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三遊亭円窓の噺、「徂徠豆腐」(そらいどうふ)

2015年01月01日 | 落語・民話

三遊亭円窓の噺、「徂徠豆腐」(そらいどうふ)によると。
 

 正月二日、江戸の小商人は早々に商いにやって来た。
 豆腐屋七兵衛さんが芝増上寺門前の貧乏長屋に入ってきた。転げ込むように住んでいた二十五、六の若者。朝から晩まで書物を読んでいるか、筆をとっているかの毎日。
 注文で1丁売った。ガツガツ食べて4文の金が無いから、明日まとめて払うと言う事になった。翌日も同じようにガツガツ食べてツケにした。3日目も同じで、七兵衛さんが聞くと、学者の勉強をして、世の中を良くしたいと言う。それなら出世払いで良いからと、翌日から差入れが始まった。
 味付きのおからがメーンで、あとは日替わりの売れ残り。三日に一度はお握り。女房の心尽くしのおつけ。若い学者は涙を拭きながら食べました。この長屋では「おからの先生」って言われるようになった。
 ある時、七兵衛さん風邪をこじらして寝込んで商いに出られなくなた。
 マクラも上がって、長屋を訪ねたが、もぬけの殻で、行き先も分からなかった。長屋で名前を聞くと「確か、お灸がツライ、とかなんとか言っていたよ」。
 その後何回か足を運んだが戻らなかった。縁がなくなって夫婦の頭から先生の事が消えていった。

 元禄十五年十二月十四日。赤穂浪士の吉良邸への討ち入り。

 翌十五日の夜中。豆腐屋の隣りから火が出まして、あっという間に辺り一帯が全焼しました。

 明けて十六日の朝。まだ焦げ臭いものが立ち込めた無残な増上寺門前。
 大工の政五郎が豆腐屋七兵衛さん宅に火事場見舞いに訪れたが、着のみ着のままで焼け出され、魚濫坂下の薪屋さんに避難しているという。
 薪屋さんで七兵衛さん夫婦に会い、ある人から頼まれて10両の金を持参したので受け取って欲しいと渡した。受け取った七兵衛さん、嬉しいが分からない金に手を付けられないと、薪屋と相談の上、神棚に上げ、困った時に使う事にした。

 元禄十六年二月四日 四十七士の切腹。街では「なんてぇこった。あんな立派な義士たちをさッ」。とか「まったくだ。誰なんだい、そんなこと決めやがったのはッ」との声が大勢を占めた。

 10日後政五郎が訪ねてきた。腰を痛めた七兵衛さん夫婦を大八車に乗せて、芝増上寺門前の焼け跡へ。
 焼けたはずの店が建ってる。棟梁に聞くと七兵衛さんの店だという。そこに現れたのはあの、おから先生で過日のお礼を述べた。「あれから増上寺の了也僧正にもお世話に相成り、五年後、僧正のお口利きでご大老の柳沢美濃守さまのお引き立てをいただきまして、仕官が叶いました。また、なんらご挨拶もせず長屋を出ましたこと、お詫びを申し上げます。訪ねてきた友人たちに『このままでは体がもたない』と連れ出されたも同然で。」と詫びた。それから「火事にあって焼け出されたことを知り、すぐにお見舞いをと思いましたが、ご存知の赤穂の討ち入りがありました。以来、それに掛かり切りになりまして、お顔出しのいとまもありませんでした。この二月四日、赤穂の面々が腹を召し、ようよう動けるようになりまして、やっと、お詫び方々お目にかかることができました」。
 10両も、おから先生が届けたものであった。

 おから先生の本当の名前を聞くと、『お灸がつらい』ではなく、「荻生徂徠」だと言う。おぎゅう…? そらい…?と聞いて、七兵衛さん思い出した。「岩田の隠居が言ってた。『赤穂の義士に切腹をって、言い出した学者が”おぎゅうそらい”だ』って。その学者って、お前さんかいッ?」と訪ねると、その通りだという。
 それだったら使い込んだが10両と、この家はいらないと言う。

 徂徠が言うには、「ご主君を失った家臣一同、仇を討ちたしの一心は当然のことでありましょう。まさに義の一字でしょう。しかし、仇討ちはご法度、徒党を組むことも禁じられております。天下の大法を犯しております。法を曲げるわけには参りません」。ですから「私は法を曲げずに、法に情けを注いだのです」。
 「仇を討ち、本望を遂げたのでしょうが、方々にはもう一つ思いがあったはずです。ご主君のおそばへ馳せ参じることです。それゆえ、わたくしは『赤穂の浪士に追い腹を』と言上したのでございます」 。
 「そんなのは、学者の理屈だよ。」と言う七兵衛さん。

 「いえ、これは武士の本分に通じることなのです。七兵衛さん。武士の差しまする大小二本の刀はなんのためでしょうか」。「人を斬るためだろうが」。「まさに大のほうは人を斬るためでしょう。討ち入りで存分に使われました。では、小の脇差はなんのためでしょう」 。「そんな・・・」。
 「己で己を斬るためです。武士の本分、魂は小の脇差にあると、私は思っております。常日頃から己で己を切る覚悟のない武士はまことの武士ではございません。切腹は武士の誇り、誉れなのです。打ち首や獄門などとは比べようのないものなのです。また、散り際をいかにいさぎよくするか、武士というものはそこに生涯のすべてを懸けていると言っても過言ではないのです」 。

 「切腹については浪士の方々から異議を申し立てる声は一つもございませんでした。二月四日、切腹の様子を検死役の方々が異口同音に申しておりました。『赤穂の方々、皆一様に清々しいお顔で、ご主君のそばに馳せ参じる喜びを現わしておられた』と。本望の叶ったことは間違いないと、私は思っております。 法を曲げずに、情けを注ぎました」。
 「法を曲げずに情けを注いだというのは、七兵衛さん。あなたもなさっています。十年前、私は銭を払うような素振りで、都合、三丁の豆腐を食しました。無銭飲食です。法に触れた行いです。しかし、あなたはそのことには 触れず、『出世払いでいい』と情けをくださったではありませんか。あなたは天下の法に許す限りの情けを注いでくださったのです」。「そんなつもりじゃねぇんだよ」と、七兵衛さん。
 「そのおかげで、私はなんとか世に出ることができました。私も、赤穂の浪士に法を曲げずに情けを注いだつもりです。十年前、長屋で七兵衛さんに言われました。『腹を減らしてここで死んではならぬ。どうせ死ぬのなら、世に出て見事に花を咲かせてから死ね』と。十年たった今、私、その言葉を赤穂の面々に言っているような気がしてならないのです。『見事に花を咲かせたのであるから、見事に・・・、見事に散れ!』と」。

 七兵衛さん「焼け出されたときは焼き豆腐になっちまったが、今、先生の話を聞いているうちに、泣き豆腐になっちまった。なぁ、おっかぁ。武士に意地があるんなら、情けもあるはずだ。ご主君のそばへ送ってやるのも情ですね、先生」。「わかっていただけて、私も嬉しいです。ですから、十両もこのお店もお受け取りください」。「ありがとうございます。貰ったり返したりいたしまして。お豆腐だったら、とうに崩れてしまってます」。

 徂徠は、「増上寺の了也僧正に七兵衛さんの話をいたしました。すると『寺でもその豆腐にあやかりたいものじゃ』とおっしゃいました。いかがですかな、増上寺へのお出入りは? 」。
 早速納める事にしたが、名前をいただいて『徂徠豆腐』と付けた。
 「徂徠豆腐を泉岳寺へ持ってって四十七士にもお供えし、四十七士に喜んでもらえれば、こっちの自慢になりますよ。それにしても切腹した赤穂浪士も立派だが、先生もてぇしたもんですね」 。
 「いや、私は豆腐好きのただの学者ですよ」。
 「いや、そんなことはねぇ。この店を見りゃぁわかります。先生はあっしのために自腹を切ってくださった」。

  


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