株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その6.一期一会「 学生からの脱皮」

2012-06-07 08:54:51 | 制作会社社長の憂い漫遊記
今年は採用事情が明るいと、昨夜TVニュースで見た。
私は高校の時に映画監督になりたいと思い、大阪芸大に入学した。
今から30年以上も前の話である。
しかし、当時は映画界は斜陽で、
京都にあった映画会社も風前の灯だった。
まずは「映画関係のバイトがしたい」と思っても、
そんなものはなかった。
にもかかわらず、前途は明るく見え、
「映画を撮るぞ」と信じてやまなかった。

大学3回生の時、
私は「㈱実宣」という会社でバイトをすることになった。
当時PRの世界はフィルムが全盛期だったが、
そのころ映像の主はアナログのため、
今のように簡単に編集で合成ができなかった。
そのため、商品PR のメディアとして「マルチスライド」が
幅を効かせていた。動かない写真ではあるが、
幾台かのスライド投影機を交互、もしくは同時に
動かすことで静止画が動画のように動き出す。
暗い会場で大音響と共に動くと、フィルムよりも迫力満点。
「実宣」はこのマルチスライドを武器にした制作会社で、
パナソニックの前身である松下電器や、
お菓子の江崎グリコのPR映像を制作する、
当時としては、かなり羽振りの良い会社だった。

そこで出会ったのが、制作部長の本村部長(取締役)。
本村部長は北海道出身の学校教師で、教師から広告マンに
転身した変わり種である。
私が20歳、本村部長は40歳半ば位か?
会社では部長とは呼ばれず、
本村さんが訛った「もっさん」と呼ばれていた。
もちろんバイトの私は「本村さん」と呼んでいたが…
今思えば、本村さんには映画屋の持つ執念も、
TV屋の持つ軽さも、PR屋の持つイジけた空気も、
全たくなかった。
まさしく学校の国語教師で、
明るく陽気で何でも教えてくれた。

本村さんは脚本家で、製品PRの台本を忙しい時は
1日で2本も書いたりする。
劇的な構成ではなく、わかりやすい構成だった。
元が国語教師だから当然といえば当然だが…
若いとどうしても迫力や奇をてらうことばかりに目がいき、
「オープニングとエンディングぐらいはドガン、ブヒョ~ン、
バキ~ンのド迫力のスピード感満点でいこう!」
などと考えてしまう。
しかし、本村氏の台本は物語のように流暢に流れる。
誰が見てもわかりやすい。
今思い返しても何も残らないし
「本村さんの代表作ってなんだっけ?」
と思い当たらないが、見たその場ではしっかり伝わる。
こねくり回さない素直さに私は感動したものだ。
もしも私の作る商品PR映像が「わかりやすい」と
評価されるなら本村さんの影響が大きい。と言わざるを得ない。
台本の構成を手取り足とり教えてもらったわけではないが…
やっぱり本村さんは「凄い!」と今でも思う。
それでも理由は「?」だが…

バイトを始めて数カ月たった時、
本村さんはバイト大学生の私を
グリコ・アイスクリームのPRスライドの脚本・演出に起用した。
まだPRとは何なのかも知らない若造を起用するなど、
並みのプロデューサーや監督にはできない芸当である。
しかし本村さんは元教師だ。生徒の成長のため?起用した。

私の構成では、ビキニ姿のモデルさんがお尻の後ろあたりで
アイスを隠し持つカットがファーストカットだった。
しかし、「お尻と商品なんて…企業イメージを損なう」とのことで、
試写ではあえなくボツになった。
結構大変な撮影だったので抵抗を試みようとしたが、
本村さんの「ワッハッハ」の笑い声を聞いている間に
ボツになっていた。


続いて行なわれた録音は、
南森町にあった(今はない)国際放送録音で行われたが、
本村さんは同行せず、学生の私に任せた。
ナレーションはスムーズにいったものの、選曲では、
「こんな感じの曲をお願いします」
と、20歳近く歳の離れた録音技師さんに
何度目かのお願いをした時、突如、
「やっとれん、俺は降りた。お前が勝手に選曲しろ!」
と、スタジオはモヌケの殻に。
「途中で降りるのありかよ!?」と思わず叫んだ。
そうです、この頃は結構作り手が強く、
聞きわけの悪いスポンサーを叱る!監督もいたし、
気に食わなければ「降りる!」と消える監督もいた。
私はその後、関西でも制作本数では乱作と言われるくらい
多くの作品を手がけたが、1本たりとも途中降板をしなかった。
それもこれもこの時の「途中で降りるのありかよ!?」という
自らの叫びが頭に残っていたからだと断言できる。

閑話休題。元に戻そう。
その時!ピンチのスタジオに、救世主が現わる!
助手の、そのまた助手の山城日出男氏が
「あんたのお相手をすることになったので、よろしく」
と選曲を手伝ってくれることに。
テープに入った音楽を1曲1曲聞き、イメージに合う曲を探す。
7~8曲だったが、結局完成したのは翌朝だった。
それでも私は大満足だった。
しかし後日、本村さんに高額のスタジオ使用料が請求された。
これも後日談として山城氏に聞いたことで、
本村さんからは一言もお咎めがなかった。


完成試写では、グリコの担当者氏は大いに気に入ってくれ、
続編を作ることになった。
当然のごとく担当者氏は私を監督に指名した。
担当者氏も若かったので、
同じ世代の私に言いたいことが忌憚なく言えたのと、
私も若いなりに提案できたことが監督指名となったのだと思う。
がしかし…
この続編のスタート時に、私が学生だった事がスポンサーにバレ、
担当者氏と本村さんは、担当者氏の上司からコッピどく叱られ、
私は降ろされた。
それでも本村さんは私を叱ることはなかった。


こういった大胆な起用と、ほったらかし作戦は、
それから約5年後、フリーになりたてで助監督についた
私の親父と同じ歳の播磨 晃監督(故人)にも敢行され、
カタチは助監督、でも現場は監督!
思い切り能力を引き出されてしまい、
ギャラ以上の仕事をする羽目になったが、
(播磨 晃監督との出会いについてはいずれかの折に)
実は、今では私もけっこうやっている。

通常、監督はそのシーン撮影後に「OK」を宣言し、
その宣言でスタッフは次のシーン撮影へと進む。
監督がOKであれば「カット」に続けて「OK!」と
誰よりも早く宣言するのもよいが、
仮に自分がOKであっても、その前にスタッフ一人ひとりに
「OKですか?」「OKですか?」と、
それぞれのパートから見て確実にOKなのかを確認する。
そして全員が「OK」を出したら、はじめて「OK!」と
高らかに宣言する。そういう度量が監督にはほしい。

私は大学卒業後、2つの制作プロダクション勤務を経て
25歳でフリーになった。その歳で監督はないと思うだろうが、
「今日から監督です」と宣言すれば、仕事はないが監督にはなれる。
資格はないし、免許もない。しかし、現実は厳しい。
仮に仕事がもらえたとしても、カメラマンは当然のこと
スタッフ全員年上で、助監督まで年上であった。
皆さん口をそろえて(言わないまでも態度に思い切り出して)
「あんたがいなくても、現場は進むよ」
と平気で言う。
腹立ちもあったが、こちらも
「おめ~らも、ちゃんと仕事しろよな(怒)」
の気持ちを込めて、カット終りにはメインスタッフに対し
「OKですか?」
と、確認をするようになった。
その頃でも今でも、監督という権威を振り回し、
やたら助手をいじめる不埒なヤツはいるが、
本村さんはスタッフを信じる優しさと、
一方では、信じないええ加減さを教えてくれた。

だって本村さんは私の国語教師なんだから…
本村さんとの出会いは、「何がなんでも映画でなければならない」という
私の漠然とした思いに大きな風穴を開けるだけでなく、
「PRてのもイイもんだ」と明確なる進路をもさした。
そして何よりも「作ることの楽しさ」を教えてくれた。
何だかだしながら「実宣」には大学卒業間際の2月までお世話になり、
「よければウチに入社しないか」とまで声を掛けていただいたが、
動画への思いも断ち切れず、また当時台頭してきたビデオに
大きな可能性を感じたため、私は卒業後、ソニー系のビデオ制作会社に入社した。

どんなに大きく立派で有名な会社に入っても、
いい先輩に出会わなければ、
人間関係でやめてしまうことになる。
いい先輩に出会えれば、その人を目標にして頑張れる。
それが働きがい、生きがいになることもある。
そして…例え希望していなかった仕事でも天職になることもある。

私は創業者だから、もちろん会社には先輩はいない。
ならば、働きがい、生きがいを提供できる先輩になるのが
「使命」ということになる。
一期一会とは
『あなたと出会っている今この時は、
二度と巡っては来ない一度きりのものです。
だから、この一瞬を大切に思い、
今出来る最高のおもてなしをしましょう』
と言う千利休の茶道筆頭の心得である。


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