毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

國批判整理

2005-10-30 10:38:54 | 國神社・政界再編
國参拝否定の根拠には大まかにいって3つあります。まず「政教分離」、つぎに「A級戦犯合祀」、そして「周辺諸国民民への配慮」です。これらはずべて第二次世界大戦処理の枠組みを維持するか否かという点に根本的な問題があります。

「政教分離」(憲法20条第3項)の解釈は純粋に国内問題で、これについて支那、韓国・朝鮮も文句は言いにくいところでしょう。したがってこの点については国内サヨク、創価学会党や共産党、社民党あたりが支那、韓国・朝鮮などの指令?に基づき批判、裁判を行っています。日本民族に贖罪意識を植え付ける作業が営々と続けられているのです。

「A級戦犯合祀」は国の内外を問わず、また保守系をも含めて問題にする者の多い点です。この点を受け入れることは東京裁判の正当性を認めることに他なりません。確かに大東亜戦争の政治的指導者がすべて國に祭られるべきかどうかについては議論のあるところでわたしも十分議論すべきと考えます。しかしそれは東京裁判における「A級戦犯」とは全く別の問題です。

「周辺諸国民への配慮」とは、支那、韓国・朝鮮、華僑に対する配慮とほとんど同義です。講和条約が成立し半世紀以上が経過してなお配慮を必要とするとすれば、それは客観的に日本がナチスのような悪を為したということが必要なはずです。例えばいわゆる南京大虐殺の如きことを支那、朝鮮方面で繰り返していたという事実が必要ということです。しかし、それらの「事実」については昨今相当な根拠に基づく疑義が呈せられており、「周辺諸国民への配慮」の根拠の再検証は必須といえる状況です。

國にまつわる問題点を考えると、結局「東京裁判をそのまま受け入れるか否か」という点におおよそ集約されます。A級戦犯然り周辺諸国民への配慮然りです。東京裁判の枠組みを維持するとは当時の戦勝国側その追従者に有利で敗戦国に不利に決まっています。利に聡い支那、韓国・朝鮮がそれを声高に叫ぶのは当然です。しかしそれに日本民族が同調する必要性は微塵もありません。日本民族はまず歴史的事実を明らかにすべく冷静な検証をすべきです。それは裁判の場を借りて為されるようなものであってはならないことは当然です。裁判所という国家権力が歴史的事実を決めるいわれはないからです。

そうやって明らかになった事実に基づき、日本民族が大東亜戦争の政治的指導者に対していかなる立場をとるか、周辺諸国民に対していかなる態度で接するか。それは日本民族の美意識に基づき決定されるべき事柄です。世界標準(欧米や支那など)では謝罪も反省も必要ないとしても、日本民族がその美意識に基づき配慮するということはあって良いでしょう。しかしその場合、日本民族の美意識・主体性が明確になるような外交的努力が必要です。唯々諾々と言われるがまま謝罪と反省を繰り返すなど言語道断です。

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