本来唐は西都[長安]と東都[洛陽]の二都制であり、皇帝は二都を
往復していた。唐初は西都の長安周辺の食糧生産能力が低く、食いつ
めて淮南から運ばれてくる食糧が来る東都へ出張してくるわけだ。
則天の時にはほとんど東都にいて、西都は荒廃するほどであったが、
安史の乱以降は、河北や淮西が半独立し東都は危険地帯となり行幸さ
れることはなくなった。
東都には高官が東都留守判東都尚書省事都畿防禦使として留守居する
ことになった。そして太子三公や賓客等々に「分司東都」を付帯する
名誉官がおかれ、隠居職となっていった。こちらの場合は「員外」と
違い給与はでていたようであるが官職としての実はない。
往復していた。唐初は西都の長安周辺の食糧生産能力が低く、食いつ
めて淮南から運ばれてくる食糧が来る東都へ出張してくるわけだ。
則天の時にはほとんど東都にいて、西都は荒廃するほどであったが、
安史の乱以降は、河北や淮西が半独立し東都は危険地帯となり行幸さ
れることはなくなった。
東都には高官が東都留守判東都尚書省事都畿防禦使として留守居する
ことになった。そして太子三公や賓客等々に「分司東都」を付帯する
名誉官がおかれ、隠居職となっていった。こちらの場合は「員外」と
違い給与はでていたようであるが官職としての実はない。