・會昌3年[843年]従諫が亡くなると、甥の稹が継承を求め自立した、しかし強硬派の宰相李裕は
それを認めず。通常は収賄により軟弱路線をとる宦官勢力も従諫に対する反感からこれを支持して
討伐することになった。
・まず裕は昭義を孤立させるため、成徳や魏博に対してその半独立の特殊性を認め、昭義は唐朝の
領域にあることを認めさせた。そして成徳や魏博にも征討に参加することを求めた。
・武寧李彥佐・河東劉沔・忠武王宰(智興子)・河陽王茂元(鍔子)が招討使となったがいつもの
ように逗留し成果はあがらなかった。
・しかし王智興に追放された旧武寧将の石雄を招討使に起用すると、攻撃は進展し、東部邢洺磁州は
魏博・成徳に降り、昭義は窮地に陥った。
・會昌4年[844年]形成不利とみた昭義兵馬使郭誼は稹を殺して降ったが、裕は赦さず誅した。
・甘露の変より避難していた元宰相達の一族もすべて誅された。
それを認めず。通常は収賄により軟弱路線をとる宦官勢力も従諫に対する反感からこれを支持して
討伐することになった。
・まず裕は昭義を孤立させるため、成徳や魏博に対してその半独立の特殊性を認め、昭義は唐朝の
領域にあることを認めさせた。そして成徳や魏博にも征討に参加することを求めた。
・武寧李彥佐・河東劉沔・忠武王宰(智興子)・河陽王茂元(鍔子)が招討使となったがいつもの
ように逗留し成果はあがらなかった。
・しかし王智興に追放された旧武寧将の石雄を招討使に起用すると、攻撃は進展し、東部邢洺磁州は
魏博・成徳に降り、昭義は窮地に陥った。
・會昌4年[844年]形成不利とみた昭義兵馬使郭誼は稹を殺して降ったが、裕は赦さず誅した。
・甘露の変より避難していた元宰相達の一族もすべて誅された。
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