いまから28年ほど前の話である。
不遇とは
「才能を持ちながらもめぐりあわせが悪くて世間に認められないこと」
であるが、30年以上に及ぶ監督生活の中で、
私が2つ目に入社したプロダクション「映像館」での初年度は、
下ズミの暗黒時代、不遇の時代であった。
ただし、これは監督としてで、その十数年後、経営者になる私にとって
「組織人とは何なのか?」の基礎を作る非常に重要な時代であった。
(肩書きは演出ではなく、企画・制作であった)
東大新聞部が中心になり起こした採用斡旋会社、リクルートに対し
京大新聞部が中心になって起こした採用斡旋会社が、
ユニバーシティ・プレス・ユニオン(略称:UPU)だ。
UPUは、民主主義的でありながら利益を追求するという理想を求め
「全社員持ち株制で、社員=株主」をその基盤としていた。
従って?「社長は社内選挙で決める」とか、
「3年勤めると1ヶ月の有給をとれる」とか、
「社員は何人に増えてもオフィスはワンフロアー」とか、
「男女雇用均等で、優秀なものが部課長になる」とか、
それまでの日本企業とは一線を画すべき理想を持つユニークな会社で、
「映像館」はその映像部として発足した。
私は前の会社での残務処理もあり、設立より3ヶ月遅れで入社した。
溝口 利熈社長、山田 哲夫制作部長、中畑 來人演出部長のトップ3と
東京事務所長の平田氏は京大卒で、トップ3が大阪本社を固めてはいたが
常に東京と大阪を行ったり来たりしながら、2事業所を盛り立てていた。
そもそも映像界は、今でも他の業種と比べても異常なくらい
監督を頂点とする「縦社会」で、
監督と助監督、カメラマンとカメラ助手は「徒弟制度」でつながっている。
親会社のUPUと、子会社の映像館は、
いわば火と水、思想は正反対なのだ。
会社の形はUPUの理想を求めてはいても、
縦割り組織、徒弟制の映像社会とは真逆で、
会議で若手社員はその矛盾をトップ3に突くので、いつも紛糾した。
映像館では、年1回2泊か3泊合宿で総会を開く。
営業会議であり株主総会でもある。
京大卒らしく?会議を「オルグ」と呼び、説得を「オルグル」と呼んで
(本来の意味とは多少違うが…)、様々な問題の解決を試みた。
様々な議題を話すが、どの議題でも、なぜか決まって
溝口・山田・中畑(経営陣)VS本間・中川・多田(若手)の
6人タッグになり、それを傍観する観客という構図で会議は進められる。
山田制作部長は、「日本映画新社」出身の記録映画屋上がりだったし、
中畑演出部長は劇映画畑を歩み続け、大島 渚組で腕を振るい、
大ヒットした「戦場のメリークリスマス」にも参加している。
三角形のヒエラルギーの組織にどっぷりつかってきた両部長にとって
UPUの組織論は、「よくわかるが、理想」と映っていたのではないだろうか?
と、今でも私は思っている。
一方、若手の造反組の騎手は、私よりも2つ3つ上の本間さんだ。
本間さんは新潟出身で、テレビディレクター上がり。
中川 幸俊君は、プロデューサーと監督で構成された映像館の中で
唯一のビデオエンジニア(VE)で、
社内で保有する撮影機材と編集機材の管理をしつつ、
ロケ時にはVEとして、編集時には編集マンとして重宝な存在だった。
私と本間さんがストを起こしても「どーってことない」が
中川君がストを起こすと大変な事になる。
中畑演出部長は、事あるごとに私と中川君を誘っては
同じビルの1階にあるお好み焼き屋で一杯飲みながらオルグったが、
溝口社長はあくまでも正攻法を貫き、社内会議でのみオルグった。
同志の中川君<スタジャン姿>は
現在フェイスブックで「いなか暮らしの日記」を掲載中
http://www.facebook.com/yukitoshin
溝口社長は、とてつもなく熱い思いを持ち、映像館を立ち上げている。
一般会社の社長が「めんどくせいや」と
簡単に造反者の首を切るようなことはしなかった。
溝口社長は京大卒らしく、あくまでも「オルグ」で解決を試みた。
組織の制度に不具合がれば、あらたな制度を考案した。
例えば、給与体系は、一覧表にして(年功序列式だったが…)
「不公平はない」と論破したしりした。
ようは、気長に意味がわかるまで教えてくれるバイタリティーの塊であった。
私はその十数年後、ひょんなことから社長になったが、
働く意味をお互いが理解し合う事が重要であるとこの時学んだ。
プランシードはプランニングオフィス多田から社名を変更しただけだが
発足から16年になる。新たなメンバーも増えたが、
まだまだ業績が不安定なので、創業時のドタバタと何ら変わらない。
それゆえ、将来の事よりも今をどう生き抜くかで必死だ。
ある意味、「社長を頂点とした縦社会」で何とか前に進んでいる。
そんな中でも、働きやすい環境づくりには努力している(つもり)。
制作会社でありながら、16年前から
社会保険、雇用保険、労災保険には加入しているし、
協力して頂いているフリースタッフにも万一の備え損害保険は掛けている。
9~17時半の勤務で、基本的には土日祝は休み。正月休みと盆休みもある。
年2回の賞与もある(まだまだ満足な額ではないが)。
その代わり、制作会社ではあるが、
社内会議では売上高と利益について報告し合い、
常に数字は意識するようにしている。
スケジュールは全員で確認し合い、戦力不足は全員で補うようにしている。
それをしなければ、多分、
「制作会社としては画期的に待遇のいいだけの会社」で、
とうの昔に終わっていただろう。
これから先の事はわからない。大企業でもバンバン潰れる時代である。
私が引退し、森田取締役以下がこの会社を続けていくには、
山あり谷あり、谷底あり、海溝あり…
縦社会で前に進んでいる間はいいが、安定して横並びになった時に備え、
「会社に必要なものは、何なのか?」を経営者は考えておかなければならない。
モノを作っていれば幸せな作り手にとっても、
いずれ経験を積んでいけば、会社のリーダーにならなくてはならない。
一人親方ならいざ知らず、部下がいれば責任を取らなければならない。
会社にいる限り、作り手として研鑽を積むのは当然ながら、
企業人、組織人としても研鑽を積まなければならない。
横並びになった時に大切なのは、
経営者が『働く意義、生きがい』を明確に示す事だ。
溝口社長と映像館、UPUと出会って学んだことを、
今でも、時には真似て、時には反面教師にして会社を運営している。
その映像館時代を「不遇の時代」とは、どの口が言う!?
不遇とは
「才能を持ちながらもめぐりあわせが悪くて世間に認められないこと」
であるが、30年以上に及ぶ監督生活の中で、
私が2つ目に入社したプロダクション「映像館」での初年度は、
下ズミの暗黒時代、不遇の時代であった。
ただし、これは監督としてで、その十数年後、経営者になる私にとって
「組織人とは何なのか?」の基礎を作る非常に重要な時代であった。
(肩書きは演出ではなく、企画・制作であった)
東大新聞部が中心になり起こした採用斡旋会社、リクルートに対し
京大新聞部が中心になって起こした採用斡旋会社が、
ユニバーシティ・プレス・ユニオン(略称:UPU)だ。
UPUは、民主主義的でありながら利益を追求するという理想を求め
「全社員持ち株制で、社員=株主」をその基盤としていた。
従って?「社長は社内選挙で決める」とか、
「3年勤めると1ヶ月の有給をとれる」とか、
「社員は何人に増えてもオフィスはワンフロアー」とか、
「男女雇用均等で、優秀なものが部課長になる」とか、
それまでの日本企業とは一線を画すべき理想を持つユニークな会社で、
「映像館」はその映像部として発足した。
私は前の会社での残務処理もあり、設立より3ヶ月遅れで入社した。
溝口 利熈社長、山田 哲夫制作部長、中畑 來人演出部長のトップ3と
東京事務所長の平田氏は京大卒で、トップ3が大阪本社を固めてはいたが
常に東京と大阪を行ったり来たりしながら、2事業所を盛り立てていた。
そもそも映像界は、今でも他の業種と比べても異常なくらい
監督を頂点とする「縦社会」で、
監督と助監督、カメラマンとカメラ助手は「徒弟制度」でつながっている。
親会社のUPUと、子会社の映像館は、
いわば火と水、思想は正反対なのだ。
会社の形はUPUの理想を求めてはいても、
縦割り組織、徒弟制の映像社会とは真逆で、
会議で若手社員はその矛盾をトップ3に突くので、いつも紛糾した。
映像館では、年1回2泊か3泊合宿で総会を開く。
営業会議であり株主総会でもある。
京大卒らしく?会議を「オルグ」と呼び、説得を「オルグル」と呼んで
(本来の意味とは多少違うが…)、様々な問題の解決を試みた。
様々な議題を話すが、どの議題でも、なぜか決まって
溝口・山田・中畑(経営陣)VS本間・中川・多田(若手)の
6人タッグになり、それを傍観する観客という構図で会議は進められる。
山田制作部長は、「日本映画新社」出身の記録映画屋上がりだったし、
中畑演出部長は劇映画畑を歩み続け、大島 渚組で腕を振るい、
大ヒットした「戦場のメリークリスマス」にも参加している。
三角形のヒエラルギーの組織にどっぷりつかってきた両部長にとって
UPUの組織論は、「よくわかるが、理想」と映っていたのではないだろうか?
と、今でも私は思っている。
一方、若手の造反組の騎手は、私よりも2つ3つ上の本間さんだ。
本間さんは新潟出身で、テレビディレクター上がり。
中川 幸俊君は、プロデューサーと監督で構成された映像館の中で
唯一のビデオエンジニア(VE)で、
社内で保有する撮影機材と編集機材の管理をしつつ、
ロケ時にはVEとして、編集時には編集マンとして重宝な存在だった。
私と本間さんがストを起こしても「どーってことない」が
中川君がストを起こすと大変な事になる。
中畑演出部長は、事あるごとに私と中川君を誘っては
同じビルの1階にあるお好み焼き屋で一杯飲みながらオルグったが、
溝口社長はあくまでも正攻法を貫き、社内会議でのみオルグった。
同志の中川君<スタジャン姿>は
現在フェイスブックで「いなか暮らしの日記」を掲載中
http://www.facebook.com/yukitoshin
溝口社長は、とてつもなく熱い思いを持ち、映像館を立ち上げている。
一般会社の社長が「めんどくせいや」と
簡単に造反者の首を切るようなことはしなかった。
溝口社長は京大卒らしく、あくまでも「オルグ」で解決を試みた。
組織の制度に不具合がれば、あらたな制度を考案した。
例えば、給与体系は、一覧表にして(年功序列式だったが…)
「不公平はない」と論破したしりした。
ようは、気長に意味がわかるまで教えてくれるバイタリティーの塊であった。
私はその十数年後、ひょんなことから社長になったが、
働く意味をお互いが理解し合う事が重要であるとこの時学んだ。
プランシードはプランニングオフィス多田から社名を変更しただけだが
発足から16年になる。新たなメンバーも増えたが、
まだまだ業績が不安定なので、創業時のドタバタと何ら変わらない。
それゆえ、将来の事よりも今をどう生き抜くかで必死だ。
ある意味、「社長を頂点とした縦社会」で何とか前に進んでいる。
そんな中でも、働きやすい環境づくりには努力している(つもり)。
制作会社でありながら、16年前から
社会保険、雇用保険、労災保険には加入しているし、
協力して頂いているフリースタッフにも万一の備え損害保険は掛けている。
9~17時半の勤務で、基本的には土日祝は休み。正月休みと盆休みもある。
年2回の賞与もある(まだまだ満足な額ではないが)。
その代わり、制作会社ではあるが、
社内会議では売上高と利益について報告し合い、
常に数字は意識するようにしている。
スケジュールは全員で確認し合い、戦力不足は全員で補うようにしている。
それをしなければ、多分、
「制作会社としては画期的に待遇のいいだけの会社」で、
とうの昔に終わっていただろう。
これから先の事はわからない。大企業でもバンバン潰れる時代である。
私が引退し、森田取締役以下がこの会社を続けていくには、
山あり谷あり、谷底あり、海溝あり…
縦社会で前に進んでいる間はいいが、安定して横並びになった時に備え、
「会社に必要なものは、何なのか?」を経営者は考えておかなければならない。
モノを作っていれば幸せな作り手にとっても、
いずれ経験を積んでいけば、会社のリーダーにならなくてはならない。
一人親方ならいざ知らず、部下がいれば責任を取らなければならない。
会社にいる限り、作り手として研鑽を積むのは当然ながら、
企業人、組織人としても研鑽を積まなければならない。
横並びになった時に大切なのは、
経営者が『働く意義、生きがい』を明確に示す事だ。
溝口社長と映像館、UPUと出会って学んだことを、
今でも、時には真似て、時には反面教師にして会社を運営している。
その映像館時代を「不遇の時代」とは、どの口が言う!?
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