1965年
投手にとってプロ入り初勝利ほどうれしいものはない。しかも、完封。ふだんは冷静で感情をめったにあらわさない迫田が珍しく興奮した。東映打線を相手に被安打は散発の6本、招いたピンチといえば八回無死一、二塁と攻められた一度だけ。東映打線を完全に押えた。九回、東映最後の打者、山崎正を二ゴロにうちとった迫田は、本堂監督以下ナインの握手攻めに迎えられてベンチへ戻ってきたが、ただ「ありがとうございます」をくり返すばかり。右手に持ったぼうしは、にぎりしめてくしゃくしゃ。イガグリ頭であどけなさを残す顔は、自分でやってのけた快挙にかえって青ざめていた。「うれしいですネ。とにかく、うれしいですヨ」喜びを率直にいったが、そのあとのことばが出るまでに、しばらく時間がかかった。口数が少なく、口ベタという迫田だけに、つぎのことばを考えるのに苦労したのだろう。試合を思い返すように「きょうは自分の思うようなピッチングができました。カーブ、シュートがコーナーによく散ったのでらくでした。八回はちょっと苦しかったけど、押える自信はありました」とえみを浮かべながらポツリポツリと話した。鹿児島県照国高から一昨年暮れ東京にはいった迫田は、昨年のハワイキャンプに参加できなかった。「からだの線が細いし、まず体力をつけることが第一」というのが首脳陣の一致した意見だった。「残念でした。あのぐらい残念なことばはなかった」当時を述懐する迫田だが、昨年一年間ファームで泥まみれの日々を送った。その結果、イースタンでは12勝4敗で最多勝利投手となった。この記録は迫田に自信を持たせたことはいうまでもない。からだのほうも1㍍75、70㌔となんのそん色もなくなった。今シーズンは一軍入り。あこがれのハワイの土もふんできた。真田コーチもハワイキャンプから「小山、坂井につぐくのは迫田だ」とはやくからタイコ判を押していた。
鹿児島市内の高台に照国神社があり、ちょうどその向かい側に西郷さんの象が立っている。迫田は小さいときから両親に連れられてよくそこへ行った。三つ子の魂百まで…いまになっても迫田は照国の神様を忘れない。プロ二年生、いい投球をしながらまだ1勝もあげていない彼は、二十四日の夜市川の下宿先で「どうかボクに1勝を…」と祈ったという。迫田の祈りが神に通じるときがきた。目を見張るような投球、好調な東映打線を見事完封にほふったのだ。「八回左を並べられたときにはやはり堅くなりほんとうに苦しかった。でも勝つということは簡単にはいかんもんだ。きょうはねらったところへ球が全部いったのがよかったんだろう」迫田はときおりしり上がりの言葉使いをする。鹿児島弁がいまでもときに顔を出すのだ。「醍醐さんのおかげ。あの人のいうとおりに投げたんだから…」というと小山にそばから「東映なんて軽いだろう」といわれて迫田は顔が真っ赤になった。純情な二十才の青年丸出しだった。彼はオープン戦で東映に完投勝ちしているが、それが大きな自信になっていると、こういった。「ラーカーにしても外角低目が弱いということがわかったし、コーナーを大事につけばそれほど打たれないということを知った」昨年の迫田の唯一の負けは東映からだったが、これで借りは返した勘定になる。「六月にはじめて両親が東京に野球を見にきてくれるんだ。だからそれまでには何としても勝ちたかったが、早く勝ててよかった」ことしから球団の負担で合宿からこぎれいな下宿に移った。力さえつけばいい暮らしができるというプロの生活を迫田に教えていた「6安打ですか。ただ逃げるだけではなく、時には大胆にいくことも必要だと知った」入団したころはニキビが花盛りだった彼も、いまはツルツルのいい男になったが、投球術も一段と進歩してきた。「わが胸の燃える。おもいに…」というような明治時代の九州の偉い人の詩歌が好きな迫田。西郷さんと同じように彼の投球も決して逃げなかった。
投手にとってプロ入り初勝利ほどうれしいものはない。しかも、完封。ふだんは冷静で感情をめったにあらわさない迫田が珍しく興奮した。東映打線を相手に被安打は散発の6本、招いたピンチといえば八回無死一、二塁と攻められた一度だけ。東映打線を完全に押えた。九回、東映最後の打者、山崎正を二ゴロにうちとった迫田は、本堂監督以下ナインの握手攻めに迎えられてベンチへ戻ってきたが、ただ「ありがとうございます」をくり返すばかり。右手に持ったぼうしは、にぎりしめてくしゃくしゃ。イガグリ頭であどけなさを残す顔は、自分でやってのけた快挙にかえって青ざめていた。「うれしいですネ。とにかく、うれしいですヨ」喜びを率直にいったが、そのあとのことばが出るまでに、しばらく時間がかかった。口数が少なく、口ベタという迫田だけに、つぎのことばを考えるのに苦労したのだろう。試合を思い返すように「きょうは自分の思うようなピッチングができました。カーブ、シュートがコーナーによく散ったのでらくでした。八回はちょっと苦しかったけど、押える自信はありました」とえみを浮かべながらポツリポツリと話した。鹿児島県照国高から一昨年暮れ東京にはいった迫田は、昨年のハワイキャンプに参加できなかった。「からだの線が細いし、まず体力をつけることが第一」というのが首脳陣の一致した意見だった。「残念でした。あのぐらい残念なことばはなかった」当時を述懐する迫田だが、昨年一年間ファームで泥まみれの日々を送った。その結果、イースタンでは12勝4敗で最多勝利投手となった。この記録は迫田に自信を持たせたことはいうまでもない。からだのほうも1㍍75、70㌔となんのそん色もなくなった。今シーズンは一軍入り。あこがれのハワイの土もふんできた。真田コーチもハワイキャンプから「小山、坂井につぐくのは迫田だ」とはやくからタイコ判を押していた。
鹿児島市内の高台に照国神社があり、ちょうどその向かい側に西郷さんの象が立っている。迫田は小さいときから両親に連れられてよくそこへ行った。三つ子の魂百まで…いまになっても迫田は照国の神様を忘れない。プロ二年生、いい投球をしながらまだ1勝もあげていない彼は、二十四日の夜市川の下宿先で「どうかボクに1勝を…」と祈ったという。迫田の祈りが神に通じるときがきた。目を見張るような投球、好調な東映打線を見事完封にほふったのだ。「八回左を並べられたときにはやはり堅くなりほんとうに苦しかった。でも勝つということは簡単にはいかんもんだ。きょうはねらったところへ球が全部いったのがよかったんだろう」迫田はときおりしり上がりの言葉使いをする。鹿児島弁がいまでもときに顔を出すのだ。「醍醐さんのおかげ。あの人のいうとおりに投げたんだから…」というと小山にそばから「東映なんて軽いだろう」といわれて迫田は顔が真っ赤になった。純情な二十才の青年丸出しだった。彼はオープン戦で東映に完投勝ちしているが、それが大きな自信になっていると、こういった。「ラーカーにしても外角低目が弱いということがわかったし、コーナーを大事につけばそれほど打たれないということを知った」昨年の迫田の唯一の負けは東映からだったが、これで借りは返した勘定になる。「六月にはじめて両親が東京に野球を見にきてくれるんだ。だからそれまでには何としても勝ちたかったが、早く勝ててよかった」ことしから球団の負担で合宿からこぎれいな下宿に移った。力さえつけばいい暮らしができるというプロの生活を迫田に教えていた「6安打ですか。ただ逃げるだけではなく、時には大胆にいくことも必要だと知った」入団したころはニキビが花盛りだった彼も、いまはツルツルのいい男になったが、投球術も一段と進歩してきた。「わが胸の燃える。おもいに…」というような明治時代の九州の偉い人の詩歌が好きな迫田。西郷さんと同じように彼の投球も決して逃げなかった。
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