さて、それから暫らくしてやっとこさ年齢の話から抜け出せた我々は今、目的地への階段を一歩一歩上っている最中です。
その階段も建物が大きい分高いわけでして、あーあとどれくらい続くんだろうこれ。
二人並ぶのが精一杯の幅で隣を歩くのは、ウェンズデーを抱えたままの栞さん。まあウェンズデーが自力で階段上れないから仕方ないんだけど。
一方僕と栞さんの前には、背負ったままで上るのはさすがに疲れるのか大吾と成美さん分離済み。まあ人を背負ったままで階段上るなんてもうトレーニングの粋だしね。小さいけど。
という事で。
「代わりましょうか? ウェンズデー抱えるの」
ペンギンだって重さが無い訳じゃないしね。成美さん以上に小さいけど。
「そう? ありがとう孝一くん。そろそろ腕が疲れてきちゃってたんだー」
それはそれは。階段上る前からもずっと抱えてたんですもんね。
「も、申し訳ないであります」
手から手へと受け渡されながらそう謝るウェンズデー。すると栞さん、
「いいっていいって。困った時はお互い様って言うでしょ?」
と僕の胸に移ったウェンズデーの頭にそっと手を置く。するとウェンズデー、今までよりやや張り切りめに翼をぱたぱた。振り幅も若干大きい。
「で、では自分も栞殿が困った時はできる限り頑張らせてもらうであります」
いつもと違う視点でそんな様子を眺めていると、思わず表情が緩んでしまうのであった。
可愛いヤツだなあ。
「ふふ。ありがとっ」
「さー頑張ってここまで上ってきたのに一瞬で真っ逆さまだよー」
もうちょっと違った表現方法はないもんでしょうか家守さん。
はいそうです。てっぺん到着です。階段を上りきると同時に「ありがとう」と手を出す栞さんにウェンズデーを差し出しつつ改めて下を覗き込んでみると、下から見上げるよりも迫力満点。高い所苦手な人には辛い眺めだろうなあ。では訊いてみましょう。
「本当に大丈夫ですか? 成美さん」
「何がだ?」
けろり。
………あれ?
「え、だって高い所が苦手なんじゃあ」
「言っただろう、猫は高い所は得意だ。まあそれ故に狭い所に入り込んで立ち往生してしまうやつも稀にいるが」
確かにニュースとかでたまにお目にかかりますが、じゃあ最初のあの怖がりっぷりは一体なんだったんでしょうか?
と僕が訊く前にその答えを教えてくれたのはもちろん大吾。
「コイツが駄目なのは落ちる先が水ってとこなんだろうよ。んなに深いわけでもねえのにな」
「言うな馬鹿者! せっかく落ち着いて――――あ、いや怖くなどないのだぞ断じてな!」
そんなに水が駄目ですか。この高さが全く平気でその先の浅いプールが怖いっていうのも変な話だなあ。まあ怖がってる本人からしたら変とか言ってる場合じゃないんでしょうけど。
あ、そうだ。こういう所でのお約束が一つ。
「成美さん」
「何だ」
「これって身長制限とかは……」
もちろん、睨まれる。でも仕方ないじゃないですか安全管理上。死なないとは言え危ないものは危ないんですから。
黙り込んでしまった成美さんの代わりに大吾が、
「あーあーそれなら大丈夫だったぜ。ギリギリだったけどな」
と成美さんの頭をポンポン叩く。二言目をやたら強調して。それに対して成美さん、
「余計な事は付け足さんでいい!」
普通にビンタするような勢いでその頭の上の手を払いのける。
そうですかギリギリだったんですか。ならちょっと膝を曲げれば「身長が足りないから無理だ」って事にできたでしょうに。やっぱり今以上に小さいと偽るのには抵抗があったんでしょうか?
「んじゃ人数が人数だし、二手に分かれよっか。どう分かれる?」
ゴムボートがスタンバイ済みなチューブの入口は二つ。という事で仕切り役の家守さんがグループ分けを提案するも、
「あー、まあ訊かなくてもだいたい決まってるか。じゃあそっちお二人はごゆっくり~」
と誰が何を言うでもなくグループ分け終了。
「ゆっくりも何も落ちるだけじゃねえか」
そんな決定は想定内だといわんばかりにどうでも良さそうな一方と、
「に、人数が少ないほうが軽くなってゆっくりになったり………」
それどころじゃなさそうにチューブの先を眺めてブツブツ言ってるもう一方。多分全然変わりませんよスピードは。希望的観測をぶち壊すみたいで悪いですけど。
「んじゃさっさと行こーぜ。ほれ、オマエ前行けよ」
「何故だ? お前が前でいいではないか」
文句を言うというより助けを請うような普段よりちょっと高い声。そんな声を出しながら大吾のほうを振り返るのだが、視線はちらちらと水が流れるチューブへ引き寄せられる。だが無情にもそのチューブは、僕がギリギリまで覗き込んでも先が見えないくらいにのっけから急角度なのでした。成美さんの身長で、しかもちらちら見てるだけじゃあ先なんて全く見える筈もなく、ぽっかりと空いた口は余計に恐怖心を煽るばかり。
それゆえ少しでもその恐怖心を和らげるために前に座るのを嫌がる成美さんでしたが、
「普通小せえヤツが前だろが。倒れた拍子に下敷きになっても知らねーぞ」
救いの手は差し伸べられず。
「うぅ~……」
これは大吾が正論だったか成美さん、文句は言わずにためらいつつそろりそろりと片足ずつゴムボートに乗り込む。それを見届けると彼女のゆっくりさとは対照的に、ぼすんぼすんとゴムボートを揺らしながら足を突っ込む。
「おっ、おい! もう少しそっと」
その揺れにびくりと体を震わせて抗議しようとする成美さん。しかし大吾は最後まで言わせず、
「しゅっぱーつ」
「乗にゃああああぁぁぁぁ………!」
行ってらっしゃーい。
ってこんなタイミングで出発させちゃっていいもんなんですか係員さん!? 危ないですよ!?
「『にゃあ~!』だって! あっはっはっは! なっちゃん可愛い~!」
振り返ってみれば何やらスイッチらしきものに指を突っ込んだまま大笑いする女性と、その傍らで気まずそうに佇むやけに男前な係員さんが一人。目つきが冷ややかと言いますか、ちょっと怖いですけど。……ん、一人だけ? まあ発進がスイッチでなら一人でもこなせますかね。とそれはともかく。
なるほど貴女の仕業ですか家守さん。大吾もあのスイッチを家守さんが押さえてたって気付いてたんだろうな。
「今のはちょいと危なくないですか家守さん」
正直成美さんの叫び声は面白かったけど、道徳心的にそれを言っちゃあおしめえよなので言わない。口元が緩むのもついでに抑えようとしたけど、多分抑えきれてなくてひくひくと筋肉が痙攣するのが自分でよーく分かった。
ごめんなさい成美さん。
「だいじょぶだいじょぶ。だいちゃんがしっかりとなっちゃんの肩抑えてたから。アタシだってそのくらいは確認してスイッチ押したよいくらなんでも」
悪びれる様子もなくへらへらと笑い続けるおっかない勤め先の花嫁に、係員さんの表情は更に気まずさを増すのだった。そして溜息を一つつくと、気まずさゆえに半開きだった口を開閉させる。
「勘弁してくださいませんか楓様。成美様がもし機嫌を損ねられましたら、ここが営業停止に陥るやもしれないのですから」
おお、仮想世界の中だけのものだと思っていた様付け初視聴。ん? 成美さんも?
「あっははー。ゴメンゴメン今回だけ。いやまあなっちゃんもあれで楽しんでるだろうからヒトダマ三つはないって」
ヒトダマ三つというとあれですか。自殺強要の青い火の玉の事ですか。なるほどここならロープはいらないですね。なんたって沈める水がたんまりありますから。あな恐ろしや。
「ならば良いのですがね。やれやれ」
言葉使いの丁寧さとは裏腹に意外とフレンドリーに話し掛ける係員さん。大きい家って言うからなんというかもっとガチガチした上下関係っぽいものを想像してたけど、テレビとか漫画に影響され過ぎって事だったんだろうか? それとも家守さんが「そういう人」で通ってるだけ?
ごく平凡な一般庶民としてはホッとするところもあるそんなやり取りの後、ついに僕達四人の番が。まあその内の一人は持ち物みたいな扱いだけど。
僕を含む三人がチューブに近付くと、栞さんがゴムボートへの一歩を譲ってきた。
「じゃあ孝一くんが一番前でいいかな」
「え? はあ、構いませんけど」
大吾的理論を用いたとしても三人の身長は殆ど一緒ですし、ウェンズデーはまあ誰かが抱えてればいいでしょうしね。しかしなぜ?
すると栞さん、ウェンズデーを抱く腕にちょっと力がこもる。
「一番前はちょっと怖いかなって。えへへ」
なるほどそれで僕が前ですか。家守さんが前という選択肢もあったでしょうに、二択にするまでもなく僕ですか。まあいいですけど。
言われた通りに一番前へ座り、後ろに栞さん、家守さんと続いて準備完了。あとは係員さんがスイッチを押すのを待つだけとなり、否が応にも緊張が高まる。ジェットコースターで言うところの坂を登ってる状態ですかね。なんたって目の前にはいきなり急流ですから。
足元を流れる水と一体になって落下するのは一秒後か三秒後か、とそわそわしていると、係員さんの声が聞こえてきた。しかしそれは期待していた発進の合図ではなく、さっきの会話の続きだったようで。
「あ、楓様。出発の前にですね」
「ん? どしたの?」
「今の時間はお客様が少ないので問題ないのですが、増えてきたら幽霊の皆様方には生者同伴という事でお願い致します」
「そだね。無人のゴムボートが落ちてきたらどうみても事故だもんね」
「そういう事です。では行きますよ」
「どんとこーい!」
幽霊もいろいろ制限があって大変なんだなと思った途端の発信合図に、身を多少縮こませて体勢を整えると同時に心の準備も万端。すると背後から、
「しし、栞殿。絶対に離さないでくださいであります」
くちばしパクパクによる空気の振動が背中を打つ。ん? 真後ろがウェンズデーって―――
「だいじょーぶだよ」
「では行ってらっしゃいませ」
その声と同時にゴムボートがガクンと揺れ、前進開始。悲しい事に直前に思い浮かんだ不安を解消できぬままで。
「ちょっと待っ、てぁあぁぁー!」
待つ筈ないですよねえええぇぇぇぇー!
チューブの中へとまるで巨大なストローで吸い込まれたかのように落ち込んだ後、急加速したゴムボートは右へ左へグルングルン。
その激しい揺れとスピードに、チューブの中には楽しげな悲鳴が響く。本気で恐怖している僕を除いては。
そして揺られに揺られて体勢を崩したその時、
「っだっぎゃあああああ!!」
僕の悲鳴は最高潮へと達したのでした。
その後もゴムボートが水面に叩き付けられるまで叫び続け、豪快な音を立てながら着水した後は女子組上機嫌。
「やー面白かった! しぃちゃん、もっかい行かない?」
「はい!」
一方の男子組。
『………!』
二人ともゴムボートから投げ出された場所から動けず。なぜ動けないかと言いますと、うずくまってしまうほど痛いんですよ僕もウェンズデーも。
背中を抑える僕とくちばしを抑えるウェンズデーに、ざぶざぶ近付いてきた女子二人も何があったかすぐに悟ったらしい。心配そうな口調で声を掛けてくれた。
「ぶつかった、って言うか刺さっちゃったんだねー……こりゃ痛いわ」
「だ、大丈夫? 二人とも」
ゴムボートの座り位置を決める際に、ウェンズデーを持ち物扱いして前に座らせなかったのがまずかったか。
ごめんね。これは多分そんな失礼な扱いをした僕にバチが当たったんだよ。本人も巻き込んじゃってるけど。
「あんまり大丈夫じゃないかもです……」
あ痛ったあ~。
「おごごご……くち、くちばしがへこむであります……」
口を押さえて涙目になりながら水面を仰向けで漂う。
なんかもう、本当ごめん。今回こんなのばっかりだねウェンズデー。
血とかは出てなかったようで安心しつつも、立つのがおっくうなほど背中が痛いのでひとまず休憩。だからと言って待ってもらうのも悪いので、もう一度乗ろうと言う家守さんと栞さんには僕を置いて行ってもらいました。ウェンズデーは強制連行で。まあ一番前に座りさえすれば安全だから、僕の分まで楽しんできてください。
「いやあ災難でしたね日向君。大丈夫ですか?」
プールサイドに座り込む僕の隣には清さんが。らしいと言うかなんと言うか、こんな時でも笑顔なんですね。取り敢えず元気付けようとしてくれてるって事にしておいて、こっちも負けじと笑顔を返す。
「ま、まあ怪我にもなってないですしね。あははは」
その笑顔がまだ引きつってるのはご愛嬌。そんな事考えてると余計痛みが増してる気がするので、話題変えましょう話題。先に落ちてった割に姿が見えない二人についてでも。
「ところで、大吾と成美さんはどこ行ったんですか?」
「ああ、あのお二人ならもう一度あれに乗りに行きましたよ」
と言って顎を指すのはもちろん、背中の仇の水滑り。
あ痛ててて。ってのは気にしないことにして、そうですかもう一度行きましたか。意外ですね、大吾はともかく成美さんはもう行かないと思ってたんですが。
ふと思いついたのは、離せ離せとわめく成美さんを肩に担いで無視しながら、すたすたと階段を上っていく大吾の図。
「成美さんは無理矢理連れて行かれたとかそんな感じですか?」
「いえ、『思ったより怖くなかっただろ』ときちんと説得して、同意の上で仲良く階段を上がっていきましたよ」
確かに怖いのが水だけって言うのなら、着地点は浅いんだしそんなに怖くないのかも。乗る前に大吾が言ってた気もするけどね。
「と言っても哀沢さん、少し放心状態だったようでしたがね」
あれ。
「もしかしたら上で家守さん達と合流してるかもしれませんねえ」
と清さん、ウォータースライダーを見上げる。釣られて僕も見上げる。もちろんここからてっぺんなんか見える筈はないんだけど。
その見上げた姿勢のまま、
「そうだ。今なら他に誰もいませんし、よろしければ教えましょうか? 私が年を取る理由。んっふっふっふ」
と笑う清さん。車の中で言ってた「機会があったら」っていうのは「二人っきりになったら」って事だったんですか。より聞きたくなりますねえそういう条件が付け加えられると。
「聞かせてください」
僕がそう返事をすると、清さんは顔を下ろしてこちらに向けた。
「手短に言いますよ」
「はい」
「愛し合う家族がいるという事です」
愛し合う………はい。
「本当に短いですね」
「本当にそれだけですからねえ」
そう言いながら清さん、恥ずかしそうに頭に手を当てた。それで二人っきりが条件って事ですか。「様」に続いて現実世界ではじめて聞きましたよ「愛し合う」なんて言葉は。そりゃあさすがに恥ずかしくてもおかしくないですよねえ。冗談で言うならともかく、それが条件だって事は本気でって事なんですし。
「んー………やっぱりもうちょっと追加します。さっきのに加えて『生きている家族』ですね。私が自分で妻と息子と同じ時間を過ごす事を選んだ、と家守さんに言われました。自覚は無かったんですがねえ」
「格好いいですね清さん」
「いやこれは、まいりましたねえ。あっはっはっは」
冗談半分に褒めたところ、清さんはこっちから目を逸らすように後ろに手をついて空を見上げた。
半分は冷やかしですけどもう半分は本気ですよ? 経験はもちろんないですけど、やっぱり凄い事なんでしょうし。
笑い終わると、清さんは顔を下ろした。
「私は幸運だっただけですよ」
「え?」
「家守さんによれば、相手がこちらを認識できるのも条件の一つなのだそうです」
「そう――なんですか」
更に高くなるハードルになぜかこちらが気圧され、無意識の内に横から押されたかのように片手を床につけた。それを知ってか知らずか、清さんが後ろに反った上半身を捻ってこちらに向ける。そうされると余計押される感じが………まあもちろん気のせいなんだけど。
「言われてみれば当たり前なんですけどね。そうでもなければ死んでしまった相手と愛し合うなんて事、できやしませんから」
返事はできなかった。僕には経験が無くて、本当にそうなのか分からないかったから。
……違うか。分からないのなら「そういうものなんですか?」とでも訊けばいい。ならなぜ訊かなかったのか。いや、訊けなかったのか。
清さんの言い分を聞いた瞬間、僕は多分頭の中で「ああ、そりゃそうですね」と同意した。亡くなった人の事を残された人が、あ……愛し続けていたとしても。そしてその亡くなった人が実はすぐ傍にいたとしても。残された人が見るのはその人自身ではなく、その人の遺影だ。お互いに愛する事はできても、愛し「合う」事はとても無理だ。
そう思って、すぐに打ち消した。どうしてだと説明を求められたらきっと答えられないけど、打ち消した。そして二の句が続かず、黙り込む形になってしまう。
「………あ、申し訳ない。また熱くなって余計な事を言ってしまいましたね」
動きを失った僕の代わりに清さんが口を動かすと、僕が自分で掛けた金縛りはあっさりと解けた。そして今度は返事もちゃんと。
「い、いえいえ余計な事だなんてそんな。ためになりますよ人生の先輩の話は」
「そうですか、それは何より。恥ずかしい思いをした甲斐もあるってものですねえ」
そう言って清さんはいつものように笑う。このとき初めて清さんのこのいつもの笑いが、とても頼もしく感じられた。
「ぁぁぁぁぁあああああああっほーーーーい!」
ほーい。
どばしゃー。
「二週目、ご到着ですねえ」
「ですね」
騒々しく水面に激突した恐らく定員ギリギリなゴムボートから投げ出された四人は何事もなく立ち上がり、一匹はそのまま泳いでこちらへ帰還。おお、大吾のツンツンヘアーがぺちゃんこだ。
それはともかく、どうやら今回は事故はなかったみたいだね。良かった良かった。
事故と言えば、清さんと話してる間に背中の痛みも引いたし次は僕もご一緒できそうですよ。と言ってもさすがに三回連続は
『プールからお上がりくださーい。休憩時間に入りまーす』
そうきましたか。そうですよねそろそろ来るだろうと思ってましたよその時間が。
「あはは。こーちゃん休憩しっぱなしだねー」
「背中はもう大丈夫? これが終わったら一緒に遊ぼうね」
「痛いのがなければ楽しいのであります! 孝一殿もまた一緒に乗るであります」
「ほれ、ウェンズデーですら面白がってんだぞ?」
「ああ……ああぁ………」
みんなが水から上がれば、休み時間という事でそれぞれみんな地べたなり椅子なりに座って一息つく。僕と清さんはもう何息ついたか分からないけど。
「孝一くんも清さんも、待ってる間暇だった?」
膝の上にウェンズデーを座らせて、自身は椅子に腰掛ける栞さん。適当な位置でバラバラと床に腰を降ろす男三人組のほうを向いて問い掛けてきた。と言っても大吾の後ろには、その背中に寄りかかるようにして成美さんも座ってますけどね。どっと疲れた様子で。
「いえ、日向君とお喋りしてましたから存外暇でもなかったですよ。ねえ日向君?」
「そうですね。いいお話でした」
すると栞さんとテーブルを挟んで向かい合い、こちらに背を向けて椅子をやや後ろに傾けつつ家守さんが仰け反り気味に振り返る。そんな格好で仰け反られるとその、胸が強調されてですね。いやまあ指摘はできる筈ないんですけど。なのでその件は記憶に留めつつ置いといて。
その振り返った顔はまるで僕達が何を話していたかを知っているかのように、にっかりと嫌らしく笑んでいました。
「せーさん、その話ってあの話?」
ああ、これはもう確信してるな家守さん。代名詞だけで伝えようとしてる辺り。
一方そのお向かいでも、
「え、何の話? ウェンズデー分かる?」
「多分車の中で話していたアレの事だと思うであります」
「あぁ~あ」
やっぱり大事なところは代名詞で、しかしそれにちょっとヒントを加えただけであっさり了解する栞さん。
さらにもう一方の背中合わせに座っている凸凹ペアは、
「車ん中? 寝てたから知らねえな。おい、何の話だ?」
「楽が年を取る理由についてだ」
「ああ、あれな」
こちらはモロに答えを教えてますが、それでもその反応を見る限りはやっぱりもともと知ってたようで。ところで大吾、髪戻らないね。垂らしたら意外と長いんだなあ。中途半端な長髪みたい。
「で、こーちゃん感想は?」
「へ?」
唐突な質問とその内容に驚きつつ顔を声がしたほうに向けると、もっと驚く羽目になった。
「か、楓さんこけちゃいますよぉ~」
栞さんの言う通り、家守さんが座っている椅子は今にも倒れそうだった。椅子がさっきよりも更に後ろに傾けられ、しかも家守さん自身がその危ない角度の椅子にかなり体重を掛けてもたれているのである。つまりは背もたれから後ろにふんぞり返って上下逆転した顔。そんな体勢。
だから胸が強調され過ぎですってば。ただでさえ平均よりちょっと大きいんじゃないかなー、ってだからそこは置いといて! そもそも僕、そんな事の平均値なんか知らないじゃないか!
「いっそこかしてやれよ喜坂。イス蹴ってやれ」
「あぁ~、だいちゃんが酷い事言う~。分かったよ分かったよぉ」
背中が気持ちいいんだけどなこの体勢、と名残を惜しみつつ普通の座り方に戻ると、ガタガタと椅子ごと回転してこちらを向きなおした。
「で、かんそーは?」
「感想って言われましても……『いい話だなー』とかじゃ駄目ですか?」
駄目なんだろうなあ。
「ダメダメ」
やっぱり。
「こーちゃん分かってないよ。こーちゃんだってせーさんの奥さんと同じで見える人なんだよ?」
あ。
「もしかしたら将来同じような事になるかもしれないんだよ?」
ああ。
「まあまあ家守さん、あまり虐めるのはよしてあげましょうよ。寿命は男性のほうが短いんですから」
そんな妙にリアルな理由で止められると余計肝が冷えますよ。寿命って、自分で言うのもなんだけどこの若さの内からそんな先の話を考える事になるなんて。
と言いますか現在そのような関係になりうる人物が悲しいかな存在しておりませんので、見える見えないとか寿命とか云々以前にまずそこを考えていきたいのです。考えたところでどうにもならない問題なのが更に悲しいですが。
「ふっふっふ、大丈夫だよせーさん。今のはフリで、本番はここからなんだから」
それ、大丈夫とは言わないです。今のがフリって何なんですか一体。
家守さん、目つき鋭く人差し指も鋭くズビッっと僕を指す。
「ズバリ! こーちゃん今そーいう女性はおるのかね!」
「ズバリいないです」
時よ止まるな。
「………ありゃ~、即答だねぇ。なんかゴメン」
訊かれる直前に考えてた事そのものだったので、口が勝手に脊髄反射してしまいました。信号が脳を介さずに直接筋肉に伝わるため、その分反応が早いんですよ。凄いですねえ。
「別に謝られるような事じゃないですよ」
て言うか謝られたら余計辛いですよ。
すると栞さんは座ったまま少し前かがみになって、
「でもほら、孝一くん大学に入ったんだからたくさんの人と知り合えるし」
「まあそりゃそうでしょうけど………」
現実に希望を見出そうとするその意見に、僕だけでなく家守さんとウェンズデーも栞さんのほうを向く。
その階段も建物が大きい分高いわけでして、あーあとどれくらい続くんだろうこれ。
二人並ぶのが精一杯の幅で隣を歩くのは、ウェンズデーを抱えたままの栞さん。まあウェンズデーが自力で階段上れないから仕方ないんだけど。
一方僕と栞さんの前には、背負ったままで上るのはさすがに疲れるのか大吾と成美さん分離済み。まあ人を背負ったままで階段上るなんてもうトレーニングの粋だしね。小さいけど。
という事で。
「代わりましょうか? ウェンズデー抱えるの」
ペンギンだって重さが無い訳じゃないしね。成美さん以上に小さいけど。
「そう? ありがとう孝一くん。そろそろ腕が疲れてきちゃってたんだー」
それはそれは。階段上る前からもずっと抱えてたんですもんね。
「も、申し訳ないであります」
手から手へと受け渡されながらそう謝るウェンズデー。すると栞さん、
「いいっていいって。困った時はお互い様って言うでしょ?」
と僕の胸に移ったウェンズデーの頭にそっと手を置く。するとウェンズデー、今までよりやや張り切りめに翼をぱたぱた。振り幅も若干大きい。
「で、では自分も栞殿が困った時はできる限り頑張らせてもらうであります」
いつもと違う視点でそんな様子を眺めていると、思わず表情が緩んでしまうのであった。
可愛いヤツだなあ。
「ふふ。ありがとっ」
「さー頑張ってここまで上ってきたのに一瞬で真っ逆さまだよー」
もうちょっと違った表現方法はないもんでしょうか家守さん。
はいそうです。てっぺん到着です。階段を上りきると同時に「ありがとう」と手を出す栞さんにウェンズデーを差し出しつつ改めて下を覗き込んでみると、下から見上げるよりも迫力満点。高い所苦手な人には辛い眺めだろうなあ。では訊いてみましょう。
「本当に大丈夫ですか? 成美さん」
「何がだ?」
けろり。
………あれ?
「え、だって高い所が苦手なんじゃあ」
「言っただろう、猫は高い所は得意だ。まあそれ故に狭い所に入り込んで立ち往生してしまうやつも稀にいるが」
確かにニュースとかでたまにお目にかかりますが、じゃあ最初のあの怖がりっぷりは一体なんだったんでしょうか?
と僕が訊く前にその答えを教えてくれたのはもちろん大吾。
「コイツが駄目なのは落ちる先が水ってとこなんだろうよ。んなに深いわけでもねえのにな」
「言うな馬鹿者! せっかく落ち着いて――――あ、いや怖くなどないのだぞ断じてな!」
そんなに水が駄目ですか。この高さが全く平気でその先の浅いプールが怖いっていうのも変な話だなあ。まあ怖がってる本人からしたら変とか言ってる場合じゃないんでしょうけど。
あ、そうだ。こういう所でのお約束が一つ。
「成美さん」
「何だ」
「これって身長制限とかは……」
もちろん、睨まれる。でも仕方ないじゃないですか安全管理上。死なないとは言え危ないものは危ないんですから。
黙り込んでしまった成美さんの代わりに大吾が、
「あーあーそれなら大丈夫だったぜ。ギリギリだったけどな」
と成美さんの頭をポンポン叩く。二言目をやたら強調して。それに対して成美さん、
「余計な事は付け足さんでいい!」
普通にビンタするような勢いでその頭の上の手を払いのける。
そうですかギリギリだったんですか。ならちょっと膝を曲げれば「身長が足りないから無理だ」って事にできたでしょうに。やっぱり今以上に小さいと偽るのには抵抗があったんでしょうか?
「んじゃ人数が人数だし、二手に分かれよっか。どう分かれる?」
ゴムボートがスタンバイ済みなチューブの入口は二つ。という事で仕切り役の家守さんがグループ分けを提案するも、
「あー、まあ訊かなくてもだいたい決まってるか。じゃあそっちお二人はごゆっくり~」
と誰が何を言うでもなくグループ分け終了。
「ゆっくりも何も落ちるだけじゃねえか」
そんな決定は想定内だといわんばかりにどうでも良さそうな一方と、
「に、人数が少ないほうが軽くなってゆっくりになったり………」
それどころじゃなさそうにチューブの先を眺めてブツブツ言ってるもう一方。多分全然変わりませんよスピードは。希望的観測をぶち壊すみたいで悪いですけど。
「んじゃさっさと行こーぜ。ほれ、オマエ前行けよ」
「何故だ? お前が前でいいではないか」
文句を言うというより助けを請うような普段よりちょっと高い声。そんな声を出しながら大吾のほうを振り返るのだが、視線はちらちらと水が流れるチューブへ引き寄せられる。だが無情にもそのチューブは、僕がギリギリまで覗き込んでも先が見えないくらいにのっけから急角度なのでした。成美さんの身長で、しかもちらちら見てるだけじゃあ先なんて全く見える筈もなく、ぽっかりと空いた口は余計に恐怖心を煽るばかり。
それゆえ少しでもその恐怖心を和らげるために前に座るのを嫌がる成美さんでしたが、
「普通小せえヤツが前だろが。倒れた拍子に下敷きになっても知らねーぞ」
救いの手は差し伸べられず。
「うぅ~……」
これは大吾が正論だったか成美さん、文句は言わずにためらいつつそろりそろりと片足ずつゴムボートに乗り込む。それを見届けると彼女のゆっくりさとは対照的に、ぼすんぼすんとゴムボートを揺らしながら足を突っ込む。
「おっ、おい! もう少しそっと」
その揺れにびくりと体を震わせて抗議しようとする成美さん。しかし大吾は最後まで言わせず、
「しゅっぱーつ」
「乗にゃああああぁぁぁぁ………!」
行ってらっしゃーい。
ってこんなタイミングで出発させちゃっていいもんなんですか係員さん!? 危ないですよ!?
「『にゃあ~!』だって! あっはっはっは! なっちゃん可愛い~!」
振り返ってみれば何やらスイッチらしきものに指を突っ込んだまま大笑いする女性と、その傍らで気まずそうに佇むやけに男前な係員さんが一人。目つきが冷ややかと言いますか、ちょっと怖いですけど。……ん、一人だけ? まあ発進がスイッチでなら一人でもこなせますかね。とそれはともかく。
なるほど貴女の仕業ですか家守さん。大吾もあのスイッチを家守さんが押さえてたって気付いてたんだろうな。
「今のはちょいと危なくないですか家守さん」
正直成美さんの叫び声は面白かったけど、道徳心的にそれを言っちゃあおしめえよなので言わない。口元が緩むのもついでに抑えようとしたけど、多分抑えきれてなくてひくひくと筋肉が痙攣するのが自分でよーく分かった。
ごめんなさい成美さん。
「だいじょぶだいじょぶ。だいちゃんがしっかりとなっちゃんの肩抑えてたから。アタシだってそのくらいは確認してスイッチ押したよいくらなんでも」
悪びれる様子もなくへらへらと笑い続けるおっかない勤め先の花嫁に、係員さんの表情は更に気まずさを増すのだった。そして溜息を一つつくと、気まずさゆえに半開きだった口を開閉させる。
「勘弁してくださいませんか楓様。成美様がもし機嫌を損ねられましたら、ここが営業停止に陥るやもしれないのですから」
おお、仮想世界の中だけのものだと思っていた様付け初視聴。ん? 成美さんも?
「あっははー。ゴメンゴメン今回だけ。いやまあなっちゃんもあれで楽しんでるだろうからヒトダマ三つはないって」
ヒトダマ三つというとあれですか。自殺強要の青い火の玉の事ですか。なるほどここならロープはいらないですね。なんたって沈める水がたんまりありますから。あな恐ろしや。
「ならば良いのですがね。やれやれ」
言葉使いの丁寧さとは裏腹に意外とフレンドリーに話し掛ける係員さん。大きい家って言うからなんというかもっとガチガチした上下関係っぽいものを想像してたけど、テレビとか漫画に影響され過ぎって事だったんだろうか? それとも家守さんが「そういう人」で通ってるだけ?
ごく平凡な一般庶民としてはホッとするところもあるそんなやり取りの後、ついに僕達四人の番が。まあその内の一人は持ち物みたいな扱いだけど。
僕を含む三人がチューブに近付くと、栞さんがゴムボートへの一歩を譲ってきた。
「じゃあ孝一くんが一番前でいいかな」
「え? はあ、構いませんけど」
大吾的理論を用いたとしても三人の身長は殆ど一緒ですし、ウェンズデーはまあ誰かが抱えてればいいでしょうしね。しかしなぜ?
すると栞さん、ウェンズデーを抱く腕にちょっと力がこもる。
「一番前はちょっと怖いかなって。えへへ」
なるほどそれで僕が前ですか。家守さんが前という選択肢もあったでしょうに、二択にするまでもなく僕ですか。まあいいですけど。
言われた通りに一番前へ座り、後ろに栞さん、家守さんと続いて準備完了。あとは係員さんがスイッチを押すのを待つだけとなり、否が応にも緊張が高まる。ジェットコースターで言うところの坂を登ってる状態ですかね。なんたって目の前にはいきなり急流ですから。
足元を流れる水と一体になって落下するのは一秒後か三秒後か、とそわそわしていると、係員さんの声が聞こえてきた。しかしそれは期待していた発進の合図ではなく、さっきの会話の続きだったようで。
「あ、楓様。出発の前にですね」
「ん? どしたの?」
「今の時間はお客様が少ないので問題ないのですが、増えてきたら幽霊の皆様方には生者同伴という事でお願い致します」
「そだね。無人のゴムボートが落ちてきたらどうみても事故だもんね」
「そういう事です。では行きますよ」
「どんとこーい!」
幽霊もいろいろ制限があって大変なんだなと思った途端の発信合図に、身を多少縮こませて体勢を整えると同時に心の準備も万端。すると背後から、
「しし、栞殿。絶対に離さないでくださいであります」
くちばしパクパクによる空気の振動が背中を打つ。ん? 真後ろがウェンズデーって―――
「だいじょーぶだよ」
「では行ってらっしゃいませ」
その声と同時にゴムボートがガクンと揺れ、前進開始。悲しい事に直前に思い浮かんだ不安を解消できぬままで。
「ちょっと待っ、てぁあぁぁー!」
待つ筈ないですよねえええぇぇぇぇー!
チューブの中へとまるで巨大なストローで吸い込まれたかのように落ち込んだ後、急加速したゴムボートは右へ左へグルングルン。
その激しい揺れとスピードに、チューブの中には楽しげな悲鳴が響く。本気で恐怖している僕を除いては。
そして揺られに揺られて体勢を崩したその時、
「っだっぎゃあああああ!!」
僕の悲鳴は最高潮へと達したのでした。
その後もゴムボートが水面に叩き付けられるまで叫び続け、豪快な音を立てながら着水した後は女子組上機嫌。
「やー面白かった! しぃちゃん、もっかい行かない?」
「はい!」
一方の男子組。
『………!』
二人ともゴムボートから投げ出された場所から動けず。なぜ動けないかと言いますと、うずくまってしまうほど痛いんですよ僕もウェンズデーも。
背中を抑える僕とくちばしを抑えるウェンズデーに、ざぶざぶ近付いてきた女子二人も何があったかすぐに悟ったらしい。心配そうな口調で声を掛けてくれた。
「ぶつかった、って言うか刺さっちゃったんだねー……こりゃ痛いわ」
「だ、大丈夫? 二人とも」
ゴムボートの座り位置を決める際に、ウェンズデーを持ち物扱いして前に座らせなかったのがまずかったか。
ごめんね。これは多分そんな失礼な扱いをした僕にバチが当たったんだよ。本人も巻き込んじゃってるけど。
「あんまり大丈夫じゃないかもです……」
あ痛ったあ~。
「おごごご……くち、くちばしがへこむであります……」
口を押さえて涙目になりながら水面を仰向けで漂う。
なんかもう、本当ごめん。今回こんなのばっかりだねウェンズデー。
血とかは出てなかったようで安心しつつも、立つのがおっくうなほど背中が痛いのでひとまず休憩。だからと言って待ってもらうのも悪いので、もう一度乗ろうと言う家守さんと栞さんには僕を置いて行ってもらいました。ウェンズデーは強制連行で。まあ一番前に座りさえすれば安全だから、僕の分まで楽しんできてください。
「いやあ災難でしたね日向君。大丈夫ですか?」
プールサイドに座り込む僕の隣には清さんが。らしいと言うかなんと言うか、こんな時でも笑顔なんですね。取り敢えず元気付けようとしてくれてるって事にしておいて、こっちも負けじと笑顔を返す。
「ま、まあ怪我にもなってないですしね。あははは」
その笑顔がまだ引きつってるのはご愛嬌。そんな事考えてると余計痛みが増してる気がするので、話題変えましょう話題。先に落ちてった割に姿が見えない二人についてでも。
「ところで、大吾と成美さんはどこ行ったんですか?」
「ああ、あのお二人ならもう一度あれに乗りに行きましたよ」
と言って顎を指すのはもちろん、背中の仇の水滑り。
あ痛ててて。ってのは気にしないことにして、そうですかもう一度行きましたか。意外ですね、大吾はともかく成美さんはもう行かないと思ってたんですが。
ふと思いついたのは、離せ離せとわめく成美さんを肩に担いで無視しながら、すたすたと階段を上っていく大吾の図。
「成美さんは無理矢理連れて行かれたとかそんな感じですか?」
「いえ、『思ったより怖くなかっただろ』ときちんと説得して、同意の上で仲良く階段を上がっていきましたよ」
確かに怖いのが水だけって言うのなら、着地点は浅いんだしそんなに怖くないのかも。乗る前に大吾が言ってた気もするけどね。
「と言っても哀沢さん、少し放心状態だったようでしたがね」
あれ。
「もしかしたら上で家守さん達と合流してるかもしれませんねえ」
と清さん、ウォータースライダーを見上げる。釣られて僕も見上げる。もちろんここからてっぺんなんか見える筈はないんだけど。
その見上げた姿勢のまま、
「そうだ。今なら他に誰もいませんし、よろしければ教えましょうか? 私が年を取る理由。んっふっふっふ」
と笑う清さん。車の中で言ってた「機会があったら」っていうのは「二人っきりになったら」って事だったんですか。より聞きたくなりますねえそういう条件が付け加えられると。
「聞かせてください」
僕がそう返事をすると、清さんは顔を下ろしてこちらに向けた。
「手短に言いますよ」
「はい」
「愛し合う家族がいるという事です」
愛し合う………はい。
「本当に短いですね」
「本当にそれだけですからねえ」
そう言いながら清さん、恥ずかしそうに頭に手を当てた。それで二人っきりが条件って事ですか。「様」に続いて現実世界ではじめて聞きましたよ「愛し合う」なんて言葉は。そりゃあさすがに恥ずかしくてもおかしくないですよねえ。冗談で言うならともかく、それが条件だって事は本気でって事なんですし。
「んー………やっぱりもうちょっと追加します。さっきのに加えて『生きている家族』ですね。私が自分で妻と息子と同じ時間を過ごす事を選んだ、と家守さんに言われました。自覚は無かったんですがねえ」
「格好いいですね清さん」
「いやこれは、まいりましたねえ。あっはっはっは」
冗談半分に褒めたところ、清さんはこっちから目を逸らすように後ろに手をついて空を見上げた。
半分は冷やかしですけどもう半分は本気ですよ? 経験はもちろんないですけど、やっぱり凄い事なんでしょうし。
笑い終わると、清さんは顔を下ろした。
「私は幸運だっただけですよ」
「え?」
「家守さんによれば、相手がこちらを認識できるのも条件の一つなのだそうです」
「そう――なんですか」
更に高くなるハードルになぜかこちらが気圧され、無意識の内に横から押されたかのように片手を床につけた。それを知ってか知らずか、清さんが後ろに反った上半身を捻ってこちらに向ける。そうされると余計押される感じが………まあもちろん気のせいなんだけど。
「言われてみれば当たり前なんですけどね。そうでもなければ死んでしまった相手と愛し合うなんて事、できやしませんから」
返事はできなかった。僕には経験が無くて、本当にそうなのか分からないかったから。
……違うか。分からないのなら「そういうものなんですか?」とでも訊けばいい。ならなぜ訊かなかったのか。いや、訊けなかったのか。
清さんの言い分を聞いた瞬間、僕は多分頭の中で「ああ、そりゃそうですね」と同意した。亡くなった人の事を残された人が、あ……愛し続けていたとしても。そしてその亡くなった人が実はすぐ傍にいたとしても。残された人が見るのはその人自身ではなく、その人の遺影だ。お互いに愛する事はできても、愛し「合う」事はとても無理だ。
そう思って、すぐに打ち消した。どうしてだと説明を求められたらきっと答えられないけど、打ち消した。そして二の句が続かず、黙り込む形になってしまう。
「………あ、申し訳ない。また熱くなって余計な事を言ってしまいましたね」
動きを失った僕の代わりに清さんが口を動かすと、僕が自分で掛けた金縛りはあっさりと解けた。そして今度は返事もちゃんと。
「い、いえいえ余計な事だなんてそんな。ためになりますよ人生の先輩の話は」
「そうですか、それは何より。恥ずかしい思いをした甲斐もあるってものですねえ」
そう言って清さんはいつものように笑う。このとき初めて清さんのこのいつもの笑いが、とても頼もしく感じられた。
「ぁぁぁぁぁあああああああっほーーーーい!」
ほーい。
どばしゃー。
「二週目、ご到着ですねえ」
「ですね」
騒々しく水面に激突した恐らく定員ギリギリなゴムボートから投げ出された四人は何事もなく立ち上がり、一匹はそのまま泳いでこちらへ帰還。おお、大吾のツンツンヘアーがぺちゃんこだ。
それはともかく、どうやら今回は事故はなかったみたいだね。良かった良かった。
事故と言えば、清さんと話してる間に背中の痛みも引いたし次は僕もご一緒できそうですよ。と言ってもさすがに三回連続は
『プールからお上がりくださーい。休憩時間に入りまーす』
そうきましたか。そうですよねそろそろ来るだろうと思ってましたよその時間が。
「あはは。こーちゃん休憩しっぱなしだねー」
「背中はもう大丈夫? これが終わったら一緒に遊ぼうね」
「痛いのがなければ楽しいのであります! 孝一殿もまた一緒に乗るであります」
「ほれ、ウェンズデーですら面白がってんだぞ?」
「ああ……ああぁ………」
みんなが水から上がれば、休み時間という事でそれぞれみんな地べたなり椅子なりに座って一息つく。僕と清さんはもう何息ついたか分からないけど。
「孝一くんも清さんも、待ってる間暇だった?」
膝の上にウェンズデーを座らせて、自身は椅子に腰掛ける栞さん。適当な位置でバラバラと床に腰を降ろす男三人組のほうを向いて問い掛けてきた。と言っても大吾の後ろには、その背中に寄りかかるようにして成美さんも座ってますけどね。どっと疲れた様子で。
「いえ、日向君とお喋りしてましたから存外暇でもなかったですよ。ねえ日向君?」
「そうですね。いいお話でした」
すると栞さんとテーブルを挟んで向かい合い、こちらに背を向けて椅子をやや後ろに傾けつつ家守さんが仰け反り気味に振り返る。そんな格好で仰け反られるとその、胸が強調されてですね。いやまあ指摘はできる筈ないんですけど。なのでその件は記憶に留めつつ置いといて。
その振り返った顔はまるで僕達が何を話していたかを知っているかのように、にっかりと嫌らしく笑んでいました。
「せーさん、その話ってあの話?」
ああ、これはもう確信してるな家守さん。代名詞だけで伝えようとしてる辺り。
一方そのお向かいでも、
「え、何の話? ウェンズデー分かる?」
「多分車の中で話していたアレの事だと思うであります」
「あぁ~あ」
やっぱり大事なところは代名詞で、しかしそれにちょっとヒントを加えただけであっさり了解する栞さん。
さらにもう一方の背中合わせに座っている凸凹ペアは、
「車ん中? 寝てたから知らねえな。おい、何の話だ?」
「楽が年を取る理由についてだ」
「ああ、あれな」
こちらはモロに答えを教えてますが、それでもその反応を見る限りはやっぱりもともと知ってたようで。ところで大吾、髪戻らないね。垂らしたら意外と長いんだなあ。中途半端な長髪みたい。
「で、こーちゃん感想は?」
「へ?」
唐突な質問とその内容に驚きつつ顔を声がしたほうに向けると、もっと驚く羽目になった。
「か、楓さんこけちゃいますよぉ~」
栞さんの言う通り、家守さんが座っている椅子は今にも倒れそうだった。椅子がさっきよりも更に後ろに傾けられ、しかも家守さん自身がその危ない角度の椅子にかなり体重を掛けてもたれているのである。つまりは背もたれから後ろにふんぞり返って上下逆転した顔。そんな体勢。
だから胸が強調され過ぎですってば。ただでさえ平均よりちょっと大きいんじゃないかなー、ってだからそこは置いといて! そもそも僕、そんな事の平均値なんか知らないじゃないか!
「いっそこかしてやれよ喜坂。イス蹴ってやれ」
「あぁ~、だいちゃんが酷い事言う~。分かったよ分かったよぉ」
背中が気持ちいいんだけどなこの体勢、と名残を惜しみつつ普通の座り方に戻ると、ガタガタと椅子ごと回転してこちらを向きなおした。
「で、かんそーは?」
「感想って言われましても……『いい話だなー』とかじゃ駄目ですか?」
駄目なんだろうなあ。
「ダメダメ」
やっぱり。
「こーちゃん分かってないよ。こーちゃんだってせーさんの奥さんと同じで見える人なんだよ?」
あ。
「もしかしたら将来同じような事になるかもしれないんだよ?」
ああ。
「まあまあ家守さん、あまり虐めるのはよしてあげましょうよ。寿命は男性のほうが短いんですから」
そんな妙にリアルな理由で止められると余計肝が冷えますよ。寿命って、自分で言うのもなんだけどこの若さの内からそんな先の話を考える事になるなんて。
と言いますか現在そのような関係になりうる人物が悲しいかな存在しておりませんので、見える見えないとか寿命とか云々以前にまずそこを考えていきたいのです。考えたところでどうにもならない問題なのが更に悲しいですが。
「ふっふっふ、大丈夫だよせーさん。今のはフリで、本番はここからなんだから」
それ、大丈夫とは言わないです。今のがフリって何なんですか一体。
家守さん、目つき鋭く人差し指も鋭くズビッっと僕を指す。
「ズバリ! こーちゃん今そーいう女性はおるのかね!」
「ズバリいないです」
時よ止まるな。
「………ありゃ~、即答だねぇ。なんかゴメン」
訊かれる直前に考えてた事そのものだったので、口が勝手に脊髄反射してしまいました。信号が脳を介さずに直接筋肉に伝わるため、その分反応が早いんですよ。凄いですねえ。
「別に謝られるような事じゃないですよ」
て言うか謝られたら余計辛いですよ。
すると栞さんは座ったまま少し前かがみになって、
「でもほら、孝一くん大学に入ったんだからたくさんの人と知り合えるし」
「まあそりゃそうでしょうけど………」
現実に希望を見出そうとするその意見に、僕だけでなく家守さんとウェンズデーも栞さんのほうを向く。
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