1997年
オープン戦ではニコルズと対照的に評価はうなぎ上り。工藤、武田に次ぎ第3の先発投手として開幕からローテーション入りは確実と見られる。MAX148㌔をマークし球威もまずまずある上に、腕に遅れて体に巻きつくような感じで出てくるために、バッターにとっては相当打ちにくいタイプ。また制球力もよく、四球から崩れるタイプではないのも、ベンチとしては安心して送りだせるところだろう。2ケタはいきそう。
1997年
オープン戦ではニコルズと対照的に評価はうなぎ上り。工藤、武田に次ぎ第3の先発投手として開幕からローテーション入りは確実と見られる。MAX148㌔をマークし球威もまずまずある上に、腕に遅れて体に巻きつくような感じで出てくるために、バッターにとっては相当打ちにくいタイプ。また制球力もよく、四球から崩れるタイプではないのも、ベンチとしては安心して送りだせるところだろう。2ケタはいきそう。
1997年
台湾では巨人のルイスと同じ兄弟で抑えのエースとして活躍。150㌔の真っすぐを武器に、パワーで抑え込むピッチングは、はまれば日本でも脅威となりそうだ。しかし、その一方で制球がもう一つなため、じっくりと見られたときに、どこまで持ちこたえられるか、性格的にも荒く、判定を巡って審判との一もんちゃくも心配なところ。東尾監督がうまく乗りこなせれば、西武投手陣には貴重な抑えのエースとなる可能性は十分だ。
1997年
左の本格派の触れ込みだったが、来日してみるとストレートよりも変化球に味が。ただ、本人は真っすぐのこだわりを捨てきれず、オープン戦ではそれにこだわり過ぎて自滅するケースも。下半身の粘りがある投げ方で、長身から投げ込む変化球は、見た目以上に打者にはクセものではある。いずれにしても、アメリカ時代のこだわりを捨て、日本流のかわすピッチングに本人が適応できるかがポイント。うまくとけこめば10勝近くいける可能性もありそうだ。
1997年
巨人の新ストッパー、デビット投手と横浜打線が初対戦した。6月10日の横浜スタジアムでのこと。資料なしでの対戦に大矢明彦監督は「抑えなら、そういう展開にもっていかなければ出てこれないんでしょ?」避けるつもりでしたが、9回に登板させてしまいました。結果はローズ、駒田両選手が対戦し、1安打に抑えられ初セーブを挙げさせてしまった。そして、デビット評は「思ったより変化球が多いね。まだ1回しか対戦してないから分からないけれど」と大矢監督。山口スコアラーによると「直球とシンカーだけ。コントロールはいいけど…」と、それほどコワイ存在とはいえそうもない様子。もっとも唯一安打を打った鈴木尚典外野手は「とにかく思い切り行っただけです。でも、初めの真っすぐを見て、背の高さの割に、怖いとは思いませんでしたから」と、次回対戦に意欲を見せていた。
1994年
初の先発登板となったジョーンズが、シンカー主体のかわすピッチングで好調の近鉄打線をほんろうし、4回を投げて4安打1失点とまずまずの投球内容を見せた。「まだ肩の筋肉が出来上がっていないので、最後は疲れてしまったよ」と余裕の笑みも、「(巨人の)投手陣のレベルが高くても、ローテーション入りできる自信はある。そのために来日したのだからね」と、気持ちも強い。
1992年
先頭の正田を外角の速球で見逃しの三振に仕留めた瞬間、マウンド上のぺレスは跳びはねるようなガッツポーズを見せた。巨人の新外国人選手で、来日初登板の左腕ぺレスは、この乗りのよさで、5イニングを3安打、1三振、1四球の無失点に抑えた。「球の速さはまだ9割ぐらい」というが、三回までは吉原が変化球のサインを出しても首を振り、速球主体の強気の投球で押した。広島の各打者は、腕が遅れて出てくるうえ、投げ終わった時に三塁側に流れるフォームにタイミングが合わず、ほとんど振り遅れた。四回からは、カーブ、スライダー、フォークといった変化球も制球よく織り交ぜた。小早川が外角のカーブに泳がされて三塁ゴロだったように、特に左打者には有効な変化球だった。もう一つ目立ったのは軽快な動き。マウンドに向かう時も、ベンチに戻る時も全力疾走に加え、投げた後の守備の態勢に入る速さ、一球一球のテンポの良さなど、見ているファンは気持ちよく、野手も守りやすい。四回、一塁走者野村を刺したけん制も素早かった。八日に投げたもう一人の新外国人、ケアリーも好投を見せ、ゴンザレスとともに三人の起用法に藤田監督は頭を悩ませるが、「一人落とすという考え方はしない。三人をうまく使えばいい」「守り勝つ野球」のため、ブラッドリー、呂の強打者二人の代わりに取った二人の左腕。まずは目算通りの結果が出た。
2001年
新外国人投手のデルトロがフリー打撃に登板した。直球のほかスライダー、チェンジアップ、カーブ、シンカーと持っている変化球すべてを試しながらの90球。「思うようにコントロール出来たし感じは良かった」そうで、打席に入った中島、小関らは手元で様々に変化するボールを打ちにくそうにしていた。
1994年
ともに1メートル92と長身の新外国人、アボット投手とスチーブンス外野手の評価が高まっている。左腕のアボットは、角度のある直球に加え、シュートしたり、落ちたりするチェンジアップも投げた。村田投手コーチは「出どころが分かりづらい。制球難と聞いたが球がばらつかない」と評価を改めていた。
チェンジアップを決め球にするアボットは左の先発要員だ。やや安定性を欠くが、日本人投手陣がピリッとしないだけに出番は増えそう。
先発二度目のアボットは、スピード不足のうえ球が高めに浮き、被安打6、4失点。福王に2ラン、グラッデン、原に二塁打を浴び、予定の五回を待たずに降板。しかし本人は「もう少し変化球を使った方が良かったかも知れない。これからだんだん良くなるよ」と、気にした様子はない。鈴木監督のほうが「一番期待しとったのに」と、手ごたえのない内容にイライラ。
1999年
広島は15日、モントリオール・エクスポズ傘下の3Aオタワのリック・デハート投手(31)(左投げ左打ち)を獲得、16日にも正式契約することを明らかにした。年棒15万ドル(約1800万円)、背番号は「12」の予定。デハート投手は1メートル83、82キロ。140キロ台の直球、カーブ、フォークが武器で、メジャー経験もある。オタワでは今季、15試合に登板し1勝4敗、防御率4.74。
1997年
第4の外国人選手として獲得したが、予想以上にお買い得の雰囲気だ。長身から角度のあるボールを低めにコントロールするタイプで、見た目以上にバッターは打ちにくい投手。しかし、中日には巨人との争奪戦の末に獲得した宣がいるため、開幕一軍は難しそうだ。出番があるとすれば今中が出遅れており、先発投手のやりくりができなくなってきたときか、宣が昨年のように不振に陥ったときとなる。
1997年
8年間でメジャー通算39勝。オリオールズ時代の89年には自己最多の14勝を挙げた。翌90年には開幕投手を務めている。特に変化球は本人曰く「ナックル以外は何でも投げる」という変幻自在な投球が持ち味である。小林投手コーチも「面白い存在」とローテーション投手として期待をかける右腕。ミートのうまい日本の打者をかわすことさえ覚えれば、二ケタ勝利の可能性あり。
1977年
このほどフィアンセのスー・ホールストロームさんと連れだって来日した鯨の救世主ロバート・レイノルズ投手が26日川崎球場でナインと合流、初練習を行った。上半身の発達した白鯨を思わせる183センチ、93キロ、一見プロレスラーのような巨体にアフロヘアがよく似合う憎いヤツといった感じ。レイノルズは目下、フィアンセのホールストロームさんと同せい中。今年のシーズンオフには、アメリカに帰って結婚するのだそうだ。「彼女はうまく適応したみたいだけど、オレはまだ朝の5時に目が覚めたりするんだ。できることなら彼女と変わりたいよ」時差ボケがまだ完全に解消されないらしく、眠い目をこすりながら午後2時前、シピンの車に同乗して球場入りしたレイノルズ。さっそく別当監督とご対面だ。「首を長くして待っていたよ」と監督が手を差し出すと、グラブのような大きな手で「よろしく。頑張ります」とガッチリ握手。待ちこがれていた恋人だけに、監督の表情は崩れっ放しだ。「全試合投げてもらうぞ。ハードワークだ」とハッパをかけられると、口を真一文字に結んで愛きょうのある顔を作り、大きくうなずいてみせた。ユニホームに着替えるとシピンとともにグラウンド入り。すでに練習を始めていたナインが右翼に集合し、牛込マネジャーがレイノルズを紹介する。「今度入団したロバート・アレン・レイノルズ投手です。呼び名はボブ、あるいはタマの速いことからブリット(弾丸)と呼んでください」無言のまま笑顔を作り大きくうなずいてあいさつするレイノルズを、全員が拍手で迎えた。晴れて鯨の一員となったわけだ。さあ、初練習だ。いよいよそのベールを脱ぐ。軽いキャッチボールを6球。ノーワインドアップでテークバックをほとんどしないスナップスローに近い、なんとなく心細くなるような投球フォームだが「アメリカでもコーチからテークバックを大きくしろといわれていたが、自分としては長い間このフォームでやってきたし、変えるつもりはない」とレイノルズ。別当監督も「腕力で投げるタイプ。上半身さえしっかりしていれば問題はない。タマはよく伸びているし、速くて重い球質だ」とニンマリ。レイノルズのデビューは5月3日の巨人戦が予定されているが、ライト、王の話になると顔を真っ赤にしてまくし立てた。「オレのブリットはアーロンでさえ打てなかったんだ。だから王にも打たせないよ。ライトにももちろん、負けないサ。負け犬はオレは大きらいだ」体もデカイが、いうこともデカイ。こりゃ、やっぱり、大物ダア!果たしてー。なお、球団では呼び名をブリットにすることを決めた。
「ブレットです。よろしくネ」投の助っ人、ロバート・アレン・レイノルズ投手の登録名が相性のブレットに決った。愛称を登録名にしたのは南海のブレイザー(燃える男)に次いで2人目で、本人はブレットに大喜び。ブレットの意味は弾丸。速球が弾丸のように速いところからつけられた愛称だが、投球間隔の短さもまさにブレット。別当監督は「ブレットで巨人をギューッといわせてみせるぜ」と、大変な意気込みぶり。もちろん、ブレットの意気込みようも別当監督以上で「3イニングぐらいなら毎試合登板してもOKヨ」さてされ、ブレットがブレット投法のブレットで巨人を打ち殺すことができるか。
ブレットが来日して約1カ月になるが、「おはようございます」「こんにちは」と日本語も大分達者になってきた。そこで、次に覚えた日本語がなんと「気狂い」実はこれ、ライト(巨人)の大暴れぶりを書いたスポーツ紙を牛込通訳に読んでもらい、その見出しを覚えたもの。「ライト、気狂い。奴はアメリカでは有名な気狂いだったんだが、相変わらずだな。オレ?オレは違うサ、時々気狂いになるけど…」といっていたブレットだが、ライトも真っ青の気狂いぶりを見せた。5月28日の広島戦で先発して2回でKOされると、ロッカールームに引き揚げるなり、バットをロッカーに叩きつけて2本折り、灰皿まで蹴飛ばす暴れぶり。これには球場職員のオバさんたちも「怖い、怖い…」
1977年
弾丸投手で話題を集めたブレット(本名・ロバート・アレン・レイノルズ)投手(30)が6月7日で退団した。ゲームでは自慢の弾丸を見ることはできなかったが、契約して44日目の退団とあって、逃げ足の方は見事なブレット(弾丸)ぶりだった。「オレの速球はあのハンク・アーロンでさえ流し打ちしかできなかったんだ」と豪語していたブレット。別当監督も「タマの速い投手らしい。これで巨人をギューッといわせてやるぜ」と期待していた。ところが、5月11日の巨人戦で来日初先発したが、ご自慢?のブレットは見られず、スライダーとチェンジアップを多投する技巧派に変身?「あれじゃ、音は大きくても、タマの飛ばない明治の大砲」なんて悪評されたものだ。その後、なかなか出番が回ってこず、ブレットはいらいらしていた。というのは、フィアンセのスー・ホールストロームさんがホームシックにかかったからだ。「そうなのヨ。早くいいピッチングをして、喜ばせてやらないと‥。逃げられるかも知れない」というわけだ。そして、5月26日の対阪神戦で待ちに待ったチャンスが到来。「今度こそ!」と意気込んだものの、1回1/3で2点を失い連続KO。さらに5月28日の広島戦(広島球場)で間柴をリリーフして2イニングで3点を失い、さすがの強気男も、これで自信ソウ失。「もうダメだよ。フィアンセもアメリカに帰ろうというし、オレも早く帰りたいんだ。そうしないとフィアンセに逃げられちゃうもん」と、退団をほのめかせていた。自信をなくしたのはブレットだけではない。首脳陣も今のままでは登板させる自信がないというわけで、その後、投げ込みを指示した。スピードがないのは練習不足によるもの。これでスピードアップを図ろうというのが首脳陣の狙いだったわけだ。懸命に投げ込みをやったブレットだが、6月1日、右ヒジを痛めて「これ以上、大洋にいても何の働きもできない。申し訳ないけど、契約を解消して欲しい」と正式に球団に申し入れた。もっともこのヒジ痛、フィアンセの「日本でダメなら早くアメリカに帰ろうよ」という言葉と、「オレは肥るタイプだから、3日に1度は登板したい」といっていたが、思うように登板できなかったことが原因にも思える。「ヒジが完治すれば十分戦力になる。ファームで調整しろ」という首脳陣の声にも、元大リーガーのプライドが許すわけではない。球団も6月5日、「退団OK」を本人に通告。翌日、横田球団社長が、確認のため、麻布のブレットのマンションを訪れた時には、すでに引き払っており、もぬけのカラ。あまりのブレット投球ならぬブレット脱走ぶりに、横田社長も感心することしきりだったとか。