唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

興元元年 西暦784年 3

2020-03-15 10:01:51 | Weblog
四月,甲寅,姜公輔罷。
 自尊心の強い德宗は一応自省はしたが、事ごとに陸贄・姜公輔に諫言されること
 に憤激し、公輔を罷免した。贄は政策立案者として使い続けるしかなかった。
 德宗は非常に扱いにくい人物であった。

四月、涇原兵馬使田希鑒殺節度使馮河清,自稱留後。
 前節度使姚令言が反した時、留守部隊である留後馮河清は唐朝についた。
 しかし内部に朱泚や令言の党も多く、希鑒は令言の誘いに乗って蜂起し
 泚についた。

四月壬辰,車駕至梁州。
 山西は貧寒の地であったが、節度使嚴震は鋭意聚斂して德宗をもてなした。
 そこで遠隔地の西川成都への退避はとりやめになった。

四月庚戌,渾瑊は武功で朱泚軍と戦い、苦戦したが吐蕃の来援を得て勝利した。

五月丙子,昭義李抱真、成德王武俊が朱滔を經城に大破する。
 朱滔は魏博田緒を攻めたが、魏州・貝州は必死に防衛し、攻めあぐねていた。
 王武俊は滔が余りに巨大化し自領を併呑することを怖れて、昭義李抱眞と結び、
 騎兵中心の武俊・弓兵中心の抱眞の共同軍は、經城に来援した回紇の騎兵を撃破
 し、突出した滔軍は総崩れになった。
 滔はすべての占領地を捨てて幽州に遁走した。

五月壬辰,尚可孤や李晟が京師近郊で朱泚軍を破る。戊戌,京師を回復。
李晟は京師を包囲攻撃し、泚軍は力戦したが総崩れになり、泚は令言等とともに
 京師を棄て涇原に奔った。

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