唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

振武軍節度使 その2

2012-11-08 20:16:53 | Weblog
・貞元3年[787年]綏銀二州が分離され夏綏銀節度使が設置された。
・回紇や吐蕃や黨項と対する最前線のため神策系の武官の赴任が続いた。
・元和以降辺境の為給糧が大変なため天徳・振武に屯田が行われ一時的には成果があがった。
・開成5年[840年]より崩壊した回紇の一部が南下して振武・天徳に乱入し、節度使劉沔等が防衛にあたった。
・會昌元年[841年]回紇は振武を根拠地として求めたが唐朝はこれを拒否し征討に決し、2年これを破った。
・咸通11年[870年]徐州龐勗の乱の鎮定に功績があった沙陀李國昌(克用の父)が節度使となった。
・咸通13年[872年]國昌は官員を勝手に殺したため大同へ左遷されることになったが従わなかった。
・乾符5年[878年]克用は大同防禦使段文楚を殺し自立し、振武に拠る國昌と連携し叛した。
・廣明元年[880年]幽州節度・吐谷渾などの征討軍は國昌・克用軍を破り、振武は契苾部の支配する所となった。
・その後河東節度使に克用が任ぜられると振武はその勢力下となり麾下が節度使となった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 振武軍節度使 その1 | トップ | 夏綏銀節度使 その1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事