唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河東の軍乱 鄧景山の殺害

2023-02-07 08:56:27 | Weblog
上元2年5月、戦争には弱かったけれども軍政には長けていた河東節度使王思禮が卒しました。彼は膨大な軍糧を蓄積していましたが、後任の軍人管崇嗣は無能でたちまち散逸させてしまいました。
そこで文官で厳格な尚書右丞鄧景山を任命しました。
景山は赴任すると將士の不正を厳しく摘発しました。

元年建卯月、景山は裨將の不正を糾弾し死刑を宣しました。その弟が刑を代わると申し出ましたが拒否しました。ところが馬一匹を納付すると申し出ると赦しました。
諸将は「我らは馬一匹以下なのか」と怒って乱し、景山を殺しました。
姑息な肅宗皇帝はあわてて「処罰しないから落ち着いてくれ、諸君の希望の帥を選んでくれ」と低姿勢にでました。
諸將は都知兵馬使代州刺史辛雲京を推し、雲京は河東節度使となりました。実の所雲京は乱の黒幕であったかもしれません。

この肅宗の愚策はたちまち河中に波及し都統李國貞も殺されるようなことが起きました。

郭子儀が河中の軍乱を鎮定したことを聞き、雲京はあわてて景山を殺したもの數十人を誅しました。




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