プロ野球 OB投手資料ブログ

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尾崎行雄

2016-09-19 18:17:39 | 日記
1965年

ことしの一月十五日、尾崎は東京・青山一丁目のアパートで母親シゲ子さんから「お前もいよいよこれで成人になった。いままでと違って自分のことには責任を持たなくちゃ。わたしは大阪(泉大津)に帰るからね。あとはお前の心がけひとつだよ」といわれた。一昨年、右手指のマメなどで不調(7勝)に悩んだとき、心配したシゲ子さんは上京、アパートを借りて尾崎と生活とともにしていた。母親の愛情に守られたせいもあって尾崎は昨年20勝をマークした。シゲ子さんも安心し、同時に成人の日をきっかけに、むすこを自分から突きはなすことにきめた。チビの尾崎はもちろん母親のことばにだまってうなずいた。東映多摩川寮に引っ越し「ことしも必ず20勝はしてみせる」と心の中で誓ったそうだ。この日の尾崎はソワソワしていた。「ゲーム開始まであと一時間もあるのか、長いな」球場内の医務室でウロウロ。ちょうど部屋にあった鳥カゴから青いインコを手にのせ、しばらく小鳥と遊んだ。それから二時間半後、尾崎はベンチからおどりあがった。決勝のホームをふんだ張本に抱きつき、サヨナラ二塁打の萩原を「どこにいる?」とさがしまわった。この一瞬だけはまるでこどものようなはしゃぎぶりだった。ところがしばらくたつうちに尾崎の口調は急に淡々と静かなものにかわった。「三十一日に首スジを痛めて五日ぶりの登板だから調子が自分でもよくわからなかった。前半カーブが思うように曲がらず苦しかった。シュートでなんとか押えたが・・・。いつものピッチングにもどったのは九回をすぎたころだ。これで20勝?全然実感はわかないね。米田さんとの投げ合いでも負けるという気はしなかった」実感がわかないというのは、20勝は絶対できるという確信を持っていたからだろう。試合前と違った静かな話しぶりは「エースになった男が20勝ぐらいでさわいだら笑われる」そんな気持ちで自分を押えたらしい。最近ナインは「チビは夜あまり出かけないし、ずいぶんおとなになった」とびっくりしている。去年まで右手のマメで泣いた尾崎だが「こどものときによく皮膚がやられるでしょう。あのマメもまだ若かったからできたのだろう」マメで苦しんだときを若いころのできごとだと若いことをしきりに強調する尾崎。「エースの貫録が出てきた。人間的に成長したピッチング」という多田コーチの話をきいたら、母親シゲ子さんも20勝以上に喜ぶことだろう。

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