・崇文は恩賞として西川節度使に任ぜられたが、生粋の軍人であり文盲である彼は煩瑣な行政に音を上げて
交替を求めた。そこで元和2年[807年]西川の重要性とその復興のため宰相武元衡が現職を兼任して赴任した。
崇文は京師による事もなく邠寧節度使へ転任していった。
・元衡は元和9年[814年]には宰相に戻り、その後は宰相ないしは宰相候補[李夷簡-王播-段文昌-杜元潁]
が赴任し安定した文官統治が続いた。
・ところが元宰相杜元潁は復権を願って皇帝への貢献につとめ、蛮族対策を怠ったため太和3年[829年]
南詔の侵攻を招いた。嶲・卭州が陥落し、成都も外郭が陥ちて多数の住民が拉致された。戦備を怠った元潁
は籠城するのみで、東川郭が交渉し撤兵を求めた。
唐朝は諸道の兵を派遣したが南詔は莫大な戦利品とともに撤退したあとであった。
・太和4年[830年]李徳裕が赴任し各地を歴訪して戦備を整えた。
・太和5年[831年]吐蕃悉怛謀が維州をもって降ってきた。徳裕は防禦のためには維州確保が必要であると
上申したが、平和政策重視の宰相牛僧孺は認めず、維州を吐蕃に返還させ、悉怛謀一族は処刑された。
徳裕は深く僧孺を憎むことになった。
・その後段文昌[再任]-楊嗣復-李固言-崔鄲-李回-杜悰と宰相級が続いた。
大中3年[849年]には吐蕃の弱体化により維州が内附した。
交替を求めた。そこで元和2年[807年]西川の重要性とその復興のため宰相武元衡が現職を兼任して赴任した。
崇文は京師による事もなく邠寧節度使へ転任していった。
・元衡は元和9年[814年]には宰相に戻り、その後は宰相ないしは宰相候補[李夷簡-王播-段文昌-杜元潁]
が赴任し安定した文官統治が続いた。
・ところが元宰相杜元潁は復権を願って皇帝への貢献につとめ、蛮族対策を怠ったため太和3年[829年]
南詔の侵攻を招いた。嶲・卭州が陥落し、成都も外郭が陥ちて多数の住民が拉致された。戦備を怠った元潁
は籠城するのみで、東川郭が交渉し撤兵を求めた。
唐朝は諸道の兵を派遣したが南詔は莫大な戦利品とともに撤退したあとであった。
・太和4年[830年]李徳裕が赴任し各地を歴訪して戦備を整えた。
・太和5年[831年]吐蕃悉怛謀が維州をもって降ってきた。徳裕は防禦のためには維州確保が必要であると
上申したが、平和政策重視の宰相牛僧孺は認めず、維州を吐蕃に返還させ、悉怛謀一族は処刑された。
徳裕は深く僧孺を憎むことになった。
・その後段文昌[再任]-楊嗣復-李固言-崔鄲-李回-杜悰と宰相級が続いた。
大中3年[849年]には吐蕃の弱体化により維州が内附した。
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