唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

義武軍の乱 張茂昭の易定奉還

2023-02-09 08:18:28 | Weblog
義武軍節度易定觀察使は成德軍節度より別れてた藩鎭で、初代張孝忠より唐朝に友好的でした。幽州と成德の二大藩鎭の間にあり常に圧迫を受ける位置にありますが、強力な軍を維持するには財政的に困難な状況でした。それでも驍將孝忠の時代は圧力をはねつけていましたが、二代茂昭となると唐朝の強力な支援がないと存続も困難でした、茂昭は入朝して優遇を受けると、易定二州を唐朝に奉還し、それによって張氏一族の繁栄を図ろうと考えました。

元和5年10月
成德王承宗征討が戦果無く終わると、茂昭は二州奉還を実行し、自分は河中節度使を与えられ、一族を引き連れて赴任していきました。

河北の情勢を考えると、易定二州が唐の領域になるということは大変なことでした。河東や昭義という唐朝領域から河北内部へ易定二州が延びれば、幽州・成德は分断され、朱滔の乱のような東都への侵攻などは無理になります。

当時、幽州劉總は父を殺して継承したばかり、成德は反乱を有利に終結したばかり、魏博の田季安は病身、横海の程權は唐朝寄りであり、強力な干渉をできる藩鎭はありませんでした。

唐朝は文官左庶子任迪簡を行軍司馬として後任に送り込み、茂昭は全権を委ねて去りました。

不満な將楊伯玉は牙軍を唆して乱し迪簡を捕らえました。驚いた牙軍主流派は伯玉を殺しました。

ところが別將張佐元がまた乱し、迪簡を捕らえました。迪簡は閉口して帰朝を求めましたが、主流派は佐元も殺し留まることを求めました。

茂昭が府庫を総ざらえにしていったため、迪簡には將士を宥めるための資財がありません。
迪簡は正殿に入らず戟門に身を置き、度支からの供給を待ちました。
將士達は感心して迪簡を推戴し、まもなく綾絹十萬匹が到着して地位が安定しました。

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