(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第二十一章 万能の過去とお客の現在 一

2008-12-14 20:56:19 | 新転地はお化け屋敷
 おはようございます。204号室住人、日向孝一です。……今日はまあ、おはようを言う相手が既に目の前にいるわけですが。
「えーと……」
 どうしたものか、考える。その「おはようを言う相手」は未だおはようをしておらず、つまりはまだ、すやすやと寝息を立てているのでした。
 この女性が生まれて初めての彼女であり、つまりはこの状況も生まれて初めてなのです。この状況がどの状況かと言うと、まあ、その女性は僕と同じ布団で寝ているわけです。もちろん僕は一人暮らしをしている身の上で、つまりは二人用の布団など所持しておらず(そもそも床に敷く布団で二人用なんてあるんだろうか、という疑問はともかく)、一人用の布団に二人です。狭いです。柔らかいです。いや、何がとは言いませんが。
 そういう状況下にあって、さて先に目が覚めてしまった僕はどう行動すべきなのでしょう? 取り敢えずは身を布団から起こして服を着るべき? それとも、隣で幸せそうに寝ている彼女を起こすべき? はたまた、このまま起きるまでじっとしているべき? そもそも、こんな事に決まった正解などというものはあるのだろうか?
 いろいろと考えても答えが出ず、しかも今の状況が心地良いので、そのままじっとしておく事に。そして一応壁に掛かった時計を確認してみると、大学に行くまでにはかなり余裕がある。夜更かししたのによくもまあ――は、いいとして。
「んん……ん。あ、おはよう、孝一くん」
 あ、起きた。
「おはようございます、栞さん」
 かなりの至近距離で朝の挨拶を交わすと、帰ってきたのは気持ちのいい笑顔。目が覚めるようです。と言うか、覚めさせてもらいました。目も頭も。
「えーと……」
 こっちの目や頭はともかく。僕と同じような悩みを持ったのかそれとも全然別の考え事か、栞さんはしばし、その視線を宙に泳がせ始めた。そして、
「ごめん。今更だけどちょっと――って言うかかなり、恥ずかしいかも。少しだけ、あっち向いててもらっていい?」
 それに対して僕は素直にそっぽを向いたわけですが、それは親切心からではなく、条件反射に近い行動なのでした。栞さんも言った通り、それは実に今更だったのですが。まあその、お互いに裸なわけでしてその、ね。
 さてその後、服を着たり何だりを経て。
「じゃあ、行ってきます」
「いや、僕も行きますけど」
 二人で大学へ、ではないです。まだ。朝ご飯も食べてないし。
 では食事もせずにどこへ行くのかと言うと、家守さんの部屋です。もしかしたらもう仕事で出ているかもしれませんが、まあそれも行ってみない事には分かりませんし。
「どうしたの? 孝一くん」
 204号室を出てすぐ、栞さんから声が掛けられた。しかし一瞬、何を指して「どうしたの?」なのか、自分にも分からなかった。はて、僕は今、何か特筆すべき行動をとっているだろうか? ――うん、自分の手の平をしげしげと眺めてるね。
「あ、いや、何でもないです」
 慌てて手を引っ込めた。しかし当然、栞さんからすれば何でもないで済む話ではないだろう。だから、
「どうしたの?」
 もう一度、今度は凄まじくにこやかな笑顔で尋ねられた。ああ、責められてるなあ。
「……その、ちょっと思い出してたんです。傷跡に触った感触を」
「そっか」
 何でもないふうな返答。もちろん、本当に何でもないわけではないだろう。むしろ、何でもあり過ぎる。今から消してもらいに行く「それ」に関する様々――過去やこれまで、そして一昨日の夜に、昨晩。栞さんはそれを忘れるのでなく、乗り越える道を選んだ。だからこそ、乗り越えたにせよ、残るものはあるし思う事もある。そうして現在に引き継がれるものがあるからこその「乗り越える」なのだろう。
 忘れると乗り越える。後者の選択ができる事が、そしてたった今それを何でもないふうに一言で片付けたその事が彼女の魅力の一要素なのだと、現在進行形で魅せられている僕は思う。
 思っている間に、目的地へ到着。近いんだからそりゃそうだ。
「はーい」
 101号室の玄関。鳴らしたチャイムの音に続いて住人の返事が返ってきた。もしかしたらもう仕事に出ているかもと思っていたので、僕も栞さんも、安堵の笑みを浮かべる。とは言え、もし留守だったとしても、夜まで帰ってくるのを待てばいいだけの話なんですけどね。急ぐ事でもなし。
「あや、おはようお二人さん」
『おはようございます』
 家守さんがまだいるという事はその旦那さんも中にいるんだろうけど、玄関に出てきたのは取り敢えず家守さん。黒いシャツ一枚にホットパンツという普段着にしては露出の多いその格好ももう見慣れたけど、見慣れたなら見慣れたなりに、綺麗な人だと思う。要は不純な感想が取り払われただけの事だ。
「何か用事かな? まあ、何にしても上がってちょうだいな」
 朝一番の訪問に嫌な顔一つしない。もちろん、あちらがそう来ると分かっているからこそ僕と栞さんはこの時間にここへ来たわけだけど、それにしたってこちらから頼むまでもなく上がらせてもらえるんですか?
「二人揃ってって事は、玄関先で済ますような話じゃなさそうだしねえ。ま、顔見る限りは良いか悪いかって言ったら良い話みたいだけどさ」
 尋ねるよりも先に答えられる。……こういう人だからこそ、お目に掛かって早々「綺麗な人だ」とか思っちゃう部分もあるんだろうな。そんな事を考えられる余裕があると言うか。
 お言葉に甘えて部屋に上がらせてもらう。長くてストレートな黒髪の後ろに続いて短い廊下を進み、居間に進み入ると、そこにはちゃぶ台の前に座るもう一人。
「おっ、喜坂さんと日向くんか。おはようございます、お邪魔させて頂いてます」
 やや逞しめな身体つきに、精悍な顔付き。男の僕からしても男前だと思わざるを得ない、家守さんの婚約者。それがこの人、四方院高次さんです。僕にとってはまだ「先日会ったばかりの人」という要素が抜け切りませんが、だからと言って無闇に緊張する相手でもないでしょう。
『おはようございます』
「お邪魔させて頂いてます、かあ。まだその立場なんだよねえ、高次さん」
 にやにやとした笑みを浮かべながら、高次さんへ顔を寄せて囁くように言う家守さん。台詞の内容が内容だったらじゃれ付いているように見えたのでしょうが、でも台詞の内容が内容なのです。
 台詞の内容が内容なので、高次さんは「いやあ、はっは」と困ってるんだか楽しんでるんだか曖昧な笑い声を上げるのでした。
 ――仕切り直してそれぞれちゃぶ台を囲み、腰を降ろすと家守さん。
「んまあそれはそれとして、ご用件だよね。でもその前にこーちゃん、大学はまだいいの?」
「えーと、まだ暫らくは大丈夫です」
 月曜日の講義は一、二、四限。一限は九時からで、今は八時を少し過ぎた辺り。通学距離が短いってのはいいね、実に。
「楓さんは、今日のお仕事はまだ?」
「本日は休業。一日ゆっくりさせてもらうよ。理由はまあ――分かるよね?」
 栞さんの質問にそう答えながら家守さんの目は隣に座る方のほうを向いていて、そしてその見られている方はまた「はっは」と笑っていました。今度は喜んでいるのと照れているのが半々のような笑い方でした。
「さて。年甲斐もない部分へ探りを入れられちゃう前に本題いこうかね」
 おっと。さすが普段はさんざん人をからかっているだけあって、自分の弱みへのフォローもばっちりですか家守さん。
「ではお二人さん、ご用件をどうぞ」
 促され、しかし栞さんは「えーと……」と言葉に詰まる。見れば膝の上では両手がぎゅっと固められていて、さて、その原因は何なのだろう。次にその顔を見てみれば、
「あ、俺、外したほうがいいのかな?」
 栞さんの顔は家守さんのほうを向いていたものの、その目は気まずそうに横目で高次さんを捉えていた。つまり、と言うかやはり、そういう事なのだろう。
「いや、あの」
「いやいやいや、気にしてくれなくていいよ。相談事するのに心労増やしても仕方ないしさ。俺、外出てるね」
 引き留めようとした栞さんの言葉を早々に遮り、有無を言わせないまますっと立ち上がった高次さん。玄関へ向かい、そのまま外へ出てしまった。あっという間、というのはこういう事を言うのだろうか。実際には「あっ」とすら言ってませんが。
「ご、ごめんなさい……」
「ん? なんでしぃちゃんが謝るかな? いいじゃないの、あれはああいう人ってだけだからさ」
 しゅんと萎れてしまった栞さんに、むしろにこにことしている家守さん。高次さんが出て行ってむしろ嬉しそうにしているぐらいだ――と書くとなんだか別の意味になってしまうような気もするけど、でもとにかく、高次さんが外へ出るという行動をとった事が、嬉しいようだった。
「ほらほら、心労増やしても仕方ないって言われたでしょ? 聞き分けないとこーちゃんの唇奪っちゃうよ? しかもディープに」
「何でそうなるんですか!」
 それはこの人が家守さんだからだよ僕。
「それはいくら楓さんでも、ちょっと……。あはは、えっと、じゃあ言いますね」
 そんな話をする家守さんが家守さんなら、それで持ち直せる栞さんも栞さんだ。そんな反応されたら余計に想像しちゃうじゃないですか、僕が家守さんに唇奪われてる場面。しかもディープに。
 なんて事を考えてる場面じゃあ、ないんだけどね。
「胸の傷跡、消してください。一時的にじゃなくて、もうずっと消えたままになるように」
「……いいの?」
「はい。もう、大丈夫ですから」
 わざわざそう言わなくても大丈夫だと分かるくらい、にっこりと微笑んでいる栞さん。だけどその実、テーブルの下では、僕の手を自分の手でしっかりと握っていた。
 大丈夫なのは確かだろう。昨晩も栞さんはそう言ったし、僕だってそれを信じている。ずっと引きずっていたものが今から無くなるのに対して何も思わないという事はない、とそれだけの話だ。栞さんは無視をして迂回するではなく、正面切って乗り越えるのだから。
「そっか」
 家守さんの表情が栞さんと同じようなものになる。それだけだと言えばそれだけだけど、相談する側として見れば、これほど心強い応答もないだろう。
「こーちゃんと一緒に来たって事は、こーちゃんのおかげだったりするのかな?」
 はっきりと頷き、「はい」と栞さん。
「いやいやそんな、僕はちょっと手伝っただけって言うか……栞さんだって少しだけ後押しして欲しいって言ってましたし。少しだけって」
「なるほど。つまりこーちゃんのおかげで間違いないってわけだ」
 ぬぐっ。
「さて、じゃあ外で待ってもらってる人もいる事だし、早速取り掛かりましょうかね」
 こんな場面でも人をからかう事を忘れないらしい家守さんは、そう言って立ち上がると私室へ向かう。お呼びが掛からないって事は僕達はここで待ってればいいのかな、なんて考えていると家守さんはすぐに戻ってきて、長い黒髪がゴムで束ねられていました。
「分かっててあげてね、こーちゃん。これはこーちゃんのおかげなんだよ」
 栞さんへの処置におけるそんな前置きと、優しい中にも鋭いものが感じ取れる眼差し。恐らくたった今、握り合っている栞さんの手と僕の手の関係は逆転した。
 そうしてちゃぶ台を挟んで僕と栞さんに向かい合う位置へ座った家守さんは、
「それじゃあ――叶えましょう、あなたの願いを。あなたの望む、あなたのカタチを」
 叶えたいカタチ。傷跡のない身体。栞さんがそれを願い、望んだのが、僕の「おかげ」という事なのだろうか。だとすれば、確かにそこへ背を向けてはいけないだろう。
 束ねられた家守さんの黒髪が、僅かにゆらめいた。


 栞さんへの処置自体は、それこそあっという間に終わった。私室に通された栞さんがふすまの向こうで服の下を確認している時間のほうが長かったくらいだ。
 そして用事が済み、高次さんも部屋に呼び戻されて。
「あれ、もう帰っちゃうの? ――そっかそっか、学生さんなんだもんな。行ってらっしゃい」
 と、どうにも僕との別れを惜しんでいるような言い回しだった高次さん。僕としても、まだよく知らない人であるという点において、高次さんとはいつかゆっくり時間を取りたいものだ。……だけど仰る通りに学生なもので、今回は。
 という事で、101号室を出てすぐ傍にある階段で二階へ。
「朝ご飯もまだだもんね」
「栞さんも何か食べます?」
「うーん……たまには遠慮したほうがいいのかな、こういうのって」
「してくれないほうがいいです。僕としては」
 なんて言ってる間に204号室前。203号室前で立ち止まらなかったところを見るに、栞さんもそのつもりではあるらしい。
「あんまり時間がないんで、トーストだけになっちゃいますけど」
「ご馳走になります」

『いただきます』
「まあ、本当にトーストだけなわけですけど」
「いいよいいよ、美味しいし。……あのさ、孝一くん」
「何ですか? あ、マーガリンよりジャムのほうが良かったですか?」
「ううん、そういう話じゃなくて。さっき傷跡を消してもらったわけだけど……その、見てみたかったり、するかなと思って」
「え。あ、いえ、その……」
「やらしい意味でじゃないよ? 傷跡を見てもらったわけだから、やっぱりその後どうなったかも気になってると思うし。もちろん、無理強いするつもりもないけど」
「……今は、遠慮しておきます。でもそれは時間があまりないからで、時間があって機会もあったら、その時は。栞さんが言った通り、僕も気にはなってますし」
「分かった。じゃあ次の機会にね。今は精一杯、朝ご飯を楽しむよ」

『ごちそうさまでした』
 僕のおかげである事を知っていろ、と家守さんは言っていた。栞さんがずっと引きずっていたものを克服し、その証として傷跡を消したのは、確かに僕のおかげ――重大性を考えれば僕のせいだと言い換えても、問題はないのかもしれない。だからこそ僕には傷跡がなくなった栞さんの身体を見る権利があるし、同時に見る義務もある。
「それにしてもさ」
 そんな事を考えながら空になった二人分の皿を台所の流しに納め、再び居間に戻ると、栞さんが照れたような笑みを浮かべていた。
「お互い、意外と普段通りなんだね。昨日……その、ああいう事があっても」
「みたいですね。僕も意外ですよ、こんなもんなんだなあって」
 多分僕も、栞さんと同じような顔になっている事だろう。
 ああいう事があってからこれまでに普段と違った事と言えば、目が覚めて一番に少々どぎまぎした事くらいだろうか。別に昨晩の行いを引っ張って無闇にいちゃいちゃするわけでもなし、と言って過剰なまでに恥ずかしくなるわけでもなし。二人で食べるトーストは普段通りに美味しゅうございました。
「じゃあ普段通り、行きましょうか」
「そうだね。普段通り普段通り」
 特別な意味があるわけでもないのに、何故だかそれが楽しい。もしくは、嬉しい。当然ながらこんな経験は初めてなわけで、そしてそれは栞さんだって同じなわけで、ならばあまり深く考えても碌な答えは出ないんだろう。
 時刻は八時四十五分。さてさて普段通りに大学へ――
 と玄関を出ながら思った、その時。
『に゛ゃああああああああーっ!』
 平和そのものでしかない平日の朝っぱらだというのに、背筋がびくりと跳ね上がってしまうほどの大音量で女性の悲鳴が!
「なんだ!?」
「成美ちゃん!?」
 声のした方向、先日をもって相部屋となった202号室。そして女声。しかも幼さを前面に押し出したような高い声域。つまりは栞さんの言う通りにそれは成美さんで、しかも猫耳を引っ込めたバージョンであるらしい。
 何が起こったかは分からないものの、こんな事があったならばもちろんその202号室へ――!
「ま、待って! 孝一くん待って!」
 駆け出そうとしたところ、栞さんに後ろ手を引かれた。
「何ですか!?」
「入るのは危ないよ! もしかしたら人魂三つかもしれないし!」
 ――そ、そうでした。様子を見に行って自殺願望の巻き添えを食らっただけ、なんて事になったら余計に事態が悪化するだけだ。
「でも、じゃあ、どうしましょう」
「取り敢えず、声掛けてみるよ。何もなかったら返事してくれるだろうし」
 なるほど、それは無難。でもそれってつまり、返事がなかったらアウトって事ですよね。
「孝一くんは見てるだけね。まだ朝だし、大声出したらご近所さんに迷惑だから」
 この状況でそこまで気が配れるなんて。などと感心している間に、「成美ちゃん! 大吾くん! どうしたの!?」とドアに向かって栞さんが声を上げる。加えて何度か強めなノックをしてみるものの――
「返事、ないね」
「という事は……」
 既にアレが発生して成美さんは、そして恐らく一緒にいるであろう大吾も、ドア越しのこっちの声に反応などしていられない状況にある、という事か。
「中の様子、見てくる。ベランダから回り込んで」
 状況は把握できたもののではどうしようか、と考えていると、一足早く栞さんが行動に出た。202号室の隣室であり自分の部屋でもある203号室に駆け込み、そのままドタドタと足を鳴らして部屋の奥へ。僕も行ったほうがいいだろうかとは思うものの、ベランダの手すりを越えているところというのはあまり、と言うかかなり、人目宜しくない。
 そういう面にだけ頭が回るのは余計に情けないなあ、なんて思っていると、階段を駆け上がってくる間隔の短い足音が複数。見れば、家守さんと高次さんだった。
「おっ、こーちゃん。……だけ?」
「えーと、何があったのかな。喜坂さんは一緒じゃないの?」
 僕は二人に状況を説明した。と言っても、栞さんが行動中である事ぐらいしか伝える話はなかったけど。なんせ成美さん側の事情なんて何も分かってないわけで。
「ははあ。まあ、もう『起こった後』なら、アタシ等が気をつける事はないだろうけど」
「行ってくれてるってんなら、喜坂さんの報告を待たせてもらいましょうか」
 ベランダに出た栞さんを見付けたんだろう、ジョンとマンデーさんの声が裏から聞こえてくる中(恐らくはナタリーさんも一緒だろう。清さんはお出掛けだろうか?)、慌てる様子のない御両名。となれば釣られるようにして僕もという事になるのですが、はてこれはどうなのだろう。危険はないと分かっていても、栞さん一人に任せるというのは。と言って見に行くだけの事を二人でしたって仕方がないし……。
 なんて思っていたところ、203号室のドアが開く。つまりは栞さんのご帰還です。
「あ、来てたんですか」
 家守さんと高次さんの姿を見付けて殆ど呟くようにそう言う栞さんは、顔を伏せがちにしていて明らかに気落ちしていました。まさか、と頭をよぎる可能性。
「感染っちゃったってわけじゃ、ないですよね?」
「うん、それは大丈夫」
 成美さんのあれが身に及んでしまえば、外見にちょっと元気がない、程度で済まない事は知っている。大丈夫なのならそれはそれで一安心なのですが、では一体、何を見てその外見の元気をなくしているのでしょうか?
「えっと……ああ、どうしよう」
「もしかして、よっぽど酷いの?」
 何かを言おうとしながらしかし言い出せない様子の栞さんに、家守さんの声が険しくなる。以前トイレの壁に頭突きを繰り返して血を流していた大吾の事を思い返せば、僕だって穏やかではいられない。成美さん本人は落ち込むだけで済むらしいけど……。
「いえその、今は二人ともうずくまってるだけみたいなんですけど」
 という事はやっぱり成美さんのアレだったという事ではあるものの、しかしまだ自傷行為には出ていない。それは良かった。良かったけどしかし、どうにも続きがあるらしい。そしてその続きは、
「か、楓さん。ちょっと耳を貸してください」
 家守さんだけに話されたのでした。

「何だったんだろうね」
「さあ……」
 栞さんと話を聞いた家守さんは202号室に入り、今頃は成美さんをなだめたり大吾を暴れないように押さえ付けていたりしているんだろう。そうして残った――いや残された男二人は、ドアの前で呆けるばかり。
「楓が怒橋くんで、喜坂さんが哀沢さん」
「そう言ってましたね」
「二人の間でならその分担はまあ分かるとしても、何で俺等は最初から駄目なんだろうね?」
「さあ……」
 気のない返事を返すしかないのがやや重苦しく感じられる。それが昨日知り合ったばかりの人相手だというんだから、尚更だ。あっちはそんな事を気にしてるふうではないけど。
「ところで日向くん、大学のほうはまだいいの?」
「あ、少しだけ時間に余裕持たせてますから。それに……ほったらかしで行っちゃうのも、こっちが気になるばっかりでしょうし」
「はっは、そりゃそうだ」
 あちらが気にしていなくても、こちらは気にしている。そんなわけで高次さんの弾むような笑い声に少々安堵などしたところで、部屋の中から声が。
「男子二人、入ってきてー」
 声の側へ引き寄せられた顔を、再び高次さんと見合わせる。こっちから何を言わなくても、どういう事やら、と肩を竦めて見せる高次さんなのでした。
 入ってきてと言われればそりゃあ入るわけですが、はて中は一体どうなっている事なのやら。
 で、中に入ってその居間を見ての第一声。
『うわあ……』
 高次さんと声が被る。どうやら栞さんと成美さんは私室のほうにいるらしく、しかし居間と繋がるふすまは閉じられていて、姿は見えない。そして家守さんと大吾は居間の側にいるのですが――
 シーツにくるまって伏せってます、大吾。芋虫ごっこでしょうか。
「そのシーツはアタシの仕業だけど、下は裸ね。……まあ、なっちゃんも似たようなもんだよ」
 んなんと。
「あ、耳は引っ込んでたけどね。さすがになっちゃんのそんな姿、男の前にゃ晒せないでしょ? だからだいちゃんだけこっちに引っ張ってきたんだけど」
「うるせえ、うるせえうるせえ、成美が裸で何が悪いんだよ俺が悪いんだよ。俺がなんかこう、アイツに気を利かせてりゃ……」
 こんな状況(外面上も内面上も)であってすらも言い難い事情なのか、その後にもにょもにょと何かを呟いていました。
 ……えー、まあ、ちょっと考えてみましょう。大吾は裸で、成美さんも同じく。今は朝。成美さんは耳を引っ込めた小さい状態。さて、一体何があったのか。
「んで結局、なんでこんな事に?」
 高次さんが半分聞かなくても分かっていそうな苦笑とともに尋ねる。
「んー、ふたりのぼやきから推察するにだね――」

「目が覚めたら服を着ないまま小さい体になっていて、心臓が飛び出るくらいに驚いたのとその心臓が爆発するぐらいに恥ずかしかった、ってところなのでしょうね」
「ワ、ワウゥ……」
「へー。マンデーさん、よく分かりますね。まるで自分が見てきたみたいに」
「想像でしかありませんけどね。でも、昨晩の事があってこの時間帯にですし、逆に言ってそれくらいしか思い付かないのですわ。今の大吾さんなら不必要に成美さんの不況を買うような事もそうそうないでしょうし」
「こればっかりは人間どうのの話じゃなかったりするんですかね。身体の年齢が上下するなんて、人間じゃなくても有り得ないですし」
「ワフッ」
「ですわよね、ジョンさん。――えーと、起き抜けで突然だったからだろう、との事です。平時でなら驚きこそすれ、ここまで取り乱すような仲ではないでしょうし」


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