路傍の露草 ~徒然なる儘、読書日記。時々、映画。~

“夏の朝の野に咲く、清廉な縹色の小花”
そう言うに値する小説や映画等の作品評。
及び生活の単なる備忘録。

島村洋子「色ざんげ」(新潮社)

2007年10月22日 | Book[小説]
島村洋子『色ざんげ』
2001年4月20発行
新潮社

≪データベースより≫
「BOOK」より
十五歳で処女を喪い、芸者、女中、娼婦、妾と、男から男へ、店から店へ、転々としつつ、ついにあの事件を起こした伝説の“悪女”、阿部定。転落していく女の軌跡を描く連作短篇集。

「MARC」より
その女の名は、阿部定。彼女との奔放な情交に耽溺し、何がしか人生を狂わされた男たちが、嘘かまことか、定の記憶を語る。女性作家が虚と実の間に描く幻想のエロティシズム。

**********************************************************


希代の悪女、とエログロ好きの世間からは未だ忘れてもらえない女性・“チン切り”の安部定。『色ざんげ』は、昭和という時代で最もセンセーショナルな、現代でいうワイドショーの女王といえる女性を扱ったモデル小説である。

さて、私が初めてその人の存在を知ったのは、今から約7年前。大島渚監督の1976年の伝説の映画をほぼ無修正で再上映した「愛のコリーダ」だった。大学生のときだった。
それから興味を持ち、当時の供述調書をすべて読み、殺害現場の写真を見た。それを見たのが夜中のことだったということもあり、古ぼけたモノクロの写真からは何か怨念が渦巻くようなおぞましさ、残留思念のようなものを感じた。

調書では、定が「好きな男なら、枕に残った体臭も愛しく思う」というようなことを言っているのだが、そこに妙に同感した。その時の私は、遠距離恋愛のさなかであった。数週間に一度しか会えず、彼が帰った後はどうしようもない寂しさに襲われた。恋人が忘れていった上着を見つけ、嬉しくて思わず彼の代わりのように抱きしめた。首元のあたりに皮脂の匂いがついていて、涙ぐみそうなほど愛しかった。今でも鮮明に思い出せる、若い恋が一番輝いていた頃だった。

だから、安部定の調書のその発言に、自分の少し前の実体験を重ね合わせ、「あぁ、この人は私と一緒。世の女性と同じように、男を切ないほど好いていた。ただ、行き過ぎただけだ。」と思ったのだった。

最近では、グリム童話をレディースコミック化してそれなりにヒットさせているぶんか社の昨年11月の「別冊 まんがグリム童話」を読んだ中に、安部定の話もあり、なかなか面白かった(原作/阿曾恵海、作画/森園みるく)。この号では、「13の昭和残酷事件史」として、アナタハンの女王など、昭和の悪女たちが扱われているのだが、この話が巻頭カラーということは、安部定が未だに訴求力のある女性だということだ。森園みるくによる情夫・吉蔵は、非常に色男に描かれていて、「これならどんな女も惚れるよなぁ」と思った(笑)。


さて、そのように、私にとって多少は思い入れのある女性「定」を題材にした島村洋子の『色ざんげ』。

この本が6年前、『愛のコリーダ2000』公開のほんの少し後に出ていたことはまったく知らず、表紙画が私の好きな宇野亜喜良氏だったので手に取り、『色ざんげ』というタイトルを見て、「宇野千代の『色ざんげ』か、戦後の『昭和好色一代女 お定色ざんげ』に関係ある本か?と、中をめくったら、「定」の字が並んでいたので購入。

浅くもないが深くもない文章で、さらりと小一時間で読めてしまった。
そして、内容も今いち読みごたえがなく、正直肩すかしをくらった気分である。

この小説は、安部定というヒロインについての周囲の人たちの回想を、一編ずつ織り成して全体を構成している。人によって、「美人でもないのだが」と言ったり、「キレイな人だった」と言ったり、彼女への印象が違うのが面白い。しかし、最後の章は、安部定本人の叙述。当人登場が必要なのか、少々疑問である。

他人による様々な安部定像を提示しておいて、最後に本人が出てきて語る。しかし本人が語る内容には、特にオリジナリティが感じられず、すでに世間に出回っている阿部定の生い立ちが改めて綴られているだけ。作者による新しい肉付けがあるわけではない。その上、ラストには、「ねぇ、あなた、シマムラさんでしたかね。」と著者のことを指しているらしき定の言葉がある。え?これって、著者の架空インタビューのドキュメンタリー仕立てだったの?と、最後の最後でわかるわけだが、そこに特別な効果があるわけでない。中途半端に入れるなら、無いほうがいいのではと思う。


この『色ざんげ』は、小説新潮などに97年から2000年の間に掲載された各短編を、発表年月順ではなく、入れ替えて配置して、書き下ろしを加えて2001年に発表されたもの。最後の章の題は「二〇〇一年・春 安部 定」となっている。それまで、一番古くて1920年からの定の周りの男の告白が続き、最後に、最新の定による回想を入れて完結、という造りなのだろうが、そういう構成自体も、誰かのインタビューに答えるような話し言葉だったり、誰に聞かれるともなくただ自分の中で思い起こしているようだったり、最後には、著者が定のところへ訪問しているようだったり、と、各章の語り手の視点が一貫していないのが気になる。

最後に晩年の定自身の語りを入れるなら、創作でもいいから現在の環境について書けばいいのに、そういったものは何もなく、ボケ老人気味。それまでの男たちのことも、「たいして記憶がないんですよ」と忘れられている。悟りの境地というわけでなく、本当に忘却してしまっているようなのだ。ここまで男たちに語らせておいて、何だろう、このオチは。


著者の構想不足なのか、単なる私の読解不足なのか、定が思い入れのあるヒロインだけに、消化不良を起こす作品だった。

史実を元にしたフィクションというのは、難しい。だが、同じように第三者の視点からヒロインを綴る小説としては、有吉佐和子の「和宮様御留」や林真理子の「ミカドの淑女」は文句なく面白かった。
いわゆる悪女モノで、周囲の人々のインタビューだけで構成される作品といえば有吉佐和子の「悪女について」のほうが圧倒的に面白く読み応えがある。

「名前負け」ではないが、宇野亜喜良氏のカバーイラストに「挿絵負け」している。この挿絵が醸すオーラが凄く魅力的で、書店に平積みしてあれば客の視線を引き寄せるぐらいのものであるだけに、残念である。

島村氏にとって、安部定という題材が大きすぎたのかもしれない。



≪おまけ≫
↓安部定の“その後”が写真付きで紹介してある。浅香光代の回想も興味深い。
 というか、こちらの記事のほうが面白い(笑)。
asahi.com:安部定と吉蔵―東京・尾久/浅草

「取材に4年半を費やして定の生涯をたどったルポルタージュの大著「阿部定正伝」(情報センター出版局)を書いたフリーライターの堀ノ内雅一さんは、彼女のあまりに一途な人柄を見過ごせないパトロンに恵まれて、晩年は手厚く庇護(ひご)されたはずだと夢想する。」
という一文があるが、そうそう、そういう創造を『色ざんげ』の最終章でも入れて欲しかった。




最新の画像もっと見る