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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

成田文男

2016-12-19 21:51:08 | 日記
1966年

初ものずくめでプロ入り初白星を飾った成田は、報道陣に囲まれてしりごみしていた。「前半はほとんど外角へ球がはいらず、醍醐さんにしかられしかられ投げたんです。だから近鉄打線は調子が悪いと思います。雨で試合が中断した四回からやっと落ちつきました」アゴをなでたり帽子のひさしに手をやったり、初めてのインタビューにテレくさそうだった。しかし歯切れのいい東京弁はよどみなくつづいた。「スタミナを考えているゆとりはなかった。ただ一回一回、第一打者を慎重にとることだけを考えていました」という。三十九年修徳高が東京都代表として甲子園へ出場したときのエース。昨年はイースタン・リーグで10勝6敗。最多勝投手になっている。しかし公式戦は、ただの二イニング、マウンドへあがっただけ。先発も完投もこの夜がもちろん初めて。ハワイ・キャンプでもパッとせず、帰国後、川口球場での練習で植村コーチからドロップを習い、一軍へ昇格した。今シーズンは、四月十二日の西鉄戦(小倉)から中継ぎとしてスタート、この夜が五度目の登板だ。雨で流れた後楽園(四月三十日)に中西コーチから「投げるかもしれないぞ」と先発をおわされたそうだ。だからこの日、試合開始三十分前に先発をいい渡されても「それほどドキッとしなかった」という。この夜の成田のピッチングは小山コーチに「直球、カーブとも申しぶんなかった。ワシに教えてほしいわ」と冗談までいわすほどのできで、満点をつけられた。「ブレーキのいいカーブのスピードが落ちて、直球とスピードがかわっていたのがよかった。外角で縦に変化するカーブをうまく生かしていた」とネット裏スタンドでみていた植村コーチ。内野席では父親三郎さん(50)が五時間前からそわそわしていた。五人兄弟の四男、都内足立区に住むきっすいの下町っ子。自宅へ帰ったあと、家族とビールの乾杯をした。「実はね、ふしぎなことがあったんです。球場へ出かける前に土居さん(スカウト)から電話がかかってきてお前が投げて勝った夢をみたというんです」乾杯のグラスを持つ手のひらは、東京でも一、二を争うほどの大きさだ。1㍍77、73㌔、右投右打。

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