日日是好日

「アナザー・カントリー」について、実に主観的に書き散らしてます。
たまに身辺の雑記も。

アボガド

2013-10-12 11:47:09 | 日日雑記


我が家で生育中のアボガドです。

スーパーで、例えば100円でアボガドを買うと、
そのうち48円は種代だから、
どーしても再利用してみたくなる。

しかし、アボガドっていうのはどうやって殖えるのだろうね。
小鳥に果実をついばんでもらって、
ついでに種もついばんでもらって、
腸を通って、〇ンとして新天地を見出すってのが本当なら、
アボガド用の怪鳥が必要となる。

ついでに言うと、
実の方も甘くも辛くもない。
(私は山葵醤油で食べます)


ここはひとつ、人間になりかけの猿に登場してもらいます。
ジャングル付近の民家でテレビを見て、
野球ファンになった猿もどきが、
アボガドをボール代わりにして、樹上ゲームをする。
ホームランボールがそのまま、
次世代をはぐくむのです。


あほな妄想で始まった三連休でした。>

善を成そうとする者は蒙を拓こうとするが……

2013-10-12 00:32:51 | ぼくの地球を守って
シオンがリアンと初めて会い、問答するシーン。

シオンはふてくされてもおらず、しらけてもいない。
故意に突っかかろうとしてもしない。

それでもシオンは、リアンの盲点を鋭く突いてくる。

人を殺したシオンに、
償いをするためにあなたは生きるチャンスを与えられたのだと言うリアン。
「じゃあ途中で殺された人は、償いをすることも許されない人?
赤ん坊だって死んでいたよ。
オレが殺した兵士たちは生き返るの?
そして仕返ししに来る?
ならオレはまた殺すけど、それでもオレは、生きていていいのかな」

答えられないリアンは、こういう時の常套手段に出る。
人を殺してあなたは幸せだったの?と、
いわばシオンに下駄を預けるのです。

でもシオンはそんな罠には落ち込まない。
罠だとも気づいていない。
「すごく嫌だったよ。でも間違ってない。
また来たら、また殺す。
だって勝てるもの」
「あの力はそのためにあるんだなってわかった」
さらに、
「ここは平和だね。どうして誰も殺されていないの?」
くどいようだが、シオンは嫌味を言っているつもりはない。
そこが一層、おそろしいのです。


つくづく、一騎当千のマンガ家だなあ。


長期旅行している時、ロンドンで日本のマンガ月刊誌を買いました。
日本で買うよりずっと高いし、日本語にも飢えている。

なのにね。読む気にならないんですよ。
マンガの画面から、読者を引き込もうというオーラが感じられない。
あれにはびっくりした。

人生は短い。
濃いいマンガに出会いたいものです。

昔のドラマ

2013-10-08 21:41:07 | 日本のドラマ
昔のドラマを見ていると、まず、

1.やたらと煙草をすぱすぱ吸う。
刑事でも平気で吸殻をポイ捨てする。
今だったらクレームがつくな。

2.そのへんの街角でモブシーンを撮影する。
つまり知らぬ間にテレビカメラで撮られて、
全国ネットで顔が電波に乗っちゃうわけで。
これも今なら、個人保護法なんとかでアウト。

本当に彼女なのか?

2013-10-08 07:18:54 | 源氏物語
浮舟は宇治川に身を投げ、ある尼君に助けられます。

「あさき」では、そうなっている。

でも原作では、尼が拾ったのは、
本当に浮舟なのか?が、
いささかのクエスチョンになっています。

おそらくは浮舟なんだろうが、
でもあるいは、まったくの別人かもしれない。
過去に東国で暮らしたことがあるのだけが共通している、
他の女かもしれない。

このあたりの幻想風味が、
なんともいえません。

だいたいが「源氏物語」は、
人称をはっきり書かないことで有名です。
古文のセンセは「使われている敬語で判断しろ」と言いました。

でもどうしてそもそも紫式部は省略したのか。
紙と墨の節約?
怠慢?

では、ない。

物語を女房(侍女)たちが聞いている。
ある女房は「姫君が昔語りをして、それに同情した公達がよよと泣いている」話だと思う。
他のある女房は「公達が昔の話をして、それを聞いた姫君が同情して泣いている」話だと思っている。
主語を曖昧にすることで、
一巻の絵巻物から、
いくつものストーリーがうまれる。
今みたいに近所の本屋に行けば、
雪崩をうつほどの書籍が積まれている時代じゃない。
紫式部はこうやって、
自分の書いた「源氏物語」に、
何倍もの価値を与えたのではないでしょうか。
(このあたりのテクは、「ぼくの地球を守って」と似てますね)

ちらとメインサイトの話をすると、
私の小説のキャラの半分以上は一人称が「俺」なので、
誰がしゃべっているのかわかりにくいことがあります。
ラノベなら、編集のチェックが入るところだ。

実を言えば、書いている作者でさえ、
誰の発言なのか決めかねることがあるのですよ。
いや、ホントに。

でも、ま、
それはそれでいいのですわ。

あるマンガのセリフ

2013-10-07 20:32:30 | ほんをよんであふれたもの
きみは、人の心を思いやったことはないの……?

*****

本当に、
心の底から不思議そうに、
こう問いかけるんです。

これが「きみはなんって思いやりのない女の子なんだ!」と腹を立てているなら、
全然状況が違うのですが。

「つらいぜ! ボクちゃん」の一節。
かおり、という女の子に、渡が呟いたひとこと。

かおりは従兄の渡のことが大好きで、
でも、渡は望という年上の女の子が好きで。
私の方がずっとずっと渡ちゃんのことが好きなのに、
どうして渡ちゃんは私に振り向いてくれないの!
まあ、よくあるパターンですね。

前後がどうだったかはほとんど覚えていないのですが、
この一行だけは、痛切に心に響いた。

自分をいっしんに慕ってくれるかおりに、
渡がどうして靡かないのか。靡かなかったのか。
ああ、そうか。
こんな簡単なことだったのだ。
全ては読者の目にさらけ出されていたのに、
どうして私は気づかなかったのか。
どうして、高橋亮子がコマとコマの間に託した思いを、
読み取ることができなかったのか。
どうして作者の心を思いやらなかったのか。

人の心を思いやる。
これは言葉を変えれば、想像力があるということ。
おそらく、役者志望の望には、それがたっぷりあったのだ。

かおりを選んでしまえば、
渡の世界はそれ以上広がらない。


ものを書く場合は、作り手は「人(キャラ)の心を思いや」らねば何も書けません。
クリエイターのアンチテーゼとして、
高橋亮子は、かおりという少女を作ったのではないでしょうか。