多分駄文のおじさん日記

我輩は駄文を書くおじさんである。旅、音楽、MLB、株式投資、etc., 日々想いつくままに思いを巡らすのである。

「私の履歴書」

2004-12-30 23:15:45 | 交遊録
日本経済新聞読者の皆さんは、毎朝一体どこから読み始めるのであろうか。

我輩は一面からではなく、最終面から読み始める。
ご存知の通り、「私の履歴書」は日経新聞朝刊最終面に毎日連載されている看板コーナーで、毎月1人ずつ経済、政治、文化など各界の著名人が月替わりで登場、さまざまなエピソードを交えて半生を振り返るコラムである。毎月一人のコラムであるから、年間では12人しかこのコラムには登場できない。これまでの登場人物はいづれも遠い存在が殆どであった。

今月は、衆院議長で元・自民党総裁の河野洋平氏。
今日の内容は、「生体肝移植で元気に-家族に支えられ、喜び実感」とある。
30年ほど前に肝臓の異常が発見されて以来、症状が悪化してきたが、1997年には意識を失う肝性脳症が現れ、激しい政務の中、入退院を繰り返してきた。見かねた娘さん、長男に強く勧められて、最後は長男・太郎氏の頑固な勧めに押される形で、彼の肝臓を移植する手術を受けることになった話が書かれている。

実は、その太郎氏の嫁さん(香さん)が、我輩が勤務していた米国の銀行での同僚であったのだ。今朝の新聞には、河野洋平氏および長男・太郎氏の家族の写真が掲載されていたが、久しぶりにその写真に彼女の姿を見ることが出来た。少しふっくらし、母親の顔になったな、と直感。河野洋平氏がコラムに登場とのことでいつ彼女が出てくるかと心待ちにしていたが、遂に我輩の知り合いにも「私の履歴書」に登場するものが出てきたと、懐かしさと同時に感慨も湧いてきた。河野洋平氏はその移植手術を受けるにあたり、その彼女の一言が決め手になったと書いてあった。

その米国銀行は名門で、当時は皇太子のお后候補と写真週刊誌などで取り上げられている女性も居たほどで、名家のお嬢さんも多かった。河野太郎氏夫人・香さんは確か所謂帰国子女で調査部アナリスト担当の秘書役をやっていた。優秀な女性が多い職場の中で、彼女の美貌と品性はかなり目立っていたが、まさか河野洋平の長男と結婚するとは意外であった。1990年台中ほどのことである。

我輩が当時オフィスで一人残って夜中近くまで仕事に追われていたときに、彼女が婚約相手だった河野太郎氏を連れてオフィスに来たことがあった。勿論その頃は太郎氏も衆議院に立候補する前の会社員時代、(確か、富士ゼロックス)だったのでまさか著名政治家の息子だとは思いも寄らなかったわけだが、挨拶をしたことを覚えておる。

その後の河野太郎氏の台頭・活躍ぶりは皆さんの知るところである。
彼女も大物政治家の義父をもち、また夫自体も政治家として活躍しているその妻として、公の活動も多くご苦労されていることと思う。夫が父へ肝臓移植する、という状況での心労も並大抵ではなかった筈。結婚8年目にしてお子さんに恵まれた、というのも、苦難の末、と想像させられる。
結婚により生活も大きく変わった彼女、今後も元気に活躍して欲しいと願っている。

S氏の「多分駄文のEメール」

2004-12-06 22:51:19 | 交遊録
昨日の日曜日一緒にマラソンを走る予定だったテニス仲間のS兄、残念ながら体調不良のため棄権された。
マラソン完走の喜びを分かち合いたいと思い、無理やりお誘いしたのだが、どうも神様はS兄に「止めとけ」と言われたようだ。

このS兄、財閥系企業の財務部ゼネラル・マネジャーの要職にある。
経理一般のみならず、M&Aやら債権回収やら、随分色んなところでご苦労されておる。
財務マンには見えぬ筋骨隆々の漁師のような肉体の持ち主だが、真面目さゆえであろう、このところの激務・過労がたたり先週の金・土曜日は風邪にて家で寝ておられたとのこと。
このS兄より、久しぶりに会社の我がアドレス宛てにEメールが来た。
どうやら回復されたようで良かったが、ドッキリする内容でもあった。
以下、勝手ながら一部引用。(ちなみに彼のEメールのタイトルは「○×君の多分駄文」、どこかで聞いたようなタイトルである。)  

『金曜日は返事出来ず、すまんでした。
先々週の土曜日に高尾山に紅葉を見に行ったは良いが、歩き過ぎて(間違って麓まで歩いてしまって膝ガクガク状態)疲れ、翌日は早朝からテニスクラブでの親睦大会で3時過ぎ悪寒を感じ早々退散。 
月曜日は朝から外出(親会社でお説教をもらう)、夜は労働組合で会社サイドで陪席、12時帰宅と3日間でグロッキー状態。 
こんな事ぐらいで体調悪くなるはずはないと思って火曜は飲み会、ここでどうもおかしいと体調の変化に気づく。
翌日良く相談に来る営業マンが心筋梗塞で入院の情報が入る。先日この営業マンから伊藤園レデイスプロゴルフ大会のチケットをもらい女房と一緒に観戦にいったばかりだ。

この話を聞き無理はいけないと思い、金曜休暇を取った。
休んだ金曜、この営業マンが亡くなったとの連絡が入る。まだ44歳の若さ、どうも過労だったようだ。

金曜土曜と全く外に出ず2日間で24時間近く寝た。寝ても寝てもまだ眠れる。
昨日日曜は軽く犬と散歩も、午後から(千葉市より)永福町までこの営業マンのお通夜に出かける。
朝から動いていない電車も午後には動き出した。女房は昼から姉妹とゴルフといって泊まりでお出かけ。相変わらず元気、うらやましいぐらい元気だ。お通夜には社員全員が来ているのではと思われるくらいの人の数、残された一人息子(高校一年生)がかわいそう。
9時近くに帰宅、一人寂しくお惣菜を買って一人夕食、単身赴任のようだ。

最近、気持ちと体力そして運動能力が合致しない状況が続く(デジカメに撮った紅葉をテレビで見ようとしても見えないこの前は見えたのにおかしいとデジカメをあちこち触っているうちにフオーマットを触りすべてが消滅してしまった)。 歳なのか? 
まだまだと思うも実態なのか。酒も同じだ、以前と同じように飲めない。体が受け付けなくなっている。  (後略)』

いやいや、S兄の体力の衰えを嘆くことも良く分かるが、それ以上に衝撃なのは、44歳の働き盛りの過労による突然死のことであった、何ともお気の毒なことである。
我輩もこの歳になってよく分かるが、このような話は決して他人事ではないのだ。極端な過労に極端なストレスが重なると、体力強靭な御仁でもころっと逝ってしまうことはあるのだ。体調悪いと言って会社を早退して、そのまま亡くなった優秀な企業戦士の例を2件ほど存じ上げておる。
S兄が人の病見て、要職・多忙にも拘わらず休む勇気を持ったのも、或る意味では英断だったのではないかとさえ、思われる。


3時半頃、会社にM氏が訪ねてきた。交遊録(1)で書いた「人生はJazz」の彼である。
外資系生命保険会社に就職が決まり、研修を終え、保険営業を兼ねて会いにきてくれた。
彼には、私が現在加入している保険証券を学習用に見せてくれという依頼を受け、見てもらっていたのだ。
現在の生命保険は、給料水準がかなり良いバブル時に加入したものだが、今見ると全額掛け捨て、おまけにあと1年以内に更新の必要があるのだが、同じ保障内容を継続するとしたら、ただでさえ(今の我輩にとっては)多額の保険料が更に倍近くになると言う。
全く馬鹿にした話である、と自分の無知を差しおいて、腹立たしく思う。従って、今後保険料が極力経済合理性の高いものに乗り換えるぞ、そう思っておった矢先であったのだ。
しかし、S兄から突然死の話など聞かされると、やはり結構これからは自分の身に何が起こるか分からんな、という気分にさせられたのであった。万一、ではなく、そのような身に掛かる様々なリスクは平均寿命の高齢化にも拘らず、万が一以上の確率になっているのかもしれない。やはりそれなりの保障が得られる保険は必要か、と心が揺れる。M氏来訪前に余りにもタイミングの良い(悪い?)話を知らされた巡り合わせに、驚愕。

取り敢えずは、健康に留意致しましょう、ご同輩の皆さん! これしか言いようがないね。




交遊録(1):人生はJazz- M氏

2004-11-10 12:14:08 | 交遊録
昨日一枚の葉書を受け取った。

送り主は、大学出て最初に11年間勤務した金融機関の同僚だったM氏。
2年ほど前に前職を辞して以来就職先を探していたようだが、この度某金融機関に採用されたという挨拶がその内容。
彼の年齢は我輩より若干上である。景気は幾らか底を打ち回復基調にあるものの、2年間も職を探し続けなければならなかった彼を含め、中高年の雇用状況は益々厳しいことを感じさせられる。特に、外資系金融機関ともなると、ほぼ40歳そこそこが「実質的な定年年齢」となるという感覚が強く、彼も再就職にあたってはその逆風をもろに受けてきた。

さてM氏だが、四国は松山の出身で、九州大学卒業後、地元銀行に勤務したが、生来の風来坊、根っからの突撃精神から東京に出て、リース会社、そして外資系金融機関を立て続けに数社渡り歩いた。
Private Placement(所謂「篭脱けリース」など)、航空機リース、ジャンクマーケットやエマージングマーケット(新興国市場)関連の外債・仕組み債の売買など、金融市場におけるその時その時の時流の最先端にあるプロダクトを担当してきた。ただ、浮沈も激しくここ10数年の間、就職・退職を繰り返してきた。
所属会社におけるビジネス戦略の変更などで取扱いプロダクトが衰退期に陥ると往々にして組織ごと撤退・閉鎖を決定したり、組織のトップが他社からマネジャーをヘッドハントすると、そのマネジャーが前居た会社の部下をチームごと引き連れて移動してくること(従って、その余波受け今迄居たスタッフは全員解雇ということもある)など、その世界では日常茶飯事だ。特に、米国系証券会社にその傾向強し。M氏もそのような影響を何度も受け、その度に会社を替わっていた。

彼は自らサックスも吹くJazz愛好家だが、金融業界の最先端に居ながら上昇浮沈を繰り返す、謂わば、”SWING”するJazzのような人生を歩んでいるようだった。Jaguarを乗り回していた時代もあれば、家族と離れて自ら「ホームレスの生活」と自嘲するような日々もあったとのこと。平均的サラリーマンと比較すればSWINGの振幅があまりに大きく、ご家族等はこれまでご苦労もされてきたのではないかと想像するが、悲観的状況の中でも根っからの明るさを失うことのない彼の今後の活躍を心より願っている。

我輩の親しい知己の中では、最も早く自分のHPを作成披露したのもこのM氏である。
Jazzファンなら泣いて感動するJazz喫茶のマッチのコレクターでもある彼のコレクションが朴訥な形で披露されている。
よき年代を感じさせるこのHPを是非御覧あれ。(その他、うどん、空手など話題も盛り沢山!)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shiggy/index.htm

彼とのJazzの思い出の一こまを紹介:
伝説のドラマー、Elvin Jonesのパワフルな熱演を彼と南青山のBlue Noteで見た夜のことである。
ElvinのCDを現場で買った特典で、彼と二人だけ特別にスタッフより楽屋に入ることを許された。楽屋に入った我々は演奏を終えガウン姿に着替えたElvinと彼の日本人の奥さんに会い、気さくに話をすることが出来感激したものだった。
M氏はElvinにこう語って、二人は大笑いしていた。
「近くであなたを見たのは、これで2回目。一度目は前の年の正月、新宿のPit Innのトイレで鉢合わせしましたよね。Opps!」
我々はElvinと握手し、興奮の面持ちで部屋を出た。
M氏、「Elvinと握手したってことは、間接的にはJohn Coltraneと握手したというにもなるね。」
彼は、どこまで行っても洒脱で明るい男であった。