唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十二年 西暦 817 和暦 弘仁8年

2020-02-13 10:07:07 | Weblog
三月、昭義郗士美、横海程權が成徳軍に敗北した。

四月辛卯,唐鄧節度使李愬及吳元濟軍を嵖岈山で破る。
 もちろんたいした勝利ではない。愬は壊滅した唐鄧軍に、中央軍
 より援軍を受け、將士や家族を撫育し、衆を持って寡を破ること
 で小勝を重ねて自信を回復させていった。また淮西将呉秀琳や
 李祐等を降して登用し、淮西の内情をつぶさに調査した。呉元濟
 は弱体の唐鄧軍や実績の無い愬を軽視し警戒せず、主力軍を北部
 戦線に集中していた。

四月乙未,李光顏が郾城に淮西軍を破った。
 決定的な戦闘ではないが、光顏は本気に戦うようになってきた。
 呉元濟は勇将董重質に主力軍を与えて郾城戦線に唐朝軍と対峙さ
 せた。

五月丙子,河北行營[王承宗征討]を罷め、征討軍を歸鎭させた。
 敗北が続き成果があがらず、費用だけがかさむ成徳・淮西征討に
 対して、宰相李逢吉をはじめとした官僚群は中止を求めた。憲宗
 は成徳をあきらめて淮西に専念することにした。

七月丙辰,宰相裴度が淮西宣慰處置使として出陣した。
 淮西戦線の戦況はやや好転したとは言え、征討使韓弘は消極的で
 あり、李光顔や烏重胤などは地域的には勇戦するが、勇敢な淮西
 軍を圧迫するのがやっとであり、到底平定できる見通しがなかっ
 た。朝廷でも李逢吉や王涯など財政的疲弊から非戦論派が有力と
 なり、憲宗皇帝は憂慮していた。そこで強硬派の筆頭である宰相
 裴度が自ら現地へ赴き、全軍の指揮を執ろうとしたわけである。
 しかし韓弘に遠慮して名目としては宣慰使である。

八月癸亥,烏重胤が淮西軍に賈店で敗北した。

九月丁未,非戦論派宰相李逢吉が罷免された。
 逢吉は淮西征討も止めるように進言し、憲宗の怒りをかった。

十月、宰相裴度は自ら前線へ出て督戦したが、淮西兵に逆襲され
 て敗走した。淮西軍は強く、唐朝の大軍に圧迫されながらも勇
 戦し、しばしば勝利した。戦線は膠着し唐朝の勝利にはほど遠
 かった。

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