唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元十六~十七年 西暦800~1年

2020-03-28 10:02:19 | Weblog
正月乙巳,夏綏節度使韓全義を淮西征討使とする。
統制がとれず敗北する淮西征討の主帥として、神策軍出身名で、宦官竇文場の強い推薦を得た全義が選ばれた。しかし彼は信望も軍略も無い政治的将軍の上に、宦官達に忖度した優柔不断な人物であった。

五月庚戌,韓全義、呉少誠軍に廣利原で大敗。
無能なうえ、宦官に作戦を左右されていた全義は、勇猛な淮西軍の敵では無かった。

五月辛亥、徐泗濠節度使張建封卒、後任韋夏卿入れず、子の愔が自立。
建封はよく統治し、徐州軍を強化した。病となり後任を求め、文官夏卿が行軍司馬となったが、軍士の対応を誤り軍乱が起き、乱軍は建封の子愔を立てた。
唐朝は文官淮南節度使杜佑に徐泗濠を兼任させたが、結局強力な徐州軍に勝てず、愔を徐州留後として、泗濠二州を切り離すことしかできなかった。

七月、韓全義は淮西軍に五樓でまた大敗し征討軍は潰乱した。

七月庚戌、宰相鄭餘慶が德宗に朋党と猜疑され免ぜられた。

十月、呉少誠は陳州攻撃には失敗し蔡州に還った。
戦闘には次々と勝利したが、申光蔡三州の経済力では継続はできず、少誠は優勢な間に事を収めようとした。宦官達は自分たちの責任問題になることを懼れて事態を収めようとした。

貞元十七年 西暦801年
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正月、甲寅,韓全義至長安。
全義は逃げ帰り、さすがに恥じて病気と称して拝謁しなかった。宦官竇文場達が事態をごまかし処罰されなかった。愚かな德宗は実態を知らず[自尊心から知らなかったことにしたのかも]、全義には淮西が帰服した功績があるとした。唐朝の完敗である。

五月乙酉,邠寧慶節度使楊朝晟が卒し、唐朝は李朝寀を後任としたが、軍士は受けず、自分たちの推挽した高固を就任させた。

六月丁巳,成德節度使王武俊薨。子士眞が継承。
唐朝には成徳に関与する力はないうえに、士眞は徳棣觀察使も歴任した実力者なので自動昇格。

十月庚子,西川韋皋檢校司徒兼中書令,賜爵南康王。
文官出身であったが韋皐は西川節度使として対吐蕃に功績が大きく、雲南蠻とも連携し、半独立の態勢であった。姑息な德宗としては褒賞を与えて慰撫するしかなかった。

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