栞さんと僕の喧嘩遍歴はもう少し続きがあると言えばあるのですが、しかし今回の話題はあくまでも馴れ初めです。続きも話したいと思わないわけではありませんが、まあそれはまたの機会ということで。僕が自分で言いだしたことですしね、馴れ初めの話にしませんかって。
「とは言っても、そこまで面白みのある話じゃないかもねえ」
「ただのんびりしてただけですもんね俺ら」
話し始めたお二人はまずそんなことを言い出しましたが、しかしそれは僕と栞さんについても同じことだったのではないでしょうか。料理だって「ただのんびりしてただけ」に入りますよね? 入りませんか?
「んじゃあまずはあたしとこいつが初めて会った時の話だけど――学校に行く途中の道端で、同じく学校に行く途中だったあんたにぶつかられたってだけなのよね。単に」
「あの時から既に怖かったなあ、瑠奈さん。今だって俺から一方的にぶつかったみたいな言い方だもんなあ」
霧原さんは特に感慨もなさそうに、対して深道さんは懐かしさを苦笑いに混ぜ込んだような表情で。感慨もなさそうにと言っても本当にそうなのかどうかは分かりませんけどね、もちろん。
「あれ?」
声を上げたのは栞さん。
「学校に行く途中って、じゃあ霧原さん、その時はまだ……その、幽霊じゃなかったってことですか?」
さすがにちょっと言い難そうではありましたが、言われてみれば確かに。栞さんだってある意味学校に通ってはいるわけですが、あくまでそれは「ある意味」ですし。
すると霧原さん、笑いながら手をぱたぱたと。
「あはは、いやいや。あんまりにも暇だったから幽霊になった後も学校に行き続けてたってだけなのよこれが」
えらくアクティブな幽霊だったようです。なるほど、霧原さんなら分かるような気も。
「一応は自宅住まいだったんだけどね。当然、家でも学校でも、誰にも気付いてはもらえなかったけど」
という話はやはり物悲しく聞こえてしまうのですが、そこへ深道さん、逆にさっきまでの苦笑いを取り払った元気な声と表情でこう言いました。
「で、初めて気付いたのが俺ってことなんだそうで。その時はまさか幽霊だなんて思わなかったんだけどさ」
「ああ、僕もそれには覚えが――」
「気絶まではしなかったけどね、幽霊だって分かった時」
「…………」
お恥ずかしい。
「いやあ、だってさあ。幽霊だって知らされたの、ぶつかったその日のうちに学校の人気のないところに連れ出されてだよ? 初めから怖い人だと思ってたんだから、気絶する余裕なんて。カツアゲかと思ったもん俺」
霧原さんを見ていれば分からないでもないですが、しかしカツアゲだとまで思ってしまうのはどうなんでしょう。何を妙な妄想をしてるんだと言われそうですが、女性なんですから。しかも綺麗な。ちょっとくらい胸を躍らせてみてもよかったんじゃないでしょうか?
「情けないわねえ。生意気だったあの頃でもそんななんだから、今なんてもっと」
「はっはっは。そりゃあ瑠奈さんと長いこと付き合ってたら、瑠奈さん以上に強くなるか丸くなるかの二択ですよ。どーせ俺に前者を選べるわけもなし」
深道さん、なんと昔は霧原さんに対して生意気だったようです。それがどれほどの生意気さだったのかは分かりませんが、生意気だというだけで意外だと思ってしまいます。
「それとも、生意気な俺のほうが好みでした?」
「そんな話してんじゃないわよアホ」
変わらずバッサリと切り捨てる霧原さん。ですが、今回は手が出ることはありませんでした。そしてそのまま、本題を続行。
「それでまあ、あとはさっき言った通り普通にだらだら過ごしてたわね。こいつの友達と、あとは暫く後に知り合った兄妹の五人で」
「訊かれる前に言っちゃうんですね、別に俺と二人だけってわけじゃなかったって」
「まあね」
その後付き合うことになるという結果は明確なのにそこまで考慮する必要は果たしてあるんでしょうか、なんて思ってしまいますが、しかしそれが霧原さんだということなのでしょう。
「で、そのうち、あたしが家族から気付かれてないっていうのが話題になっちゃってね。なんとか気付かせてくれようとしたのよ。そのみんなと、あと兄妹のお母さんが。もちろんこいつも含めて」
……唐突に真面目そうな話題に入ってしまいました。それでも霧原さんは表情にも声にも、特別な感情を含めているふうではありませんでしたが。
ところで、忘れそうになっていましたがこれは馴れ初めの話。ということは、それが切っ掛けでということなのでしょうか?
そんな疑問を浮かべはしたのですが、しかし真面目な話だけあって、横槍を入れるのは躊躇われました。ならばここは大人しく躊躇っておいて、質問は後に致しましょう。
「そのおかげで今、あたしは自分の家に住めてるってわけなのよ。もちろん家族からあたしは見えないままだし、なのにそんなことがあったおかげで、こいつとのことは親公認になっちゃったんだけどね」
「いやあ、俺のほうの家族に瑠奈さんを紹介するのがまた大変で」
幽霊を見ることができない人に、幽霊の紹介をする。僕にも経験があったりはするのですが、しかしその時はその道のプロである家守さん高次さんに手伝ってもらったわけで、自分だけで成し遂げるというのはちょっと難しそうというか。
……深道さん、成し遂げちゃったんだなあ。いや、お友達と一緒にという話ではありましたけど。
「だからまあ、そこらのことについては素直に感謝しなくちゃならないのよね。さすがに」
深道さんが楽しそうなのはここまでと変わりませんでしたが、しかし霧原さんが少しだけ笑ったのは、ここまでと違った点でした。
さて、それについてほっこりしていてもいいのですが、話が終わったのならまずはこれです。
「霧原さんと深道さんは、やっぱりその時だったんですか? お互いを好きになったというか、そういうのって」
なぜそう思ったのかと言いますと、これが馴れ初めの話だからです。ここまでにそういった話題が出てこなかったということは、この辺りなのかなと。しかし、
「ん? ああいや、正直言ってそれより少し前からだよ。俺も瑠奈さんも」
「さらりと言ってくれるんじゃないわよ」
僕の質問への回答とそれに対する突っ込みは、初めからそう言うように決まってたんじゃないかと思うくらいに淀みなく成されるのでした。
「だから――告白する切っ掛けかな、今の話は。瑠奈さんの家族に瑠奈さんのことを知らせた直後だったし」
恐れる霧原さんから「さらりと言ってくれるな」と言われた割には引き続いてさらりと話を進める深道さん。ならばそれに対する霧原さんですが、はあと小さく溜息を吐いただけで、あとは諦めたようにその話に乗ってきます。
「何をそんなに躊躇してたんだってなもんなんだけどね、今から思うと」
「本当ですよまったく。瑠奈さん、怖い割に奥ゆかしいんだから」
軽い調子で笑う深道さんでしたが、そこへじろり、もといギロリと突き刺さる視線が。
「あんたも人のこと言えたもんじゃないでしょうが」
「ひい」
甘酸っぱいと言っても差し支えなさそうな話題なのに、どうしてこう辛い感じになってしまうんでしょうか。甘酸っぱ辛い……料理の味としてなら、そう悪くもないんですけども。
「ともかく」
霧原さん、咳払いとともに発したその一言で話題修正。少々恥ずかしそうに見えたのは気のせいだったのかもしれません。
「あたしとこいつはそんな経緯で付き合うことになって、それから後は変わらずにだらだらーっとしてた感じかしらね。あたしが幽霊だからって特に何かあったわけでもなし……ああそうそう、年を取り始めたんだったわね。うっかりしてたわ」
「忘れるとこじゃないでしょうに。それがあったから呼ばれたんですよ? 俺ら」
ううむ、僕達からすれば何がなくとも気になってしまう重大事件という扱いなんですけどねえ。そこはやはり個人差ということでしょうか? それとも、僕達が気にし過ぎているだけとか?
という僕の疑念は余所に、ちょっとした言い合いが始まります。
「うっさいわね。非は認めてるじゃないの」
「『うっかりしてたわ』で認めたことになってるわけですか……。いや、確かに認めてますけど、ただ認めただけですよね? それって」
「それ以上何をお求めで? 謝罪でもしろと?」
「そこまでは言いませんけど、淡白だなあと」
「あたしと付き合ってる人間が問題視するようなことじゃないと思うわよ、それ」
「まあ確かに、叩かれるような話以外はこんな感じですけど」
「でしょう。潔く諦めなさい、これまで通り」
「へーい」
ふざけた調子ながら、素直に受け入れた深道さん。昔は生意気だったという彼は、幾度とないこの遣り取りを経て今の深道さんになったということなのでしょうか。
「自分から言うことでもないけど日向くんに喜坂さん、今のは『仲いいな』って思っとくところだからね? 難解だろうけど」
「あ、それははい、なんとなく」
深道さんがそんなふうに考えているであろうことは予想できていましたが、しかし不安があるとするならそれはやはり霧原さんです。また深道さんの背中に痛みが伴うようなことになるんじゃないか、なんて思ってしまうのですが、しかしこれについては平然とした様子でした。
「ま、今ので気分悪くするようだったらそれこそ年を取るようなことにはなってないんでしょうしね。ほぼずっとこんな感じだもの、あたしとこいつ」
確かにそれはそうでした。年を取るようになって、だからこそあの長かった髪が今はこんなふうにバッサリなんですしね。
「分かり易く仲がいい時ってのもまあ、ちょくちょくあると言えばあるんだけどね」
「それは余計」
「あいてっ」
結局は、またも叩かれてしまった深道さん。とくれば、さっき聞いた話からすると、僕がここで掛けるべきはこの言葉なのでしょう。
「仲がいいんですね」
「もちろん」
腰をさすりながらではありますが、気持ちのいい返事でした。
「さてと」
僕と深道さんの遣り取りに関心を示すようなこともなく――もしかしたら関心を示していないというポーズなだけかもしれませんが――霧原さんが全体へ向けるようにして言いました。
「馴れ初めの話はこれでどっちも終わっちゃったけど、どうしようかしらね」
予め何を話すかということを決めていたならば、そりゃあそういうことにもなりましょう。これがただの雑談だったら、自然に他の話題へ流れもするんでしょうけど。
で、だったらば。
「あ、じゃああの、質問いいですか?」
「何かしら」
「年を取るようになって、何かこう、変わったこととかは――ああいや、髪が伸びるとかじゃなくて身の回りの状況とかなんですけど」
「ああ、そうね。そもそもそういう話がしたかったんでしょうしね、あたしとこいつを呼んだっていうのは」
馴れ初めの話はどうでもよかったなどと言うつもりはありませんが、しかしいま言われた通り、本命となるとやはりこういった話題です。
「そうねえ……あたしとこいつの間じゃああんまり変わったこともないけど、周りはやっぱりねえ。隠す必要があるわけじゃなし、やっぱり家族には話したから。年のこと」
どうなったんですか、と今から話すであろうことをわざわざ尋ねるのもがっつき過ぎに思えたので黙っておきましたが、しかし霧原さん、話を続ける前に深道さんへ目配せをしました。
それに対して深道さんは小さく頷き、そして霧原さんがこちらを向き直ります。
「ハッキリそう言われたってわけじゃないけど、雰囲気がね。結婚前提っていうか、まあそんな感じになってるのよ。もちろんあたしは幽霊だから、そうなるにしても籍を入れるとかそういうのはないんだけど」
「責任を取るって話だね。悪いことじゃないにしても、瑠奈さんが年を取り始めたのは俺が原因なんだし」
責任。言葉にするなら、そういうことになるんだろう。
「ああもちろん、日向くんと喜坂さんのことまで言ってるわけじゃないからね? 俺らはこんな感じだよってだけで」
「いえ、僕もそういうつもりではあります」
ありますけど、と言ってしまいそうになるのを押さえてはみましたが、しかしそうしてみたところで、頭の中には「ありますけど」の続きが浮かんでしまいます。つもりがあっても本当にその通り行動できるんだろうかとか、そもそもその「つもり」はただしい内容なのだろうか、とか。
しかしさすがに、そこまでのことを深道さんと霧原さんに尋ねるのは違うような気が。
「で、その……こんなこと訊いていいのかどうか分かりませんけど、深道さんと霧原さんは、どう思ってるんですか? その話」
思ったこととは違う質問を投げ掛けてみましたが、こちらはこちらで危ういような。
しかし、
「そうするつもりよ」
霧原さん、あまりにもさらりとそう答えました。
「もちろん今すぐってわけじゃなくて、何の計画もない、ただ『いずれはそうしたい』ってだけの話なんだけどね。まだまだ」
更に続けてさらりと答えた霧原さんに対し、けれど深道さんは何も言いはしませんでした。これまでだったら冗談めかすなり喜ぶなりしていたのでしょうが、霧原さんのその言葉以上に自分から付け加えるようなことはない、ということなのでしょうか。
霧原さんはそんな深道さんへ視線を送り、そして小さく微笑むのでした。
「ま、年下のあたしにこんな様子なんじゃあ、旦那サマとして迎えるにはちょっと頼りないような気もするけどね」
「年下ってちょっと、元は高校の先輩でしょうがアナタ。年取らなくなってる間にひっくり返っちゃっただけで」
「ひっくり返ったのは事実じゃない」
「いやでも、生まれてから経過した年月については変わらないわけで――」
経緯を考えると照れ隠しのような気がしないでもない霧原さんの嫌味から、またしても小競り合いになってしまいました。が、ここで深道さんが。
「そういえば、日向くんと喜坂さんはどうなんだっけ? そこのところ」
というのは直前の会話からして、僕と栞さんの年齢はどういった上下関係なのかという話なのでしょう。単にどちらが上だでは済まされない、という点も含めて。
「お互いの呼び方でまあ何となく察しはついてるでしょうけど、栞さんのほうが年上ですね」
「まあ、さん付とくん付けだものね」
場合によっては孝一くんではなくこうくんになるわけですが――あ、結局同じだった。
いやそれはいいとして、
「ただ、霧原さんが深道さんより年下になったっていうのと同じ話だと……同い年になるんでしたよね? 栞さん」
「うん、そうだよ。四歳引いたら十八だしね、私」
という栞さんの返事を聞いた時、その内容よりもまず「そういえば栞さん、暫く喋ってなかったような」というようなことを気にしてしまったわけですが、それはともかくその通り。栞さん、本来なら二十二歳でお酒を飲める年なのです。
「う゛ぇっ」
どうしたことでしょうか、霧原さんがえらい濁った声で驚きの声を上げました。いやそりゃあ四年もの誤差があれば実年齢より若く見えるかもしれませんが、しかしだからといって、そこまで驚くほどでもないように思うのですが。
……例えば、明くんの彼女さんがあの小ささで明くんと(つまり僕とも)同い年だということほど意外性があるのなら、そういうリアクションも分かるのですが。
「喜坂さん、それじゃあ、あたしより年上じゃない」
「え? ええと」
いきなり言われて計算が追い付かないのか、栞さんはおろおろと。しかし確かに、霧原さんの仰る通りなのです。
「瑠奈さん、元は高校の先輩ってことで俺の一つ上だからね。ぴったり二十歳だよ」
そして栞さんは二十二歳。というわけで、
「がっつりタメ口利いてたわあたし……。あー、その、失礼しました」
「右に同じく。失礼してました、喜坂さん」
二人揃って謝罪をする霧原さんと深道さんなのでした。けれどもそれは、栞さん的にはどうなのでしょうか?
「あの、いや、これまで通りでいいというか、むしろできたらこれまで通りのほうがいいというか……あはは」
弱々しく笑う栞さんでしたが、そういうことになってしまうと、普段から敬語で話している自分としては耳が痛くなくもない話だったりしないでもないのです。が、まあそれはいいとして。
「――気を遣わせちゃうだけですよね、私からこんなこと言っても。ええと、話しやすいように話してもらえたら」
目上の人から「目上扱いをしてくれるな」と言われたら、そりゃまあ下の者としては対応に困るところなのでしょう。僕だって一度だけ栞さんを呼び捨てにしてみたことはありますが、結局は一度だけで済ませちゃってますし。
けれどそこへ霧原さんは、
「そう? だったらこれまで通りで」
すっぱりとしたご決断を下されるのでした。これには深道さんが「る、瑠奈さん、迷いがなさ過ぎませんか?」と慌て始めますが、しかし霧原さん、ふうと一息ついてから真面目な顔に。
「おこがましい話かもしれないけど、あたしも分かるのよ。喜坂さんの気持ち。変えて欲しくないっていうか――あたしの場合は、変わらなくて良かった、なんだけど」
と、立場的には栞さんと同じであるところの霧原さん。変わらなくて良かったということは、「変わらない」という結果が既に出た後だということ。ならばそれは誰を指しての話なんだということにもなるのですが、
「ああ」
なるほど分かったと言わんばかりの相槌を打ったのは、深道さん。ですよね、やっぱり。
「ま、話し方一つでどうのこうのってのは女々しいような気がしないでもないんだけどね、正直。でも、それだけとはいえ実際に変わっちゃったら、そのうち中身までそれに合わせて変わっちゃうんじゃないかなって」
「そうですよね」
次のその相槌は、にこりと微笑んだ栞さんから。ならば霧原さんの「喜坂さんの気持ちが分かる」という言葉は、確かにその通りだったということになります。
深道さんから目上の扱いをし続けて欲しかった霧原さん。
目上の扱いよりは、親しみのある扱いのほうを好んだ栞さん。
……本格的に、栞さんの目上扱いについて考えを改めるべきなのかもしれません。
「というわけで喜坂さん、これまで通りで宜しくね」
「はい」
何の問題が生じる余地もなく、そういうことになりました。ならばもう一方のかたについても同様に、ということで、
「ええと、俺もそのほうがいいのかな」
「あはは、はい。無理じゃなければ」
「じゃあお言葉に甘えて」
深道さんについても同じ結果になりました。ともなれば栞さんが嬉しそうにするのは言うまでもありませんが、しかしそれを余所に、深道さんが「瑠奈さんがこれなのに俺だけってのは、ちょっとねえ」なんて言ってみたところ。
「人のせいにしなさんなっての」
「あいてっ」
またも霧原さんからお仕置きが。もう何度目でしょうか。
「いや瑠奈さん、これは『瑠奈さんのせい』ってよりはむしろ『瑠奈さんのおかげ』って話ですよ?」
「ふうん? 誤魔化されたような気がしなくもないけど、そういうことだったらそれでいいわ」
「ほっ」
「ほっとすんじゃないわよ」
「あいててっ」
仲がいいですね、ということで。
「それじゃあ喜坂さんに日向くん、また今度」
「こっちはこれでも心配要らないから、そっちはそっちで達者にね」
話も済んだということで、霧原さんと深道さんが帰路につきました。時間的にはまだ暫く暇があるものの、本日は天候が天候なので、ならば何もこんな日に遊びに出掛けることもないだろうということに。強くないとはいえ、雨降ってるんですしね。
手を振る僕と栞さん。その向こう側で、二人は一本の傘に身を寄せ合っているのでした。ちょっとだけ「いいなあ」なんて思いつつ、しかしわざわざ一人一本の傘を用意していてそうするというのもなあ、なんて。
栞さんも歩み出すに当たって躊躇い無く自分の傘を開いてしまい、ならばまあそちらについては諦めておきまして。
「栞さん、静かでしたね」
そう尋ねてみました。
「えっ? そうだった?」
「いや、そんなふうに見えたってだけですけどね」
全く喋らなかったというわけではなく、口数が少なかったなというだけの話。だったらそれは話の流れにも影響されるでしょうし、栞さんが喋ろうとしたところに他の誰かの言葉が重なってしまったということもあるでしょう。だからこれは確定しているというわけではなく、ただ僕がそう思ったというだけの話です。
しかしどうやら、栞さん自身にも思い当たるところはあったようです。
「……そうだったかもね。そうなる理由に心当たりがないわけじゃないし」
「理由ですか?」
と尋ね返す際、完全に栞さんのほうを向いていた僕は、うっかり水溜まりを踏み抜いてしまいました。ぱちゃんと音を立て、少々ながらも水が跳ねます。
「あ、すいません」
「ああ大丈夫、掛かってないみたい」
大したことではないとはいえ、心の中ではほっとしたりも。
しかしそのせいで――と言えるのかどうかは分かりませんが、ほっとできないことを思い出しもしてしまいました。栞さんとの話し方について、です。
けれどそれは今話していることとは違う内容なので、ならば話題にするのはこの話が終わってからにしておきましょう。
「霧原さん、すごいなって。感心するばっかりで、呆けちゃってたっていうかね」
そりゃまあ深道さんの扱いにすごいところはありましたけど、と茶化せるような話ではないようでした。
「幽霊になってからも学校に通い続けてたって言ってたでしょ? 私はほら、全く逆だったから」
「病院から出られなかった、ですか」
「うん」
その話をすることに今更ためらいがあるわけではないですけど、だからといって気が重くならないというわけでもなく。もちろん、そこまで重度なものではないんですけど。
「まあ僕も、それを聞いた時は『えらくアクティブな幽霊だなあ』なんて思いましたけどね」
「あはは、こうくんからしてもやっぱりそう思う?」
「でも、だからってそれと栞さんを比較してどうだなんてことは思いませんでしたよ」
すると栞さん、数瞬ではありましたが、言葉に詰まったようでした。そして言葉に詰まったその後、静かな口調でこう言ってきました。
「そう、だろうね。わざわざそんなふうには思わないよね、普通は」
ということはつまり、栞さんは「比較してどうだなんてこと」を思ったということです。そりゃあそうでしょう、霧原さんをすごいと思って呆けていたのなら、すごいと思ったその基準はなんなのかということになりますし。
「あとさ、それだけじゃなくて――その学校の話だけじゃなくてね」
「ん?」
他にも何か、霧原さんをすごいと思う理由に当たることがあるようです。そして恐らくは、それもまた自分を基準とした話なのでしょう。
「家族に、自分がここにいるってことを知らせたって……他の人にしてもらったことだって話だったけど、そもそもそれを受け入れられること自体が、私からするとすごいことなんだよね」
「っていうのは、じゃあ栞さんは」
「私、家に帰ったことって一度もなくてさ。もちろんお父さんお母さんにも会ったことなんかないし、そもそも会おうとしてすらいないし」
「…………」
即座に反応することはできませんでした。
「とは言っても、そこまで面白みのある話じゃないかもねえ」
「ただのんびりしてただけですもんね俺ら」
話し始めたお二人はまずそんなことを言い出しましたが、しかしそれは僕と栞さんについても同じことだったのではないでしょうか。料理だって「ただのんびりしてただけ」に入りますよね? 入りませんか?
「んじゃあまずはあたしとこいつが初めて会った時の話だけど――学校に行く途中の道端で、同じく学校に行く途中だったあんたにぶつかられたってだけなのよね。単に」
「あの時から既に怖かったなあ、瑠奈さん。今だって俺から一方的にぶつかったみたいな言い方だもんなあ」
霧原さんは特に感慨もなさそうに、対して深道さんは懐かしさを苦笑いに混ぜ込んだような表情で。感慨もなさそうにと言っても本当にそうなのかどうかは分かりませんけどね、もちろん。
「あれ?」
声を上げたのは栞さん。
「学校に行く途中って、じゃあ霧原さん、その時はまだ……その、幽霊じゃなかったってことですか?」
さすがにちょっと言い難そうではありましたが、言われてみれば確かに。栞さんだってある意味学校に通ってはいるわけですが、あくまでそれは「ある意味」ですし。
すると霧原さん、笑いながら手をぱたぱたと。
「あはは、いやいや。あんまりにも暇だったから幽霊になった後も学校に行き続けてたってだけなのよこれが」
えらくアクティブな幽霊だったようです。なるほど、霧原さんなら分かるような気も。
「一応は自宅住まいだったんだけどね。当然、家でも学校でも、誰にも気付いてはもらえなかったけど」
という話はやはり物悲しく聞こえてしまうのですが、そこへ深道さん、逆にさっきまでの苦笑いを取り払った元気な声と表情でこう言いました。
「で、初めて気付いたのが俺ってことなんだそうで。その時はまさか幽霊だなんて思わなかったんだけどさ」
「ああ、僕もそれには覚えが――」
「気絶まではしなかったけどね、幽霊だって分かった時」
「…………」
お恥ずかしい。
「いやあ、だってさあ。幽霊だって知らされたの、ぶつかったその日のうちに学校の人気のないところに連れ出されてだよ? 初めから怖い人だと思ってたんだから、気絶する余裕なんて。カツアゲかと思ったもん俺」
霧原さんを見ていれば分からないでもないですが、しかしカツアゲだとまで思ってしまうのはどうなんでしょう。何を妙な妄想をしてるんだと言われそうですが、女性なんですから。しかも綺麗な。ちょっとくらい胸を躍らせてみてもよかったんじゃないでしょうか?
「情けないわねえ。生意気だったあの頃でもそんななんだから、今なんてもっと」
「はっはっは。そりゃあ瑠奈さんと長いこと付き合ってたら、瑠奈さん以上に強くなるか丸くなるかの二択ですよ。どーせ俺に前者を選べるわけもなし」
深道さん、なんと昔は霧原さんに対して生意気だったようです。それがどれほどの生意気さだったのかは分かりませんが、生意気だというだけで意外だと思ってしまいます。
「それとも、生意気な俺のほうが好みでした?」
「そんな話してんじゃないわよアホ」
変わらずバッサリと切り捨てる霧原さん。ですが、今回は手が出ることはありませんでした。そしてそのまま、本題を続行。
「それでまあ、あとはさっき言った通り普通にだらだら過ごしてたわね。こいつの友達と、あとは暫く後に知り合った兄妹の五人で」
「訊かれる前に言っちゃうんですね、別に俺と二人だけってわけじゃなかったって」
「まあね」
その後付き合うことになるという結果は明確なのにそこまで考慮する必要は果たしてあるんでしょうか、なんて思ってしまいますが、しかしそれが霧原さんだということなのでしょう。
「で、そのうち、あたしが家族から気付かれてないっていうのが話題になっちゃってね。なんとか気付かせてくれようとしたのよ。そのみんなと、あと兄妹のお母さんが。もちろんこいつも含めて」
……唐突に真面目そうな話題に入ってしまいました。それでも霧原さんは表情にも声にも、特別な感情を含めているふうではありませんでしたが。
ところで、忘れそうになっていましたがこれは馴れ初めの話。ということは、それが切っ掛けでということなのでしょうか?
そんな疑問を浮かべはしたのですが、しかし真面目な話だけあって、横槍を入れるのは躊躇われました。ならばここは大人しく躊躇っておいて、質問は後に致しましょう。
「そのおかげで今、あたしは自分の家に住めてるってわけなのよ。もちろん家族からあたしは見えないままだし、なのにそんなことがあったおかげで、こいつとのことは親公認になっちゃったんだけどね」
「いやあ、俺のほうの家族に瑠奈さんを紹介するのがまた大変で」
幽霊を見ることができない人に、幽霊の紹介をする。僕にも経験があったりはするのですが、しかしその時はその道のプロである家守さん高次さんに手伝ってもらったわけで、自分だけで成し遂げるというのはちょっと難しそうというか。
……深道さん、成し遂げちゃったんだなあ。いや、お友達と一緒にという話ではありましたけど。
「だからまあ、そこらのことについては素直に感謝しなくちゃならないのよね。さすがに」
深道さんが楽しそうなのはここまでと変わりませんでしたが、しかし霧原さんが少しだけ笑ったのは、ここまでと違った点でした。
さて、それについてほっこりしていてもいいのですが、話が終わったのならまずはこれです。
「霧原さんと深道さんは、やっぱりその時だったんですか? お互いを好きになったというか、そういうのって」
なぜそう思ったのかと言いますと、これが馴れ初めの話だからです。ここまでにそういった話題が出てこなかったということは、この辺りなのかなと。しかし、
「ん? ああいや、正直言ってそれより少し前からだよ。俺も瑠奈さんも」
「さらりと言ってくれるんじゃないわよ」
僕の質問への回答とそれに対する突っ込みは、初めからそう言うように決まってたんじゃないかと思うくらいに淀みなく成されるのでした。
「だから――告白する切っ掛けかな、今の話は。瑠奈さんの家族に瑠奈さんのことを知らせた直後だったし」
恐れる霧原さんから「さらりと言ってくれるな」と言われた割には引き続いてさらりと話を進める深道さん。ならばそれに対する霧原さんですが、はあと小さく溜息を吐いただけで、あとは諦めたようにその話に乗ってきます。
「何をそんなに躊躇してたんだってなもんなんだけどね、今から思うと」
「本当ですよまったく。瑠奈さん、怖い割に奥ゆかしいんだから」
軽い調子で笑う深道さんでしたが、そこへじろり、もといギロリと突き刺さる視線が。
「あんたも人のこと言えたもんじゃないでしょうが」
「ひい」
甘酸っぱいと言っても差し支えなさそうな話題なのに、どうしてこう辛い感じになってしまうんでしょうか。甘酸っぱ辛い……料理の味としてなら、そう悪くもないんですけども。
「ともかく」
霧原さん、咳払いとともに発したその一言で話題修正。少々恥ずかしそうに見えたのは気のせいだったのかもしれません。
「あたしとこいつはそんな経緯で付き合うことになって、それから後は変わらずにだらだらーっとしてた感じかしらね。あたしが幽霊だからって特に何かあったわけでもなし……ああそうそう、年を取り始めたんだったわね。うっかりしてたわ」
「忘れるとこじゃないでしょうに。それがあったから呼ばれたんですよ? 俺ら」
ううむ、僕達からすれば何がなくとも気になってしまう重大事件という扱いなんですけどねえ。そこはやはり個人差ということでしょうか? それとも、僕達が気にし過ぎているだけとか?
という僕の疑念は余所に、ちょっとした言い合いが始まります。
「うっさいわね。非は認めてるじゃないの」
「『うっかりしてたわ』で認めたことになってるわけですか……。いや、確かに認めてますけど、ただ認めただけですよね? それって」
「それ以上何をお求めで? 謝罪でもしろと?」
「そこまでは言いませんけど、淡白だなあと」
「あたしと付き合ってる人間が問題視するようなことじゃないと思うわよ、それ」
「まあ確かに、叩かれるような話以外はこんな感じですけど」
「でしょう。潔く諦めなさい、これまで通り」
「へーい」
ふざけた調子ながら、素直に受け入れた深道さん。昔は生意気だったという彼は、幾度とないこの遣り取りを経て今の深道さんになったということなのでしょうか。
「自分から言うことでもないけど日向くんに喜坂さん、今のは『仲いいな』って思っとくところだからね? 難解だろうけど」
「あ、それははい、なんとなく」
深道さんがそんなふうに考えているであろうことは予想できていましたが、しかし不安があるとするならそれはやはり霧原さんです。また深道さんの背中に痛みが伴うようなことになるんじゃないか、なんて思ってしまうのですが、しかしこれについては平然とした様子でした。
「ま、今ので気分悪くするようだったらそれこそ年を取るようなことにはなってないんでしょうしね。ほぼずっとこんな感じだもの、あたしとこいつ」
確かにそれはそうでした。年を取るようになって、だからこそあの長かった髪が今はこんなふうにバッサリなんですしね。
「分かり易く仲がいい時ってのもまあ、ちょくちょくあると言えばあるんだけどね」
「それは余計」
「あいてっ」
結局は、またも叩かれてしまった深道さん。とくれば、さっき聞いた話からすると、僕がここで掛けるべきはこの言葉なのでしょう。
「仲がいいんですね」
「もちろん」
腰をさすりながらではありますが、気持ちのいい返事でした。
「さてと」
僕と深道さんの遣り取りに関心を示すようなこともなく――もしかしたら関心を示していないというポーズなだけかもしれませんが――霧原さんが全体へ向けるようにして言いました。
「馴れ初めの話はこれでどっちも終わっちゃったけど、どうしようかしらね」
予め何を話すかということを決めていたならば、そりゃあそういうことにもなりましょう。これがただの雑談だったら、自然に他の話題へ流れもするんでしょうけど。
で、だったらば。
「あ、じゃああの、質問いいですか?」
「何かしら」
「年を取るようになって、何かこう、変わったこととかは――ああいや、髪が伸びるとかじゃなくて身の回りの状況とかなんですけど」
「ああ、そうね。そもそもそういう話がしたかったんでしょうしね、あたしとこいつを呼んだっていうのは」
馴れ初めの話はどうでもよかったなどと言うつもりはありませんが、しかしいま言われた通り、本命となるとやはりこういった話題です。
「そうねえ……あたしとこいつの間じゃああんまり変わったこともないけど、周りはやっぱりねえ。隠す必要があるわけじゃなし、やっぱり家族には話したから。年のこと」
どうなったんですか、と今から話すであろうことをわざわざ尋ねるのもがっつき過ぎに思えたので黙っておきましたが、しかし霧原さん、話を続ける前に深道さんへ目配せをしました。
それに対して深道さんは小さく頷き、そして霧原さんがこちらを向き直ります。
「ハッキリそう言われたってわけじゃないけど、雰囲気がね。結婚前提っていうか、まあそんな感じになってるのよ。もちろんあたしは幽霊だから、そうなるにしても籍を入れるとかそういうのはないんだけど」
「責任を取るって話だね。悪いことじゃないにしても、瑠奈さんが年を取り始めたのは俺が原因なんだし」
責任。言葉にするなら、そういうことになるんだろう。
「ああもちろん、日向くんと喜坂さんのことまで言ってるわけじゃないからね? 俺らはこんな感じだよってだけで」
「いえ、僕もそういうつもりではあります」
ありますけど、と言ってしまいそうになるのを押さえてはみましたが、しかしそうしてみたところで、頭の中には「ありますけど」の続きが浮かんでしまいます。つもりがあっても本当にその通り行動できるんだろうかとか、そもそもその「つもり」はただしい内容なのだろうか、とか。
しかしさすがに、そこまでのことを深道さんと霧原さんに尋ねるのは違うような気が。
「で、その……こんなこと訊いていいのかどうか分かりませんけど、深道さんと霧原さんは、どう思ってるんですか? その話」
思ったこととは違う質問を投げ掛けてみましたが、こちらはこちらで危ういような。
しかし、
「そうするつもりよ」
霧原さん、あまりにもさらりとそう答えました。
「もちろん今すぐってわけじゃなくて、何の計画もない、ただ『いずれはそうしたい』ってだけの話なんだけどね。まだまだ」
更に続けてさらりと答えた霧原さんに対し、けれど深道さんは何も言いはしませんでした。これまでだったら冗談めかすなり喜ぶなりしていたのでしょうが、霧原さんのその言葉以上に自分から付け加えるようなことはない、ということなのでしょうか。
霧原さんはそんな深道さんへ視線を送り、そして小さく微笑むのでした。
「ま、年下のあたしにこんな様子なんじゃあ、旦那サマとして迎えるにはちょっと頼りないような気もするけどね」
「年下ってちょっと、元は高校の先輩でしょうがアナタ。年取らなくなってる間にひっくり返っちゃっただけで」
「ひっくり返ったのは事実じゃない」
「いやでも、生まれてから経過した年月については変わらないわけで――」
経緯を考えると照れ隠しのような気がしないでもない霧原さんの嫌味から、またしても小競り合いになってしまいました。が、ここで深道さんが。
「そういえば、日向くんと喜坂さんはどうなんだっけ? そこのところ」
というのは直前の会話からして、僕と栞さんの年齢はどういった上下関係なのかという話なのでしょう。単にどちらが上だでは済まされない、という点も含めて。
「お互いの呼び方でまあ何となく察しはついてるでしょうけど、栞さんのほうが年上ですね」
「まあ、さん付とくん付けだものね」
場合によっては孝一くんではなくこうくんになるわけですが――あ、結局同じだった。
いやそれはいいとして、
「ただ、霧原さんが深道さんより年下になったっていうのと同じ話だと……同い年になるんでしたよね? 栞さん」
「うん、そうだよ。四歳引いたら十八だしね、私」
という栞さんの返事を聞いた時、その内容よりもまず「そういえば栞さん、暫く喋ってなかったような」というようなことを気にしてしまったわけですが、それはともかくその通り。栞さん、本来なら二十二歳でお酒を飲める年なのです。
「う゛ぇっ」
どうしたことでしょうか、霧原さんがえらい濁った声で驚きの声を上げました。いやそりゃあ四年もの誤差があれば実年齢より若く見えるかもしれませんが、しかしだからといって、そこまで驚くほどでもないように思うのですが。
……例えば、明くんの彼女さんがあの小ささで明くんと(つまり僕とも)同い年だということほど意外性があるのなら、そういうリアクションも分かるのですが。
「喜坂さん、それじゃあ、あたしより年上じゃない」
「え? ええと」
いきなり言われて計算が追い付かないのか、栞さんはおろおろと。しかし確かに、霧原さんの仰る通りなのです。
「瑠奈さん、元は高校の先輩ってことで俺の一つ上だからね。ぴったり二十歳だよ」
そして栞さんは二十二歳。というわけで、
「がっつりタメ口利いてたわあたし……。あー、その、失礼しました」
「右に同じく。失礼してました、喜坂さん」
二人揃って謝罪をする霧原さんと深道さんなのでした。けれどもそれは、栞さん的にはどうなのでしょうか?
「あの、いや、これまで通りでいいというか、むしろできたらこれまで通りのほうがいいというか……あはは」
弱々しく笑う栞さんでしたが、そういうことになってしまうと、普段から敬語で話している自分としては耳が痛くなくもない話だったりしないでもないのです。が、まあそれはいいとして。
「――気を遣わせちゃうだけですよね、私からこんなこと言っても。ええと、話しやすいように話してもらえたら」
目上の人から「目上扱いをしてくれるな」と言われたら、そりゃまあ下の者としては対応に困るところなのでしょう。僕だって一度だけ栞さんを呼び捨てにしてみたことはありますが、結局は一度だけで済ませちゃってますし。
けれどそこへ霧原さんは、
「そう? だったらこれまで通りで」
すっぱりとしたご決断を下されるのでした。これには深道さんが「る、瑠奈さん、迷いがなさ過ぎませんか?」と慌て始めますが、しかし霧原さん、ふうと一息ついてから真面目な顔に。
「おこがましい話かもしれないけど、あたしも分かるのよ。喜坂さんの気持ち。変えて欲しくないっていうか――あたしの場合は、変わらなくて良かった、なんだけど」
と、立場的には栞さんと同じであるところの霧原さん。変わらなくて良かったということは、「変わらない」という結果が既に出た後だということ。ならばそれは誰を指しての話なんだということにもなるのですが、
「ああ」
なるほど分かったと言わんばかりの相槌を打ったのは、深道さん。ですよね、やっぱり。
「ま、話し方一つでどうのこうのってのは女々しいような気がしないでもないんだけどね、正直。でも、それだけとはいえ実際に変わっちゃったら、そのうち中身までそれに合わせて変わっちゃうんじゃないかなって」
「そうですよね」
次のその相槌は、にこりと微笑んだ栞さんから。ならば霧原さんの「喜坂さんの気持ちが分かる」という言葉は、確かにその通りだったということになります。
深道さんから目上の扱いをし続けて欲しかった霧原さん。
目上の扱いよりは、親しみのある扱いのほうを好んだ栞さん。
……本格的に、栞さんの目上扱いについて考えを改めるべきなのかもしれません。
「というわけで喜坂さん、これまで通りで宜しくね」
「はい」
何の問題が生じる余地もなく、そういうことになりました。ならばもう一方のかたについても同様に、ということで、
「ええと、俺もそのほうがいいのかな」
「あはは、はい。無理じゃなければ」
「じゃあお言葉に甘えて」
深道さんについても同じ結果になりました。ともなれば栞さんが嬉しそうにするのは言うまでもありませんが、しかしそれを余所に、深道さんが「瑠奈さんがこれなのに俺だけってのは、ちょっとねえ」なんて言ってみたところ。
「人のせいにしなさんなっての」
「あいてっ」
またも霧原さんからお仕置きが。もう何度目でしょうか。
「いや瑠奈さん、これは『瑠奈さんのせい』ってよりはむしろ『瑠奈さんのおかげ』って話ですよ?」
「ふうん? 誤魔化されたような気がしなくもないけど、そういうことだったらそれでいいわ」
「ほっ」
「ほっとすんじゃないわよ」
「あいててっ」
仲がいいですね、ということで。
「それじゃあ喜坂さんに日向くん、また今度」
「こっちはこれでも心配要らないから、そっちはそっちで達者にね」
話も済んだということで、霧原さんと深道さんが帰路につきました。時間的にはまだ暫く暇があるものの、本日は天候が天候なので、ならば何もこんな日に遊びに出掛けることもないだろうということに。強くないとはいえ、雨降ってるんですしね。
手を振る僕と栞さん。その向こう側で、二人は一本の傘に身を寄せ合っているのでした。ちょっとだけ「いいなあ」なんて思いつつ、しかしわざわざ一人一本の傘を用意していてそうするというのもなあ、なんて。
栞さんも歩み出すに当たって躊躇い無く自分の傘を開いてしまい、ならばまあそちらについては諦めておきまして。
「栞さん、静かでしたね」
そう尋ねてみました。
「えっ? そうだった?」
「いや、そんなふうに見えたってだけですけどね」
全く喋らなかったというわけではなく、口数が少なかったなというだけの話。だったらそれは話の流れにも影響されるでしょうし、栞さんが喋ろうとしたところに他の誰かの言葉が重なってしまったということもあるでしょう。だからこれは確定しているというわけではなく、ただ僕がそう思ったというだけの話です。
しかしどうやら、栞さん自身にも思い当たるところはあったようです。
「……そうだったかもね。そうなる理由に心当たりがないわけじゃないし」
「理由ですか?」
と尋ね返す際、完全に栞さんのほうを向いていた僕は、うっかり水溜まりを踏み抜いてしまいました。ぱちゃんと音を立て、少々ながらも水が跳ねます。
「あ、すいません」
「ああ大丈夫、掛かってないみたい」
大したことではないとはいえ、心の中ではほっとしたりも。
しかしそのせいで――と言えるのかどうかは分かりませんが、ほっとできないことを思い出しもしてしまいました。栞さんとの話し方について、です。
けれどそれは今話していることとは違う内容なので、ならば話題にするのはこの話が終わってからにしておきましょう。
「霧原さん、すごいなって。感心するばっかりで、呆けちゃってたっていうかね」
そりゃまあ深道さんの扱いにすごいところはありましたけど、と茶化せるような話ではないようでした。
「幽霊になってからも学校に通い続けてたって言ってたでしょ? 私はほら、全く逆だったから」
「病院から出られなかった、ですか」
「うん」
その話をすることに今更ためらいがあるわけではないですけど、だからといって気が重くならないというわけでもなく。もちろん、そこまで重度なものではないんですけど。
「まあ僕も、それを聞いた時は『えらくアクティブな幽霊だなあ』なんて思いましたけどね」
「あはは、こうくんからしてもやっぱりそう思う?」
「でも、だからってそれと栞さんを比較してどうだなんてことは思いませんでしたよ」
すると栞さん、数瞬ではありましたが、言葉に詰まったようでした。そして言葉に詰まったその後、静かな口調でこう言ってきました。
「そう、だろうね。わざわざそんなふうには思わないよね、普通は」
ということはつまり、栞さんは「比較してどうだなんてこと」を思ったということです。そりゃあそうでしょう、霧原さんをすごいと思って呆けていたのなら、すごいと思ったその基準はなんなのかということになりますし。
「あとさ、それだけじゃなくて――その学校の話だけじゃなくてね」
「ん?」
他にも何か、霧原さんをすごいと思う理由に当たることがあるようです。そして恐らくは、それもまた自分を基準とした話なのでしょう。
「家族に、自分がここにいるってことを知らせたって……他の人にしてもらったことだって話だったけど、そもそもそれを受け入れられること自体が、私からするとすごいことなんだよね」
「っていうのは、じゃあ栞さんは」
「私、家に帰ったことって一度もなくてさ。もちろんお父さんお母さんにも会ったことなんかないし、そもそも会おうとしてすらいないし」
「…………」
即座に反応することはできませんでした。
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