唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

僕固懷恩の乱 1

2022-11-27 08:47:07 | Weblog
僕固懷恩は鉄勒の僕固部酋長の家系で世襲都督として三代続いてきた。朔方軍に仕え、安史の乱以降郭子儀の下で、また李光弼の下でも活躍し、回紇と唐との橋渡しもしてきました。

唐は鮮卑系の異民族国家なので、漢民族に対する警戒感が強く、安史の乱で郭子儀が大きな功績をあげると敬遠し、総司令官たる副元帥を契丹系の李光弼や、鉄勒の僕固懷恩に交代させていたのです。

郭子儀敬遠策はよく宦官李輔國や魚朝恩の陰謀と言われていますが、肅宗や代宗皇帝の意志を反映しているのは間違いなく、責任転嫁といえます。

寶應元年10月
朔方節度使僕固懷恩は同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營として天下兵馬元帥雍王适の副元帥として、回紇可汗と共に史朝義征討に向かいました。

寶應2年/廣徳元年正月
史朝義は自殺し、安史の乱は終了しました。

懷恩は降伏してきた史朝義將の李懷仙.薛樞.李寶臣.田承嗣らに河北諸州を分与し、節度使としました。唐朝としては財政的に一刻も早く戦乱を終わらせる必要があり、これら諸将を徹底的に討伐する余力がなかったのが最大の理由です。
また懷恩個人にとっては、これらの諸将を子分としておきたいということもあったと思います。來瑱や郭子儀など唐朝は功績のある軍人を使い捨てる傾向をみせていたのです。

寶應二年/廣德元年正月
入朝して優遇されていた山東來瑱が一転して誅殺されました。

寶應二年/廣德元年七月
功績により太保を加えられました。子の僕固瑒兼御史大夫充朔方行營節度となりました。

懷恩の方針にたいして河東辛雲京や、澤潞李抱玉などは不信感を持ち、朝廷に誣告を重ねていました。

懷恩が回紇可汗を送っていった時にも、河東辛雲京は太原に入れなかった。
懷恩は怒り朔方兵數萬と汾州に屯し、子瑒を榆次,將李光逸を祈縣,李懷光を晉州,張維岳を沁州に配置した。

宦官駱奉仙は河東に使いして雲京の誣告を聞き、懷恩を訪ねたが疑惑を抱き京師に奔った。

廣德元年8月
奉仙は懷恩が謀反していると上奏し、懷恩もまた誣告だと上奏して、雲京、奉仙を処罰するよう求めました。

廣德元年9月
代宗皇帝は宰相裴遵慶を派遣して懷恩を慰撫しました。懷恩は今までの功労・忠誠や一族の犠牲を泣訴して冤罪を訴えました。
遵慶は入朝を勧め、懷恩も一旦は了承しましたが、來瑱の例をあげ諸将はそれを止めました。
また一子を入朝させようとしましたが、諸将はそれも止めました。

御史大夫王翊が回紇から帰り、懷恩と回紇の通交について報告しました。

廣德元年10月
吐蕃が大挙来寇し京師を陥し、代宗皇帝は華州に奔りました。
朝廷に不信感を抱く李光弼を含め有力な諸将は観望して来援しません。郭子儀だけが奮闘しました。

廣德2年1月
檢校刑部尚書顏真卿を送り懷恩を宣慰し入朝を促しました。

汾州別駕李抱真は懷恩が反したとして京師に奔り、朔方軍節度使を郭子儀に変えれば軍は従うと上奏しました。

懷恩は子の瑒に太原を攻めさせましたが、雲京に撃退されました。

子儀を關内河東副元帥朔方河中節度等使としました。懷恩麾下はもともと子儀の麾下ですので動揺しました。

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