potaz

気ままに、、、

ガーベラの花(今年2回目の開花)

2014-09-30 19:10:11 | 日記
2014/9/30
今日で9月も終わりです。
夕方には少し雲が出て来ましたが、朝から良く晴れて気温も上がりました。
熊谷地方気象台で記録した最高気温は30.3℃でした。

風邪はかなり良くなって来ました。
今月(9月)上旬に近所で頂いたガーベラに、2回目の花が咲きました。
一回目は頂いた時に2輪の花が咲いていましたが、今回は4輪の花が咲いています。

一輪は橙と黄色のツートンです。

最初に咲いたツートンよりも黄色の花弁が少ない感じです。
他の3輪は橙色の花です。

このきれいな花はいつ頃まで咲くでしょうか。

人見四郎を『四部合戦状』に探す

2014-09-29 19:10:35 | 日記
2014/9/29
今日もいい天気が続いています。

先日の「岡部六弥太」に続き『四部合戦状』の中に「人見四郎」を探してみました。
 (potazにも読める現代語訳のざっと見ですので怪しい所もあるかと)

★保元物語
 ・保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に書いた軍記物語
 ・対立の模様
  ・崇徳院と後白河天皇の皇位継承争い ・藤原忠通と藤原頼長の摂関家の対立
  ・源義朝と源為義の源氏の対立    ・平清盛と平忠正の平家の対立
 ・人見四郎の名前を見つける事はできませんでした。

★平治物語
 ・平治元年(1159年)に起こった平治の乱を中心に書いた軍記物語
 ・対立の模様
  ・藤原通憲と藤原信頼の対立     ・平清盛と源義朝と対立
 ・人見四郎の名前を見つける事はできませんでしたが、
  関係する「猪俣小平六範綱」が上巻第十四章・中巻第一章に義朝に従う武士として登場

★平家物語
 ・平家の栄華と没落を描いた軍記物語
 ・保元の乱、平治の乱後の源平の戦いから平家の滅亡と人間模様
 ・人見四郎は岡部六弥太は第九巻「越中盛俊の最期」に登場(一の谷合戦:1184年)。
  先日の『岡部六弥太の戦いを記した「忠度最期」』の前の段です。以下に要約。

   越中盛俊は一の谷の背後・鵯越を守る勢の侍大将で、留まって敵を待っていた。
   そこに、猪俣小平六範綱がよき敵と目を掛け、馬を並べ、組んで馬から落とした。
   猪俣小平六は坂東に知られた鹿の角を易く折る力。越中盛俊も2、30人力の怪力。

   盛俊は猪俣を押さえて放さず、猪俣は刀を掴めず、強く押し付けられて声も出ず。
   猪俣も怪力の持ち主で、
   「首を取るなら、相名乗り首を取れば大功。名も知らぬ首を取って如何に」と。
   盛俊は、
   「元は平家の一門、今は侍となされた越中前司盛俊。貴様は何者だ。聞こう」と。
   猪俣は
   「武蔵の住人、猪俣小平六範綱という者なり。
    わが命を助けよ。そうすれば、今回の恩賞に替えて、命だけは助ける」と。
   盛俊は大いに怒り、
   「盛俊は不肖なれど平家の一門なり。盛俊は源氏を頼みとする気はない。
    源氏もまた、盛俊に頼まれようとはまさか思うまい。君の悪しき申し出かな」と。
   盛俊は直ぐに猪俣の首をかこうとしましたが、
   「それはまずい。降人の首をかくことがあるか」と猪俣がいうと、
   盛俊は
   「さらば助けよう」と許し、二人は腰掛けた。

   盛俊と猪俣が腰掛ける場所は、前は乾いた田で、後ろは水田の泥の深み。
   暫くし、緋縅鎧・金覆輪鞍を置いた月毛の馬に乗っている武者・人見四郎が1騎。

   盛俊の注意が、近づいて来る人見四郎に注がれている所で、
   猪俣は立ち上り、拳を強く握り、盛俊の鎧の胸板を突いて仰向けに倒した。
   盛俊に乗り、盛俊の刀を抜き、鎧の草摺りを引き上げて、指して首を取った。

★承久記
 ・承久3年(1221年)、後鳥羽上皇の挙兵に因る「承久の乱」を描いた軍記物語
 ・人見四郎の名前を見つける事はできませんでした。

●先日の「岡部六弥太忠澄」は猪俣党の流れで、没年は1197年(生年不明)です。
 今日の「猪俣小平六範綱」は猪俣党の党首で、没年は1192年(生年不明)です。
 この二人の戦記を読むと同年代の感じがします。
 それに対して「人見四郎」(猪俣党の流れ)は少し若かった様に思えます。

 この時代の深谷の傑物には、もう一人「畠山重忠」がいました。
 この「畠山重忠」は秩父氏一族の武士で、没年は1205年(生年は1164年)です。
 「岡部六弥太忠澄」の妻は「畠山重能の娘」という事なので義兄弟となります。

 川本の畠山重忠史跡公園にはかっこいい「畠山重忠」像があります。

西島町・栄寿堂のお菓子

2014-09-28 19:06:17 | 日記
2014/9/28
今日も昨日と同じ様な天気でしたが、
昨日の昼に噴火した御嶽山では大変な事になっています。
自然の莫大で圧倒的な力を感じます。

今日のおやつはchyoppaが“お見舞い”に買ってきた西島町・栄寿堂のお菓子でした。
ひとつは「さかまんじゅう」です。

ふっくらとした皮はいい香りがします。
甘さを抑えた餡と皮の美味しさが良くマッチしています。
もうひとつは「大福」です。

この大福の餅は良く伸びます。こちらの餡も甘さが抑えてあります。
どちらも餡の甘さを抑え、量はやや控えめで皮や餅を活かしています。

随分と元気が出てきました。

岡部六弥太を『四部合戦状』に探す

2014-09-27 19:10:18 | 日記
2014/9/27
今日は晴れましたが大きな雲が流れていました。
気温もさほど上がる事は無く気持ち良く過ごせました。風邪を引かなければ、、、。

先日(7月17日)記録した「岡部六弥太」を『四部合戦状』の中に探してみました。
当然の事ですが、potazにも読める現代語訳のざっと見ですので怪しい所もあるかと。

★保元物語
 ・保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に書いた軍記物語
 ・対立の模様
  ・崇徳院と後白河天皇の皇位継承争い ・藤原忠通と藤原頼長の摂関家の対立
  ・源義朝と源為義の源氏の対立    ・平清盛と平忠正の平家の対立
 ・岡部六弥太は、上巻第十三章に源義朝に従う武士として登場

★平治物語
 ・平治元年(1159年)に起こった平治の乱を中心に書いた軍記物語
 ・対立の模様
  ・藤原通憲と藤原信頼の対立     ・平清盛と源義朝と対立
 ・岡部六弥太は、上巻第十四章・中巻第一章に義朝に従う武士として登場

★平家物語
 ・平家の栄華と没落を描いた軍記物語
 ・保元の乱、平治の乱後の源平の戦いから平家の滅亡と人間模様
 ・岡部六弥太は第九巻「忠度最期」に登場(一の谷合戦:1184年)、以下に要約。
   薩摩の守・平忠度は一の谷の西の手の大将軍
   兵は100騎程で源氏に囲まれ、騒がず・防ぎ・防ぎながら退却する所に、
   岡部六弥太がよき敵と目をかけ、馬を駆け追いかけ声をかける。
   「あれはよき大将軍と見える。敵に後ろを見せるものかな。返せ、返せ」
   忠度は振り返って「味方ぞ」と声を掛けるも
   岡部六弥太は「味方にお歯黒をした者はいない。平家の公達に間違いない」
   と馬をおし並べて組み合い。
   (忠度の兵は借りものの武士なので1騎も戦おうとせず皆逃げた)

   忠度は熊野育ちの怪力で、屈指の早業の持ち主。
   岡部六弥太をつかみ「味方といっているので、味方にしておけばよいものを」
   と、引き寄せ馬の上で2太刀、落ちていく時に一太刀、合計で3太刀、突く。
   2刀は鎧の上なので通らづ、1刀は内甲へ突き入れるも浅傷。
   そこに岡部六弥太の童が遅ればせながらやってきて、
   馬から飛び降り、太刀を抜き、忠度の右ひじを根元から切り落とした。

   忠度は「しばしのけ。最後の念仏を十回唱えさせろ」と、
   岡部六弥太をつかんで弓の長さ程(約2メートル)投げ飛ばす。
   西へ向かい「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不拾」と唱えているときに、
   岡部忠純が後ろから忠度の首を取った。

   その後、箙(えびら)に結び付けられた文から忠度と知る。

 ・薩摩守平忠度は上記の様に武に優れると共に文才(歌人)にも秀でていたと。
  「千載和歌集」に“詠み人知らず”として掲載され、
  以降の「勅撰和歌集」には11首が入集しているということです。

★承久記
 ・承久3年(1221年)、後鳥羽上皇の挙兵に因る「承久の乱」を描いた軍記物語
 ・岡部六弥太の没年は1197年なので、この乱は六弥太の死後
 ・幾つか「岡部」の名が出てきます。子孫でしょうか?

※もう少し読み込んでみようか、、、。

風邪を引いた

2014-09-26 19:48:29 | 日記
2014/9/26
今日は“カラッ”と晴れたよい天気でした。
熊谷地方気象台で記録した最高気温は28.6℃でした。

何年ぶりかの大風邪を引いてしまいました。
症状は「発熱と喉の痛み」で、熱は抑えず我慢できるものの、喉は痛んで声も出せない状況。
自力で退治するのは難しいと考えて医者にかかって来てました。
お医者さんに処方して頂いた薬のお蔭で順調に快復に向かっている様です。

気持ちの気候の良い日に、おとなしくジッとしていなくてはならないのは残念です。

横になっている時、「風邪(かぜ)を引く」とはどういう意味かを調べてみました。
  自分なりに簡単に整理すると、
   風邪(かぜ)は本来は“ふうじゃ”と読み、語源は古代中国まで遡る。
   病気の名前や症状では無く、病の原因となる外因の六つの邪の一つ。
    ※六つの邪:風邪、寒邪、湿邪、火邪、暑邪、燥邪
   この気候の変化に依る風邪(ふうじゃ)を引き寄せてしまうと病になる。
   その後、“ふうじゃ”は転じて“かぜ”となった。
  という事と思えました。
→だから「かぜをひく」という表現になるのだ、と。

竹取物語や宇津保物語には既に「かぜをひく」という表現があるそうですが、
鎌倉時代には風邪(ふうじゃ)と呼び、
明治になって風邪(かぜ)と読むようになったという説明もありました。