おはようございます。203号室住人、喜坂栞です。
何だか窓がカタカタいってるなあ。今日はちょっと風があるみたい。まあ、外に出る時のことを考えるなら、昨日みたいに雨が降るよりはいいんだろうけど。庭のお掃除の時もちょっと大変だし。
――と、それはいいとして。
そうだ、今日は考えなくちゃならないことがあるんだった。
「ん~っ」
伸びをして、残っていた眠気を取り払う。急いで起きる必要があるわけじゃないけど、急いで起きる必要があるところまで寝るというのは、あまり気持ちよく起きられないだろうから。
考えなくちゃならないことがある。
顔を洗って歯を磨いている間に、まずはその考えなくちゃならないことを振り返ってみた。振り返るまでもないことではあるんだろうけど、今回は頼らないって決めたんだから、少しぐらい慎重なほうがいいんだろうと思う。
……私は、もう何年も自分の家に帰っていない。このあまくに荘に住むことになってからの四年間、それに入院していた時の分も合わせたら十年に近いか、もしかしたら越えているかもしれない。入院している時でもたまに、気休め程度に――学校には行けなかったことを考えると、本当に気休めでしかなかったんだろうけど――ちょっとだけ家に帰れたりしたこともあったから、正確に何年になるのかは分からないけど。
それで今回、私は家に帰るかどうかを考えることに決めた。今までとは違って、こうくんには頼らずに。
普通に考えれば大したことではないのかもしれないけど、これまでいっぱい助けてもらっていたせいか、それだけでもちょっと不安になってしまう。――でも、大丈夫なんだろう。頑張れると思う。そのこうくんが、そう言ってくれたんだから。
鏡の向こうの私も、大丈夫そうな顔をしていた。
毎度毎度気になるわけじゃないけど、こうくんのことを考えたからだろうか? 着替えの際、自然と胸に視線が落ちた。
今更な確認ではあるけど、そこにもう傷跡はなく、形のない傷跡の跡が残っているだけだった。
形はないけど、でも、何もないというわけでもなかった。そこにあるものは変わらずに、傷跡という形を捨てただけのことだから。……いや、こうくんに関連付けた話として考えるなら、捨てさせてもらえた、になるんだろうか。
もともとの形をなぞるように上から下へ指を滑らせ、何となく浮かんできた微笑みをそのまま顔に出してから、着替えを続行することにした。今日は風があるようなので、スカートは長いほうにすることにした。
服入れからそれを選び出す際、患者服が目に入った。これもいつもだったら特に気にするようなものではないけど、今回は妙に目に留まった。とはいえ、何も辛い過去を思い出して嫌な気分になるというわけではなく、むしろ鏡を見た時と同じように笑うことができた。
それを着ていた頃の記憶が辛いものであることに変わりはないけど、それに流されるようなことはもう、なくなった。どうしてなのか、誰のおかげなのかは、考えるまでもなかった。
着替えが済んでしまえばあとはもう、こうくんが大学に行く時間になるまで得にすることはない。こっちから会いに行ったらこうくんは迎え入れてくれるだろうけど、「あんまりベッタリしないようにしよう」という決め事と、あと今回はこうくんに頼らないということもあって、そうする気にはなれなかった。こんなことを考えている時点で、会いたいと白状しているようなものだけど。
好きな人とずっと一緒にいられる楓さんと高次さん、それに成美ちゃんと大吾くんが羨ましい――というのは、底意地の悪いやっかみなのだろう。そうしたいと思うならすればいいだけの話で、そうしたいと思うならこうくんに言えばいいのだから。同棲したいと。一つの部屋で一緒に暮らしたいと。
逆に言えば、そうしたいという思いを塗りつぶすほどの理由があるから私はまだこうくんにそう言っていない、ということになる。まだそういう時期ではないと、私は自分で思っている。
今回のことは、その時期へ近付く一歩になるだろうか。今回のことが済んだら、一緒に暮らしたいと言えるようになったりするのだろうか。そんな突然にそうなるものなのだろうか?……分からない。
「大学……どうしようかなあ、今日」
気が付くと、そんなことを呟いていた。言った後になって自分がそう言ったことに気付いたので、どうしてそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。けれど何の意味もなくそんなことを呟くはずがないので、だったら何か意味があってそう言ったんだろう、私は。
大学には行かない。つまり、こうくんと一緒に出掛けない。意味があるならば、恐らくはそちらについてなのだろう。こうくんには頼らないと決めたのだから、こうくんと一緒に行動するのは控えようと。そういうことなんだろうと思う。
でもそういうことならそういうことで、それをこうくんに伝えなきゃならない。毎日一緒に大学へ行っているんだから、今日も当然来るものだと思って呼びに来るだろうし。
まあ、そこまで大袈裟に考えるようなことでもないんだろうけど。ということはやっぱり私、どこか心細く思ってるんだろうけど。
でも、だからこそ。
「おはようございます」
「おはよう」
傷跡の跡や患者服が気になったのと同じの理由から、ということになるんだろう。私を呼びに来たこうくんと顔を合わせただけで胸の内が温かくなり、同時に緩く締め付けられるような気分になった。今日は一緒に行かないと既に決めていることも、関係しているんだろう。
「あの、こうくん。今日は私、止めておくよ。大学に行くの」
「え?」
驚いたような顔。そりゃあそうだろう、こんなことを言うのは初めてなのだから。
「ここまでする必要はないのかもしれないけど……昨日の話で、さ。私、一人で考えたいから」
「ああ。そうですね、大学に行ったら講義に耳がいっちゃって考え事どころじゃないでしょうし」
納得してはくれたけど、そういう理由じゃないんだけどなあ。――というような些細な不満は、持つだけ無駄というものなのだろう。こうくんのことだから多分、私が言いたいことを分かったうえでそう言ってるんだと思う。照れ屋なところ、あるみたいだしね。
「ごめんね」
「いえいえ、謝られるようなことじゃあ」
微笑みながらそう言って、私のちっぽけなうしろめたさを吹き飛ばしてくれる。だから私は、こうくんのことが好きだ。
ちっぽけなんてとても言えないようなものですら、吹き飛ばしてくれてきた。だから私は、こうくんのことを愛している。
それらの気持ちは当然ながらとても大きいもので、その大きさに比例するほど大事なものでもあるけど、でも、それだけになってしまうというのは何か違うのだろう。だから私とこうくんは「あんまりベッタリしないようによう」という決め事をしたわけだけど――裏を返せばそれは、気を抜くとそんなふうになってしまうということだ。
「じゃ、行ってきますね」
「あ、こうくん」
どこまでが「気の抜けていない行動」なのか。線引きは難しいけど、これくらいなら許されると思う。
出発しようと踵を返したところに名前を呼ばれ、そうしてこちらを向き直したこうくん。私は彼に、キスをした。
なにも普段欠かすようなことがあるわけではないけど、歯を磨いていて良かった、なんてつい思ってしまう。普通、そういうことを考えるのはキスをした側の私よりも、いきなりキスをされた側のこうくんなんだろうけど。
「行ってらっしゃい」
もう一度驚いた顔になったこうくん。でもすぐにまた、嬉しそうな顔をしてくれた。
「はい。行ってきます、栞さん」
栞さん。昨日、変わりかけて変わらなかった呼ばれ方。変わっていたらそれはそれで嬉しかっただろうけど、一晩が過ぎてからそう呼ばれてみると、変わらなかったことが嬉しく感じられた。
歩き始めたこうくんの背中に数秒だけ視線を向けたあと、私は玄関から頭を引っ込め、ドアを閉めた。キスで少し甘えた分、ここでしっかり切り替えるぐらいのことはすべきなのだろう。
それにしても、と部屋の中に戻ってから頭に浮かぶことがあった。
確かに昨日、私は「家に帰るかどうか考える」と決めて、それをこうくんにも伝えた。それは間違いない。でもだからといって、こうも急ぎ足でそれを実行する必要はどこにもないのだ。普段通りに過ごしながら――例えば、大学にも行って――その合間合間で考えるということにしたって、悪くもなければ間違ってもいない。それで答えを出すまで数日、数週間掛かったとしても、やっぱりそこに特に問題点はない。
結論として、せっかちだなあ、と私は私をそう評価した。でも、そこでもう一つ。こうくんもそうだよねえ、とも。
何か問題が起こったらこうくんは即座に、そして全力で、その問題を解決させようとする。それに救われた私が言うんだから間違いはないだろう。
ならば私は、そういう点でこうくんと似た者同士ということになるのだろうか?
だとしたらそれはなんとなく嬉しいけど、でも、そうではないのだろうと思う。私のほうは、こうくんと付き合っているうちにこうくんに似てきたというだけのことなのだろう。こうくんと付き合い始める前の自分を振り返ってみて、せっかちだと思うような場面は、全くと言っていいほど浮かんでこなかった。
「あはは」
笑ってしまう話だった。そりゃあそうだろう、私がせっかちな人間だったら、こうくんに救われるまで自分の問題を抱えっぱなしということはあり得ないのだろうから。
私が世界を呪い始めたのは、正確にはいつからだったろうか?
私は何年、世界を呪い続けたのだろうか?
せっかちどころか、悠長に。
――笑ってしまう話だった。そう、私は、笑えるようになった。絶望にまみれた壊れた笑いではなく、それを乗り越え至って普通な温かみのある笑いを発することができるようになった。
この部屋で、一人で、暗い笑いを浮かべていたことがどれだけあっただろうか。あの感情とはもう、ここ暫く顔を合わせていない。と言うより、もう二度と顔を合わせることはないのだろう。
私はこうくんに惹かれ、そしてこうくんに似て、せっかちになった。
あまり感じのいい言葉でないことは確かだけど、しかし誇るべきなのだろう。私はせっかちになれた。それは、愛する人のおかげで進歩することができたということなのだから。
…………。
……。
これが、有名なあれなのだろうか。勉強をしようと思ったらどういうわけか机の片付けをしたくなる、という。まあ私がしているのは勉強ではなく、したくなったのも机の片付けではないんだけど。
庭のお掃除がしたい。家に帰るかどうかを考えていたはずなのに、いつの間にかそれが頭に浮かんで、しかも頭の半分ほどを占めてしまっていた。
私は、他人と比べて勉強というものをした時間がとても短い。だから、もしかしたら勉強をしていたら云々の話とは全く関係のないことだったりするのかもしれないけど、でもそれはいいとして、とにかく庭のお掃除がしたかった。
――少し考えてみた結果、ならばしようという結論に。気になった状態のまま考え事をしても効率が悪いばっかりだろうし、それにそもそも、私の仕事は決まった時間にしなければならないというものではないからだ。習慣として十二時頃にばかりしてはいたけど。
よし。じゃあ、そうとなれば早速。
時折音を立てていた窓が示していた通り、外では風が吹いていた。そよ風というほど弱くもなく、強いと形容するほど強くもないその風は、朝ということもあってか気持ちが良い。
「あれ、喜坂お前、どうしてまだいるんだ?」
「あ、おはよう成美ちゃん」
庭のお掃除をするために外へ出たのならば、目的地はもちろん庭。けれどその庭へ辿り着く前に、202号室の窓から成美ちゃんに声を掛けられた。
どうして、というのはまあ、あのことを言っているのだろう。
「今日はちょっと、大学にはついていかなかったんだよ」
「そうなのか。いや、もうお前も日向も出掛けたはずなのにドアの音がしたからな」
つまり成美ちゃんはたまたま窓の向こう、台所にいたのではなく、音がしたから台所に出てきた、ということなのだろう。
ちなみに成美ちゃん、小さいほうの身体だったので、台所のシンクからは殆ど首から上しか覗いていなかった。
可愛いなあ。
「それで、大学にいかないというならどこに行こうとしていたんだ? 今」
「ああ、どこに行くってわけじゃなくて」
どうして大学に行かなかったのか、とは訊かれなかった。ここはほっとするべきなのか、それとも成美ちゃんに感謝するべきだろうか? どちらにせよ、それを言葉にすべきではないんだろうけど。
「庭のお掃除をね。いつもより早いんだけど、暇なせいかなんだかやる気になっちゃって」
「そうか。ふふ、感心なことだな」
本当は、暇だからというわけではない。でも成美ちゃんにはそう思ってもらって不都合はなく、むしろ悩みがあるからという本当の理由に気付かれるくらいだったら、こっちのほうがいい。――そう思ったからそう言ってみたものの。
「なら、それが終わったらこっちに来ないか? 言うまでもないことだが、わたしと大吾も暇をしていてな」
ということになってしまった。さっきも思った通り、暇だというわけではないんだけど。
でも成美ちゃんには暇だと言った以上、ここで断るのはおかしな話になる。それにもちろん魅力的な誘いでもあるわけで、だったら誘いを受けるのもありなのだろう。
「そうさせてもらうよ。じゃあ、また後でね」
「うむ」
部屋で考えたこともあってか、「大吾くんと一緒のところをお邪魔じゃないだろうか」なんていう考えが浮かんだりも。けれど成美ちゃんのほうから呼ばれている以上、それは要らぬお世話ということになるのだろう。
「おーい、喜坂ー」
「え?」
201号室の前も通り過ぎ、階段に足を踏み入れようとしたところ、また成美ちゃんから声を掛けられた。振り返ってみるとさっきの台所の窓から成美ちゃんが顔を出していて、つまり、シンクによじ登ったのだろう。普通にドアから出てくればいいような気もするけど、まあ可愛いからいいか。
「チューズデー達にも声を掛けてみてくれないかー?」
「あ、うん。分かったー」
そうだよね、数が多いほうが楽しいし。
物置から箒と塵取りを取り出して、今日の仕事に取り掛かる。とはいえ、塵取りは今日も恐らく必要ないのだろう。これで拾い上げるようなゴミは、そう滅多に出てこないからだ。
みんな庭を綺麗に保ってくれている――と言えば聞こえはいいけど、実際はただ単に捨てるようなもの自体を持ち合わせていないだけだったりもする。統計を取ったりしたわけではないけど、幽霊というだけで、そうじゃない人より消費活動が随分と抑えめになるんだと思う。まず、ものを食べる必要がないわけだし。
でももちろんここのみんなは、ゴミになるようなものを持っていたとしても、それを庭に投げ捨てるようなことはしないだろう。これも確認を取ったわけではないけど、それでも確信は持てる。
……というようなことを掃除の際、私はちょくちょく考えている。それが全てだというわけではないけど、私の掃除が好きな理由の一つなのだろう。周りのみんなの行動が見える、というか。もしもこの庭が頻繁にゴミだらけになるようだったりしたら、とても掃除好きにはなっていなかったと思う。まあ、初めにここに住んでいたのは私と楓さんだけだから、どうやったってそうはなりようがなかったんだけど。
それはともかく、臆病な話だとは思う。わざわざゴミの有無からみんなのことを窺わなくても、直接会えばそれでいいといえばいいのだから。けれど私は憶病だから、今でもゴミの有無からわざわざこんなことを考えている。
ここのみんなはみんながみんな、いい人達だ。
だからこそここはとても住み心地がいいんだけど、だからこそ少し前までの私は、戸惑わされてしまっていた。呪っていたはずの世界を――アパート一つなんてその極々一部でしかないとはいえ――好きになってしまったからだ。
戸惑って、そのせいで余計に意固地になっていた部分もあるんだと思う。胸の傷跡をずっと残していたのは、自分の呪いの源を忘れないためでもあったんだと思う。戸惑いを踏み越えて、世界を呪い続けるために。今となっては薄ら寒い話だけど、その呪いこそが私のアイデンティティでもあったからだ。
でももちろん、現在ではそんなもの、欠片も残ってはいない。こうくんが粉々に叩き潰し、加えて綺麗に取り払ってくれたからだ。それこそ、丁寧に塵取りに集めて捨て去るように。
そして私に残ったのは、「アイデンティティを捨てることができた」というアイデンティティと、このあまくに荘とここに住むみんなが好きだということと、その中でもこうくんが特別だということ。要は、前向きになったということだ。あまくに荘だけでなく大学のほうにも友達ができたわけだから、その頭に「人並みに」と付け加えてもいいのではないだろうか、とも思う。
――という分かったふうな話はありつつも、しかしもちろん、単純に辺りを綺麗にするということが好きだったりもする。間が空き過ぎて自分でも何の話だか分からなくなりかけていたけど、掃除が好きな理由として。周りが綺麗だと気持ちいいもんね、やっぱり。
いくらゴミがなくても掃除をするとはいえ、本当に何もなかったならば、やっぱり手短に済んではしまう。裏庭に回った際、手短ついでということでジョンをもふもふしようかと思ったけど、残念ながら犬小屋は空だった。ならばと思って見てみれば、案の定102号室の窓の向こうでチューズデー、それにナタリーと一緒に、くつろいでいた。気持ちいいだろうなあ、混ぜてもらったら。
ともあれ掃除はこれで終わりなので、成美ちゃんに頼まれていた通り、そのまま裏庭から声を掛けることにした。暫く眺めていても良かっただろうけど。
「おーい」
窓越しに呼びかけながら、その窓を軽く叩く。叩く前から風邪でカタカタと音を立ててはいたけど、どうやら気付いてもらえたようで三人ともがこっちを向き、その中からチューズデーがこちらへ近付いてきた。
そのまま窓をすり抜けてこちら側へ。窓の鍵が開けられないので仕方がない。
「お早う、栞君。わざわざ裏庭からということは仕事中だったのだろう? 早い時間から御苦労さまだね」
「あはは、まあ、今終わったところなんだけどね。それとおはよう、チューズデー」
裏庭からという以前に、まだ箒と塵取りを持ったままなので見ただけでそれと分かるけど、それはいいとしておこう。
「成美ちゃんが部屋に来ないかって言ってたんだけど、どうかな」
「くくく、返事は決まっているようなものだね。ジョン君とナタリー君に訊くまでもなく」
「だよねー」
「まあ、ジョン君には訊こうとしても訊けないのだが」
それはそうだけど、でもそれで問題があるわけでもない。既に当たり前の光景ではあるものの、割と凄いことなんだと思う。ペットという扱いならともかく、友人としてそれが通るというのは。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔するぞ」
「お邪魔します」
「ワウ」
「うむ、いらっしゃい」
みんなを連れて202号室へ。玄関に出迎えに来た成美ちゃんは嬉しそうで、一方大吾くんは中で待っているようだったけど、もちろん成美ちゃんと同じように嬉しがっているんだろう。
いや、同じようにというより、それ以上だったりすらするかもしれない。なんせ大吾くんは動物好きで、それはチューズデー達の世話を任されるくらいなのだから。しかも一方的に好きだというわけでなくチューズデー達からも普通以上に好かれている辺り、見習おうと思っても簡単に真似られることではないんだろうと思う。
そのことだけで大吾くんを語るわけではないけど、だから、大吾くんを選んだ成美ちゃんの気持ちはよく分かる。異性としての好意は別の人へ向けた私からしても、だ。
「よう、おはよう」
玄関をくぐった時と同様、みんなそれぞれに大吾くんへ挨拶をする。いつものようにちょっと不機嫌そうな顔だったけど、でもそれは不機嫌そうなだけであって本当に不機嫌なのではないというのも、「いつものように」なのだろう。
座椅子が置いてあるものの、大吾くんはそこに座っているわけではなかった。ということはつまり、そこに座っていたのは成美ちゃんなのだろう。――そんなことを考えている間に、その考え通り成美ちゃんがその座椅子へ腰を下ろした。
「朝から来てもらって悪いのだが、特に何をしようというわけでもないぞ。どうせ暇なら一緒に暇をしようというだけのことで」
「つまり、いつも通りというわけだね」
「そういうことだ」
言って、成美ちゃんとチューズデーが笑う。釣られて私とナタリーも笑い、大吾くんはふんと鼻を鳴らし、ジョンは尻尾を揺らしていた。そう、いつもと同じことだ。
本当なら今日はいつもと違って一人で考え事をする予定ではあったけど、でも、なにもこういう機会を放棄するほどの理由にはならない。こうくんを見送った後にも思ったことだけど、急ぐ理由は私自身がせっかちだからという他にはこれといってないのだから。
「成美ちゃん成美ちゃん」
そういうわけなので、そういうわけなりの行動にでてみることにした。
「ん?」
座るのに際して崩していた足を前に投げ出すようにし、成美ちゃんに手招き。おいでおいで、というやつだ。
ふっと鼻を鳴らして立ち上がり(よく鼻を鳴らすのは大吾くんと似てるなあ、そういえば)、こちらへ歩み寄ってくる成美ちゃん。普通の人だったら子ども扱いするなと怒られそうなものだけど、良い悪いという意味でなく成美ちゃんは「普通の人」ではないので、そんなことはない。
まあそもそも、怒られるようだったらこんなことしないけど。
「お邪魔させてもらうぞ」
「いらっしゃい」
というわけで、膝の上に座った成美ちゃんを抱っこする。真っ白でかつ癖っ毛な髪はいつも通り綺麗で、そしてふわふわして気持ちがいい。この感触を再現した抱き枕があったりするなら是非とも欲しいくらいだ。
くだらないと言えばくだらないのであろうそんな考えを巡らせていたところ、成美ちゃんに動きが。
「ん? これは……」
「どうかした?」
「日向の匂いがするな、お前から」
「えっ?…………ええっ!?」
「はは、冗談だよ」
きつい冗談だった。それはつまりどういうことだろうかと考えた後、間を置いたのに改めて声を上げてしまったくらいに。……成美ちゃんもそういう意味で言ったんだろうか? 少なくとも冗談ではあったようだけど。
そして冗談ということは、多少なりとも意地悪のつもりではあったんだろう。
というわけで私は、お返しに成美ちゃんの脇をくすぐってみた。
「うわっ、はっ――あははははははは! きさっ、喜坂っ、ややややめっ! 悪かった、謝るからはははははははは!」
どちらがより意地悪なのかといえば、間違いなく私のほうが上なのだろう。ああ、楽しいなあ。
――とはいえ、いつまでも続けているわけにもいかない。膝の上で笑い転げる成美ちゃんを堪能した後、意地悪はそこまでということにしておいた。
「はあ、はあ……酷いぞ喜坂。暇をするつもりだったのに、初めから疲れてしまったではないか」
「あはは、ごめんね」
どこか緩んでしまっている声で非難してくる成美ちゃん。それでも膝の上に座り続けてくれているというのは、誘った側としては安心させられるところがあったりもする。
何だか窓がカタカタいってるなあ。今日はちょっと風があるみたい。まあ、外に出る時のことを考えるなら、昨日みたいに雨が降るよりはいいんだろうけど。庭のお掃除の時もちょっと大変だし。
――と、それはいいとして。
そうだ、今日は考えなくちゃならないことがあるんだった。
「ん~っ」
伸びをして、残っていた眠気を取り払う。急いで起きる必要があるわけじゃないけど、急いで起きる必要があるところまで寝るというのは、あまり気持ちよく起きられないだろうから。
考えなくちゃならないことがある。
顔を洗って歯を磨いている間に、まずはその考えなくちゃならないことを振り返ってみた。振り返るまでもないことではあるんだろうけど、今回は頼らないって決めたんだから、少しぐらい慎重なほうがいいんだろうと思う。
……私は、もう何年も自分の家に帰っていない。このあまくに荘に住むことになってからの四年間、それに入院していた時の分も合わせたら十年に近いか、もしかしたら越えているかもしれない。入院している時でもたまに、気休め程度に――学校には行けなかったことを考えると、本当に気休めでしかなかったんだろうけど――ちょっとだけ家に帰れたりしたこともあったから、正確に何年になるのかは分からないけど。
それで今回、私は家に帰るかどうかを考えることに決めた。今までとは違って、こうくんには頼らずに。
普通に考えれば大したことではないのかもしれないけど、これまでいっぱい助けてもらっていたせいか、それだけでもちょっと不安になってしまう。――でも、大丈夫なんだろう。頑張れると思う。そのこうくんが、そう言ってくれたんだから。
鏡の向こうの私も、大丈夫そうな顔をしていた。
毎度毎度気になるわけじゃないけど、こうくんのことを考えたからだろうか? 着替えの際、自然と胸に視線が落ちた。
今更な確認ではあるけど、そこにもう傷跡はなく、形のない傷跡の跡が残っているだけだった。
形はないけど、でも、何もないというわけでもなかった。そこにあるものは変わらずに、傷跡という形を捨てただけのことだから。……いや、こうくんに関連付けた話として考えるなら、捨てさせてもらえた、になるんだろうか。
もともとの形をなぞるように上から下へ指を滑らせ、何となく浮かんできた微笑みをそのまま顔に出してから、着替えを続行することにした。今日は風があるようなので、スカートは長いほうにすることにした。
服入れからそれを選び出す際、患者服が目に入った。これもいつもだったら特に気にするようなものではないけど、今回は妙に目に留まった。とはいえ、何も辛い過去を思い出して嫌な気分になるというわけではなく、むしろ鏡を見た時と同じように笑うことができた。
それを着ていた頃の記憶が辛いものであることに変わりはないけど、それに流されるようなことはもう、なくなった。どうしてなのか、誰のおかげなのかは、考えるまでもなかった。
着替えが済んでしまえばあとはもう、こうくんが大学に行く時間になるまで得にすることはない。こっちから会いに行ったらこうくんは迎え入れてくれるだろうけど、「あんまりベッタリしないようにしよう」という決め事と、あと今回はこうくんに頼らないということもあって、そうする気にはなれなかった。こんなことを考えている時点で、会いたいと白状しているようなものだけど。
好きな人とずっと一緒にいられる楓さんと高次さん、それに成美ちゃんと大吾くんが羨ましい――というのは、底意地の悪いやっかみなのだろう。そうしたいと思うならすればいいだけの話で、そうしたいと思うならこうくんに言えばいいのだから。同棲したいと。一つの部屋で一緒に暮らしたいと。
逆に言えば、そうしたいという思いを塗りつぶすほどの理由があるから私はまだこうくんにそう言っていない、ということになる。まだそういう時期ではないと、私は自分で思っている。
今回のことは、その時期へ近付く一歩になるだろうか。今回のことが済んだら、一緒に暮らしたいと言えるようになったりするのだろうか。そんな突然にそうなるものなのだろうか?……分からない。
「大学……どうしようかなあ、今日」
気が付くと、そんなことを呟いていた。言った後になって自分がそう言ったことに気付いたので、どうしてそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。けれど何の意味もなくそんなことを呟くはずがないので、だったら何か意味があってそう言ったんだろう、私は。
大学には行かない。つまり、こうくんと一緒に出掛けない。意味があるならば、恐らくはそちらについてなのだろう。こうくんには頼らないと決めたのだから、こうくんと一緒に行動するのは控えようと。そういうことなんだろうと思う。
でもそういうことならそういうことで、それをこうくんに伝えなきゃならない。毎日一緒に大学へ行っているんだから、今日も当然来るものだと思って呼びに来るだろうし。
まあ、そこまで大袈裟に考えるようなことでもないんだろうけど。ということはやっぱり私、どこか心細く思ってるんだろうけど。
でも、だからこそ。
「おはようございます」
「おはよう」
傷跡の跡や患者服が気になったのと同じの理由から、ということになるんだろう。私を呼びに来たこうくんと顔を合わせただけで胸の内が温かくなり、同時に緩く締め付けられるような気分になった。今日は一緒に行かないと既に決めていることも、関係しているんだろう。
「あの、こうくん。今日は私、止めておくよ。大学に行くの」
「え?」
驚いたような顔。そりゃあそうだろう、こんなことを言うのは初めてなのだから。
「ここまでする必要はないのかもしれないけど……昨日の話で、さ。私、一人で考えたいから」
「ああ。そうですね、大学に行ったら講義に耳がいっちゃって考え事どころじゃないでしょうし」
納得してはくれたけど、そういう理由じゃないんだけどなあ。――というような些細な不満は、持つだけ無駄というものなのだろう。こうくんのことだから多分、私が言いたいことを分かったうえでそう言ってるんだと思う。照れ屋なところ、あるみたいだしね。
「ごめんね」
「いえいえ、謝られるようなことじゃあ」
微笑みながらそう言って、私のちっぽけなうしろめたさを吹き飛ばしてくれる。だから私は、こうくんのことが好きだ。
ちっぽけなんてとても言えないようなものですら、吹き飛ばしてくれてきた。だから私は、こうくんのことを愛している。
それらの気持ちは当然ながらとても大きいもので、その大きさに比例するほど大事なものでもあるけど、でも、それだけになってしまうというのは何か違うのだろう。だから私とこうくんは「あんまりベッタリしないようによう」という決め事をしたわけだけど――裏を返せばそれは、気を抜くとそんなふうになってしまうということだ。
「じゃ、行ってきますね」
「あ、こうくん」
どこまでが「気の抜けていない行動」なのか。線引きは難しいけど、これくらいなら許されると思う。
出発しようと踵を返したところに名前を呼ばれ、そうしてこちらを向き直したこうくん。私は彼に、キスをした。
なにも普段欠かすようなことがあるわけではないけど、歯を磨いていて良かった、なんてつい思ってしまう。普通、そういうことを考えるのはキスをした側の私よりも、いきなりキスをされた側のこうくんなんだろうけど。
「行ってらっしゃい」
もう一度驚いた顔になったこうくん。でもすぐにまた、嬉しそうな顔をしてくれた。
「はい。行ってきます、栞さん」
栞さん。昨日、変わりかけて変わらなかった呼ばれ方。変わっていたらそれはそれで嬉しかっただろうけど、一晩が過ぎてからそう呼ばれてみると、変わらなかったことが嬉しく感じられた。
歩き始めたこうくんの背中に数秒だけ視線を向けたあと、私は玄関から頭を引っ込め、ドアを閉めた。キスで少し甘えた分、ここでしっかり切り替えるぐらいのことはすべきなのだろう。
それにしても、と部屋の中に戻ってから頭に浮かぶことがあった。
確かに昨日、私は「家に帰るかどうか考える」と決めて、それをこうくんにも伝えた。それは間違いない。でもだからといって、こうも急ぎ足でそれを実行する必要はどこにもないのだ。普段通りに過ごしながら――例えば、大学にも行って――その合間合間で考えるということにしたって、悪くもなければ間違ってもいない。それで答えを出すまで数日、数週間掛かったとしても、やっぱりそこに特に問題点はない。
結論として、せっかちだなあ、と私は私をそう評価した。でも、そこでもう一つ。こうくんもそうだよねえ、とも。
何か問題が起こったらこうくんは即座に、そして全力で、その問題を解決させようとする。それに救われた私が言うんだから間違いはないだろう。
ならば私は、そういう点でこうくんと似た者同士ということになるのだろうか?
だとしたらそれはなんとなく嬉しいけど、でも、そうではないのだろうと思う。私のほうは、こうくんと付き合っているうちにこうくんに似てきたというだけのことなのだろう。こうくんと付き合い始める前の自分を振り返ってみて、せっかちだと思うような場面は、全くと言っていいほど浮かんでこなかった。
「あはは」
笑ってしまう話だった。そりゃあそうだろう、私がせっかちな人間だったら、こうくんに救われるまで自分の問題を抱えっぱなしということはあり得ないのだろうから。
私が世界を呪い始めたのは、正確にはいつからだったろうか?
私は何年、世界を呪い続けたのだろうか?
せっかちどころか、悠長に。
――笑ってしまう話だった。そう、私は、笑えるようになった。絶望にまみれた壊れた笑いではなく、それを乗り越え至って普通な温かみのある笑いを発することができるようになった。
この部屋で、一人で、暗い笑いを浮かべていたことがどれだけあっただろうか。あの感情とはもう、ここ暫く顔を合わせていない。と言うより、もう二度と顔を合わせることはないのだろう。
私はこうくんに惹かれ、そしてこうくんに似て、せっかちになった。
あまり感じのいい言葉でないことは確かだけど、しかし誇るべきなのだろう。私はせっかちになれた。それは、愛する人のおかげで進歩することができたということなのだから。
…………。
……。
これが、有名なあれなのだろうか。勉強をしようと思ったらどういうわけか机の片付けをしたくなる、という。まあ私がしているのは勉強ではなく、したくなったのも机の片付けではないんだけど。
庭のお掃除がしたい。家に帰るかどうかを考えていたはずなのに、いつの間にかそれが頭に浮かんで、しかも頭の半分ほどを占めてしまっていた。
私は、他人と比べて勉強というものをした時間がとても短い。だから、もしかしたら勉強をしていたら云々の話とは全く関係のないことだったりするのかもしれないけど、でもそれはいいとして、とにかく庭のお掃除がしたかった。
――少し考えてみた結果、ならばしようという結論に。気になった状態のまま考え事をしても効率が悪いばっかりだろうし、それにそもそも、私の仕事は決まった時間にしなければならないというものではないからだ。習慣として十二時頃にばかりしてはいたけど。
よし。じゃあ、そうとなれば早速。
時折音を立てていた窓が示していた通り、外では風が吹いていた。そよ風というほど弱くもなく、強いと形容するほど強くもないその風は、朝ということもあってか気持ちが良い。
「あれ、喜坂お前、どうしてまだいるんだ?」
「あ、おはよう成美ちゃん」
庭のお掃除をするために外へ出たのならば、目的地はもちろん庭。けれどその庭へ辿り着く前に、202号室の窓から成美ちゃんに声を掛けられた。
どうして、というのはまあ、あのことを言っているのだろう。
「今日はちょっと、大学にはついていかなかったんだよ」
「そうなのか。いや、もうお前も日向も出掛けたはずなのにドアの音がしたからな」
つまり成美ちゃんはたまたま窓の向こう、台所にいたのではなく、音がしたから台所に出てきた、ということなのだろう。
ちなみに成美ちゃん、小さいほうの身体だったので、台所のシンクからは殆ど首から上しか覗いていなかった。
可愛いなあ。
「それで、大学にいかないというならどこに行こうとしていたんだ? 今」
「ああ、どこに行くってわけじゃなくて」
どうして大学に行かなかったのか、とは訊かれなかった。ここはほっとするべきなのか、それとも成美ちゃんに感謝するべきだろうか? どちらにせよ、それを言葉にすべきではないんだろうけど。
「庭のお掃除をね。いつもより早いんだけど、暇なせいかなんだかやる気になっちゃって」
「そうか。ふふ、感心なことだな」
本当は、暇だからというわけではない。でも成美ちゃんにはそう思ってもらって不都合はなく、むしろ悩みがあるからという本当の理由に気付かれるくらいだったら、こっちのほうがいい。――そう思ったからそう言ってみたものの。
「なら、それが終わったらこっちに来ないか? 言うまでもないことだが、わたしと大吾も暇をしていてな」
ということになってしまった。さっきも思った通り、暇だというわけではないんだけど。
でも成美ちゃんには暇だと言った以上、ここで断るのはおかしな話になる。それにもちろん魅力的な誘いでもあるわけで、だったら誘いを受けるのもありなのだろう。
「そうさせてもらうよ。じゃあ、また後でね」
「うむ」
部屋で考えたこともあってか、「大吾くんと一緒のところをお邪魔じゃないだろうか」なんていう考えが浮かんだりも。けれど成美ちゃんのほうから呼ばれている以上、それは要らぬお世話ということになるのだろう。
「おーい、喜坂ー」
「え?」
201号室の前も通り過ぎ、階段に足を踏み入れようとしたところ、また成美ちゃんから声を掛けられた。振り返ってみるとさっきの台所の窓から成美ちゃんが顔を出していて、つまり、シンクによじ登ったのだろう。普通にドアから出てくればいいような気もするけど、まあ可愛いからいいか。
「チューズデー達にも声を掛けてみてくれないかー?」
「あ、うん。分かったー」
そうだよね、数が多いほうが楽しいし。
物置から箒と塵取りを取り出して、今日の仕事に取り掛かる。とはいえ、塵取りは今日も恐らく必要ないのだろう。これで拾い上げるようなゴミは、そう滅多に出てこないからだ。
みんな庭を綺麗に保ってくれている――と言えば聞こえはいいけど、実際はただ単に捨てるようなもの自体を持ち合わせていないだけだったりもする。統計を取ったりしたわけではないけど、幽霊というだけで、そうじゃない人より消費活動が随分と抑えめになるんだと思う。まず、ものを食べる必要がないわけだし。
でももちろんここのみんなは、ゴミになるようなものを持っていたとしても、それを庭に投げ捨てるようなことはしないだろう。これも確認を取ったわけではないけど、それでも確信は持てる。
……というようなことを掃除の際、私はちょくちょく考えている。それが全てだというわけではないけど、私の掃除が好きな理由の一つなのだろう。周りのみんなの行動が見える、というか。もしもこの庭が頻繁にゴミだらけになるようだったりしたら、とても掃除好きにはなっていなかったと思う。まあ、初めにここに住んでいたのは私と楓さんだけだから、どうやったってそうはなりようがなかったんだけど。
それはともかく、臆病な話だとは思う。わざわざゴミの有無からみんなのことを窺わなくても、直接会えばそれでいいといえばいいのだから。けれど私は憶病だから、今でもゴミの有無からわざわざこんなことを考えている。
ここのみんなはみんながみんな、いい人達だ。
だからこそここはとても住み心地がいいんだけど、だからこそ少し前までの私は、戸惑わされてしまっていた。呪っていたはずの世界を――アパート一つなんてその極々一部でしかないとはいえ――好きになってしまったからだ。
戸惑って、そのせいで余計に意固地になっていた部分もあるんだと思う。胸の傷跡をずっと残していたのは、自分の呪いの源を忘れないためでもあったんだと思う。戸惑いを踏み越えて、世界を呪い続けるために。今となっては薄ら寒い話だけど、その呪いこそが私のアイデンティティでもあったからだ。
でももちろん、現在ではそんなもの、欠片も残ってはいない。こうくんが粉々に叩き潰し、加えて綺麗に取り払ってくれたからだ。それこそ、丁寧に塵取りに集めて捨て去るように。
そして私に残ったのは、「アイデンティティを捨てることができた」というアイデンティティと、このあまくに荘とここに住むみんなが好きだということと、その中でもこうくんが特別だということ。要は、前向きになったということだ。あまくに荘だけでなく大学のほうにも友達ができたわけだから、その頭に「人並みに」と付け加えてもいいのではないだろうか、とも思う。
――という分かったふうな話はありつつも、しかしもちろん、単純に辺りを綺麗にするということが好きだったりもする。間が空き過ぎて自分でも何の話だか分からなくなりかけていたけど、掃除が好きな理由として。周りが綺麗だと気持ちいいもんね、やっぱり。
いくらゴミがなくても掃除をするとはいえ、本当に何もなかったならば、やっぱり手短に済んではしまう。裏庭に回った際、手短ついでということでジョンをもふもふしようかと思ったけど、残念ながら犬小屋は空だった。ならばと思って見てみれば、案の定102号室の窓の向こうでチューズデー、それにナタリーと一緒に、くつろいでいた。気持ちいいだろうなあ、混ぜてもらったら。
ともあれ掃除はこれで終わりなので、成美ちゃんに頼まれていた通り、そのまま裏庭から声を掛けることにした。暫く眺めていても良かっただろうけど。
「おーい」
窓越しに呼びかけながら、その窓を軽く叩く。叩く前から風邪でカタカタと音を立ててはいたけど、どうやら気付いてもらえたようで三人ともがこっちを向き、その中からチューズデーがこちらへ近付いてきた。
そのまま窓をすり抜けてこちら側へ。窓の鍵が開けられないので仕方がない。
「お早う、栞君。わざわざ裏庭からということは仕事中だったのだろう? 早い時間から御苦労さまだね」
「あはは、まあ、今終わったところなんだけどね。それとおはよう、チューズデー」
裏庭からという以前に、まだ箒と塵取りを持ったままなので見ただけでそれと分かるけど、それはいいとしておこう。
「成美ちゃんが部屋に来ないかって言ってたんだけど、どうかな」
「くくく、返事は決まっているようなものだね。ジョン君とナタリー君に訊くまでもなく」
「だよねー」
「まあ、ジョン君には訊こうとしても訊けないのだが」
それはそうだけど、でもそれで問題があるわけでもない。既に当たり前の光景ではあるものの、割と凄いことなんだと思う。ペットという扱いならともかく、友人としてそれが通るというのは。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔するぞ」
「お邪魔します」
「ワウ」
「うむ、いらっしゃい」
みんなを連れて202号室へ。玄関に出迎えに来た成美ちゃんは嬉しそうで、一方大吾くんは中で待っているようだったけど、もちろん成美ちゃんと同じように嬉しがっているんだろう。
いや、同じようにというより、それ以上だったりすらするかもしれない。なんせ大吾くんは動物好きで、それはチューズデー達の世話を任されるくらいなのだから。しかも一方的に好きだというわけでなくチューズデー達からも普通以上に好かれている辺り、見習おうと思っても簡単に真似られることではないんだろうと思う。
そのことだけで大吾くんを語るわけではないけど、だから、大吾くんを選んだ成美ちゃんの気持ちはよく分かる。異性としての好意は別の人へ向けた私からしても、だ。
「よう、おはよう」
玄関をくぐった時と同様、みんなそれぞれに大吾くんへ挨拶をする。いつものようにちょっと不機嫌そうな顔だったけど、でもそれは不機嫌そうなだけであって本当に不機嫌なのではないというのも、「いつものように」なのだろう。
座椅子が置いてあるものの、大吾くんはそこに座っているわけではなかった。ということはつまり、そこに座っていたのは成美ちゃんなのだろう。――そんなことを考えている間に、その考え通り成美ちゃんがその座椅子へ腰を下ろした。
「朝から来てもらって悪いのだが、特に何をしようというわけでもないぞ。どうせ暇なら一緒に暇をしようというだけのことで」
「つまり、いつも通りというわけだね」
「そういうことだ」
言って、成美ちゃんとチューズデーが笑う。釣られて私とナタリーも笑い、大吾くんはふんと鼻を鳴らし、ジョンは尻尾を揺らしていた。そう、いつもと同じことだ。
本当なら今日はいつもと違って一人で考え事をする予定ではあったけど、でも、なにもこういう機会を放棄するほどの理由にはならない。こうくんを見送った後にも思ったことだけど、急ぐ理由は私自身がせっかちだからという他にはこれといってないのだから。
「成美ちゃん成美ちゃん」
そういうわけなので、そういうわけなりの行動にでてみることにした。
「ん?」
座るのに際して崩していた足を前に投げ出すようにし、成美ちゃんに手招き。おいでおいで、というやつだ。
ふっと鼻を鳴らして立ち上がり(よく鼻を鳴らすのは大吾くんと似てるなあ、そういえば)、こちらへ歩み寄ってくる成美ちゃん。普通の人だったら子ども扱いするなと怒られそうなものだけど、良い悪いという意味でなく成美ちゃんは「普通の人」ではないので、そんなことはない。
まあそもそも、怒られるようだったらこんなことしないけど。
「お邪魔させてもらうぞ」
「いらっしゃい」
というわけで、膝の上に座った成美ちゃんを抱っこする。真っ白でかつ癖っ毛な髪はいつも通り綺麗で、そしてふわふわして気持ちがいい。この感触を再現した抱き枕があったりするなら是非とも欲しいくらいだ。
くだらないと言えばくだらないのであろうそんな考えを巡らせていたところ、成美ちゃんに動きが。
「ん? これは……」
「どうかした?」
「日向の匂いがするな、お前から」
「えっ?…………ええっ!?」
「はは、冗談だよ」
きつい冗談だった。それはつまりどういうことだろうかと考えた後、間を置いたのに改めて声を上げてしまったくらいに。……成美ちゃんもそういう意味で言ったんだろうか? 少なくとも冗談ではあったようだけど。
そして冗談ということは、多少なりとも意地悪のつもりではあったんだろう。
というわけで私は、お返しに成美ちゃんの脇をくすぐってみた。
「うわっ、はっ――あははははははは! きさっ、喜坂っ、ややややめっ! 悪かった、謝るからはははははははは!」
どちらがより意地悪なのかといえば、間違いなく私のほうが上なのだろう。ああ、楽しいなあ。
――とはいえ、いつまでも続けているわけにもいかない。膝の上で笑い転げる成美ちゃんを堪能した後、意地悪はそこまでということにしておいた。
「はあ、はあ……酷いぞ喜坂。暇をするつもりだったのに、初めから疲れてしまったではないか」
「あはは、ごめんね」
どこか緩んでしまっている声で非難してくる成美ちゃん。それでも膝の上に座り続けてくれているというのは、誘った側としては安心させられるところがあったりもする。
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