1951年
世間が落ちついたせいかことしほどプロの畑に楽しめる高校畑の偉材が移し植えられたことは少ない、沢村も、スタルヒンも、真田も、別所も、小鶴も、藤村も、川上も、千葉も角帽をかぶらなかったことを思えば、紅顔の高校出のルーキーたちに寄せる期待も、彼らがプロに寄せる情熱のようにふくらむ。兼吉(滝川高ー巨人)東泉(韮山高ー東急)小林(三原高ー阪急)箱田(盈進ー国鉄)などとともに、プロから、そして大学野球から引く手あまたのヒナドリたちのなかで、ひときわ逞しさをみせていた。萩の椙本兄弟も、こんどねらわれて兄は松竹ロビンスに、弟は大洋ホエールズ(養成)のユニホームを着た。松竹入りの兄は勝、五尺九寸十九貫で高校ばなれのした重量と身長を持っている。まだ荒けずりだが、その剛速球は相当のもの、昨春の選抜大会が初舞台、一回戦で敗退したが、その存在はプロ注目のマトになった、夏の全国大会にはヒザの故障で予選で敗れているが、それでも彼はプロから追いかけられた、それでも彼はプロから追いかけられた、一時は北本のように三十契約問題でさわがれたが、それは彼をとりまく先輩たちの手落ちで彼の責任では全くなかった。新田監督は「まだ欠点だらけですよ」というが、名古屋のトーナメント戦でも大器の片鱗をみせた、新田さんはさらに「一人前にしてみせますよ・・」ともいっている。新田という名伯楽を得た逞しいヒナドリ椙本勝のこれからは、その心がけと、断つことのない精進にかかる、打撃もあるというからいずれにしてもホープたることは疑わない。十八歳ー