心のどこかに映画への思いはあったものの
学生時代出会ったPRの面白さにひかれ
私は、大学卒業後、ビデオ制作会社に入社した。
今から30年以上も前の話である。
当時、ビデオはまだ出だしのころで、
性能もまだまだ安定していなかったが
フィルムに比べ、同時録音ができ、長時間収録できることから、
PR系映像制作会社は、フィルムからビデオにメディアを変えつつあった。
これまでは岩波映画や日本映画新社など
いわゆる老舗が幅を利かせていたが、
ビデオの性能安定に伴い、新規ビデオプロダクションが
次々と参入し、業界は群雄割拠の様相を呈していた。
私の入社したソニー系の会社は、
ソニー製品を販売する会社の制作部門で、
作品を作るというよりもプロ用機材を売るのが主目的の会社で、
制作部はそのソフトサービスにすぎなかった。
それでもビデオが出だしの頃で、営業マンが
カメラやデッキ、編集システムなどハード販売をするかたわら
「ついでに」的にソフト制作の受注もしてきた。
制作部のメンバーはみんな若く、
間違っても、監督とかプロデューサーと呼べる方は
一人もいなかった。ままごとのような集団であった。
営業マンが受けてきた仕事のほとんどは、
ダンスだの、式典だの、場合によっては結婚式や社葬など
記録モノと、その編集が中心で、制作モノは稀であった。
1年ほどたって巡ってきた制作モノ・第1回監督作品は、
人手不足?というか当然のことのように脚本、編集、
ダビング、納品まで掛け持ちだった。
(撮影用のクレーンが予算オーバーで借りられず
高所作業車で俯瞰撮影)
こうして私が営業補佐も兼務した大協石油(現コスモ石油)
のスタンドマン・教育ビデオ
「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」の
制作が始まった。
台本では、車を擬人化してガソリンスタンドでのサービスを
車目線で構成。嫌なサービス、気持ちのいいサービスを
車がどう感じたかを大阪弁で語らせる
コミカルな教育ビデオだった。
当時は第一次漫才ブームのまっただなか。
その独特の声と動きで人気が出だした西川のりお氏を
車の声役で使いたかった。
くしくも時を同じくして西川氏は「じゃりん子チエ」の
テツ役に起用されたが、
その時まだ、私は知らない世界だった。
予算がなくイメージでは西川氏だったが、
無理だと99%思っていた。しかし「ダメもと」と、
大学時代の同級生のよしみをフル活用し、
吉本に顔のきく東通企画に入社していた山口信哉君にお願いした。
1週間ほどたって、「録音日時は向こう任せでよいなら…」という
条件付ではあったが、格安で起用することに成功した。
この本ができてスポンサーに了承を得た時点で、
勝ったも同然であるが、西川氏起用でスポンサーは狂喜した、
まだ撮影もしていないのに…。
悩みぬいて書いた台本でイメージは固まっていたものの
スタッフをどのように編成するか、悩みに悩んだ。
現場録音と選曲・録音・調整は、国際放送録音で
お世話になった山城氏に決めていたし、
(現場録音は納多 保光氏)
照明は会社にドップリ入っていた京都西京極にあった
杉山照明のハルさん(杉山春男氏)に決めていた。
日本の劇映画ではカメラマンと照明技師は同じ地位で、
照明技師がカメラマンに拒否権を発動することもあった。
そのためカメラマンは、
仕事がしやすいように照明技師を指名したが、
今回はカメラマンよりも照明技師が先に決っていたことから
カメラマンを誰にするか相当悩んだ。
社内には技術担当の日下部君がいた。
記録モノは彼が回していたし、
低予算の制作物は彼が回すことが常だったが、
今回はカメラマンといわれているフリーと仕事がしたかった。
悩みに悩んだ末、照明技師のハルさんとも面識のあった
私よりも25歳ほど年上の谷岡孝行氏に決め、
日下部浩史君が撮影助手、カームビデオプロの中島伴彰氏がVE、
助監督は経費削減で私が兼務という布陣をひいた。
中島氏をはじめとするスタッフはフリーになってからも
仕事仲間として続いたが、
くしくも谷岡氏とは、この仕事が初で、最後の仕事となるとは、
この時はまだ微塵も思っていなかった。
(谷岡カメラマンと録音の納多氏、照明はハルさん)
谷岡氏は当時業界では「恐怖の谷岡さん」と呼ばれており、
武勇伝に、オヒレ、ハヒレがついて
「近鉄電車の撮影では、先頭車両に体をロープで縛りつけ
主観撮影を敢行した」とか、
「ヤンマーの漁船の撮影では、ヘリを低空飛行させ過ぎ
ヘリを水没させたが、間一髪で漁船に飛び乗った」とか
枚挙にいとまがない武勇伝の持ち主だ。
ビビリはしなかった、
当時はこういう武勇伝を持つ輩だらけだったからだ。
(谷岡さんの名刺は木製だった)
撮影前日、2度目のロケハンの帰り道、恐怖の谷岡さんは
「多田ちゃん、天気祭りで一杯やろうや」と声を掛けてきた。
「天気祭り」とは業界人の隠語で、撮影前日に酒を飲み交わし
ロケ期間中の晴天(業界用語ではピーカン)を祈る
酒盛りのことである。
この慣習は、日本映画の父といわれる牧野省三先生の昔から
伝えられた映画屋スピリッツの伝統的慣習であり、
私もその後20年位は続けていた。
酒はいける口だったし、カメラマンと飲むのは
コミュニケーションを図る上でも重要である。
結局、一睡もせず翌日谷岡氏と2人連れで現場に入り、
ロケ初日終了後も「打合せ①」と称して飲み、
翌朝そのまま2人連れで現場に入り、
ロケ二日目終了後「打合せ②」と称して飲み、
翌朝も2人連れで現場に入り、
ロケ三日目終了後も、「打ち上げ」と称して飲み、
四日間に渡る恐怖の谷岡さんとのロケは終了した。
(谷岡カメラマンと議論中の私
今夜の飲み屋をどこにしようかと話しているわけではない)
寝不足と二日酔いで体はダルかったが
それでもロケ中は、頭がフル回転していた。
夜、飲み始める時はさすがに体も頭も相当まいっていることを
自覚したが、もちろん飲んでしまえば同じ。
ロケ中、1日たりとも欠かさず飲みに行く谷岡氏の洗礼で?
私はフリーになっても「天気祭り」と称し、
ロケ前日は必ず飲んでいた。
スタッフと飲むならまだしも、彼女と飲んでいたこともあった。
おそらく監督という重責に対する不安で酒量が増すのだが、
この傾向は40代半ばまでおさまらなかった。
さすがに50歳が近付く頃には
「ロケ前日は禁酒デー」となったが、今でも、
ウカウカしていると二日酔いのままロケということも
ままある。
(谷岡カメラマンの指にはタバコが…
当時、咥えタバコのスタッフは大勢いた。
ここはガソリンスタンドですよ。)
だだ、ここで断わっておくが谷岡氏と毎夜ただただを
呑んでいるだけではない。
知恵熱にうなされた若き監督と、それを面白がる手練手管の
カメラマンは呑みつつ、「どうすれば作品が良くなるか?」
「そのためにはどんなカットが必要か?」を話す。
壊しては作り、作っては壊しを毎夜繰り返し、
最良案で翌日撮影する。
ウニは遠くから見ると黒い丸だが、近くで見るとトゲだらけだ。
監督が描くイメージの内側から
スタッフのトゲがガンガン出てきて突き破っていく。
それを容認するには相当の度量がいるが、
そのトゲをヨシとできる度量があれば
核の丸よりトゲの分だけ一回り大きな丸になっている。
遠くから見ると、トゲを切ったウニとトゲだらけウニでは
明らかに大きさは違う。
トゲは触ると痛いが、スタッフとして取り込めば鎧にもなる。
監督は、映画制作というヒエラルギーの頂点に立ち、
スタッフの柔軟な発想を、その権威で閉じこめてはならない。
この4日間、谷岡氏とサシで呑んだが、
もう少し私に経験と度量があれば、
助監督、照明技師、録音技師なども交えて
ワイワイ作品論を戦わせたかった。
と、この時思ったからこそ、
今でもちょくちょく「天気祭り」をしてしまう。
谷岡氏との撮影はほぼコンテ通りにいき、
録音で西川のりお氏の声が作品にさらに厚みを増した。
♪接客基本用語というと…?え~と…
「アホ、ボケ、カス、イテモタロカ」とは、ちうわな~♪
と、車役の西川氏のダミゴエは上映会場でバカ受けした。
が、「二日酔いでの仕事はイカン」と、ビデオ制作会社の悲哀で
恐怖の谷岡さんとの仕事はこれが最後となった。
次にお会いしたのは、その翌年か、2年後?
それは、恐怖の谷岡さんご自身のの結婚式。
50歳を超えてからのご結婚で、当時、南森町にあった
関西テレビ系の撮影スタジオ(エイトスタジオ)で
業界人を集めての盛大なる結婚式だった。
まさに「恐怖の谷岡さん」の真骨頂である。
(谷岡カメラマンの結婚式
集まった皆さんはすべて業界人)
学生時代出会ったPRの面白さにひかれ
私は、大学卒業後、ビデオ制作会社に入社した。
今から30年以上も前の話である。
当時、ビデオはまだ出だしのころで、
性能もまだまだ安定していなかったが
フィルムに比べ、同時録音ができ、長時間収録できることから、
PR系映像制作会社は、フィルムからビデオにメディアを変えつつあった。
これまでは岩波映画や日本映画新社など
いわゆる老舗が幅を利かせていたが、
ビデオの性能安定に伴い、新規ビデオプロダクションが
次々と参入し、業界は群雄割拠の様相を呈していた。
私の入社したソニー系の会社は、
ソニー製品を販売する会社の制作部門で、
作品を作るというよりもプロ用機材を売るのが主目的の会社で、
制作部はそのソフトサービスにすぎなかった。
それでもビデオが出だしの頃で、営業マンが
カメラやデッキ、編集システムなどハード販売をするかたわら
「ついでに」的にソフト制作の受注もしてきた。
制作部のメンバーはみんな若く、
間違っても、監督とかプロデューサーと呼べる方は
一人もいなかった。ままごとのような集団であった。
営業マンが受けてきた仕事のほとんどは、
ダンスだの、式典だの、場合によっては結婚式や社葬など
記録モノと、その編集が中心で、制作モノは稀であった。
1年ほどたって巡ってきた制作モノ・第1回監督作品は、
人手不足?というか当然のことのように脚本、編集、
ダビング、納品まで掛け持ちだった。
(撮影用のクレーンが予算オーバーで借りられず
高所作業車で俯瞰撮影)
こうして私が営業補佐も兼務した大協石油(現コスモ石油)
のスタンドマン・教育ビデオ
「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」の
制作が始まった。
台本では、車を擬人化してガソリンスタンドでのサービスを
車目線で構成。嫌なサービス、気持ちのいいサービスを
車がどう感じたかを大阪弁で語らせる
コミカルな教育ビデオだった。
当時は第一次漫才ブームのまっただなか。
その独特の声と動きで人気が出だした西川のりお氏を
車の声役で使いたかった。
くしくも時を同じくして西川氏は「じゃりん子チエ」の
テツ役に起用されたが、
その時まだ、私は知らない世界だった。
予算がなくイメージでは西川氏だったが、
無理だと99%思っていた。しかし「ダメもと」と、
大学時代の同級生のよしみをフル活用し、
吉本に顔のきく東通企画に入社していた山口信哉君にお願いした。
1週間ほどたって、「録音日時は向こう任せでよいなら…」という
条件付ではあったが、格安で起用することに成功した。
この本ができてスポンサーに了承を得た時点で、
勝ったも同然であるが、西川氏起用でスポンサーは狂喜した、
まだ撮影もしていないのに…。
悩みぬいて書いた台本でイメージは固まっていたものの
スタッフをどのように編成するか、悩みに悩んだ。
現場録音と選曲・録音・調整は、国際放送録音で
お世話になった山城氏に決めていたし、
(現場録音は納多 保光氏)
照明は会社にドップリ入っていた京都西京極にあった
杉山照明のハルさん(杉山春男氏)に決めていた。
日本の劇映画ではカメラマンと照明技師は同じ地位で、
照明技師がカメラマンに拒否権を発動することもあった。
そのためカメラマンは、
仕事がしやすいように照明技師を指名したが、
今回はカメラマンよりも照明技師が先に決っていたことから
カメラマンを誰にするか相当悩んだ。
社内には技術担当の日下部君がいた。
記録モノは彼が回していたし、
低予算の制作物は彼が回すことが常だったが、
今回はカメラマンといわれているフリーと仕事がしたかった。
悩みに悩んだ末、照明技師のハルさんとも面識のあった
私よりも25歳ほど年上の谷岡孝行氏に決め、
日下部浩史君が撮影助手、カームビデオプロの中島伴彰氏がVE、
助監督は経費削減で私が兼務という布陣をひいた。
中島氏をはじめとするスタッフはフリーになってからも
仕事仲間として続いたが、
くしくも谷岡氏とは、この仕事が初で、最後の仕事となるとは、
この時はまだ微塵も思っていなかった。
(谷岡カメラマンと録音の納多氏、照明はハルさん)
谷岡氏は当時業界では「恐怖の谷岡さん」と呼ばれており、
武勇伝に、オヒレ、ハヒレがついて
「近鉄電車の撮影では、先頭車両に体をロープで縛りつけ
主観撮影を敢行した」とか、
「ヤンマーの漁船の撮影では、ヘリを低空飛行させ過ぎ
ヘリを水没させたが、間一髪で漁船に飛び乗った」とか
枚挙にいとまがない武勇伝の持ち主だ。
ビビリはしなかった、
当時はこういう武勇伝を持つ輩だらけだったからだ。
(谷岡さんの名刺は木製だった)
撮影前日、2度目のロケハンの帰り道、恐怖の谷岡さんは
「多田ちゃん、天気祭りで一杯やろうや」と声を掛けてきた。
「天気祭り」とは業界人の隠語で、撮影前日に酒を飲み交わし
ロケ期間中の晴天(業界用語ではピーカン)を祈る
酒盛りのことである。
この慣習は、日本映画の父といわれる牧野省三先生の昔から
伝えられた映画屋スピリッツの伝統的慣習であり、
私もその後20年位は続けていた。
酒はいける口だったし、カメラマンと飲むのは
コミュニケーションを図る上でも重要である。
結局、一睡もせず翌日谷岡氏と2人連れで現場に入り、
ロケ初日終了後も「打合せ①」と称して飲み、
翌朝そのまま2人連れで現場に入り、
ロケ二日目終了後「打合せ②」と称して飲み、
翌朝も2人連れで現場に入り、
ロケ三日目終了後も、「打ち上げ」と称して飲み、
四日間に渡る恐怖の谷岡さんとのロケは終了した。
(谷岡カメラマンと議論中の私
今夜の飲み屋をどこにしようかと話しているわけではない)
寝不足と二日酔いで体はダルかったが
それでもロケ中は、頭がフル回転していた。
夜、飲み始める時はさすがに体も頭も相当まいっていることを
自覚したが、もちろん飲んでしまえば同じ。
ロケ中、1日たりとも欠かさず飲みに行く谷岡氏の洗礼で?
私はフリーになっても「天気祭り」と称し、
ロケ前日は必ず飲んでいた。
スタッフと飲むならまだしも、彼女と飲んでいたこともあった。
おそらく監督という重責に対する不安で酒量が増すのだが、
この傾向は40代半ばまでおさまらなかった。
さすがに50歳が近付く頃には
「ロケ前日は禁酒デー」となったが、今でも、
ウカウカしていると二日酔いのままロケということも
ままある。
(谷岡カメラマンの指にはタバコが…
当時、咥えタバコのスタッフは大勢いた。
ここはガソリンスタンドですよ。)
だだ、ここで断わっておくが谷岡氏と毎夜ただただを
呑んでいるだけではない。
知恵熱にうなされた若き監督と、それを面白がる手練手管の
カメラマンは呑みつつ、「どうすれば作品が良くなるか?」
「そのためにはどんなカットが必要か?」を話す。
壊しては作り、作っては壊しを毎夜繰り返し、
最良案で翌日撮影する。
ウニは遠くから見ると黒い丸だが、近くで見るとトゲだらけだ。
監督が描くイメージの内側から
スタッフのトゲがガンガン出てきて突き破っていく。
それを容認するには相当の度量がいるが、
そのトゲをヨシとできる度量があれば
核の丸よりトゲの分だけ一回り大きな丸になっている。
遠くから見ると、トゲを切ったウニとトゲだらけウニでは
明らかに大きさは違う。
トゲは触ると痛いが、スタッフとして取り込めば鎧にもなる。
監督は、映画制作というヒエラルギーの頂点に立ち、
スタッフの柔軟な発想を、その権威で閉じこめてはならない。
この4日間、谷岡氏とサシで呑んだが、
もう少し私に経験と度量があれば、
助監督、照明技師、録音技師なども交えて
ワイワイ作品論を戦わせたかった。
と、この時思ったからこそ、
今でもちょくちょく「天気祭り」をしてしまう。
谷岡氏との撮影はほぼコンテ通りにいき、
録音で西川のりお氏の声が作品にさらに厚みを増した。
♪接客基本用語というと…?え~と…
「アホ、ボケ、カス、イテモタロカ」とは、ちうわな~♪
と、車役の西川氏のダミゴエは上映会場でバカ受けした。
が、「二日酔いでの仕事はイカン」と、ビデオ制作会社の悲哀で
恐怖の谷岡さんとの仕事はこれが最後となった。
次にお会いしたのは、その翌年か、2年後?
それは、恐怖の谷岡さんご自身のの結婚式。
50歳を超えてからのご結婚で、当時、南森町にあった
関西テレビ系の撮影スタジオ(エイトスタジオ)で
業界人を集めての盛大なる結婚式だった。
まさに「恐怖の谷岡さん」の真骨頂である。
(谷岡カメラマンの結婚式
集まった皆さんはすべて業界人)
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