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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

門野利治

2018-03-17 08:24:48 | 日記
1967年

近鉄バファローズは、三十日午後三時から、大阪市東区森之宮の球団事務所で、芥田球団社長、須古球団部長、父親久吉さん(61)立ち会いのもとに、平安高・門野利治投手(18)=身長1㍍78、体重70、左投げ右打ち=の入団発表を行なった。背番号は「18」。門野投手は二月一日からの明石キャンプに参加する。

門野投手は平安高のエースとして、昨年の春、夏と連続甲子園のマウンドを踏んだ。夏の大会の地区予選では、対堀川高戦にノーヒット・ノーランを記録したほか、昨年五月五日の大阪学院との試合では江夏(阪神)と延長16回を投げ合い、26三振を奪うなど左腕本格派投手。近鉄は昨年十一月八日の第二回新人選択会議で第一位にランクして交渉権を獲得。一度は進学に傾いていた門野を、二か月にわたる熱心な勧誘が実って入団にこぎつけた。近鉄では、ことし獲得した加藤英夫(中京商)加藤英治(PL学園)とともに、将来を背負って立つ投手として期待している。

芥田球団社長の話 「これで今シーズンの補強はすべて完了した。とくに若い有望な投手が入団してくれたので投手王国をつくるだけのコマはそろった。かれらには順調にのびてくれることを期待している。とくに門野君は左腕であり、鈴木とともに、左打線封じに活躍してもらいたい」

ープロ入りに踏み切った理由は。また、近鉄について予備知識は・・。
門野 いろいろ考えましたが、最後は父親の意見に従いました。しかし、自分でも一度プロでやりたいとは思っていました。近鉄についてはなにも知りませんが、みんな若そうですし、いいチームと思います。
ーキャンプには、いつから参加するか。不安はないか。
門野 最初から参加します。でも、はたして自分の力でやっていけるだろうかという不安でいっぱいです。
ートレーニングはしていたか。
門野 ことしになって、五日から毎日自宅近くの山で約5㌔くらい走っていたのですが、最近は試験のため軽くやっていただけです。
ーどういうタイプの投手になりたいか。
門野 チームから信頼される投手になることです。目標は金田さん(巨人)です。
ーどんなタマを覚えたいか。
門野 高校時代は直球、カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを投げていました。プロでは、もっとスピードを増し、正確なコントロールをつけたい。
ー自分のピッチングをどう思うか。
門野 立ちあがりさえいいピッチングができれば、あとは調子で投げられるんですが、欠点は打たれたら投球のテンポが速くなることです。この点を改めたい。
ーライバルは・・・。
門野 同期の両加藤くんだけには負けたくありません。
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水江正臣

2018-03-17 07:59:58 | 日記
1973年

ヤクルトは二十九日、昨年夏の全国高校野球大会優勝投手、津久見高の水江正臣選手(18)=身長1㍍80、体重70㌔、右投げ右打ち、背番号59=の入団を発表した。高校の全国大会優勝投手のプロ入りは四十二年、近鉄入りした加藤英夫投手(当時中京商)以来で、ヤクルトでは球団史上はじめて。「プロにはいってやっていけるか」-甲子園大会優勝投手が、キャンプイン間近まで決断できなかったのは、この不安がいつまでもつきまとっていたからだという。だが、「将来はプロでやってみたい」との水江の気持ちは、その不安を押しのけた。「甲子園に出場するまで苦しみを考えれば、プロでの練習にも耐えられる」と思ったからだ。一年のときは浜浦(ロッテ、現SF・ジャイアンツ)、二年のときは橘(近鉄)と先輩投手の陰にかくれ、登板のチャンスがなかった。だが、三年になると、その間の努力が実り、エースとしてメキメキ頭角をあらわした。長身を使ったストレートを主に津久見ボールといわれる切れのよいカーブをまじえ、甲子園出場を決める中九州大会決勝で八代一の中島(太平洋ク)と投げ合い4-0と完封勝ち。そして夢にまでみた全国制覇。「技量も抜群でなければ日本一にはなれません。だが、それにもまして勝負運にも恵まれなければ、こんな離れワザはできませんです」発表の席に立ち会った三原監督も、頼もしそうにいった。大監督から直接、ことばをかけられた水江は、ニキビがいっぱいの童顔を緊張させながら「ハイ、がんばります」。ヤクルトは二月一日から神宮でトレーニングを開始、七日にキャンプ地の鹿児島県湯之元入りする。水江は二月四日から高校最後の試験のため、キャンプ地入りは十日すぎになるという。同期の選手たちより遅れるが、の質問がでると「自分なりの練習をつづけていきますから大丈夫です」とキッパリ。高校日本一のプライドを胸に、こんどはプロの正解に挑戦する水江の心の準備はできあがっているようだった。
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植木一智

2018-03-17 07:46:48 | 日記
1973年

阪神二位指名の植上選手は徳島市中常三島三丁目出身。城東中学時代から本格派投手として将来をしょく望され、四十五年同校を卒業後、高松商に進学した。今シーズンはエースとして活躍、甲子園へ春夏連続出場を果たし、好投手として各球団から注目されていた。高松市内の下宿にいる植上選手から自宅への電話で、この知らせを受けた父親の勝さん(65)は「たいへん光栄なことでうれしい。しかし、本人の意思は慶大進学が堅い。私としても大学だけは出してやりたいと思っている」と、プロ入りに否定的な話だった。

植上選手の話 阪神がぼくの力を認めてくれたのはうれしい。プロに行きたい気持ちもあるが、大学進学を決めているので・・・。監督さんや両親らとよく相談して、結論を出したい。
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鵜飼克雄

2018-03-17 07:39:34 | 日記
1973年

日本ハムから第一位で指名された鵜飼選手は徳島市佐古一番町出身。城西中学から本格的に野球をはじめ、徳島商時代の四十年には一塁手、主力打者として春夏連続甲子園に出場し大活躍。同志社大に進学後は、恵まれたからだと強肩を買われて投手に転向。将来性豊かな左腕の本格派として投手陣の一翼をになった。関係者の注目を浴びはじめたのは四十四年、ノンプロ・四国電力に入社後。制球力に甘さを残すが、左腕、上手からの速球は球威が十分、得意のカーブも切れがありピッチングは安定している。今季は即戦力として数球団からマークされていたが、球団経営に乗り出した日本ハムが地元選手ということもあり1位に指名したようだ。昼過ぎ電話で本人から指名されたことを知らされた実家では、野球好きの祖母・敏子さん(75)が「はいる、はいらないは別にしても、野球をやってきた克雄にとっては男みょう利につきる」と、大喜び。父親の昭良さん(50)は、「先日、帰ったとき、指名されるだろうといっていたので・・・。入団するかどうかは本人にまかせます。でも、一ヶ月前に子供も出来たことだし良く考えて決めてほしい」と、複雑な心境を話していた。

鵜飼選手の話 どこからか指名されるだろうと思っていましたが・・・。まさか一位なんて考えてもいませんでした。日本ハムは地元の徳島ハムから大きくなった会社ということは知っています。プロでやりたいという気持ちはありますが、家族もあることだし、これからよく相談してみます。

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