唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永平節度使 義成軍節度使 その2

2012-06-02 11:22:16 | Weblog
・建中3年10月[782年]淮西李希烈が反すると、永平は北に魏博田悦・東に淄青李納
の三方向からの攻撃を受けることになった。
・そのため宋亳穎三州を宣武軍として分離し、劉玄佐を帥として主に淄青に当たらせ、
東都に哥舒曜を置いて淮西の北進を防がせた。魏博はうち続く敗戦によって南下する余力はなかった。
・勇将希烈は猛烈に北進し唐軍を各所に破り、朱の乱により支援が得られない勉は、
建中4年[783年]12月汴州を棄てて奔った。
・希烈はその後鄭・滑州をも得て東都に迫ったが、玄佐の抵抗に遭って停滞した。
・興元元年[784年]朱の乱が平定され、体勢を立て直した唐軍は陳州に希烈を破り、
一旦希烈に降った滑州刺史李澄は唐朝に復帰し汴滑節度使となった[汴州は回復されていない]。
・貞元元年[785年]希烈は軍を退き、澄は滑州刺史,鄭滑許節度使となり義成軍節度と號した。
汴州は玄佐に与えられた。
・貞元2年[786年]澄は卒し、子克寧が自立しようとしたが、唐朝は東都留守賈耽を送り込むことに成功した。
・7月許州を分離して陳許節度使[忠武軍]を置いた。