(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十二章 おめでたいこと 九

2010-02-18 21:11:21 | 新転地はお化け屋敷
「そうかもしれんな。ところで、じゃあ成美はどうなんだ? 姿形は人間になったわけだし、これと同じようなことができるのか?」
「できるなら楽に頼まず自分で描いているさ。……いや、別にわたしだけが特別に不器用だというわけでもないのだろうが」
 そう言いながら成美さんは顔をしかめていましたが、しかしそれはその通り。人間なら誰でも絵が描けるかと言われれば、決してそうではないのです。
「そうなのか。なら、絵を描くこと以外で何かできることはないのか?」
 もちろん、人間にとっての器用さというのは何も絵を描くことだけに限るものではなく、そして猫さんもそれは理解しているようで、絵は描けないという成美さんにそんな質問。
 しかし成美さん、「ぐっ」とあからさまに痛いところを突かれたような息の詰まらせ方をします。
「い、いや、唐突にそう言われてもなかなか思い浮かばんなあ」
 恐らく、なかなか思い浮かばないというより、全く見当が付かないのでしょう。そんなことを言いながら明らかに目が泳いでいるのでした。
「ふうむ、自分のこととなると案外そんなものかもな」
 目が泳いでいるにせよ、猫さんはその言葉を信じたようです。しかしならばそれで追及を諦めるのかといえばそうでもなく、「なら、大吾はどうだ?」と成美さん本人以外のところへ話を移します。
「お前から見て何かないか? こいつの器用な部分というのは」
「えーと、最近自転車に乗れるようになったとか」
 現在の旦那さんの口から咄嗟に出てきたのはそんな回答でしたが、
「それこそ誰にでもできることだろう……」
 猫さんがどう思うか以前に成美さん本人が不服そうなのでした。人間だからできることではあるのでしょうが、しかし人間の中だけで見れば確かに、ちょっと練習すれば誰にでもできることなのでしょう。
 そんな成美さんの反応を見てか猫さんは何も言いませんでしたが、それでも大吾は別の回答を持ってきました。
「ああ、そうだ。魚捌けるじゃねえかオマエ」
「あれだって同じようなものだろう。日向のように、料理ができるまでとなればともかく」
「いや、そうでもねえと思うぞ。少なくともオレはできねえし」
「……そ、そうか?」
 自信のある答えだったのか、今度は引き下がらない大吾でした。だとすればつまり、前出の「自転車に乗れる」という答えが投げ遣りなものだったということにもなるのですが、しかし成美さんはそこに気付いた様子もなく、ただただ照れてしまっているのでした。
 その捌いた魚を食べるのは成美さんとチューズデーさんであって大吾ではないのに何をそこまで照れるのか、と思ってしまったのは秘密にしておきましょう。
「ふむ、やはり成美にでもそれなりのことはできるわけか。面白いな」
「そうは言っても、まだこの姿になって一年だ。不慣れなところもあるにはあるぞ」
「言い換えれば、器用さについてはまだ伸びしろがあるということだろう? 楽しそうじゃないか」
「はは、そりゃあまあ楽しくはあるけどな」
 前向きな考え方を披露する猫さんに、成美さんも納得のご様子。成美さんが人間になってからまだ一年しか建っていないというのはどうにも補いようがなく、ならばそれでいいのかもしれません。後ろを向いたところで、補う方法が浮かぶわけでもないんですしね。
「それはそうと楽、じゃあもうその絵は持って帰らせてもらってもいいのか?」
「ん? ああ、どうぞどうぞ。椛さんに送る写真はもう撮ってますしね」
「ありがとう。飾るような入れ物が準備できていないのが不安だが、出来る限り大事にさせてもらうぞ」
 絵の入れ物、となると額でしょうか。絵を所持しているわけでもないのに額だけ持っているというようなことも、もちろんながらないようです。そりゃそうですよね。
「んっふっふ、そこまで大層なものでもありませんよ。もちろん、大事にして頂けるというのならそれはとても嬉しいですけどね」
 という清さんの言い分は、絵を描かない僕でも分かります。自分が作ったものを大事にしてもらえるならそれは嬉しくて当然なのですが、それ以前に僕自身、絵とはまた別のところで作るものはあるわけですので。
 というのはともかくとして、ここで大吾が何やら顔をしかめます。
「予定としては庄子にやることになってますし、そうなった後の扱いはあんまり保障できないですけど……」
 相変わらず、妹に対して素直でない兄なのでした――と、多分そういうことなのでしょう。
「まあ、そうしてもらえれば嬉しいとは言っても、そうしろとまでは言いませんよ。今も言いましたけど、そこまで大層なものじゃないんですしねえ」
 意地の悪いところを見せた大吾ですが、清さんも清さんで何やら寂しいことを言うのでした。とは言っても、それは事実と言えば事実なんでしょう。いくら親しい人からの贈り物だとは言え、ずっと大事にし続けるというのはなかなか考え難いことですしね。
 そしてそれとはまた別に――見当違いかもしれませんけど――僕にも、そういうことを言いたくなる気持ちは分かるような気がします。
 誰かに何かを贈るというのは、もちろんその誰かに喜んでもらうための行動なんでしょうけど、でもそこであんまりその贈り物を有難がられると、贈ったこちらが気後れしてしまうという部分も出てきてしまうのです。……もちろん、僕の場合は料理がその大半なんですけどね。
 要は、気軽な程度に喜んでくださいということです。
「何にせよ、わたしはこの絵を有難く頂くぞ。――できれば、これからも時々頼みたいくらいだ」
「んっふっふ、それは光栄ですねえ。気が向いた時はいつでも言ってください」
「ふ、しかしお前の場合、気が向いた時にその場に居合わせていることは少ないだろうがな」
「ああ、そこを突かれると弱いですねえ」
 そう言いながらもやっぱり笑いつつ、頭を手で押さえる清さん。けれども、これからもしょっちゅう何処かへ出掛けはするのでしょう。清さんならそうするんでしょうし――と言うよりいっそ、そうしなかったら清さんじゃないような気すらしますし。
 さて、そんな勝手な印象論はともかく、ここで家守さんがいやらしい笑みを浮かべます。
「大丈夫だよなっちゃん。その場に居合わせなくても、せーさんなら後でその時の状況を伝えるだけでも見事に描き上げてくれるって」
「むう、確かにそうかもしれん。わたしが故意に大吾に水を掛けたような状況を作り上げてしまったわけだし」
「んっふっふ、随分とハードルを上げられてしまいましたねえ。自業自得ではありますけど」
 その業とやらも良かれと思ってのことだったので、僕としては気の毒に思ったり。ところで成美さん、割と根に持ってたりするんでしょうか。
 ……ところで、実際はどうなんでしょう? 伝え聞いた状況だけで絵を描くというのは。
清さんの絵の腕前は今になって述べるまでもないことなのですが、ではそういう人というのは、被写体が目の前になく頭の中にだけあるとしても、目の前にある時と同じような絵が描けるものなんでしょうか。
 というような疑問が沸いたこともあって、家守さんのいやらしい提案が現実のものになったらなあ、とちょっと思ってしまうのでした。ごめんなさい清さん。
「さて、じゃあそろそろ戻らせてもらうかな。部屋で改めてじっくり見てみたいし、置く場所も考えなければならんし」
 言いつつ成美さんが立ち上がり、ならばと大吾が、そして猫さんも、それに続きます。そうなれば、絵の受け渡しのついでについてきた僕と栞さん、そして家守さんも同じく。
「楽、いつ次を頼むか分からんぞ。覚悟しておけよ」
「んっふっふ、覚悟させてもらいましょう」
 去り際のそんな遣り取りに口元を緩ませつつ、各々は各々の部屋へ戻るのでした。
 ……いやまあ、栞さんは僕の部屋へ来たわけですけどね。

 時間は少し飛んで、夕飯時。家守さんと高次さんが欠席なせいかいつもよりちょっと早い時間になりはしましたが、しかしそれでも外はもう真っ暗です。
「猫さん、もう帰っちゃったかな?」
「清さんの絵を見たら帰るって言ってましたしねえ。多分、帰っちゃってるでしょうね」
 前述の通りに四人中二人が欠席なので、人数的にはちょっと寂しい本日の台所。とは言っても、台所だけで考えれば高次さんは数に入らないんですけどね。
 それに、これはこれでという面もありますし。
 けれども今それは横に置いときまして、猫さんの話です。
「202号室に一緒に住んじゃえばいいのになー、とは思うんだけどねえ。そうもいかないのかな、やっぱり」
「いかないんでしょうねえ。成美さんだってそうしたいとは思ってるんでしょうけど」
 もちろん本人に確認を取ったわけではありませんが、そう思わない理由がない、ということで。だってそりゃあ、今でもあんなに仲睦まじいんですから。
「いろいろと事情が特別なのは分かってるつもりだけど、傍から見てるとついつい、勝手なこと考えちゃうよね」
「考えちゃいますよねえ」
 現に僕もほぼ同じようなことを考えた試しがあるわけですし。もちろん、事情が特別だということを分かってるつもりだ、という点についても同意なんですけどね。
「じゃあやっぱり、あんまり考えないようにしよう」
「そうですね」
 話題にしたばっかりなので妙な話ではありますが、しかし取り敢えずはそんな結論で締め括ることとなりました。
 何の気なしの気軽な会話とはいえ、気軽過ぎたような気もします。ただ、着々と完成に近付いていく自分の好物を前にすると、そんな憂いも霞んではしまいますけど。
 そう、今晩の献立には豆腐の肉乗せが入っているのです。ああ今ここで一つ摘み食いしたい。
「摘み食いは駄目だよー」
 思った途端に言い咎められてしまいました。
「……あれ、何で分かりました?」
「ものすっごい見てたから」
「ものすっごい見てましたか」
 恐らくそのものすっごい視線の半分ほどは、成美さん猫さんについて思案してのものだったんだと思います。しかし、ならばとそのことを栞さんに伝えてみたところで、それはなんだか言い訳じみたものになってしまいそうな気がしないわけでもありません。
 と言うか、実際に摘み食いしたいとは思ってたわけですしね。
「私としては、そっちよりもこっちに視線を向けて欲しかったけどなあ」
 そう言いながら栞さんが指差すのは、現在栞さんが取り扱っている鍋。の、中身。何かと言えば、味噌汁です。
「評判はいいみたいだけど、まだまだだね」
「いやいや、そんなことは」
 当初は料理の経験が全くなかった栞さんですが、しかしその当初から何故か味噌汁だけは美味しく作れるのです。……まあ、今となっては「味噌汁だけ」という言い方も、何処か違和感が生じるようになってきたんですけどね。得意料理が味噌汁なだけであって、他の料理もきちんと作れるんですし。
 というわけで、僕が豆腐の肉乗せと味噌汁のどちらに目を奪われたかというのは、単なる僕の好みの問題なのではないでしょうか。もちろん栞さんの味噌汁だって好きなわけですけど、その前に味噌汁という料理そのものを好物としてはいないわけですし。
 ――というようなことはともかく、
「一応、この場では料理の先生って立場なんですけよね。それが摘み食いを気にされるってどうなんでしょう?」
「『どうなんでしょう?』って質問が出てくる時点で分かってるようなものだよね」
 ですよね、やっぱり。

『いただきます』
「――あ、そうだ。プールのこととか絵のこととかですっかり意識から飛んじゃってたけど」
「何ですか?」
「今日買ってきた服、明日着てみるけど、変だったとしても笑わないでね?」
「笑うほど変な服を選ぶっていうのも、相当な難易度だと思いますけどね。でもまあ、約束はします」
「ありがとう。いや、自分でも心配し過ぎなんだろうなとは思ってるんだけどね? なにせ自分で服を選ぶのなんて初めてに近いし、どうしても不安になっちゃうんだよね」
「男はそういうところ――いや、僕だけかもしれませんけど、そこまで気にはしませんねえ。むしろ値段のほうばっかり見ちゃいますけど」
「そういうものなのかなあ。やっぱり、出来るだけ可愛い格好をしたいとは思うし」
「でも、値段が高ければ可愛いってわけでもないでしょうし。――例えば栞さん、高級な牛肉とそこらのスーパーで売ってる牛肉が目の前にあるとします」
「ん? うん」
「どっちを食べたいと思いますか?」
「そりゃあ、高いほうだよね」
「でしょうね。でももしかしたら、スーパーで売ってる牛肉のほうが美味しいかもしれませんよ?」
「……言ってることは分かるけど、その例えはちょっと無理があるような」
「そう思いますよね? でも、考えてみてください。個人の味の好みというのは千差万別なわけですから、その味覚を基準に考えれば、目の前に並んでるのは『味の違う二種類の牛肉』でしかないんですよ。どっちのほうが高いとか、どっちのほうが世間での評価が上だとか、そんなことは全く関係なく」
「二種類の牛肉、かあ。まあ、言われてみればそうなんだけどね」
「もちろん、実際に食べ比べて高級なほうが美味しいとなれば、それはそれで全く問題はないわけです。むしろそうなる人が多いからこそ値段も高ければ評価も高くなるわけで、ならそうなる確率のほうが高いんでしょうけどね」
「確率の話になると、じゃあ『そうならないこともある』って話になってくるよね」
「でしょ? だから栞さん、僕は味噌汁より豆腐の肉乗せのほうが好きですけど、それは何も即栞さんの料理の腕がどうだという話にはならないんですよ」
「あれ? 服の話は?」
「……えーと、その、感想は実際に目にしてみてからということで」
「忘れてたね?」
「すいませんでした」
「あはは、でも実際に見てから考えるっていうのは間違ってないだろうしね。でもこうくん、一個だけいいかな」
「はい」
「お肉に例える必要はなかったんじゃない? そのまま『高い服と普通の服』で話をしても問題なかったと思うんだけど」
「……言われてみれば、それもそうですね」
「こうくんらしいね、色々と」
「すいませんでした」

『ごちそうさまでした』
 さすが好物だけあって、大変美味しゅうございました。気分的な問題としては、食事初めの会話内で謝る羽目になってしまったことを、その味で打ち消してすらくれたほどです。
 まあ、そこまで深刻な謝罪というわけでもなかったんですけど。
「うーん、今日はどうしようかな」
 合わせた手を膝の上に降ろすとほぼ同時に、栞さんは何やら考え事のようです。それを聞いて、僕の意識はほんの少し過去から現在へ。
「どうしようかって、何をですか?」
 わざわざこちらに聞こえるように唸ったのは、僕にこう聞いて欲しかったということなのでしょう。栞さん、ほんの一瞬だけにこりと微笑んでから、話題に合わせた苦笑の表情に。
「このまますぐ帰っちゃうか、いつも通り少しここにいさせてもらうか」
「何か用事でもあるんですか?」
 もちろんここは僕の部屋で、栞さんはお客さん。となれば自分の部屋に戻るというのは不思議なことでも何でもなく、ならばそうだからと言って即「何か用事がある」ということにはなりません。
 ――まあつまり、特に用事もないのならいつも通りここにいてもらえると、僕としては嬉しいわけです。
「いや、二人で話し合うのと一人だけで考えてみるの、どっちにしようかなってね」
 考えるというのは何についてですか、ともう一度質問したくなったものの、質問が連続することに何となく気が引けて、自分で考えてみることに。
 服のことについては食事中に話したし、猫さんのことも食事前に「あまり考えないようにしよう」ということになったし、ならばそれ以外で有力なものと言えば?
「……えっと、養子のことだったりします?」
 思い付いたのはこんな答えでしたが、もちろん今日の出来事以外のことについて考え始めたという可能性もあるわけです。そのうえこの答えは、外していた場合にちょっと空気を悪くしそうなものでもあります。しかし、僕はそう問い掛けたのでした。
 結果、「うん」とこっくり頷く栞さん。一瞬で高まった緊張がすっと抜け落ちるのでした。
「正確には、養子のことも含めた子どものこと全般、かな」
「そういうことだったら、僕としてはここにいて欲しいですけど」
 それどころか、栞さんがそこで「この部屋を離れる」という選択肢を思い浮かべたのが意外――いや、いっそ心外だったりするぐらいかもしれません。
 そんな思いがどの程度顔に現れたか、そしてそれが他人の目に留まるほどのものかどうかは定かではありませんが、ともかく栞さん、そこでくすりと笑みを溢しました。
「真面目に話し合うとかそこまでのことじゃなくて、ちょっと想像を巡らせてみるというか、まあ、それくらいの話で。もちろん、こうくんがそう言うならここにいさせてもらうけどね」
 言い終えた栞さんは、目の前に並んだ空の食器を重ねて持ち上げ、台所へ向かおうとします。
 別に追いすがるとかそういうことでなく、僕もそれに倣って同じ行動を起こすと、途中で栞さんがこちらを振り返りました。
「正直言って、私の中ではもうそれほど大ごとでもない話なんだよ? 誰のおかげでそうなのかは、言うまでもないけどね」
 つまり、僕と面を突き合わせて険しい顔で睨み合いながらするような話では既にないと。
 ちょいと過剰表現かもしれませんが、つまりはそういうことなのでしょう。そしてそういうことなのなら、部屋に戻って一人で考えてみるということには意外も心外もありません。
 食器を台所の流しに重ねて、再び居間。ちょっとした勘違いもあった僕の希望によって、栞さんはまだ暫くこの部屋に留まることとなりました。
「一番思うのってやっぱり、お腹の中に赤ちゃんがいるってどんな感じなんだろう、ってことかな」
 栞さんの立場を考慮すれば、普通に考えて割と重苦しい話題です。しかし栞さんにとって、これはそういう話ではないのです。
「今日、椛さん本人も不思議そうだったし」
「食べ過ぎでお腹が重いっていうのとは……違うんでしょうねえ、やっぱり」
「あはは、そりゃそうだよ。不思議な部分が何もないよそれじゃあ」
 ――まずい、こりゃかなり幸せかもしれない。
 いや、何もまずくはないんだけど。
「男には難しい話じゃないですか? これって」
「でも、経験がないって意味では栞もこうくんも同じだよ?」
「あー、そりゃまあそうですねえ」
 こういう話をする時、言葉を選んでいたという部分は確かにありました。今だってそれが全くなくなったというわけではないですけど、それでもほぼ日常会話と同じような雰囲気でこういうことを話せるというのは、気付いてみれば感動してしまう変化なのでした。
「こうくん?」
「はい?」
「……いや、目が潤んでるように見えて」
 言われて目の辺りを拭ってみると、確かに水に濡れた感触が。目から離したその手を眺めて視覚情報に頼ってみても、結果は同じなのでした。
 我ながら、感動し過ぎじゃないだろうかと思わずにはいられません。
「あの、どうかしたの?」
 自分ですらもこの涙はこの場に不釣り合いだと思うくらいですから、栞さんからすればそれ以上なのでしょう。嬉し涙だというのに、心配そうな顔をされてしまうのでした。
 ――で、ですけども。
 自分ですら不釣り合いだと思うということで、「これは嬉し涙です」と白状してしまうのは何だか気恥ずかしい部分があります。ならばさて、どうしましょう?
「栞さん」
「なに?」
 呼び掛けてから、今度は服の袖で目を拭い、まぶたに溜まった水分を完全に取り去ります。もちろんそんなことでは何一つ栞さんへの説明になってないわけで、ならば心配そうな顔もそのままですが、
「キスしていいですか?」
 脈絡も何も考えず、思ったことを言ってみました。
「……う、うん」
 余計に困らせてしまったようでした。頷いてはくれましたけど。

「何というか、嬉しかったんです。今みたいな話を気軽にできるようになったことが」
「そっか」
 事後承諾のような形になってしまいましたが、どういうわけかさらりと口から出せそうな気分になった嬉し涙の理由をさらりと伝えてみたところ、栞さんはにっこりと納得してくれました。
 終わり良ければ全て良し、というのはこの場合ちょっと身勝手かもしれませんが、とにもかくにもそういう方向で収まったようです。
「泣きまではしなかったけど、気持ちは分かるよ。自分自身でも嬉しいことだしね、やっぱり」
 というふうに仰る栞さんでしたが、僕も「栞さんにとっては泣くほどのことではない」というのは分かります。
 なんせこの話、変わったというのは僕でなく栞さんなのです。他人からすれば感激のあまり涙を浮かべるほどの変化であっても、本人からすればちょっとずつ軌道修正をしたに過ぎず、ならばそうしてじわりじわりとそういう方向へ自分を調整したとなると、「感激してしまうある瞬間」というものは見え辛いのでしょう。
 さて、感激を深めるのも悪くはありませんが、だからと言ってこのままずっとというわけにはいかないでしょう。そういうわけで、
「えーと、すいません。話を戻しましょうか」
「そうだね。……何を話してたところだったっけ?」
 眉を寄せて首を傾げる栞さん。さてそれは、僕の唐突な行動が引き起こしたものなのでしょうか?
「お腹の中に赤ちゃんがいるのはどういう感じなんだろう、って話ですね」
「ああ、そうだったそうだった。お互いよく分からないってところだったね」
 それは既に結論に達してしまっているような気もしますが、まあ実際にそんな話でした。いいじゃないですか、実のない会話でも。
「こうくんはお腹の重さのことを言ってたけど、例えば今日の椛さんぐらいだとどう? まだお腹が大きくなってるわけじゃないし、そういうのは全然ないと思うけど」
「ない――ん、でしょうねえ。そうなってくるともう、実際の感覚じゃなくて、気持ちのほうの話になってくると思いますけど」
「うん、そういう話がしたいな」
 つまるところ、感覚の話をしていた僕は、空気が読めていなかったようです。ああもうなんかいろいろ酷いなあ嬉し泣きのこととかキスのこととか。
「状況によっていろいろでしょうけど、基本的には嬉しいことですよねやっぱり。その、好きな人との間にできた子どもなわけですし」
「状況によって」とか「基本的には」とか、考えを巡らせれば嬉しさ以外の感情も在り得ると言っているようなものですが、しかしそうは言いつつ、それ以外の部分にはあまり触れて欲しくはありませんでした。何とも我儘な言い分ですけど。
「『愛の結晶』なんて言い方したりもするし、一番はやっぱりそれなんだろうね」
 僕の考えを掴んでくれたか、それとも単に話の後半部分に反応しただけなのかは分かりませんが、栞さんはそう返してくるのでした。
 僕としては、その愛の結晶という表現は劇的というか大袈裟というか何というか、ちょっと口には出し辛い言葉だという位置付けではありました。しかし栞さんの言い分を聞く分には、なるほどそういう表現の仕方にも単なる言い換え以上の意味はあるものだな、と。
 ……まあ、今まで思い当たらなかったことのほうにこそ驚くべきなのかもしれませんけどね。


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