貞觀七年(633年.舒明五年) 2007-01-16 17:53:17 | Weblog 三月魏徴が正式に宰相となった。 八月嶺南で洞獠が反乱したが討伐された。 十一月長孫無忌が司空となり外戚が勢力を増してきた。 十二月太宗は高祖を招き、捕虜とした頡利可汗や南蠻の馮智戴等を演技させ功績を誇示した。
貞觀六年(632年.舒明四年) 2007-01-15 19:26:40 | Weblog 国内は平和が回復され平穏な歳となった。 吐谷渾が西部で蠢動する以外は外寇もなかった。 外部では薛延陀と西突厥が争い、西突厥が敗れ唐に帰服してきた。 十一月後の名将契苾何力が部族と共に帰服してきた。
貞觀五年(631年.舒明三年) 2007-01-14 09:04:33 | Weblog 突厥に没した漢人の還流が進んでいった。 太宗もやや弛緩し、宮殿造営や封禪に関心を向けていった。 この年、南蠻を統轄していた旧群雄馮盎が入朝したが、さっそく叛乱が おこり盎が平定に向かった。 この時点では嶺南五府は実質上間接統治であった。 十一月倭国への遣使の記事が見られる。
貞觀四年(630年.舒明二年) 2007-01-13 09:29:21 | Weblog 二月李靖は突厥を陰山ら破り、三月頡利可汗を捕虜として凱旋した。 これにより隋末より強勢を誇った突厥帝国は一時崩壊した。 四月西北部の蛮族の酋長が集まり太宗を可汗として頂き、 唐は中国と北邊の両方を支配する形式を取った。 五月突厥残部を支配する突利可汗を封じた。 国内は安定期に入っていった。
貞觀三年(629年.舒明元年) 2007-01-12 17:53:35 | Weblog 正月建国の功臣裴寂がささいな理由で追放された。 二月房玄齡・杜如晦・魏徴など太宗側近による組閣が完成した。 四月上皇高祖を大安宮に移した。 突厥は内紛が起こり、頡利と突利の両可汗が内戦を行っていた。 八月ついに太宗は突厥に対する反撃を開始した。 李靖を総帥とした征討軍が進発した。 国内はやや安定し、蕃地逃げていた人達が多く戻ってきた。 その数は百二十萬といわれている。
貞觀二年(628年.推古三十六年) 2007-01-11 18:13:02 | Weblog 正月宰相長孫無忌が皇后[長孫氏]の願いで解任された。 これは皇后が外戚が政治に関与することを嫌ったためである。 北邊安定のため吐谷渾・薛延陀討伐が企画されていた。 四月突厥と結ぶ最後の群雄梁師都が殺され、餘衆が帰服してきた。 六月煬帝弑逆の罪を蒸し返し、旧隋臣が連座して配流された。 しかし主犯の宇文化及の弟士及は処罰されなかった。 十月赴任命令を受けなかった盧祖尚[旧群雄の一人]を殺した。
貞觀元年(627年.推古三十五年) 2007-01-10 17:53:11 | Weblog 正月李藝[羅藝、群雄の一人元幽州総管]が背いたが、部下に殺された。 四月涼州で長樂郡王が背いたが死んだ。 五月残る群雄苑君璋が降り、北邊が安定してきた。 九月盧江王を陥れた幽州都督王君廓が殺された。 十二月元群雄利州都督李孝常が背き誅殺された。
武徳九年(626年.推古三十四年) 2007-01-09 16:17:53 | Weblog 六月秦王世民は皇太子・齊王を殺し、その一族を抹殺した。 さらに七月高祖に迫り譲位させて即位した。名君とされる太宗である。 幽州では皇太子派の盧江王瑗が王君廓により誅された。 八月突厥は唐の混乱に乗じて京師に来寇し、その簒奪の罪を問うた。 太宗は大量の物資を提供して和を請い退去させた。 十月太宗は子承乾を皇太子とした。 十一月肥大しすぎた皇族を整理するため、功績のない者の爵位を下げた。
武徳八年(625年.推古三十三年) 2007-01-08 09:22:42 | Weblog 突厥の侵攻は続き、秦王世民が防禦にあたった。 八月張瑾・任城郡王は突厥に太谷・靈州で敗北した。 唐書の記事では敗北は武将に勝利は秦王に記載される。 朝廷では皇太子・齊王と秦王派の暗闘が続いていたが、 高祖はそれを解決できず狩猟にのめりこんでいた。
武徳七年(624年.推古三十二年) 2007-01-07 09:29:19 | Weblog 三月趙郡王は輔公祐を降し南部は完全に平定された。 突厥は依然として侵攻を続け、秦王・齊王元吉らが防禦にあたった。 皇室内部では秦王と皇太子・齊王の対立は深刻化していき、高祖はその処理に苦悩していた。
武徳六年(623年.推古三十一年) 2007-01-06 09:02:21 | Weblog 二月皇太子軍により劉黒闥が誅され河北が安定した。 他の首領達も三月には帰順し一応全国統一がなされた。 ところが勢力を温存していた南部勢力は三月張善安、八月輔公祐[杜伏威の党]叛乱を起こした。 これらは深刻な状況ではなく、趙郡王孝恭により平定されていった。 突厥は高開道を先鋒として侵攻を続けていた。
武徳五年(622年.推古三十年) 2007-01-05 18:53:34 | Weblog 劉黒闥は河北を席捲した。三月秦王はめい水にこれを破り、黒闥は突厥に奔った。 しかし六月黒闥は突厥や吐谷渾と呼応して侵攻してきた。 北邊各地は突厥の大軍に攻撃され危機に瀕していった。 中部・南部では各地の首領が帰順し唐の勢力圏は拡大していった。 河北は再び黒闥の勢力下に戻ったため、十一月皇太子建成は大軍を率いてこれを破った。 皇太子に軍を率いさせたのは秦王世民の功績があまりに大きくなることを懼れた高祖の配慮であった。
武徳四年(621年.推古二十九年) 2007-01-04 08:58:18 | Weblog 形勢不利となった王世充は竇建に救援を求めた。 建も又唐の勢力拡大を懼れて来援することになった。 五月虎牢で秦王は建を破り捕らえた。これにより唐の覇権は確立した。 同月王世充もその勢力圈をあげて降り中原は唐の支配下に入った。 七月建は誅せられ、世充も暗殺された。 建の勢力は潰滅したわけではなく、大半は無傷で帰順したが冷遇されたため 同月建配下の劉黒闥は蜂起し、またたくまに旧建領域は黒闥に従った。 十月秦王は天策上将となり強大な軍權を握り、皇帝淵や皇太子建成は警戒感を抱くようになった。 同月趙郡王孝恭は蕭銑を破り荊南地方を平定した。 また淮南浙江地方も杜伏威の帰服や李子通の討滅により平定された。
武徳三年(620年.推古二十八年) 2007-01-03 09:52:22 | Weblog 四月秦王世民は劉武周を破り太原を回復した。 これにより北邊は一応安泰となり東征の余裕が生まれた。 七月秦王は東都王世充を伐ち、皇太子は突厥防禦にあたった。 秦王は世充を圧迫し、世充の勢力は崩れていった。 竇建は幽州羅藝を攻めていたが戦果は上がらなかった。
武徳二年(619年.推古二十七年) 2007-01-02 08:56:54 | Weblog 閏二月竇建は北上してきた宇文士及を破り殺した。 六月王世充は越王を殺し、鄭國皇帝となった。 九月唐は突厥と結んだ劉武周に本拠地太原を奪われた。 十月世民は劉武周討伐に出た。 十二月には永安王孝基が武周に敗北したが、これも將帥は世民である。 敗北は部下に、勝利は自分にと記載するのが世民[太宗]の記録であることに留意すべきだろう。 十一月建は淮安王神通等を捕らえて河北の唐勢力を一掃した。