唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳61 竇軌

2024-07-04 10:01:46 | Weblog

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竇軌,字士則
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父恭は周雍州牧酂國公。叔父は宰相威。

剛胆で威望があった。

大業中
資陽郡東曹掾をやめて帰郷していた。

李淵[高祖]が反し、軌は募兵して長春宮で参加した。

義寧元年九月
渭南を経略し、永豐倉を降して、長安を攻めた。

封贊皇縣公.大丞相諮議參軍となった。

十二月
姜暮とともに散關を出て隴右を安撫したが薛擧に敗れた。

武德元年四月
稽胡賊五萬を黃欽山に破った。男女二萬を得、太子詹事に昇進した。

羌族と薛舉叛將鐘俱仇が漢中に侵攻してきたが、秦州總管として破った。

九月
薛仁杲に敗北した。

十一月
世民[太宗]に従い薛仁杲を淺水原に破った。

復襲酂國公となり益州道行台左僕射として蜀地を経略した。

四年
世民[太宗]に従い王世充を討った。

七月
蜀地平定に戻った。

五年八月
侵攻してきた吐谷渾を岷州に破った。

七年二月
反した始州獠を討った。

五月
羌と吐谷渾が松州に侵攻、竇軌と蔣善合が芳州道に撃破した。

昇格すると嚴酷さが増し、常に臨戦態勢で部下にも厳しく、小過でも鞭打ち、過は殺害し、懼れられており、腹心の甥でさえ、命令にすぐ従わなければ殺した。

これにより蜀地の盗賊は残らず殲滅した。

入朝し、高祖の前でも不遜であったので獄に落とされた。

しかし蜀地を抑える適任であったため、すぐ赦され。益州に復任した。

同僚の行台尚書韋雲起・郭行方とは不仲で対立していた。

武德九年六月
玄武門の変で、皇太子建成が殺されると、軌は詔を独占し、雲起を建成派として殺し、行方は懼れて京師に奔った。

十月
食實封六百戸を与えられた。

貞觀元年正月
行台は廃され、益州大都督となった。

梁州都督? 竇誕の誤り

十二月
入朝し左光禄大夫右衛大將軍

二年
洛州都督。
洛州付近はまだ乱の後が収まらず、綱紀・治安が緩んでいたが、軌は厳しく統制してしたため安定していった。

四年
卒 贈並州大都督


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