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気ままに、、、

人見四郎を『四部合戦状』に探す

2014-09-29 19:10:35 | 日記
2014/9/29
今日もいい天気が続いています。

先日の「岡部六弥太」に続き『四部合戦状』の中に「人見四郎」を探してみました。
 (potazにも読める現代語訳のざっと見ですので怪しい所もあるかと)

★保元物語
 ・保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に書いた軍記物語
 ・対立の模様
  ・崇徳院と後白河天皇の皇位継承争い ・藤原忠通と藤原頼長の摂関家の対立
  ・源義朝と源為義の源氏の対立    ・平清盛と平忠正の平家の対立
 ・人見四郎の名前を見つける事はできませんでした。

★平治物語
 ・平治元年(1159年)に起こった平治の乱を中心に書いた軍記物語
 ・対立の模様
  ・藤原通憲と藤原信頼の対立     ・平清盛と源義朝と対立
 ・人見四郎の名前を見つける事はできませんでしたが、
  関係する「猪俣小平六範綱」が上巻第十四章・中巻第一章に義朝に従う武士として登場

★平家物語
 ・平家の栄華と没落を描いた軍記物語
 ・保元の乱、平治の乱後の源平の戦いから平家の滅亡と人間模様
 ・人見四郎は岡部六弥太は第九巻「越中盛俊の最期」に登場(一の谷合戦:1184年)。
  先日の『岡部六弥太の戦いを記した「忠度最期」』の前の段です。以下に要約。

   越中盛俊は一の谷の背後・鵯越を守る勢の侍大将で、留まって敵を待っていた。
   そこに、猪俣小平六範綱がよき敵と目を掛け、馬を並べ、組んで馬から落とした。
   猪俣小平六は坂東に知られた鹿の角を易く折る力。越中盛俊も2、30人力の怪力。

   盛俊は猪俣を押さえて放さず、猪俣は刀を掴めず、強く押し付けられて声も出ず。
   猪俣も怪力の持ち主で、
   「首を取るなら、相名乗り首を取れば大功。名も知らぬ首を取って如何に」と。
   盛俊は、
   「元は平家の一門、今は侍となされた越中前司盛俊。貴様は何者だ。聞こう」と。
   猪俣は
   「武蔵の住人、猪俣小平六範綱という者なり。
    わが命を助けよ。そうすれば、今回の恩賞に替えて、命だけは助ける」と。
   盛俊は大いに怒り、
   「盛俊は不肖なれど平家の一門なり。盛俊は源氏を頼みとする気はない。
    源氏もまた、盛俊に頼まれようとはまさか思うまい。君の悪しき申し出かな」と。
   盛俊は直ぐに猪俣の首をかこうとしましたが、
   「それはまずい。降人の首をかくことがあるか」と猪俣がいうと、
   盛俊は
   「さらば助けよう」と許し、二人は腰掛けた。

   盛俊と猪俣が腰掛ける場所は、前は乾いた田で、後ろは水田の泥の深み。
   暫くし、緋縅鎧・金覆輪鞍を置いた月毛の馬に乗っている武者・人見四郎が1騎。

   盛俊の注意が、近づいて来る人見四郎に注がれている所で、
   猪俣は立ち上り、拳を強く握り、盛俊の鎧の胸板を突いて仰向けに倒した。
   盛俊に乗り、盛俊の刀を抜き、鎧の草摺りを引き上げて、指して首を取った。

★承久記
 ・承久3年(1221年)、後鳥羽上皇の挙兵に因る「承久の乱」を描いた軍記物語
 ・人見四郎の名前を見つける事はできませんでした。

●先日の「岡部六弥太忠澄」は猪俣党の流れで、没年は1197年(生年不明)です。
 今日の「猪俣小平六範綱」は猪俣党の党首で、没年は1192年(生年不明)です。
 この二人の戦記を読むと同年代の感じがします。
 それに対して「人見四郎」(猪俣党の流れ)は少し若かった様に思えます。

 この時代の深谷の傑物には、もう一人「畠山重忠」がいました。
 この「畠山重忠」は秩父氏一族の武士で、没年は1205年(生年は1164年)です。
 「岡部六弥太忠澄」の妻は「畠山重能の娘」という事なので義兄弟となります。

 川本の畠山重忠史跡公園にはかっこいい「畠山重忠」像があります。