あめ~ば気まぐれ狂和国(Caprice Republicrazy of Amoeba)~Livin'LaVidaLoca

勤め人目夜勤科の生物・あめ~ばの目に見え心に思う事を微妙なやる気と常敬混交文で綴る雑記。
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記憶の中 最初からを本にして

2014-07-08 23:38:01 | 日替わりchris亭・仮設店舗
一時期、辞典にまつわる本を立て続けに紹介していましたが(第五十五回第五十七回)、今回は辞書を作った人にスポットを当てた本をご紹介。歴史書籍レビュー、第八十八回です。


佐々木健一『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(文藝春秋)

辞書というと、お堅く無機質なイメージがつきまとうものですが、ひとつひとつに個性があり、その違いを楽しむ「辞書マニア」という人々も存在します。
『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』は、かたや新しい語や用例も積極的に採用する柔軟さを持ちながらあくまで語釈は簡潔、かたやテレビにもたびたび取り上げられるユニークな語釈で知られるが単語の取捨選択は保守的、という全く違う方向性を持ちますが、どちらも同じ三省堂から出版され、辞書界ではトップの人気を誇っています。
この二つの辞書それぞれの生みの親である見坊豪紀と山田忠雄は、かつて『明解国語辞典』という一つの辞書を協力して作り上げた僚友でした。その二人が、なぜ全く毛色の違う二つの辞書を別々に作るようになったのか。その経緯と二人の人物像に迫った一冊です。

辞書がひとつひとつ異なるのは、作った人間が違うから。とすれば、辞書そのものが編集者の人間性を浮かび上がらせる手がかりになると考えた著者は、『三省堂~』にしか採用されていない語、あるいは『新明解~』の独創的な語釈と用例から、ケンボー先生と山田先生の人物像に迫ります。

本書の結末部分では、辞書の「ことば」から、編集者の「人間」へとつながった話題が、再び「ことば」に戻ってきます。山田先生の「言葉とは不自由な伝達手段である」という述懐を噛みしめながら、「ことば」の力を再認識させられるドキュメンタリーでした。

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