確かにこれまで、ご両親の話は入院中の思い出話の中にしか出てきませんでしたし、僕も現在どうなっているのかを気にしたことはありこそすれ、それについて栞さんに話を振るようなことはしてきませんでした。
なんとなく分かってはいたのです、そうだろうなとは。だって、何かあったのなら、入院中の思い出話に合わせてその話も出てきていたんでしょうし。けれど、
「驚いた?」
「少しだけですけどね」
本当にそうだったというのは、やっぱり胸に圧し掛かるものがあったのです。
「でも栞さん」
「ん?」
「今思い付いたことで、だからそこまで深く考えられてるってわけでもないんでしょうけど――絶対に帰った方がいいって話じゃあないと思います、僕は」
ここでいう「帰る」とは、ご両親と接触することも含めたもの。霧原さんの例を挙げるならば是非にでもそうすべきという考えにもなりそうなものですが、しかしそれだけが全てだろうかと。
「そう思う?」
「常識を大きく外れてますしね。言い方は悪いですけど」
「……うん」
何が、とは言いませんでしたが、しかし言うまでもなく栞さんには伝わったようでした。そりゃあそうでしょう、栞さん自身について、つまり幽霊という存在についてを言っているのですから。
例えば、幽霊を感知してしまう異原さんに一時は教えないでおこうとしていたように。
例えば、大吾が庄子ちゃんと今でもある程度の距離をおこうとしているように。
幽霊という存在は、それを知らない人に積極的に関わらせるようなものではないのです。何故ならば、人間が持っている常識を外れているからです。
「ただ、逆に絶対止めた方がいいかってことになると、それも違うと思いますけどね。結局は栞さんがどうしたいか――あ、いや」
「ん?」
いま言った事情を押してでも家族に会いたいと栞さんが思うなら、そうするべきだと思います。そして、そう思ったからその思ったことを口にしてみたわけですが、しかしそれを言い切る直前、欠けていることがあるんじゃないだろうかと。
「栞さんだけじゃなくて、僕がどう考えてるのかっていうのも関わってくるんでしょうね。栞さんとはこういう関係なんですし、これから先のことも考えたら」
頭に浮かんだのは、霧原さんが話していた結婚についての話。もちろん気が早いどころではないことなのですが、しかし相手が年を取るようになったという点については、霧原さん深道さんと同じ状況なわけで。
「ありがとう」
礼を言われてしまいました。
「いや、まだ何も考えてないも同然なんですけどね」
「何か考えようとしてくれてることについて、だよ」
……そう言われてしまっては、どうにもこうにも。
「でも、そういうことなら私もうかうかしてられないね。こうくんだけが先に答えを思い付いちゃったら、ただこうくんに頼っただけになっちゃうし」
「いつもだったら頼ってくださいって言い返すところですけど、今回はそうなりますねえ」
なんせ栞さんのご両親の話なので、僕と栞さんのどちらの意見がより重要かといえば、それはやはり栞さんの意見なのです。だったらば、僕が僕の意見だけで話を推し進めるわけにもいきますまい。
するとその時、栞さんに何やら動きが。左手が何かこう、中途半端な動作をしています。
「どうかしました?」
「あ、いや、手を繋ごうかなって思ったんだけど」
しかしその伸ばそうとした左手が行き着く先である僕の右手は、傘を掴んでいたわけです。で、行き場が無くなった左手だけがおろおろしていたというわけですね。
「もう着きますけど、家」
「それは問題じゃないよ」
とのことだったので、傘を持つ手を右手から左手に。左手だけでカバンと傘の両方を持つことになってしまいましたが、同じくそれは問題ではないでしょう。
天気のせいかいつもより少しだけ冷えたように感じられる栞さんの手でしたが、しかしそれはほんの少しの間だけでした。
――で、そのほんの少しが過ぎ、栞さんの手がいつもの温かみを取り戻したところで、着きましたるはあまくに荘。手を繋いだのは本当にもう到着寸前だったのです。
しかしそれはともかく、帰ってきたのなら帰ってきたなりの話題を。
「清さん、帰ってきてるかな」
「ああ、どうでしょうねえ」
作り置きのクッキーのこともあるので、確かにそれは確認しておきたいところ。まだ帰ってきていなかったとしてもマンデーさんとジョン、それにナタリーさんが居る筈なので、取り敢えず102号室を訪ねてみることに。
……と思ったら、こちらがドアの前に到着するよりも早く、その102号室の台所の窓がガラリと開かれました。
「おや」
顔を出したのは件の清さんご本人。どうやら帰ってきていたようです。しかしそれにしても、えらくいいタイミングで顔を出してくれましたけど。
「お帰りなさい、お二人とも。んっふっふ、マンデーが声が聞こえたって言うから顔を出してみましたけど、丁度いい感じだったみたいですねえ」
というわけで、いいタイミングの仕掛け人はマンデーさんだったようです。大きな声だったわけでもなし、それにそもそも部屋からは結構離れた位置だったと言うのに、よくもまあ僕と栞さんの声が聞こえたものです。雨音だってあったでしょうに。
これはどうも、栞さんの呼び方の話はまた今度になりそうです。
で、また今度の話はまた今度にしておきまして、清さんが出てきたのなら清さんへ向けての話です。――なのですが、まずは栞さんへ小声で一言。
「クッキー、取ってきます」
「あ、うん」
そこまでするほどのことでないと言えばないのですが、清さん、それに家守さんと高次さんの分のクッキーを作り置きしていることは、栞さんと僕しか知りません。つまりクッキーを振舞った際に一緒だったマンデーさんやナタリーさん、あとジョンもそのことを知らないわけで、ならば当然、このことが清さんに伝わっているようなこともないわけです。
要は突然のプレゼントにしてみようという話ですが、しかし重ね重ね、そこまでするほどのことでないと言えばないのです。なんせただのクッキーですし。でもまあいいじゃないですか。
「それじゃあ清さん、お邪魔させてもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
というわけで、まずは栞さんだけが102号室へ。そして僕はいったん204号室へ。
僕もすぐ行きますとだけ声を掛けて、そちらへ向かい始めました。
自室で特に何かすることがあるわけではないので、取る物取ったらさっさと再出発です。もちろんカバンと、あと102号室へ行くだけだったら傘もいらないでしょう。どちらも置いていくことにし、ならば結局、手荷物はクッキーだけに。ラッピングに適した袋なんかが都合よくあるわけではないので、皿にラップのままではあるんですけどね。
しかしところで外に出た際、もちろんまだ雨は降っているわけですが、弱い雨がこれだけ長く続くと「息が切れそうなところを頑張って振り続けている」というように思えてくるのでした。いや、雨が息ってのも変な話ですけど。
「お邪魔します」
そんなことを考えている間に到着です。
「どうぞどうぞ」
クッキーを後ろ手に隠すかどうかで少しだけ迷ったりもしたのですが、さすがにそこまですることはないでしょう。というか、そこまでするともう気色悪いのかもしれません。
さて、だったらばもうこの場で差し出してしまいます。
「清さん、クッキー作ったんですけどどうですか?」
「おや、私にですか?」
「はい。ああいや、大吾と成美さんはもう、昼に一緒に食べたんですけどね」
清さん一人だけのために作るというのはどうにもこう、これまた気色悪いような。……いやいや、別にそれがおかしなことだってわけではないんですけどね?
「そうですか。いやあ、すいませんねえ。その場には居合わせなかったのに」
「いや、大吾と成美さんも呼んだのは作った後なんですけどね」
「んっふっふ、そうですか。いやしかし、呼ばれればそりゃあ行きますよねえ。なんせ日向君が作ったものですし」
でもこれただのクッキーですし、なんて思ってみたり、一方ではそんな評価に喜んでみたり。けれど、それより優先して言うべきことがありまして。
「あ、栞さんも一緒に作ったんですよこれ」
「そうでしたか。なら、喜坂さんにもお礼を言わないと。――んっふっふ、これからは料理イコール日向君という認識を改めたほうがよさそうですねえ」
「ちょっと寂しいような気もしますけどね。自分で料理教えときながら何言ってんだって話ですけど」
「んっふっふっふ」
清さん、笑いながらも中に入るよう僕を手で促しました。既に部屋へ上がるよう招かれているというのに玄関先で立ち話っていうのも、考えてみれば変な話で。
というわけで居間へ通され、座る位置は栞さんの隣。その時栞さんはマンデーさんをもふもふしていたのですが、それを見てということなのか、ジョンが嬉しそうに尻尾を振りながらこちらへやってきました。だったらまあ、同じくもふもふと。
「喜坂さん。これ、ありがとうございます」
「あ、はい。それなりに美味しくできてると思いますよ。なんせ本の通りに作っただけですから」
皮肉なのか自賛なのか判断に迷う言い方でしたが、しかしそれなりに美味しかったのは事実です。そりゃあ、何の手も加えずに本の通りに作ったわけですから。
清さんが僕と栞さんに向かい合うようにして座り込み、テーブルの上にクッキーを載せた皿をコトンと置きました。
「マンデーの話だと、私に何か、伝えたいことがあるそうですが」
「あ、はい」
返事をしたのは栞さん。それと同時にマンデーさんから手を離したのを見て、ならばと僕もジョンから手を離します。
「あれ、まだ話してなかったんですか?」
栞さんがこの102号室に入ってからこうして僕が到着するまで、少々ながらも時間があったわけですけど。
「孝一くんが来てからのほうがいいかなって。マンデーとナタリーもそうしてくれたんだしね」
そういえばそうなります。マンデーさんとナタリーさんだって今回の話は既に知っているわけで、ならば清さんが帰ってきてから今までずっと、言わないでおいてくれたということに。
「ありがとうございます」
ならばその礼はもちろん栞さんだけでなく、マンデーさんとナタリーさんへも向けられたものだったのですが、しかし三者揃って特にどう言ってくるというわけでもないのでした。優先すべきは清さんとの話だ、ということなのでしょう。ありがたいことです。
そういうわけで、改めて清さんと向き合います。あまり気にするようなことでもないかもしれませんが、この流れからなら、話すのは僕のほうがいいのでしょう。
「ええと、清さん」
「はい」
「栞さん、年を取り始めたんです」
「おや。――おやおや、そうですかそうですか」
伝える内容は極短く、そして清さんの反応も驚きだけを表現したような短いものでしたが、しかし何となく、時間が長く感じられるのでした。緊張とは違うような気がしますが、いずれにせよ似たようなものではあるのでしょう。
けれど、既に三度話したことなのです。家守さんと高次さんの時で一度、マンデーさん達で二度、深道さんと霧原さんで三度。どうして四度目、つまり今回だけ、こんな気分になるんでしょうか?
……清さんも年を取る幽霊で、かつその期間が年単位にもなっているから、でしょうか。
随分と差の開いた先人ということになるわけです。もちろん、人生自体の長さからしても。
さてその清さんですが、皿に掛けられたラップを外してクッキーを一つ、口の中へ。すると僅かながらサクサクと音が聞こえてきたので、湿気てなくて良かった、と。ラップを掛けているならまあまず心配はいらないのでしょうが、この天気で湿度も高いでしょうし。
「美味しいですねえ。まあ、いま私が言わなくても怒橋君と哀沢さんが同じことを言ったんでしょうけどね。んっふっふ」
「いえ、そう言って頂けると」
ご想像通り、同じことを言われてはいますけど。――という頭の内を読んでか読まずか、清さん、もう一度んっふっふと。
「それで、喜坂さんの話ですが」
自分からその話を持ち掛けておいてなんですが、急でした。いや、僕がそう感じただけで、実際はこうなって当たり前ではあるんですけど。
「そうだと分かったのはいつになるんですかね?」
「昨日の夜です。晩ご飯の後に。ああ、実際に年を取り始めたのはもうちょっと前になるんでしょうけど」
「そうですか。……んっふっふ、それで翌日にはもうこうなんですから、行動が早いですねえ」
清さんが笑います。大学の先輩にわざわざ話を聞いたということについては伝えていないので、ならば「こう」というのは、「ここのみんなに栞さんが年を取り始めたことを伝えた」ということのみを指しているのでしょう。
「気が早かったでしょうか?」
「ん? いえいえ、感心しているんですけどね。すいません、紛らわしい言い方をしてしまいまして」
「あ、す、すいませんこっちこそ早とちりで」
そんなふうに受け取ってしまったというのは、さっきから感じている緊張に似た何かの仕業なのでしょう。いま思い返してみても、清さんがそんなつもりで言ったようには思えませんし。
「一応訊かせてもらいますけど、二人で決めたことなんですよね? 皆さんにそのことを話すというのは」
「そうですね。初めに楓さんと高次さんに伝えたいって言ったのは、私なんですけど」
「そうですか」
栞さんからそれを聞いて、清さんは満足そうでした。普段から常に笑顔な人ではありますが、それでもなんとなく分かるのです。普段と何が違うのかと言われたら、説明に少し困ってしまうような気はしますけど。
「家守さんと高次さんに話したということは、その時にこんな話をされませんでしたか?」
何が違うのかよく分からない満足な様子を保ったまま、続いての質問。
「年を取るようになるまでの期間は早ければいいということではない、と」
「あ、はい。良いとか悪いとかそういうことじゃないって」
引き続いて栞さんが答えましたが、もちろんそれは僕も覚えています。というか、今朝それを言われてからは常に意識しているようなものです。殊勝な心がけというよりは、そうしていないと忘れて喜んでしまいそうという情けない話なのですが。
僕のことはともかく、清さんは「んっふっふ、やっぱりですか」と。つまり、清さんも同じ話をされたのでしょう。自身が年を取っていることの説明を受けている時、ということになるのでしょうか。
「私もそれは同感ですが、しかしそのことについての整理をすぐにできるというのはいいことだと思いますよ。皆さんに話せたというのは、完全にとは言わないまでもある程度整理が付けられたからなんでしょうし」
すると栞さん、少し考えるように首を傾けてから、「そういうことになるんでしょうね」と。
「戸惑いがあったりしたら、『楓さんと高次さんに話したい』なんて言えなかったでしょうし」
その答えに清さんはまたも満足そうにするのですが、その時、ナタリーさんが。
「あの、喜坂さん」
「ん?」
「それはやっぱり、日向さんのおかげってことになるんですか?」
「そうだね、もちろんそうなるよ。自分が年を取ってるってハッキリしたのが昨日の夜でみんなに話したのが今日の朝だから、さすがにそれほど相談とか、長い時間したわけじゃなかったけど……なんて言うのかな、根拠になるようなことがなくても信頼できるっていうか」
後半は語り口が少々照れ臭そうな栞さんでしたが、そういうことなんだそうです。根拠がなくとも信頼できるというのは僕から見た栞さんも同じなのですが、しかしいつも根拠を作るのに必死だったということも、否定はできません。だからこそ毎晩のように何かしら話し合っているわけですし、だからこそそれが高じて喧嘩に発展するようなことにもなったんでしょうし。
「素敵ですね、そういうの」
「あはは、口で説明したら自分でもそう思えてきちゃったよ。ありがとう、ナタリー」
照れ臭そうだったことの反動もあるのでしょう、そう言ってナタリーさんに礼を言う栞さんでした。が、するとここでマンデーさんが一言。
「あら? 言葉にしたほうがいい気分になれるということは結局、日向さんと相談をした方がいいということなのでは?」
「あれ、そういえばそうかも。でもそうなったら、根拠なしに信頼できるのはいいことだねっていう今の話が無くなっちゃうし……うーん、どうなんだろう」
なんともややこしい話になってしまいました。
すると、今度は清さんが。
「根拠なしに信頼できる関係だという自覚を持って、そのうえでする根拠を作るための相談でしたら、問題はないのではないでしょうかねえ」
なるほど、自覚さえあれば実行せずとも同じことというわけですか。そうですよね、どう思うかっていう心情面の問題なんですし。
「ああ、だからと言ってあまり気分がよくなり過ぎると、相談どころではなくなってしまうかもしれませんねえ」
それはちょっとやらしいです清さん。いや、これをやらしいと感じてしまう僕こそがやらしいんでしょうか?
しかしそれはいいとして、清さんが言ったことは事実ではあるんでしょう。そりゃあ恋人同士がお互いのことで気分を良くしたら、あれこれとあろうことでしょうし。僕だってそういう経験がないわけでもないですし。
「大丈夫だと思いますけどね。孝一くん、話さなきゃならないことがあったらそれを無理にでも押し付けてきますから」
「んっふっふ。だそうですよ? 日向君」
「いやあ、返す言葉がございませんというか」
こういう冗談混じりの会話でだすようなことではないのかもしれませんが、過去、上半身裸の栞さんに対してそんなことお構いなしに怒鳴り散らした経験があるわけで。栞さんがそれをどこか誇らしげに語ってくれるのはそりゃあ嬉しいのですが、自分で評価するとなると、やっぱり語気が弱まってしまいます。
「喜坂さん、言ってることの割には嬉しそうですけど……」
「さっきの話と同じで、これも素敵なことなのですわ。ナタリーさん」
「そうなんですか? じゃあ、さっきよりもっと素敵なんですね」
ナタリーさん、あんまり言われるとその、辛いです。いやいやもちろんお褒め頂き有難う御座いますではあるんですけど。
照れと心苦しさが相まって、こう、もにょもにょとしてしまいますが、すると清さんが――堅苦しいというわけではなく、しかし少なくとも冗談めかしたものではない口調で、語り掛けてきました。
「そういうわけなので、日向君。要らぬお世話だとは思いますけど、喜坂さんからは既に絶対の信頼を得ているようですよ。無理に話を押し付けるようなことがなくても」
もちろんのこと、言われる前からその自覚はありました。しかし、先程の栞さんとナタリーさんの話です。いい気分というわけではないのですが、言葉でそう言われてみると、はっと思わされるところがありました。
「ああでも清さん、それが嫌だってわけじゃなくて――」
栞さんが慌てた口調で言いました。それはもちろん「無理に話を押し付けてくる」という点についてなのでしょうが、しかし清さんだって、それは分かっているでしょう。分かっていて言ったというか、分かっていたからこそ言ったというか。
「そう、ですね」
なので僕は、栞さんの言葉を遮るようにしてそう返します。
すると栞さんのこちらに向き、その顔には不安そうな表情が。その表情をするだけで何も言ってこないというのは、本当に困ってしまっているのでしょう。けれどもちろん不安に思われるようなことを考えているわけではないので、返事代わりに笑いかけておきました。
栞さんが僕の「無理に話を押し付けてくる」という点を嫌がるどころか気に入ってくれているのは、百も承知です。だからこう思ったところで結局僕がそうするのは変わらないんでしょうし、なのでこれは、単に僕の内面だけの話になるのでしょう。
「焦ることはなさそうですね、もう」
「そういうことになりますね。んっふっふ」
そういうふうに動く性格だからそうしていた、というのが一番。しかしそれはあくまでも一番であるだけで、一番があるなら二番だってあるのです。焦っていたから、無理に話を押し付けていたのです。もちろん、喧嘩にまで発展した場合だけを指すものではなく。
栞さんのことを知りたいとか、栞さんの力になりたいとか、焦っていた理由はそんなところでしょう。今更なので取り繕うことなく言ってしまいますが、栞さんは幽霊。それについてはやはり、どこか危ういといった印象を持たざるを得ないのです。だから、何に急かされたわけでもないのに焦っていたのです。いつかボロが出る前に地盤を固めておかないと、と。
……でもどうやら、地盤はとうに固まっていたようです。それは要するに、栞さんからの信頼を得るということなのですから。
いや、清さんから言われる前に気付いとけよって話なんですけどね。いざ気付いてみると。いま僕がこの102号室にいる理由も、それについて清さんから「行動が早い」と言われた時に感じた緊張に似た何かというのも、正体はその焦りってことになるんでしょうし。
「え、ええと……?」
困惑を隠す余裕すらなさそうな栞さんの声が、耳に入りました。そりゃあ困惑もするでしょう、栞さんにとって僕の「無理に話を押し付ける」という性格は良いところであって、疑問を差し挟むようなところではないのですから。良い悪い以前の場所から眺められる清さんだからこそ、今の話ができたのでしょう。
「これからも無理に話を押し付けることはあるでしょうけど、そんな僕を今後も宜しくお願いしますね。栞さん」
「う、うん。それはもちろん。もちろんだけど、今の話って結局どういうことだったの? 焦るって、何を?」
「いやあ、気分だけ一新してやることは変わらないっていう変な話ですよ」
「んー……?」
どう見ても分かってはいない栞さんでしたが、まあしかしそれならそれでいいのではないでしょうか。必要に迫られれば、どうせまた無理にでも説明を押し付けることになるんでしょうし。
「もう一つ余計なお世話ですが、喜坂さんが年を取ったことについても同様ですよ? それに関することで焦りを感じる必要は全くないですから、まあ気楽に構えていてください。それでも問題はないでしょうからねえ、日向君と喜坂さんなら」
「はい。ありがとうございます、清さん」
この部屋へ来た理由の一部にその焦りが混じっているとはいえ、来てよかったな、と。焦りがなかったところでやっぱり来ていたんでしょうけどね、ここへは。なんせ理由の一部でしかないわけですから。
「うう、よく分からないままお礼を言うっていうのもなあ」
僕が清さんに頭を下げたことについて、栞さんが自分も右に倣うべきだろうかと困ってしまったようでした。が、清さんが「いえいえ、そもそもお礼を言われるようなことはしていませんし」と言いながら笑うと、仕方なしにといった様子でそれに従うのでした。
なんとなく分かってはいたのです、そうだろうなとは。だって、何かあったのなら、入院中の思い出話に合わせてその話も出てきていたんでしょうし。けれど、
「驚いた?」
「少しだけですけどね」
本当にそうだったというのは、やっぱり胸に圧し掛かるものがあったのです。
「でも栞さん」
「ん?」
「今思い付いたことで、だからそこまで深く考えられてるってわけでもないんでしょうけど――絶対に帰った方がいいって話じゃあないと思います、僕は」
ここでいう「帰る」とは、ご両親と接触することも含めたもの。霧原さんの例を挙げるならば是非にでもそうすべきという考えにもなりそうなものですが、しかしそれだけが全てだろうかと。
「そう思う?」
「常識を大きく外れてますしね。言い方は悪いですけど」
「……うん」
何が、とは言いませんでしたが、しかし言うまでもなく栞さんには伝わったようでした。そりゃあそうでしょう、栞さん自身について、つまり幽霊という存在についてを言っているのですから。
例えば、幽霊を感知してしまう異原さんに一時は教えないでおこうとしていたように。
例えば、大吾が庄子ちゃんと今でもある程度の距離をおこうとしているように。
幽霊という存在は、それを知らない人に積極的に関わらせるようなものではないのです。何故ならば、人間が持っている常識を外れているからです。
「ただ、逆に絶対止めた方がいいかってことになると、それも違うと思いますけどね。結局は栞さんがどうしたいか――あ、いや」
「ん?」
いま言った事情を押してでも家族に会いたいと栞さんが思うなら、そうするべきだと思います。そして、そう思ったからその思ったことを口にしてみたわけですが、しかしそれを言い切る直前、欠けていることがあるんじゃないだろうかと。
「栞さんだけじゃなくて、僕がどう考えてるのかっていうのも関わってくるんでしょうね。栞さんとはこういう関係なんですし、これから先のことも考えたら」
頭に浮かんだのは、霧原さんが話していた結婚についての話。もちろん気が早いどころではないことなのですが、しかし相手が年を取るようになったという点については、霧原さん深道さんと同じ状況なわけで。
「ありがとう」
礼を言われてしまいました。
「いや、まだ何も考えてないも同然なんですけどね」
「何か考えようとしてくれてることについて、だよ」
……そう言われてしまっては、どうにもこうにも。
「でも、そういうことなら私もうかうかしてられないね。こうくんだけが先に答えを思い付いちゃったら、ただこうくんに頼っただけになっちゃうし」
「いつもだったら頼ってくださいって言い返すところですけど、今回はそうなりますねえ」
なんせ栞さんのご両親の話なので、僕と栞さんのどちらの意見がより重要かといえば、それはやはり栞さんの意見なのです。だったらば、僕が僕の意見だけで話を推し進めるわけにもいきますまい。
するとその時、栞さんに何やら動きが。左手が何かこう、中途半端な動作をしています。
「どうかしました?」
「あ、いや、手を繋ごうかなって思ったんだけど」
しかしその伸ばそうとした左手が行き着く先である僕の右手は、傘を掴んでいたわけです。で、行き場が無くなった左手だけがおろおろしていたというわけですね。
「もう着きますけど、家」
「それは問題じゃないよ」
とのことだったので、傘を持つ手を右手から左手に。左手だけでカバンと傘の両方を持つことになってしまいましたが、同じくそれは問題ではないでしょう。
天気のせいかいつもより少しだけ冷えたように感じられる栞さんの手でしたが、しかしそれはほんの少しの間だけでした。
――で、そのほんの少しが過ぎ、栞さんの手がいつもの温かみを取り戻したところで、着きましたるはあまくに荘。手を繋いだのは本当にもう到着寸前だったのです。
しかしそれはともかく、帰ってきたのなら帰ってきたなりの話題を。
「清さん、帰ってきてるかな」
「ああ、どうでしょうねえ」
作り置きのクッキーのこともあるので、確かにそれは確認しておきたいところ。まだ帰ってきていなかったとしてもマンデーさんとジョン、それにナタリーさんが居る筈なので、取り敢えず102号室を訪ねてみることに。
……と思ったら、こちらがドアの前に到着するよりも早く、その102号室の台所の窓がガラリと開かれました。
「おや」
顔を出したのは件の清さんご本人。どうやら帰ってきていたようです。しかしそれにしても、えらくいいタイミングで顔を出してくれましたけど。
「お帰りなさい、お二人とも。んっふっふ、マンデーが声が聞こえたって言うから顔を出してみましたけど、丁度いい感じだったみたいですねえ」
というわけで、いいタイミングの仕掛け人はマンデーさんだったようです。大きな声だったわけでもなし、それにそもそも部屋からは結構離れた位置だったと言うのに、よくもまあ僕と栞さんの声が聞こえたものです。雨音だってあったでしょうに。
これはどうも、栞さんの呼び方の話はまた今度になりそうです。
で、また今度の話はまた今度にしておきまして、清さんが出てきたのなら清さんへ向けての話です。――なのですが、まずは栞さんへ小声で一言。
「クッキー、取ってきます」
「あ、うん」
そこまでするほどのことでないと言えばないのですが、清さん、それに家守さんと高次さんの分のクッキーを作り置きしていることは、栞さんと僕しか知りません。つまりクッキーを振舞った際に一緒だったマンデーさんやナタリーさん、あとジョンもそのことを知らないわけで、ならば当然、このことが清さんに伝わっているようなこともないわけです。
要は突然のプレゼントにしてみようという話ですが、しかし重ね重ね、そこまでするほどのことでないと言えばないのです。なんせただのクッキーですし。でもまあいいじゃないですか。
「それじゃあ清さん、お邪魔させてもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
というわけで、まずは栞さんだけが102号室へ。そして僕はいったん204号室へ。
僕もすぐ行きますとだけ声を掛けて、そちらへ向かい始めました。
自室で特に何かすることがあるわけではないので、取る物取ったらさっさと再出発です。もちろんカバンと、あと102号室へ行くだけだったら傘もいらないでしょう。どちらも置いていくことにし、ならば結局、手荷物はクッキーだけに。ラッピングに適した袋なんかが都合よくあるわけではないので、皿にラップのままではあるんですけどね。
しかしところで外に出た際、もちろんまだ雨は降っているわけですが、弱い雨がこれだけ長く続くと「息が切れそうなところを頑張って振り続けている」というように思えてくるのでした。いや、雨が息ってのも変な話ですけど。
「お邪魔します」
そんなことを考えている間に到着です。
「どうぞどうぞ」
クッキーを後ろ手に隠すかどうかで少しだけ迷ったりもしたのですが、さすがにそこまですることはないでしょう。というか、そこまでするともう気色悪いのかもしれません。
さて、だったらばもうこの場で差し出してしまいます。
「清さん、クッキー作ったんですけどどうですか?」
「おや、私にですか?」
「はい。ああいや、大吾と成美さんはもう、昼に一緒に食べたんですけどね」
清さん一人だけのために作るというのはどうにもこう、これまた気色悪いような。……いやいや、別にそれがおかしなことだってわけではないんですけどね?
「そうですか。いやあ、すいませんねえ。その場には居合わせなかったのに」
「いや、大吾と成美さんも呼んだのは作った後なんですけどね」
「んっふっふ、そうですか。いやしかし、呼ばれればそりゃあ行きますよねえ。なんせ日向君が作ったものですし」
でもこれただのクッキーですし、なんて思ってみたり、一方ではそんな評価に喜んでみたり。けれど、それより優先して言うべきことがありまして。
「あ、栞さんも一緒に作ったんですよこれ」
「そうでしたか。なら、喜坂さんにもお礼を言わないと。――んっふっふ、これからは料理イコール日向君という認識を改めたほうがよさそうですねえ」
「ちょっと寂しいような気もしますけどね。自分で料理教えときながら何言ってんだって話ですけど」
「んっふっふっふ」
清さん、笑いながらも中に入るよう僕を手で促しました。既に部屋へ上がるよう招かれているというのに玄関先で立ち話っていうのも、考えてみれば変な話で。
というわけで居間へ通され、座る位置は栞さんの隣。その時栞さんはマンデーさんをもふもふしていたのですが、それを見てということなのか、ジョンが嬉しそうに尻尾を振りながらこちらへやってきました。だったらまあ、同じくもふもふと。
「喜坂さん。これ、ありがとうございます」
「あ、はい。それなりに美味しくできてると思いますよ。なんせ本の通りに作っただけですから」
皮肉なのか自賛なのか判断に迷う言い方でしたが、しかしそれなりに美味しかったのは事実です。そりゃあ、何の手も加えずに本の通りに作ったわけですから。
清さんが僕と栞さんに向かい合うようにして座り込み、テーブルの上にクッキーを載せた皿をコトンと置きました。
「マンデーの話だと、私に何か、伝えたいことがあるそうですが」
「あ、はい」
返事をしたのは栞さん。それと同時にマンデーさんから手を離したのを見て、ならばと僕もジョンから手を離します。
「あれ、まだ話してなかったんですか?」
栞さんがこの102号室に入ってからこうして僕が到着するまで、少々ながらも時間があったわけですけど。
「孝一くんが来てからのほうがいいかなって。マンデーとナタリーもそうしてくれたんだしね」
そういえばそうなります。マンデーさんとナタリーさんだって今回の話は既に知っているわけで、ならば清さんが帰ってきてから今までずっと、言わないでおいてくれたということに。
「ありがとうございます」
ならばその礼はもちろん栞さんだけでなく、マンデーさんとナタリーさんへも向けられたものだったのですが、しかし三者揃って特にどう言ってくるというわけでもないのでした。優先すべきは清さんとの話だ、ということなのでしょう。ありがたいことです。
そういうわけで、改めて清さんと向き合います。あまり気にするようなことでもないかもしれませんが、この流れからなら、話すのは僕のほうがいいのでしょう。
「ええと、清さん」
「はい」
「栞さん、年を取り始めたんです」
「おや。――おやおや、そうですかそうですか」
伝える内容は極短く、そして清さんの反応も驚きだけを表現したような短いものでしたが、しかし何となく、時間が長く感じられるのでした。緊張とは違うような気がしますが、いずれにせよ似たようなものではあるのでしょう。
けれど、既に三度話したことなのです。家守さんと高次さんの時で一度、マンデーさん達で二度、深道さんと霧原さんで三度。どうして四度目、つまり今回だけ、こんな気分になるんでしょうか?
……清さんも年を取る幽霊で、かつその期間が年単位にもなっているから、でしょうか。
随分と差の開いた先人ということになるわけです。もちろん、人生自体の長さからしても。
さてその清さんですが、皿に掛けられたラップを外してクッキーを一つ、口の中へ。すると僅かながらサクサクと音が聞こえてきたので、湿気てなくて良かった、と。ラップを掛けているならまあまず心配はいらないのでしょうが、この天気で湿度も高いでしょうし。
「美味しいですねえ。まあ、いま私が言わなくても怒橋君と哀沢さんが同じことを言ったんでしょうけどね。んっふっふ」
「いえ、そう言って頂けると」
ご想像通り、同じことを言われてはいますけど。――という頭の内を読んでか読まずか、清さん、もう一度んっふっふと。
「それで、喜坂さんの話ですが」
自分からその話を持ち掛けておいてなんですが、急でした。いや、僕がそう感じただけで、実際はこうなって当たり前ではあるんですけど。
「そうだと分かったのはいつになるんですかね?」
「昨日の夜です。晩ご飯の後に。ああ、実際に年を取り始めたのはもうちょっと前になるんでしょうけど」
「そうですか。……んっふっふ、それで翌日にはもうこうなんですから、行動が早いですねえ」
清さんが笑います。大学の先輩にわざわざ話を聞いたということについては伝えていないので、ならば「こう」というのは、「ここのみんなに栞さんが年を取り始めたことを伝えた」ということのみを指しているのでしょう。
「気が早かったでしょうか?」
「ん? いえいえ、感心しているんですけどね。すいません、紛らわしい言い方をしてしまいまして」
「あ、す、すいませんこっちこそ早とちりで」
そんなふうに受け取ってしまったというのは、さっきから感じている緊張に似た何かの仕業なのでしょう。いま思い返してみても、清さんがそんなつもりで言ったようには思えませんし。
「一応訊かせてもらいますけど、二人で決めたことなんですよね? 皆さんにそのことを話すというのは」
「そうですね。初めに楓さんと高次さんに伝えたいって言ったのは、私なんですけど」
「そうですか」
栞さんからそれを聞いて、清さんは満足そうでした。普段から常に笑顔な人ではありますが、それでもなんとなく分かるのです。普段と何が違うのかと言われたら、説明に少し困ってしまうような気はしますけど。
「家守さんと高次さんに話したということは、その時にこんな話をされませんでしたか?」
何が違うのかよく分からない満足な様子を保ったまま、続いての質問。
「年を取るようになるまでの期間は早ければいいということではない、と」
「あ、はい。良いとか悪いとかそういうことじゃないって」
引き続いて栞さんが答えましたが、もちろんそれは僕も覚えています。というか、今朝それを言われてからは常に意識しているようなものです。殊勝な心がけというよりは、そうしていないと忘れて喜んでしまいそうという情けない話なのですが。
僕のことはともかく、清さんは「んっふっふ、やっぱりですか」と。つまり、清さんも同じ話をされたのでしょう。自身が年を取っていることの説明を受けている時、ということになるのでしょうか。
「私もそれは同感ですが、しかしそのことについての整理をすぐにできるというのはいいことだと思いますよ。皆さんに話せたというのは、完全にとは言わないまでもある程度整理が付けられたからなんでしょうし」
すると栞さん、少し考えるように首を傾けてから、「そういうことになるんでしょうね」と。
「戸惑いがあったりしたら、『楓さんと高次さんに話したい』なんて言えなかったでしょうし」
その答えに清さんはまたも満足そうにするのですが、その時、ナタリーさんが。
「あの、喜坂さん」
「ん?」
「それはやっぱり、日向さんのおかげってことになるんですか?」
「そうだね、もちろんそうなるよ。自分が年を取ってるってハッキリしたのが昨日の夜でみんなに話したのが今日の朝だから、さすがにそれほど相談とか、長い時間したわけじゃなかったけど……なんて言うのかな、根拠になるようなことがなくても信頼できるっていうか」
後半は語り口が少々照れ臭そうな栞さんでしたが、そういうことなんだそうです。根拠がなくとも信頼できるというのは僕から見た栞さんも同じなのですが、しかしいつも根拠を作るのに必死だったということも、否定はできません。だからこそ毎晩のように何かしら話し合っているわけですし、だからこそそれが高じて喧嘩に発展するようなことにもなったんでしょうし。
「素敵ですね、そういうの」
「あはは、口で説明したら自分でもそう思えてきちゃったよ。ありがとう、ナタリー」
照れ臭そうだったことの反動もあるのでしょう、そう言ってナタリーさんに礼を言う栞さんでした。が、するとここでマンデーさんが一言。
「あら? 言葉にしたほうがいい気分になれるということは結局、日向さんと相談をした方がいいということなのでは?」
「あれ、そういえばそうかも。でもそうなったら、根拠なしに信頼できるのはいいことだねっていう今の話が無くなっちゃうし……うーん、どうなんだろう」
なんともややこしい話になってしまいました。
すると、今度は清さんが。
「根拠なしに信頼できる関係だという自覚を持って、そのうえでする根拠を作るための相談でしたら、問題はないのではないでしょうかねえ」
なるほど、自覚さえあれば実行せずとも同じことというわけですか。そうですよね、どう思うかっていう心情面の問題なんですし。
「ああ、だからと言ってあまり気分がよくなり過ぎると、相談どころではなくなってしまうかもしれませんねえ」
それはちょっとやらしいです清さん。いや、これをやらしいと感じてしまう僕こそがやらしいんでしょうか?
しかしそれはいいとして、清さんが言ったことは事実ではあるんでしょう。そりゃあ恋人同士がお互いのことで気分を良くしたら、あれこれとあろうことでしょうし。僕だってそういう経験がないわけでもないですし。
「大丈夫だと思いますけどね。孝一くん、話さなきゃならないことがあったらそれを無理にでも押し付けてきますから」
「んっふっふ。だそうですよ? 日向君」
「いやあ、返す言葉がございませんというか」
こういう冗談混じりの会話でだすようなことではないのかもしれませんが、過去、上半身裸の栞さんに対してそんなことお構いなしに怒鳴り散らした経験があるわけで。栞さんがそれをどこか誇らしげに語ってくれるのはそりゃあ嬉しいのですが、自分で評価するとなると、やっぱり語気が弱まってしまいます。
「喜坂さん、言ってることの割には嬉しそうですけど……」
「さっきの話と同じで、これも素敵なことなのですわ。ナタリーさん」
「そうなんですか? じゃあ、さっきよりもっと素敵なんですね」
ナタリーさん、あんまり言われるとその、辛いです。いやいやもちろんお褒め頂き有難う御座いますではあるんですけど。
照れと心苦しさが相まって、こう、もにょもにょとしてしまいますが、すると清さんが――堅苦しいというわけではなく、しかし少なくとも冗談めかしたものではない口調で、語り掛けてきました。
「そういうわけなので、日向君。要らぬお世話だとは思いますけど、喜坂さんからは既に絶対の信頼を得ているようですよ。無理に話を押し付けるようなことがなくても」
もちろんのこと、言われる前からその自覚はありました。しかし、先程の栞さんとナタリーさんの話です。いい気分というわけではないのですが、言葉でそう言われてみると、はっと思わされるところがありました。
「ああでも清さん、それが嫌だってわけじゃなくて――」
栞さんが慌てた口調で言いました。それはもちろん「無理に話を押し付けてくる」という点についてなのでしょうが、しかし清さんだって、それは分かっているでしょう。分かっていて言ったというか、分かっていたからこそ言ったというか。
「そう、ですね」
なので僕は、栞さんの言葉を遮るようにしてそう返します。
すると栞さんのこちらに向き、その顔には不安そうな表情が。その表情をするだけで何も言ってこないというのは、本当に困ってしまっているのでしょう。けれどもちろん不安に思われるようなことを考えているわけではないので、返事代わりに笑いかけておきました。
栞さんが僕の「無理に話を押し付けてくる」という点を嫌がるどころか気に入ってくれているのは、百も承知です。だからこう思ったところで結局僕がそうするのは変わらないんでしょうし、なのでこれは、単に僕の内面だけの話になるのでしょう。
「焦ることはなさそうですね、もう」
「そういうことになりますね。んっふっふ」
そういうふうに動く性格だからそうしていた、というのが一番。しかしそれはあくまでも一番であるだけで、一番があるなら二番だってあるのです。焦っていたから、無理に話を押し付けていたのです。もちろん、喧嘩にまで発展した場合だけを指すものではなく。
栞さんのことを知りたいとか、栞さんの力になりたいとか、焦っていた理由はそんなところでしょう。今更なので取り繕うことなく言ってしまいますが、栞さんは幽霊。それについてはやはり、どこか危ういといった印象を持たざるを得ないのです。だから、何に急かされたわけでもないのに焦っていたのです。いつかボロが出る前に地盤を固めておかないと、と。
……でもどうやら、地盤はとうに固まっていたようです。それは要するに、栞さんからの信頼を得るということなのですから。
いや、清さんから言われる前に気付いとけよって話なんですけどね。いざ気付いてみると。いま僕がこの102号室にいる理由も、それについて清さんから「行動が早い」と言われた時に感じた緊張に似た何かというのも、正体はその焦りってことになるんでしょうし。
「え、ええと……?」
困惑を隠す余裕すらなさそうな栞さんの声が、耳に入りました。そりゃあ困惑もするでしょう、栞さんにとって僕の「無理に話を押し付ける」という性格は良いところであって、疑問を差し挟むようなところではないのですから。良い悪い以前の場所から眺められる清さんだからこそ、今の話ができたのでしょう。
「これからも無理に話を押し付けることはあるでしょうけど、そんな僕を今後も宜しくお願いしますね。栞さん」
「う、うん。それはもちろん。もちろんだけど、今の話って結局どういうことだったの? 焦るって、何を?」
「いやあ、気分だけ一新してやることは変わらないっていう変な話ですよ」
「んー……?」
どう見ても分かってはいない栞さんでしたが、まあしかしそれならそれでいいのではないでしょうか。必要に迫られれば、どうせまた無理にでも説明を押し付けることになるんでしょうし。
「もう一つ余計なお世話ですが、喜坂さんが年を取ったことについても同様ですよ? それに関することで焦りを感じる必要は全くないですから、まあ気楽に構えていてください。それでも問題はないでしょうからねえ、日向君と喜坂さんなら」
「はい。ありがとうございます、清さん」
この部屋へ来た理由の一部にその焦りが混じっているとはいえ、来てよかったな、と。焦りがなかったところでやっぱり来ていたんでしょうけどね、ここへは。なんせ理由の一部でしかないわけですから。
「うう、よく分からないままお礼を言うっていうのもなあ」
僕が清さんに頭を下げたことについて、栞さんが自分も右に倣うべきだろうかと困ってしまったようでした。が、清さんが「いえいえ、そもそもお礼を言われるようなことはしていませんし」と言いながら笑うと、仕方なしにといった様子でそれに従うのでした。
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