株式会社プランシードのブログ

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その10.始まったものは必ず終わる

2012-06-17 10:03:43 | 制作会社社長の憂い漫遊記
いまから30年も前の話である。
大卒後、入社して1年が経った頃には、
自称「押しも押されぬ若手監督」に成長していた。
その成長の要因は、三つある。

(1)ビデオの創生期だったこともあり仕事量が半端じゃなく多かった事。
これにより多くのスポンサーと対峙できた上に、
作品ごとに様々な挑戦ができた。

(2)多くの優秀な先輩と数多く仕事ができた事。
ビデオ創生期だったため、フィルムで鍛えられた優秀なスタッフが
ビデオの世界に流れてきた。わずか2年の在籍にもかかわらず
1人につき複数回仕事ができた。

(3)ソニー系の制作部だった事。
最新の機材に恵まれた上、同じ関連会社であるソニーPCL副所長の
安達 弘太郎氏に出会えた事で優秀な先輩をご紹介して頂けた上、
身元引受人?的立場になってくれたので、業界の通例となっていた
師匠を持つこともなく(徒弟制度)、いろんな方から多くのものを学べた。

その集大成と言えるのが、
当時大阪で3指に数えられる「ロイヤルホテル」からの依頼で、
「ロイヤルホテル挙式案内レーザーディスク(LD)」の制作だ。
LDは直径30cmのディスクに
両面で最大2時間の映像を記録できる光ディスク規格で、
ビデオデッキよりも高画質。
プログラムにより任意の場所に瞬時にスキップも可能で、
1コマの再生もできる。
アナログからデジタルの節目で生まれた媒体で、
ノート型のワープロもなく、PCもまだなかった時代に
ロイヤルホテルの宴会部からは、
結納から結婚式、披露宴、2次会を項目ごとに動画で見ることができ、
かつ、各項目に該当する料理や会場写真などが
コマで見られるソフトが欲しいということで、
当時最高のLDを採用することになった。

大阪初のLD制作に挑戦!
苦労して取ってきた営業担当者は、
「多田では役不足」と即、ソニーPCLの安達 弘太郎氏に話を通し、
私はプロデューサーでもなく監督でもなく、
アシスタントプロデューサー兼助監督となった。

スタッフは、安達さんの推挙で
日本映画新社時代の後輩に当たる岡村 重昭監督に決った。
その第1回目の打合せで、
安達さん「岡村君、スタッフはどうする?」
岡村監督「誰でもいいですよ。安達さんに任せます」
安達さん「本はどうする?君が書いてくれるかなぁ」
岡村監督「えっ…本ですか?構成表くらいなら…」
と、実にええ加減さ満点の滑り出し。
このええ加減な岡村監督とは、その後長きにわたって
仕事をすることになるが、実は監督というよりも
天性のプロデューサーで、
それも安達さんのような王道ではなく、
手八丁口八丁の企画型プロデューサーである。
PRの場合、プロデューサーは受注を受けてからの動きになるので
どちらかというと、「手配師」兼「制作費の管理者」であるが、
岡村監督は記録映画出身には珍しく、自分で企画をして売込むタイプだ。
そのため、思考を積上げて準備を積重ねてというのではなく
「思いつき=インスピレーション」勝負のところがあった。
本人曰く「まっいいか教」教祖でもある。

安達さんは、制作費を抑えるのと同時に、
LDを見たお客さまが「もしやこれはあなたでは?」と
親近感を生み出す効果があるので、
ロイヤルホテルの従業員が出演をしてはどうか、と提案したのである。
この提案はあっさりと受理された。
披露宴のシーンでは花嫁のみモデルを使い、花婿をはじめ
両親、来客、接客のボーイからコンパニオンまで、
すべてロイヤルホテル従業員が扮した。その数ざっと100名!
部長も課長も平も男性も女性もロイヤルホテル宴会部総出演である。
司会者もロイヤルホテルの超売れっ子MC:安達 治彦さんを
ホテルから手配いただいた。
当時ABCラジオで放送された
「安達治彦のメモリーズ・オブ・ユー」で、
洋楽ファンの人気をつかんだ、あの安達 治彦さんが司会者役ある。
その安達 治彦さんの出番はわずか30秒なのに
待ち時間5時間。助監督の私を呼びつけ、
「いつまでも待たせるあの大監督は誰だ?」と睨まれた。
事前に苦労して作った香盤表も「いいんじゃない」と言ったきり
二度と見なかった岡村監督は、案の定、現場でもマイペース。
効率よく撮影できるようにと、せっかく2カメにしたのに、
1カメは何となく遊んでいて、
しかも順撮りするので、撮影時間は大幅に押しに押した。
ようやく出番となった安達 治彦さんの出番の第一声は、
「お待たせしました。待ちくたびれました」で、会場は大爆笑。
遊んでいた1カメは、この笑い顔を逃すことなく撮りまくり、
ようやく本当の披露宴のような賑わいになった。

総勢100名近くが、岡村監督のマイペースに付合わされ、
ロイヤルホテル最高の宴会場である「光琳の間」で
朝から夜中まで撮影が行なわれた。
白無垢から和装に、さらに洋装へとお色直しした花嫁は、
あまりの撮影時間の長さに、失神寸前。
夜中1時にようやく撮影終了し、
私服に着替えたモデル嬢をロイヤルホテル玄関でタクシーに乗せる時、
「お疲れ様でした」と言った彼女の顔は、
出産を終えたばかりの妊婦のような穏やかな顔だった。

さて今では考えられないが、巻末につく料理や部屋の写真は
一旦スチール写真で撮り、これを16mmフィルムでコマドリし、
さらにキネコでビデオ化した。その数さっと400枚。
その1コマ1コマに、ビデオ編集室で文字をつけていく。
誤字なく、写真の貼り間違えなく作らねばならない。
ある意味、動画はイメージだが、この写真の塊は、
ロイヤルホテルにとっての商品メニュー表である。
最終的な商談で使うのはこの写真の塊なのだ。
繊細かつ細心の注意がいる作業が、助監督である私の仕事である。
しかも編集は、LDへの焼き込みの都合上、東京のソニーPCLで行なうので、
準備万端で東京に向かわねばならない。
編集は3日間、胃の痛むような日々を過ごし、
ホテルのベッドでは夢にまで見たが、1文字の誤植もなく、
1枚のはめ込みミスもなく編集は完了し、
超大作はロイヤルホテル宴会部の新たな販売支援ツールとなった。


(ロイヤルホテル側の担当者・林さんとはその後定年退職まで
 年賀状などの交流が続いた)

何事にも締切があるから、
それには何が何でも間に合わさなければならない。
締切は刻一刻と迫ってくる。何もしなくても迫ってくる。
焦っても迫ってくる。ならば最良の方法を考えるしかない。
考えぬいた方法が、例え最良の方法でなかったとしても、
考えぬいた時間や苦しみぬいた時間は、
次の仕事か、ひょっとすると何年か先の仕事かもしれないが必ず生きてくる。
だから今では「始まったものは、必ず終わる」と居直って、
「考えることだけに集中」するよう、自分を追い込んでいる。
居直る、いや覚悟するという方が適切だ。
これは何も、我々の業界だけの話ではない。
どんな仕事でも同じだと思う。


「始まったものは、必ず終わる」
大阪初のLDは「1000万円なり」で終了した。
余談であるが、この時のロイヤルホテル側の現場担当者は、
宴会部の林 正樹課長で、この方とはその後20年に渡って
年賀状をやり取りする関係になった。

始めて共同プロデュースという形で共に仕事をした安達 弘太郎さんは
LD完成後、さらなるチョッカイを私にかけてきた。
いまの会社を辞めて新しく発足する「映像館」に入社するよう勧めたのだ。
同じソニーグループの安達さんが、転職を勧めるとは傍若無人!
もちろん安達さんの言葉は優しくはあったが、
ようやく業界人になりつつあった私にとって
「恫喝」であったことは言うまでもない。
23歳の春が過ぎ、24歳になったばかりだった。


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