(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第二十章 騒がしいお泊まり 後編 六

2008-12-08 21:01:01 | 新転地はお化け屋敷
「あはは、考えなくても目の前にあるじゃない。お料理」
「え? まあそりゃ、見えるものではありますけど」
「孝一くんのお料理には、見えないものが込められてるんだよね。楽しい時間を過ごしたいっていう考えが。――先生がそうだから栞も、それにきっと楓さんだって、同じだよ。自分と一緒にご飯食べる人には一緒に楽しくなって欲しい、ってね」
「……今、僕、かなり嬉しいです。いつも自分で言ってる事なのに」
「ほら、やっぱり嬉しいでしょ?」

『ごちそうさまでした』
 灯台下暗しと言うか、不意を突かれたと言うか、間抜けだっただけだと言うか。先生役に嵌り過ぎていたのか、教えた事を返されただけで感激してしまうというすっとぼけたような食事でした。無論、栞さんが言っていた通りに嬉しく楽しい一時でもあったのですが。
 空になった食器を台所へ運び、と言ってその時点で栞さんが帰るという事はいつも通りに無く、そしていつも通りに暫くの間、二人だけの時間を取る。今日に限っては家守さんがいなかったので、料理会の時点から二人だけではあったのですが。
「ねえ、孝一くん」
「はい?」
 テーブルを挟んで二人しかいない中わざわざ名前で呼び掛けられると、なんだか改まったような印象を受ける。しかし栞さんにはそんな気がなかったのか、そしてそんな気があったという顔をしたであろう僕に面食らったのか、ちょっとだけ言葉に詰まる。
「……楓さん、上手くいったかな」
 改まるまでもない、他愛ない話題だった。やっぱり僕の早とちりだったようで。
「本人が納得するかどうかは別にしても、大きく失敗するって事はないと思いますよ。料理自体が無難なものばかりですし」
「だよね」
 こちらの早とちりを引きずっているのか、その口調には陰りが。そしてそれは会話そのものにもそれと似たようなひずみを生じさせ、結果としてそこから両者とも言葉が続かずに話題はぶつ切りの形に。
 人生十八年の経験からして、一度こういう雰囲気になってしまうとそれは、なかなか払拭できるものではない。小さなミスから結構な痛手になっちゃったなあ、なんて思ったその時、
「孝一くん」
 再び名前で呼ばれた。今度こそははっきりと改まったような――いや、それどころか必死さすらも窺えた。もはや早とちりがどうこうだなんてレベルではなく、釣られてこちらの声まで、そして姿勢までもが堅くなる。
「は、はい」
 堅い返事。しかし果たしてそれは、栞さんの耳に届いたのかどうか。声が小さかったという話ではなく、栞さんが胸に軽く握った拳を押し当て、目を閉じていたのだ。こちらの声などお構いなしなように。そして、何かに集中しているように。となれば、もちろんそれ相応の話をしようとしているのは分かる。だけどどうして今、急に?
 ――胸に当てた手がゆっくりと下ろされ、そして開いた目がこちらを真っ直ぐに見据えた。
「ご飯食べてた時に言ってた、『見えないものを見える形に』って話なんだけど」
「あ、はい」
「えーと……栞にもあるよね、そういうの」
「そういうの、ですか」
 あるよねと問い掛けられているという事は、僕はそれを知っているという事なんだろう。しかし、はて。栞さんが持っている何かしらの見えないものを、見える形で表したもの。こんな尋ね方をしてくるからにはさっきの料理云々の話ではないだろうし、見える形……見えないもの。胸に手を当て、目を閉じて、集中するようにしなければ切り出せないような話。うーむ……いや待て、胸に手を?
「傷跡の事、ですか?」
「うん」
 考え始めてから口にするまで暫く掛かった僕の返事を待っていたように、そしてその待ち時間に緊張していたらしく、その表情と体全体からふっと力が抜ける。
 テーブル越しに安堵の笑みを投げ掛けてくる栞さんは、再び胸に手を当てた。
「昨日の夜、この事を孝一くんに話して、見てもらって、受け入れてもらって、それで言ったでしょ? 話した以上はできるだけ近いうちに気持ちの整理をつけて、傷跡は消してもらうって」
「はい」
 昨晩そういう事があったのは、思い返すまでもない。だから僕は即座に頷き、すると栞さんは「それでね」とだけ言って、しかしそこから暫く、視線を表情ごとテーブルに落とした。胸に手を当てたままで。
 このあとの話題が傷跡を中心にしたものになるであろう事は、栞さんに確認を取るほどの事でもない。だけど、この間は何だろう? 昨日の時点で栞さんは笑ってくれていた。近いうちに気持ちの整理をつけるという話をしていた時だって、不安そうな様子はなかった。だから僕も「これでもう大丈夫だ」と安心していたのに、どうして今ここでこうなるんだろう?
 不安になる。もしかしてここでまた問題が出てきたんだろうか、と。――だけど、
「それで……頼らせてもらっていいかな、気持ちの整理をつけるのに」
 顔を上げた栞さんのその言葉に、不安は一気に解消された。要はその一言を躊躇していただけだったのか。
 僕は今までずっと、僕を頼ってくださいとお願いしてきた。だからもちろん、返事は肯定だ。きっぱり「はい」とだけ告げると、不安そうだった栞さんに笑顔が戻る。
「ありがとう。……あはは、わざわざ断りを入れるなんて逆に失礼だよね。あれだけ頼ってくれって言われたのに」
「全くです」
 こうなればもう、冗談交じりの雑談も同然だ。というわけで僕はそのノリのまま、「でも、僕はどうすればいいんでしょうか?」と尋ねてみる。すると栞さんは嬉しそうに少しだけ首を傾け、「そっちに行ってもいい?」と。当然、断るだなんて選択肢は存在しない。
「どうぞ」
 栞さんはテーブルに手をついてゆっくりと立ち上がり、こちらへやって来て、僕のすぐ隣に腰を降ろした。僅かに朱が掛かったその頬を見る限り、僕が何をすればいいのかは大まかながら想像がつく。恋人同士らしく――有り体に言ってしまえば、イチャイチャしましょうという話なのだろう。わざわざ頼らせて欲しいと言われてからの事だったんでちょっと気後れした部分もあったけど、これだったらまあ、毎晩の夕食後と同じだしね。そこに傷跡の話が絡むにしても。
 足の上に置いていた手に、栞さんの手が重なる。もしかしたらこういう場合、男の側から肩を抱き寄せるぐらいしたっておかしくはないのかもしれない。だけど取り敢えず僕は、これまで何度かそうしてきたようにその手を握り返した。
「昨日ね、これの話をしてた時」
 空いているほうの手で胸元を抑え、栞さんが話し始める。
「『愛してます』って言ってくれて、嬉しかった。その時は喜ぶような余裕なんてなかったけど、後になってから凄く、すっごく嬉しかったんだよ」
「……言いましたっけ?」
 と言ってから、とんでもなく馬鹿な返しだったと気付く。阿呆か僕は。
 覚えてない。それは確かだ。でもだからって覚えてない事を公表する事はないだろうに。自分で覚えてなくたって、栞さんがこう言う以上はほぼ確実に言ってるんだから。
「覚えてない?」
「ごめんなさい」
 案の定、胸に当てた手を下ろした栞さんは、目を丸くしていた。何たる失態。
「ああ、いいよいいよ。何となくそうじゃないかなって思ってたし。あの時孝一くん怒ってたし、言ったって事もその後全く話題にしなかったし」
 悪いのはこちらなのにあちらから取り繕われ、益々申し訳なさが増していく。とは言えどうやら本当にそう思っていたらしく、口調と表情に嘘臭さは見受けられなかった。ではどんな口調と表情かと言うと、それこそ今ここで僕がその言葉を口にしたかのように嬉しそうな。
「それに、『わざわざ覚えるまでもないくらいに当たり前だ』って事なのかもしれないしね」
「そ、それはもちろんそうです。いや、そうじゃないんですけど」
 その雰囲気にほだされ、おかげで余計に慌ててしまい、言ってる事がおかしいと自分で分かっていながらどうしようもなかった。そうなんだけどそうじゃないんです。
「ふふ、ありがとう」
 嬉しいやら恥ずかしいやら困ったやらで、色々と右へ左へぶれる僕。しかしそんな僕を貼り付け、ぶれを抑え、こちらの目を覗き込むように、栞さんが真っ直ぐな視線を向けてきた。
「栞もだよ。あの時は言えなかったけど……愛してます、孝一くんのこと」
 繋いでいる栞さんの手に、きゅっと力が入る。
 何か言おうか、それともこの手を握り返そうか。僕がその判断をつけるよりも早く、栞さんは体勢を変えて体全体をこちらに向けた。意図は分からないにしても、なら僕も同じように栞さんのほうを向こう。そう思って正面から向き合うように座り直す。「愛してます」と言われて向き合ったこの状態からは……キス、という事になるのだろうか? もちろんその行為自体には今更緊張も何もないわけですが、あちらが望んでいるものがそれであるかどうかという点においては、緊張というか、戸惑う。
「……孝一くん」
 呼び掛けられると、繋いでいないほうの手にも栞さんの手が重なった。しかしこちらは掌同士を繋ぐのではなく、手首を掴んできた。
「だから、そこに頼っていい? 愛し合ってるって」
 僕の手は掴まれた手首ごとゆっくりと引っ張られ、そのまま押し当てられた。栞さんの胸元に。もう少し範囲を限定するなら――
 着衣越しではあるものの、胸にある大きな傷跡に。
「気持ちの整理をつけるのに、少しだけ後押しして欲しいの。見てもらって、触れてもらって、『傷跡のある栞』を知っていて欲しいの。……もちろんそれだけじゃなくて、単純に好きだからっていうのもあるけど」
 それはつまり、キスどころじゃなくて、という事になるのだろうか。
「今晩、このまま泊まらせてもらっていい?」
 胸元に押し当てられた手の平から伝わってくる二つの感触。温かな柔らかさと、普通なら存在しないであろう僅かな凹凸。それらを受けながら僕は、どう返事をしたのだろうか。その返事までにどれだけの時間を要したのだろうか。
 覚えているのは、返事が肯定の意味を持つものだったという事だけだ。


 栞さんの助けになりたいと思った。助けを求められたのなら、何があっても応じようと思った。だから僕は今までそうしてきたし、求められなくても助けるべきだと判断すれば、栞さんを泣かせてでもそうしてきた。傲慢だった部分もあるかもしれない。自分のせいで流れる涙に罪の意識が湧かなかったわけじゃないし、罪の意識があるのにそうしてきたというのは、やっぱり身勝手だという事になるのだろう。ただ栞さんがそれを受け入れ、僕を認めてくれたというだけの事だ。
 ……今だってそうなのかもしれない。
 これが本当に助けになるのかどうか、信じ切れない部分が確かにある。だけど僕は栞さんが発した助けの求めを受け入れ、栞さんが望んだ通りの事をしている。
 栞さんの助けになろうという気持ちが半分だけのものなら、残りの半分は何だ? 僕の心の半分、もしかしたらそれ以上を占めているものは何だ? 考えるまでもない。好きな異性と一晩を共にするなら、誰だって抱かずにはいられない感情だ。僕はそれに心の半分近くを、いや、心の大部分を占められて、その命ずるままに動いているだけだ。この人の助けになりたいだなんて高尚な考えは切っ掛けであっただけで、今はとっくに吹き飛んでしまっている。それどころか好きだとか愛しているといったものすら、大部分を占める感情の引き立て役にしかなっていない。
 もっと栞さんの綺麗な身体を見たい。
 もっと栞さんの柔らかい肌に触れたい。
 もっと栞さんのくすぐるような声を聞きたい。
 もっと栞さんの撫でるような香りに包まれたい。
 もっと栞さんの暖かい肌の味を感じたい。
 目でも肌でも耳でも鼻でも舌でも、もっともっと栞さんを――。
 僕に残っている心はもう殆どがそれだけだ。こんなふうに色々と考えられていられるのも、そろそろ限界なのかもしれない。余計な事を考えないよう、早く限界が来て欲しいとすら思っているのだから。
 栞さん。栞さん。こんな僕でもあなたの助けになれていますか? 助けになりたいなんてもうこれっぽっちも思っていない僕でも、頼ってもらえますか?
 質問は声にならず、故に回答は得られず、ただこちらを見上げてくる潤んだ瞳を見下ろす事のみをもって、僕は自己満足にもならない「栞さんの助けになる」という行為を確認している。
 目が合う度に微笑んでくれる栞さん。
 時折、言葉や仕草でキスを求めてくる栞さん。
 重ねた口が離れると、決まった流れであるかのように愛を囁いてくる栞さん。
 それに応じて囁き返すと、嬉しそうにぎゅっと抱き付いてくる栞さん。
 ――助けられているのは、僕のほうだったのかもしれない。
 身勝手でも傲慢でも、栞さんは受け入れてくれている。笑顔にそれを見て取っていたからこそ、僕は栞さんを求める事に躊躇いを持たずに済んでいるのだから。

「あのですね、高次さん」
「ん、何?」
「えーと、本日の夕食はいかがでしたでしょうか?」
「え、今になって訊くの? やっと忙しい一日が済んでこれからぐっすり眠ろうってその直前に? 食べてる時も俺、散々美味しい美味しい言ってたような気がするんだけど」
「高次さんが自分から言う『美味しい』は信用できないんだもん。何処で何食べたって言うし。だからわざわざこんなに時間を置いてだねぇ」
「ああ。あー……そっかそっか、狼少年みたいなもんか。まるっきり嘘とまではいかないにせよ」
「で、率直にどうだった? 今まではほら、一緒の食事って言ったら『おデートで』だったから、配慮してたってとこもあるだろうけどさ」
「でも、今ここで美味しかったって言ったら信じてもらえるのか?」
「高次さん、知ってるかなあ。こういう状況で嘘つくのは悪党なんだよ? そしてアタシは悪党の婚約者になった覚えなんかないんですよこれがまた」
「なるほど、俺も悪党なつもりなんてないしね。んじゃあ嘘はつけないなぁ。……ところで、こういう状況ってどういう状況?」
「言わせようとしないの。お互い、どんな格好してるのさ今」
「んー、食事の話する格好じゃないのは確かかなあ。……ごめんごめん、ちゃんと正直に答えるって」

 心の大部分を占めていた感情が役目を終えて姿を消す。そうして空いた部分を埋めるように押し寄せてきたのは、目の前の女性へ対する愛情だった。姿を消した感情に代わって僕の心を埋め尽くしたそれは、激しいものである筈なのに、まるで穏やかだった。
「孝一くん。栞ね、今凄く幸せだよ」
「僕もそうです、栞さん」
 およそ全ての思考回路が一人の女性だけを想起し、その女性の事だけしか考えられない僕はその女性に支配されていると言っても過言ではなく、しかもその女性が目の前にいる。
 ついさっきまでのようにその身体を求めるわけではなく、ただその人が隣にいるというだけで満たされていた。そして満たされていたからこそ、思った事がするりと口から出る。
「助けになれましたか、僕は」
 こちらを向いて横たわっている栞さん。その顔から視線を降ろし、傷跡を見る。指で触れ、口で触れ、舌でも触れたそれは、当たり前ながら未だそこにあった。何も変わっていない。僕は何かを少しでも、変える事ができたんだろうか。
「今までで一番幸せなのに、栞、今泣いてないよね?」
 それが栞さんの答えだった。涙を流さず笑顔の絶えない栞さんのその表情が、何より僕が彼女の助けになれた事を表してくれていた。
「そう、でしたね。言われるまで気付かないなんて、いつの間にか過程が目的になってたみたいです。今まで頼られようとしてきたのはそのためだったのに」
 これは実に格好が悪い。気恥ずかしくなって誤魔化しの苦笑を浮かべると、硬くなった頬の筋肉に栞さんがふわりと手を添えてきた。
「それだけ真剣になってくれてたって事だと思うよ。だから栞、孝一くんに頼ったら絶対何とかしてくれるって思えたんだし」
 柔らかくて温かい手と、優しい言葉。報酬としては十二分だった。
「でも、だから、もう大丈夫。辛かった昔も、幸せな今も、どっちも受け入れられる。大切な人がどっちも受け入れてくれたから」
 頬に触れていた手がするりと首の裏へ滑り込み、そのままもう一方の手と合わせて、緩く抱きしめてきた。
「ありがとう」

「ま、初めから自信はあったんだけどねー」
「へえ? じゃあ、喜坂さんとか楽さん辺りに何度か食べてもらってたとか?」
「ううん、それどころじゃないよ。毎晩作って毎晩食べてた。優秀な先生と、アタシと同期の可愛い生徒も一緒にね」
「って事は……料理教室にでも通ってたのかな。でもそんなの、仕事もあるし大変だろうに」
「それがそうでもないんだよね。なんたってその教室、ここの204号室だし」
「ん? それってつまり……ははあ、なるほどね。じゃあ可愛い同期っていうのは喜坂さんか」
「本当は秘密にする予定だったけど、夏の終わりまで習う予定だったのを急に取りやめるのも詮無いし、ならどうせバレるしね。こーちゃんには受講料も払う約束だし。……そうだ、そろそろバイト料支払いの時期かな」
「ごめんな、いろいろ予定を狂わせたみたいで」
「それはもういいって。アタシだってさ、早く帰ってきてくれたのは嬉しいんだから」
「……だな。ところでさ、その先生――日向くんって、どんな人? 二階の引越し作業以外はここでじっとしてたから、まだあんまり話せてないんだよね」
「ふふ、これまでの例に漏れずいい子だよ」
「……説明それだけ?」
「うん。『いい子』以上のところは、アタシ等じゃなくてしぃちゃんのものだろうしね。外野は『いい子』だけで我慢すべきだと思うよ」
「なるほどね。好きだとか愛してるだとかって結局、その人を他の人から区別してるのと同じだもんなあ。誰にでも同じように接してるんだったら、つまりそれは特別な人がいないって事になるのか」
「もちろんこ-ちゃんだけの話じゃないし、男女の仲についてだけの話ってわけでもないけどね。だから面白いんだよ、人間関係ってのは」
「ここの二階部分だけ見たら、『男女の仲』ばっかりに見えるけどね」
「ありゃ、自分達は棚上げなんだ?」
「……俺、楓の『区別した先』を引き出せてる?」
「もちろん。そうやって分かってるくせにわざわざ聞いてくるところとか、情けないくらい引き出されちゃうね。――分かってるから、アタシからは聞かないよ?」
「ありゃ、目論み失敗」
「二階部分かぁ。大胆な行動に出ただいちゃんとなっちゃんは、どうなったのかなぁ」
「しかも話逸らすんだ。……もう寝てるんじゃないの? 時間が時間だし」

「なあ、成美」
「ん?」
「いきなりこんな事訊いていいのかどうかだけど……オマエの前の旦那サンってどんな人――いや、どんな猫だったんだ?」
「なんだ、本当にいきなりだな。こんな時にお前以外の男の話をしろと?」
「あ、いや……悪い」
「はは、そう落ち込むな。冗談だよ。昔とは言え本気で愛した相手だ、その話をするのに気後れなどあるものか。……お前さえ良ければ、だがな」
「自分から訊いといて良いも悪いもあってたまるかっての」
「それもそうだな。ふむ……どういう男だ、と言われたらまずは物静かと言うか、いっそ無口だったな。周りの評判もそうだったし、わたしと二人でいる時もそうだった」
「それでも、好きだったんだろ?」
「ああ。無口なのは別に悪い事だとも思わんしな。無口だったがずっと傍にいてくれたし、何より、本当に必要な事はきちんと言ってくれるやつだった。しかし……」
「しかし?」
「わたしのどこを好いてくれたのかは、聞けず仕舞いだったな。聞けないままあいつは次の相手の元へ、だ」
「次のって……」
「む。おいおい、勘違いするんじゃないぞ? 猫の生き方としてはそれが普通だし、わたしもそれについて何を思ったりしたわけでもないからな。別れだってきちんと済ませたのだぞ」
「ああ、そうだったな」
「ただ、わたしはそういう生き方ができなかったがな。だから猫だった時の――生きていた時の相手はその男だけ、というわけだ」

「今日、こういう事があって大丈夫になれたんだけど」
 抱き合った形から僕の胸へ顔を押し付け、栞さんが言う。胸板にその声による空気の振動が伝わり、同時に吐息が掛かって、少しだけくすぐったい。
「こういう事」というのが何を指しているかは、疑問に思う必要すらないだろう。だから僕は何も言い返さず、栞さんの言葉を待つ。
「でももちろん、この事だけで大丈夫になったってわけじゃないからね? 今までの事があったからって面もあるし、そもそも今までの事がなかったら、まだこういう事にはなってなかったと思うから」
 ただただ嬉しい言葉だった。自分でもそれくらいは分かっている筈なのに、言われてしまうと嬉しくて仕方がない言葉だった。
「だからね、さっきの『ありがとう』は、今までしてくれた全部にありがとうなの。料理を教えてくれて、デートしてくれて、困ったら助けてくれて、……栞の事を好きになってくれて、本当にありがとう」
 その言い分だと、僕の側からだって栞さんにありがとうと言わなければならない。だから僕は、栞さんの顔に手を添え、こちらに向けさせた。
「僕からも」
 言えばきっと喜んでもらえる。だから、その顔を見たい。
「ありがとう、栞さん」
「うんっ」

「その旦那サンがオマエのどこに惚れたのかは分からねえけど」
「む?」
「オレは、オマエのそういうところに惚れたんだと思う」
「ふ、そうか。……幸せ者だな、わたしは。しっかり愛してくれる男に二人も巡り合えるとは」
「んなもん、オマエがしっかり愛してくんだからこっちもそうするしかねえだろ。巡り合ったって部分もそりゃあんだろうけど、オマエがそうさせたって部分もあんだからな? それがなきゃ、言っちゃ悪いけど、見掛けだけとは言え小さい子どもに惚れるなんてあるかよ。今はそりゃ、小さくねえけど」
「惚れてくれてありがとう、怒橋」
「……ここで礼なんか言うなよな。恥ずいから逃げようとしただけなんだっつの」
「それを分かったうえで礼を言ってるんだよ。逃げられてたまるか」
「ぐっ。ま、まあ、愛してるとか言っちまってたら恥ずかし紛れどころじゃねえんだけどな」
「ふふ、確かにな。――ところで今ふと思ったのだが、人間の男女は一緒になると苗字を揃えるんだったな? わたし達はどうするのだ?」
「え!? いや、別に結婚したってわけじゃねえんだし……」
「む、そういうものか。まあわたしもこの名前を捨てたいわけではないし、と言ってお前に哀沢を強制したいわけでもないから別にいいがな。……だが、同じ苗字になっていてもおかしくない状況なのにまだ苗字で呼び続けるというのも、何かなあ」
「それ、オレの話か?」
「うむ。――よし、決めたぞ。これからは苗字で怒橋ではなく、名前で大吾と呼ぼう。了解してもらえるか? 大吾」
「あ、ああ。オレは全然構わねえぞ」


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