株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その513.摩耶遺跡~高尾大明神について 2の1~

2021-05-01 06:59:32 | 制作会社社長の憂い漫遊記

このブログにも何度かUPしているが、

私は神戸市灘区にある摩耶山・摩耶ケーブルの虹の駅近くに

「高尾大明神」というお稲荷さんを御守りしている。

私で四代目になる。

高尾大明神の縁起は、二代目・加川氏が書いた

「高尾大明神縁起」に詳細がある。

縁起によると摩耶鋼索鉄道(現・摩耶ケーブル)初代社長・窪田平吉氏が

摩耶観光ホテル付近に建立したのを初めとする。

その後、社長退任時に自家に移設するも不幸な出来事が続いた。

「霊狐は摩耶山覆うほど巨大で、元の山に還して祀って賜れ」

とのお告げにより、ケーブル社員・山下佐一氏は

設計士・加川泰治氏に依頼し、昭和15年4月17日この地に戻した。

その折、摩耶鋼索鉄道㈱より、セメントを。

ケーブル虹の駅とロープウエイ虹の駅の間にあった山上茶屋の福田氏より

紅葉2本、さつき4株、いぶき3本などを寄贈さると縁起にはある。

この時、初代・窪田氏から二代目として加川氏に引き継がれた。

昭和53年2月4日、加川氏が埼玉県へ転居することになり、

加川氏と取引のあった多田工務店・多田誠氏が三代目を引き継いだ。

なにを隠そう私の父である。

▲加川泰治氏自筆の図面

 

この時は山上茶屋の福田氏は存命で、親父と私が高尾大明神の掃除に行った折には

必ず山上茶屋に立ち寄り、ジュースなんかを頂いたものである。

山上茶屋は、虹の駅から摩耶山天上寺への参道にあり

大正15年開業以来、参拝客で相当にぎわったようだが

昭和51年、全焼してからは登山客の休憩所となった。

 

ちなみに昭和15年、高尾大明神をこの地に戻したことで、

以降は永遠に安らげく鎮座され、災いもなくなった。

稲荷神は五穀豊穣の神であることから商売繁盛の神となったが、

摩耶ケーブル初代社長・窪田氏も摩耶鋼索鉄道の安全運行と

社の繁栄のために建立したと思われる。

昭和53年の大改修では、祈禱師の女性(おばさん)に来ていただいたが

高尾大明神の霊狐は、その尻尾で摩耶山を覆いつくすほど大きな霊狐で

商売繁盛、ケーブルの安全運航はもとより、家内安全、学業成就、縁結びなど

広く願いをかなえてくれると告げられた。

平成7年1月7日、阪神淡路大震災で神戸の街は蹂躙された。

摩耶ケーブルも例外ではなく、震災後約7年間運休を余儀無くされた。

がしかし、ケーブルもロープウェイもつぶれることはなかった。

また高尾大明神と、山上茶屋を営む福田氏が御守りしていたお地蔵様は

無事であった。

しかしながら、山上茶屋は被害を受け、閉店となった。

▲被害を受けた福田氏の山上茶屋(morichiさんのホームページより引用)

 

その後、六甲摩耶鉄道㈱が神戸市都市整備公社に摩耶ケーブルを譲渡して

再開を果たしたのだが、再開までの7年間は

私たち家族は、徒歩でお稲荷さんまで登り下りしていた。

正月は親父を先頭に息子、その嫁、孫たちの総勢9名が列をなし

登山でお参りしていた。

その親父も今年88歳になった。

今から約10年ほど前、足腰の弱った親父から私は四代目を襲名した。

▲大正14年摩耶鋼索鉄道開業。初代摩耶ケーブル(摩耶ケーブルHPより引用)

▲現在は三代目ケーブル

 

多田家としては昭和53年から令和3年まで43年間

なんとか御守りしているが、年間行事として

お稲荷さんを詣でるのは1月1日と12月28日の2日間。

つまり、初詣とそのお飾りのために登るだけで後は

仕事の合間を見た不定期となる。

年に2回目しか行かない年もあり1月1日から12月28日の間は

申し訳ないが、ほぼ成すがままになっている。

言い訳になるが改修工事は10年に一度程度で行なっており

2019年には大鳥居と、お社の土台および小鳥井を新調した。

それでも見た目は荒れ放題という印象はある。どう見ても、あきらかにある。

その荒れ放題の時期(特に傷みの酷い11~12月初)に

「♯摩耶遺跡」の取材があったようで、

その#摩耶山ブログ「#マヤブログ」に、荒れ放題の高尾大明神がUPされ

「ちなみにここ、れっきとした現役の明神様。遺跡ではありませんので、

ご注意くださいね。」と写真と共に注釈があった。

確かに相当荒れ果ててはいるが、

ご指摘のように現役なので「摩耶遺跡」ではない。

 

 

▲#摩耶山ブログ「#マヤブログ」に掲載された高尾大明神

(その504.2の2につづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿