株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その37.金とったど~

2012-08-10 07:27:38 | 制作会社社長の憂い漫遊記
ロンドンオリンピックで眠れない夜が続く。
今朝は「なでしこジャパン」が宿敵アメリカに2-1で
惜しくも敗れ,銀メダルとなったが、
女子レスリングでは伊調 馨さんに続き
吉田 沙保里さんがオリンピック3連覇の偉業を成し遂げた。
おめでとうございます。

さて、我が社の強みは『得意先の意図を組み取り、
もっとも適したツール・メディアを選択し提供する』である。
このお客さまにとって至極当たり前の事でも
いざやるとなると大変である。
我が社のスタートは映像制作会社である。
したがって普通で考えれば、仮に印刷物のオーダーがあっても
印刷業界の仕事の流れやスタッフを知らないので受けられない。
イベントのオーダーを受けても同様である。
メディアミックスとお題目を唱えても、いざ制作となると大変である。
というかまずムリだ。
ところがまだフリー監督の時からメディアミックス論は想定内だった。
実際、映像ではなく漫画本にしたり、イベントにしたりと、
お客さまの意図を聞いては、メディアの変更を平気で行っていた。
キネティック時代に同志の牧 逸郎カメラマンからは
「多田君は何をやってるのかサッパリわからん」と呆れ顔で見られていたが、
その甲斐あってか、
創業の頃には映像以外のスタッフの輪はかなり広がっていた。


(日本道路公団で作成した子供向け漫画本。
 ビデオ監督として依頼を受けたが漫画本にした)

一方で、映像スタッフに印刷物のデザインをさせるなど
オルグもかかさなかった。
例えば三宅 愛さん。
彼女は京都にある映像制作プロダクション「㈱元気な事務所」の
CG制作スタッフだった。後に同社のCG制作スタッフだった
西森 大志君と出てCG制作制作会社「㈱ナナイロ」を
大阪市北区中津に立ち上げた。
「元気な事務所」から「ナナイロ」になってもCG制作では
付き合いは続いていたし、
何といっても我が社から自転車で10分という地の利もあり、
ある日、三宅さんに「ウチの制作するチラシのデザインをやらないか」と
持ちかけた。三宅さんも西森社長も映像の監督として
多分?おそらく?きっと?私を認めてくれていたこともあり、
初ジャンルへの挑戦だったが快諾してくれた。
三宅さんにとって初めての印刷物デザインであった。
こうして何作か作り続けると、1枚もののチラシから、3つ折りになったり、
数十ページのテキストになったりと求めるものも高くなっていき、
そのため印刷上の約束事を知らなかった事から起こる
印刷所とのトラブルが同時多発した。
印刷所との緊急会議を開き早期対処したことで
幸いにも大事には至らなかったが、
これを機に印刷を担当した田中 達一氏(現・㈱データーボックス社長)が
ナナイロをフォローしてくれるようになった。

知らないが故のマイナスもあったが、
三宅さんはCG制作が本業だけあって情報の整理がうまかった。
テレビ画面は印刷物に比べて圧倒的に情報量が少ない。
情報量を多くして文字を小さくすると、
テレビ画面では文字が潰れて見えない。
従ってインパクトと整理が生命線になる。
だから印刷物を手がけるグラフィックデザイナーとは
異なる感覚で整理してくる。
私にはとても新鮮だったし、
何でもかんでも入れたがるスポンサーに対して行う
第1回目プレゼンにはもってこいでもあった。
こうして我が社の制作する印刷物のほとんどは
三宅さんがデザインを担当するようになる。
今では「ナナイロ」西森社長も平面のデザインを第2の柱と捉えてくれ、
グラフィックデザイナー上がりの吉岡 誠君を途中入社させるなど
我が社をバックアップしてくれている。

我が社は映像プロダクションとしてスタートしたものの
メディアミックスを目指す姿勢を崩すことなく、
ついに第28回日本BtoB広告賞 カタログ部門で金賞を受賞した。
日本BtoB広告賞は、1980年から開催している産業広告唯一の賞だ。
依頼主は(株)クボタさん。作品名は「ウィット君のラク楽大冒険」。
セールマンが持つお客さまへの説明用カタログで、
コンバインの新製品「ウィット」の特徴を飛び出す絵本にした。
農業は高齢者と女性が大きな労働力であり、セール対象者となる。
飛び出す絵本カタログは、お孫さんや子供が見たがり、
その間にセールできるというのが制作の狙いである。











(「ウィット君のラク楽大冒険」より)

私が構成、ディレクションを担当し、三宅 愛さんがデザインを担当。
飛び出す仕掛けは、絵本作家の古川 正和さんに作ってもらった。
実制作スタッフは3名で、制作費も賞をもらっている作品に比べると
0が一桁違う低予算作品だ。
しかし企画はピカイチで一等賞である金賞をいただいた。
受賞式では金賞の受賞者だけが壇上に上がれる。
スポンサー担当者の鶴田 慎也課長(当時)が表彰状を受取りに
壇上に上がったが、その笑顔はまぶしかった。
表彰式後には企業カタログ部門で「会社案内」をエントリーし佳作をもらった
同じクボタの広報部の山�・ 方義氏が駆け寄ってきて
「我が社初の金賞です。金賞は念願だった」と鶴田課長に握手を求めた。
二人は笑顔で握手を交したが、鶴田課長は広報部の山崎氏のように
この賞の重みがよくわかっていない。賞を取ろうとして躍起になる広報部と、
このカタログでコンバインが何台売れるかを考える営業とでは
賞の重みも、受賞の扱い方も全く違う。当然だよね。


(明治記念館での表彰式で楯を手にご満悦の私)

一方私はというと、笑いが止まらなかった。
いわば映像屋が印刷の金メダルをかっさらったのだ。
笑止、笑止、笑止。
表彰式にはスポンサーと二人で出席したが、
私達意外はこの賞を狙って豪華スタッフをあてこんだ
一流代理店がほとんどで、制作会社も門外漢の私ですら
社名ぐらいは知ってる会社ばかりだった。
これが産業映画祭の表彰式なら幾人かは知り合いもいるだろうが
この場は印刷業界人の晴れ舞台、知り合いなどいましぇん。

さて、この賞を貰って我が社はどんなメリットがあったのか?
残念ながら仕事が増えたとか、
私のギャラが上がったということは全くなかった。
強いて言うならホームページに載せられたのと、
こうしてブログ1コマ分のネタになったことくらいだろうか…
ちなみに戴いた楯は狭い事務所では置き場に困り、
つい最近まで我が家のトイレの棚に受賞作品と共に立て掛けられていた。
便座に座ってたまに受賞作品を読み返す。
やはり金メダルでは腹は膨れんかったなぁ。。。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿