るまでもないでしょう、栞さんが幽霊だからなのです。
そしてそんな栞さんを好きになり、結婚したいとまで思っているこの僕は、皆まで語るまでもないそれらについても、許容し終えているのです。喜坂栞という女性の一部分として。
腕を組んだことでそれまでより更に近くにある栞さんの顔は、若干ながら俯けられています。なのでそれと同じだけ頭がこちらに向いていて、栗色の髪が目に、次いで意識に留まりました。
「…………」
撫でるようにしてその髪に触れてみると、栞さんは顔を上げ、くすぐったそうな笑みを浮かべました。
もう大丈夫なんだろう。ただ髪を触っただけでそう思えるのは、栞さんがつい先ほど僕へ向けたものと同じ、「信頼」というものなのでしょう。
「前と同じだねえ、行動が」
「前? っていうのは、初めてここに来た時の話ですか? ああいや、初めてだったのは僕だけですけど」
「うん」
とのことなので今の自分達の状況を確認してみると、縦に割った丸太で出来たベンチに並んで座り、コンビニで買ったジュースを飲みつつ、前方で遊んでいる小さな子ども達を眺めています。なるほど確かに、前回もこんな感じだったような。
「あの時はおにぎりも食べてましたっけ、ジュースだけじゃなくて」
「お昼時だったしね。他に違うことって言ったら、あの時はチューズデーも一緒だったのと……植え込みから音無さんが出てきたことかな?」
「あー、ありましたねえそんなことも」
すっかり友人関係である今となっては、あんなにこそこそ後を追ってこなくてもよかっただろうに、とは思います。まあ、友人になったのはむしろそれが切っ掛けなんですけど。
「不気味だったでしょうねえ、あの時はまだ栞さんのことなんて知らなかったんですし。音無さんからしたら、あの時の僕って公園に一人で佇んでぶつぶつ喋り続けてるやつですもん」
「本当にそう思われてたかどうかはともかく、良かったね。今はもうそんなふうに思われることはないわけだし」
「まあ、意図しなかったことではあるんですけどね。異原さんが幽霊のこと話してたからですし」
自分が持っている妙な感覚が霊感だと知らなかった異原さん。口宮さんからの頼みもあって僕は異原さんに家守さんを紹介し、結果、異原さんは自分が霊感持ちだということ、そしてこの世界には幽霊がごく普通に生活しているということを、同時に知ることになりました。
しかし、それを他人にまで広めるかどうかは、人によって考え方が変わるのではないでしょうか。全く同じ内容ではありませんが、栞さんの「実家には帰らない」という話だって、大別すれば同じカテゴリーではあるんでしょうし。
そして、異原さんは伝えました。
「……いや、良かったとは思ってますよ? 僕だって」
栞さんからすれば、そのおかげで知り合いが増えたことになるわけです。――「良かったね」という言葉が僕だけに向けたものでないのは表情を見ればすぐに察せられ、なので、ふとそんなふうに思ったりもするのでした。
「好きだった人だもんねえ、やっぱり」
「……栞さんのほうから振ってくるとは予想外でした」
「うん、そう思ったからこそ言ってみた」
ううむ、これで嫌味とかそういうわけでもないんだからなあ、この人。
もちろん僕が嫌がるならこうして話題にもしてこないのでしょうが、別にそういうわけでもないですしねえ。もちろんそれは、栞さんがこうだからという前提あってのことですが。……あれ? 栞さんが気にしないのと僕が嫌がらないの、先に来るのはどっちなんだろうか?
と、そんな堂々巡りはともかく。
「それにしても、案外こんな感じなんですね。今日はどういう日にするかって、あんなふうに決めた割には」
「あー、そうだねえ。普通にデートっぽく――んん? そう言ってみたら公園で座って喋ってるだけって、デートって言えるのかな」
「そういう話も前ここに来た時した覚えがありますけど。確か結論は、『楽しいならそれでいいじゃない』みたいな感じだったような」
「ああ、言われたら思い出したよ。したねえそんな話。じゃあ今のこれだってちゃんとデートだよね?」
「ですね」
ちなみにですが、座って話をしているだけとは言っているものの、手はずっと繋いだままです。それが加わっている時点で、他から見る限りはデートなのでしょう。もちろん、幽霊が見える人限定ではありますが。
「でも――」
でも、と栞さん。その声はどこか、直前までと比べて落ち着いていました。落ち込んでいた、とも言い換えられるかもしれません。
「せっかく『明日のことを考える日』って決めたわけだし、だったらちょっとくらいはそっちの話をしてもいいかな、とは思うかな」
「僕もずっとそう思ってるんですけど、意識してそうしようとすると話題の切り出し方に困るっていうか」
「あはは、そうだよねえ」
そうしようと決めたのは失敗だったかな、なんて思わざるを得ませんでした。なんせ明日なんですし、だったらわざわざそうすると決めなくたって、そういう話をするのは避けられなかったんでしょうし。
だからといって、ここまで楽しんでたのが間違いだったなんて思うわけじゃないですけどね、そりゃあ。
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