21日は夏至だった、と言う。
夏至というのは、1年のうち最も昼の時間が長い日。
言い換えれば、これからは、だんだん日の長さは下り坂となる、考えようによっては、ちょっと悲しい日でもある。
そんな夏至の日、先週の木曜夜に続き、またもや会社で徹夜の仕事であった。
朝も4時近くになると、外も闇が白さを帯びてくる。
時間との戦いの中で作業を進めるが、夜の2-3時頃には、睡魔が襲って来て、能率が落ちる、というよりは、自分が何をやっているかも分からないような状況になっていた。
しかし、その峠を越えると、不思議なことに今度は覚醒剤でも打ったかのように(その経験はないので、どんなものか真実は知らないが)、急に脳の巡りが良くなり、今までの眠気が嘘のように能率が上がってきた。こんなことがあるもんだ。
三日前の徹夜のときは、職場に残ったのは自分ひとりであったが、この日の徹夜は自分の部下の若奥様と一緒。彼女もなかなか弱音を吐かぬので、こちらも手を緩める訳にも行かなかった事情もあった。一人だけなら、途中でどうなっていたことやら。部下や派遣社員のお嬢さんの仕事のミスをチェックする仕事が最後の仕事となったが、ミスをしそうなのは、むしろこの朦朧とした自分かもしれぬと苦笑い、へたり笑い。
ここ一月の忙しさは異常なものであったが、日程的にはこの日の作業が最終日にして最大の作業量、それも極端に仕事量が多い「最難関の日」なのだ。まさに、この頂上を越さないとこの季節労働は終わらないのだ。
時間までに終わらせる、というプレッシャー、今の時間が昼間で、連絡を取り合っている米国のスタッフとのやり取り、というもうひとつのプレッシャー。この2つのプレッシャーとの戦いに緊張を強いられた作業ではあったが、何とか始業時間前には終了でき、ほっと安堵。最終日だと言う意識も助けになった。このような日々が永遠に続くとなれば絶望であるが、これが今日で終わるとなると、希望に満ちてくる。それで何とか頑張れた訳だ。
しかし、若いときに比べて、大きな仕事が終わったあとの爆発的な喜びや感激もそうなく、ただしみじみと、「やれやれ」と思うのみ、というのは、やはり歳を取った証左なのだろうね。OnとOffのメリハリがその境界線を失っている。何だか何となく、尿意は強いのにおしっこの出具合が悪い、とか、そんな状況と相通ずるものがあるもんだ。(ちょっと例えが悪すぎました、失礼...。)
その日の夜は、久しぶりに(僅か2日ぶりでした)に家に帰り、家族の顔を見て、床についた。
夜10時半過ぎに寝付いたあと、朝6時に子供の部屋の目覚まし時計が鳴るまでの時間、形容し難いほどの深い眠りについていた。このところ数年、これも年齢のせいもあるのだろう、眠りが全般に浅く、途中意識が戻ることも普通のこととなっていたが、この日の眠りはそのような瞬間が微塵も無いままに兎にも角にも深い深い「完璧な眠り」についていたのであった。自分にとっても大きな驚き。これは徹夜のご褒美なのだろうか、と思わず考えてしまった。
夏至が過ぎて、日の長さは下り坂となるが、仕事の方は、「冬至」のような日を越え、これからやっと自分の時間もより持てる状況になってくる筈。さて、苦しく、また時間のなさに苛まれていた時に逃避的に考えていたことに、実際ゆっくりと思いを馳せることの出来る喜びを噛みしめよう。
夏至というのは、1年のうち最も昼の時間が長い日。
言い換えれば、これからは、だんだん日の長さは下り坂となる、考えようによっては、ちょっと悲しい日でもある。
そんな夏至の日、先週の木曜夜に続き、またもや会社で徹夜の仕事であった。
朝も4時近くになると、外も闇が白さを帯びてくる。
時間との戦いの中で作業を進めるが、夜の2-3時頃には、睡魔が襲って来て、能率が落ちる、というよりは、自分が何をやっているかも分からないような状況になっていた。
しかし、その峠を越えると、不思議なことに今度は覚醒剤でも打ったかのように(その経験はないので、どんなものか真実は知らないが)、急に脳の巡りが良くなり、今までの眠気が嘘のように能率が上がってきた。こんなことがあるもんだ。
三日前の徹夜のときは、職場に残ったのは自分ひとりであったが、この日の徹夜は自分の部下の若奥様と一緒。彼女もなかなか弱音を吐かぬので、こちらも手を緩める訳にも行かなかった事情もあった。一人だけなら、途中でどうなっていたことやら。部下や派遣社員のお嬢さんの仕事のミスをチェックする仕事が最後の仕事となったが、ミスをしそうなのは、むしろこの朦朧とした自分かもしれぬと苦笑い、へたり笑い。
ここ一月の忙しさは異常なものであったが、日程的にはこの日の作業が最終日にして最大の作業量、それも極端に仕事量が多い「最難関の日」なのだ。まさに、この頂上を越さないとこの季節労働は終わらないのだ。
時間までに終わらせる、というプレッシャー、今の時間が昼間で、連絡を取り合っている米国のスタッフとのやり取り、というもうひとつのプレッシャー。この2つのプレッシャーとの戦いに緊張を強いられた作業ではあったが、何とか始業時間前には終了でき、ほっと安堵。最終日だと言う意識も助けになった。このような日々が永遠に続くとなれば絶望であるが、これが今日で終わるとなると、希望に満ちてくる。それで何とか頑張れた訳だ。
しかし、若いときに比べて、大きな仕事が終わったあとの爆発的な喜びや感激もそうなく、ただしみじみと、「やれやれ」と思うのみ、というのは、やはり歳を取った証左なのだろうね。OnとOffのメリハリがその境界線を失っている。何だか何となく、尿意は強いのにおしっこの出具合が悪い、とか、そんな状況と相通ずるものがあるもんだ。(ちょっと例えが悪すぎました、失礼...。)
その日の夜は、久しぶりに(僅か2日ぶりでした)に家に帰り、家族の顔を見て、床についた。
夜10時半過ぎに寝付いたあと、朝6時に子供の部屋の目覚まし時計が鳴るまでの時間、形容し難いほどの深い眠りについていた。このところ数年、これも年齢のせいもあるのだろう、眠りが全般に浅く、途中意識が戻ることも普通のこととなっていたが、この日の眠りはそのような瞬間が微塵も無いままに兎にも角にも深い深い「完璧な眠り」についていたのであった。自分にとっても大きな驚き。これは徹夜のご褒美なのだろうか、と思わず考えてしまった。
夏至が過ぎて、日の長さは下り坂となるが、仕事の方は、「冬至」のような日を越え、これからやっと自分の時間もより持てる状況になってくる筈。さて、苦しく、また時間のなさに苛まれていた時に逃避的に考えていたことに、実際ゆっくりと思いを馳せることの出来る喜びを噛みしめよう。