株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その405.晴れて穏やかで無事故で終了

2019-01-18 06:27:12 | 制作会社社長の憂い漫遊記
京都で開催された二日間に渡る大イベントは、
朝夕少し天気が崩れたものの
概ね穏やかな二日間で、特に波乱もなく無事終了した。
評価も大切だが、お客さまもスタッフも事故なく終えてこその評価だ。
特にイベントの設営・撤去は、スタッフも多くなるので安全最優先だ。
無事に終えられたのでまずはひと安心。ありがとーございました。
で、評価はどーなんじゃー。やはり気になる。

今日から私は入社案内DVDの追い込みと、
インタビュー集の編集を開始する。
大イベントが終了したばかりなのに、
もう次のミッションのため早朝出社する。
政府の働き方改革は、中小企業の社長が犠牲者だ。

1日あけて土日休みになるので、今日は社員も8時に出社して
イベントの反省と残務処理のための社内会議を30分。
その後、各自それぞれ次のミッションにつく。
弊社の森田と岡田は研修会応援で倉吉に出かけた。
働き者が集まる会社は潰れない。
そして社長が働く会社は皆さん働き者になる(であってほしいと願う)。

弊社の期末は1月末。
全て吐き出したので、また新たなミッションを作らないと、
あっという間に上期が終わってしまう。
社長としては年間売上計画の6割を上期で達成したいところだ。
前期は上期で6割を達成し安心したのか、
結果は真っ赤っかの大赤字だった。
私も経験したことがない散々たる結果に
さすがに今期は皆さん目の色が変わり頑張ってくれた。
なかなか売上予測が立てにくい業種なので、
はてさて来期はどうなるのやら・・
新元号も始まることだし、ステップupしたい。
まぁこの仕事が好きで選んだのだから、
儲からなくても仕事があればワイワイ明るくやれる。
儲かっても仕事が少ないと何だかハリがない。
もっとも、少ない仕事量で儲かるなんてないのだが・・
とにかく一年を通してまんべんなく仕事があればありがたい。

1994年、今から25年前に、
フリー集団オフィスキネティックを解散し、
私は会社を起こすべく立ち上がろうとしていた。
年が明けた1995年1月17日
神戸市東灘区に住んでいた私は家族と共に
阪神淡路大震災の被災者となってしまった。
1月17日朝8時にマンションの斜めに歪んだラセン階段を上り
一人で屋上から見た神戸の街は映画の一コマのようだった。
黒煙がいくつも帯になって、どんより曇った空を支える柱のように見えた。
この世の終わりを目の当たりにしてしばし呆然としていた。
はたと目に入ったのは、灘区にある実家の辺りの黒鉛と
弟家族の住む東灘区深江辺りの姿。
ようやく正気に戻ったが
以後の6か月は今でもあまり思い出したくない。
しかし、この時期になるとニュース特番が組まれ、
否応なしに記憶がよみがえる。

その年の6月までは被災者として仕事どころではなかったが
JRの住吉から東行きが開通したので、仕事を再開した。
ありがたいことに様々な方々から多大なる応援を受け、
難波に事務所を契約したが、いざ入所となる前々日に、
被災者ということでオーナーがNGを出した。
仲介会社がすぐに対応してくれたが、なかなか決まらず、
ようやく大淀の新築ワンルームマンションの一室で
事務所を開設できた。
7階建ての7階で夏には淀川の花火が目の前に広がる。
ニュースで阪神淡路大震災から24年目とナレーションしていたので
個人事務所時代を含めると設立から24年目になる。
個人事務所から有限に。さらに株式にして現在に至っている。
お客さまも変わっていき、社員も入れ代わりがあり、
仕事内容も多岐にわたり、
年数と共に社内も、取り巻く環境も変わっていく。
四季があるように会社も変化していく。
安定は危機の始まりとはよく言ったもので、
いつも動き回ってちょうど良い加減だ。
また新しい期が始まる。
何事も聞くと見るとでは大違い。体験してこそ新たな発見もある。
走り回らねば何も見つからない。
おそらくだが、私のバイタリティーは震災に起因しているのかもしれない。
来期も走ります。

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