プロ野球 OB投手資料ブログ

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富田清吾

2014-11-30 22:11:40 | 日記
1968年

昨年、十一月十二日に行われたドラフト会議、巨人が指名した十人の選手の十番目に「富田清吾、二十二歳、中大」という名があげられた。報道関係者にとって、首をかしげたくなるような名前であった。中大野球部の部員名簿の中に、富田清吾はなかった。それではと彼の出身校である中大付属高に問いあわせてみた。だが、野球部OB名簿の中にやはり富田清吾はいなかったのである。まさしく彼は覆面選手であった。実はドラフト会議の四日前、十一月八日のことである。巨人の多摩川球場に、一人の青年がやってきた。中尾二軍監督はじめ、北川、木戸ピッチングコーチらはあらかじめこの日、青年がやってくることを知らされていた。巨人二軍コーチングスタッフの熱っぽい視線の中で、青年は落ち着いた足どりでマウンドに歩いた。そして投球を開始した。中尾監督が「フェーッ」と目を見はったほどの太い丸太のような左腕から、彼は実に早いタマを投げた。いけるーコーチたちは目でうなずき合った。テストは即座に合格だった。「十二日のドラフトでは必ず指名されるはずだから、それまではあまり他人に口外しないように」と中尾監督に念を押されて青年は家路についたが、彼はまだ半信半疑だった。「指名されたとしても、巨人にはいれるとは、とても考えられなかったですよ」

ドラフト会議で自分の名が巨人指名選手の中にあったとき、その左腕投手、富田清吾は、複雑な気持ちにとらわれた。彼は両親のいる福島県郡山市から離れて、東京・杉並区の姉夫婦と同居していた。母フ志子さん(50)や二人の兄、姉はすべて富田の考えにまかせるといってきていたが、父兼康氏(62)は野球選手になる事は昔から反対だった。富田がエリートコースから脱落して、草野球からプロ入り、という大きな回り道をしなければならなかった原因は、この父の野球反対にあった。中学から中大付属高校に進んだとき、富田は当時の長谷川監督に入部をすすめられた。少年時代から巨人の選手になることが、富田のささえだった。しかし、父は入部に反対した。「これから勉強しなければならないのに、もし満足に勉強もしないうちにからだでもこわしたらどうするんだ」と、父はいった。富田には、父の気持ちが理解できた。父は自分を弁護士にしたいのだ。富田は入部を断念した。しかし、やはり野球から離れられなかった。同級生たちが夕暮れのグラウンドで猛ノックに悲鳴をあげていることろ、富田は軟式の草野球のエースとして投げまくっていた。彼は軟式野球の、いつか名物男となっていた。「東京中、知らないグラウンドはないですよ」というくらい、あちこちにかり出された。やがて彼は遅々の最初考えていた弁護士をめざして中大法学部法律学科に入学した。このとき、やっと父から「大学でなら、もう好きなことをやれ」と野球許可が出た。しかし、富田は、オレは草野球の方がいい、と思った。そして、やがて彼は藤原審爾氏と会い、今日の運命を切り開くのである。「藤原」に加わった富田は翌年、初めて準硬式の試合に登板、オフシーズンには硬球も握った。吉田氏の「プロ野球選手に育てるため」の、いわば英才教育であった。「生まれながらの強肩で、投げるのが好きでたまらない男だった」と、吉田氏は述懐する。

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